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窓の向こうでわたしとみちるくんの制服のシャツが風に靡いてわずかに揺れる。薄水色の二枚のシャツが波打って、遠くに見える海を思い出した。その向こうには澄みきった水色の空に白く大きな雲が広がって、あの薄明光線はもう跡形もない。
じわじわと鳴く蝉の声が保健室に響く。蝉の鳴き声が帰ってきただけで窓の向こうはいつもの夏の風景に見えた。青春って感じがする。ここから見えない校舎は倒壊しているし町は廃墟と化しているから、青春にしては終末感が漂っているけれど。
少し迷ったけど、暑いから下着を身につけただけの格好で椅子に座り、ペットボトルの天然水を一口飲む。俯くと内腿にまでみちるくんがつけたキスマークが赤く浮いていて、咄嗟に目を逸らした視線の先には読みかけの文庫本が置いてある。レモンイエローの表紙が相変わらず眩しい。どこを見てもみちるくんが見える空間が愛おしい。
ベッドの方に視線を向ける。白いカーテンで遮られて見えないけれどその向こうには二度寝に落ちたみちるくんがいる。わたしも二度寝してしまいそうだったけれどなんとか起き上がって、三日前に汲んだプールの水でベッドの下に落ちていた下着やシャツを洗った。天気がいいから一瞬で乾いてしまいそうだったし、先に洗っていたわたしとみちるくんの下着は実際に一瞬で乾いた。みちるくんが目を覚ましたらシーツも洗って布団を干そう。
ボディシートで身体を拭くと柑橘系の爽やかな甘い香りがした。お風呂に入りたい。ボディーシートとドライシャンプーがあるからまだましだけど、そろそろ水で身体と髪を洗いたい。プールはもうだめだろうか。雨も降ったし、もう三日も経っているから水も汚れているかもしれない。あとでみちるくんと見に行ってみようか、などと考えながらいつものショートブレッドを食べると、いつものように口の中の水分が奪われて水を飲み込む。毎日食べているからさすがにもう飽きているけど、食べ物があるだけで十分だし何を言おうがこれしかないのだから別に不満はなかった。でも今日はみちるくんの誕生日だから特別に夜はカップ麺でもいいかもしれない。
「おはよう、真海先輩」
「おはよう、みちるくん」
ベッドから起き上がって、カーテンを開けたみちるくんと今日二回目のおはようを交わす。眠そうに目を擦りながら起き上がるみちるくんに洗いたての下着を渡した。
「ごめん、勝手に下着洗ったの」
「えっ。洗ってくれたんですか?」
「うん。天気いいからすぐに乾くかなーと思って。ごめんね」
「いや、ありがとうございます。おれ、二度寝しちゃいましたね、ごめんなさい」
昨日疲れたんだろうな、と一瞬頭を過ったけどそれは言わないことにした。グレーのボクサーパンツだけを身につけたみちるくんがわたしの隣に座り、小さくあくびをする。昨日わたしを抱いた男の子の身体がすぐ傍にあって胸の奥ががどくんどくんと鳴る。白く細いのに、骨はしっかりして薄く筋肉がついている男の子の身体にはわたしの痕がしっかり浮かんでいる。
「あの、先輩。その格好だめです」
みちるくんがわたしから顔を背けて言うから、きっとみちるくんもわたしと同じことを思ったんだろうと察した。やっぱりわたしの格好は大胆すぎたかもしれない。せめてキャミソールを着ておけばよかったのに、なんとなくもったいなくて着れなかった。
「みちるくんだって下着なのに」
「おれは男だからいいの」
「ずるいなあ」
笑いながら保健室にあった予備のシャツに袖を通す。なんとなく長袖を消費したくなくて今日は半袖にしたけれど普段半袖は着ないから腕がすーっとして落ち着かない。
「あ、そうだ。今更思い出したんですけど、ジャージの上をロッカーにずっと置いてたんです。友達も置いてて。あとでおれの教室に着いて来てもらってもいいですか?」
「うん、いいよ」
ジャージがあれば寝るときに楽だし、袖があるから日焼けもしないし、動きやすいからありがたい。
「準備するからちょっと待っててくださいね」
「うん。ゆっくりでいいよ」
ボディーシートで身体を拭くみちるくんの横で机の上の檸檬をぺらぺらと捲る。みちるくんの白く滑らかな肌から柑橘系の甘いにおいがする。
「みちるくんも十六才だね」
「同い年ですね」
「じゃあ先輩って呼ぶのと敬語使うのやめないとね」
わたしの言葉に少し困った顔で「がんばります」と答えて笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
準備を終えたみちるくんが手を差し出す。みちるくんは長袖を着ていたけれど、今日はわたしと同じ半袖を着ていて、白く長い腕がきれいだった。手を取って保健室を出ると、窓からかすかに入り込んだ風が涼しくて、半袖だとなんとなく腕が落ち着かない。
「なんかこれもデートみたいですね」
教室へ向かう階段を登りながらみちるくんがうれしそうに言った。手を繋いでで誰もいない校舎を歩くデートなんて普段の学校じゃ絶対にできないから、これはこれでいいかもしれない。
最初は誰もいない学校が怖かったのに今はそれを楽しめるまでになっていて、この四日間でこの生活に慣れてしまったと自覚する。そう思えるのもみちるくんが隣にいてくれるからで、わたしはみちるくんが隣にさえ居てくれればどこでも楽しめるのかもしれない。
「あったあった。もっと早く思い出せばよかった。これ、着ないままずっと空きロッカーに入れたんです」
そう言いながらみちるくんは、一年一組の端っこのロッカーから紺色のジャージを二着手に取って片方をわたしに差し出した。
「こっち先輩着てください」
受け取ったジャージを広げてみると左胸に白い糸で白瀬と刺繍が入っている。
「これみちるくんのだよ? 自分の着なよ。わたしそっち着るよ」
手を伸ばしたけれどみちるくんは首を横に振って「だめです」と言う。
「先輩に他の男のジャージなんて着せらんない」
恥ずかしそうにわたしから目を逸らしたみちるくんは頬が赤くなっていて、あまりにも可愛いから思わず笑ってしまった。
「可愛いこと言うね」
「笑わないでください」
「それは友達の?」
みちるくんが持つジャージを指さすと、「そうです」と広げて見せてくれた。ジャージには早弓と刺繍がされてあるけれど読み方がわからない。
「なんて読みなの?」
「はやみです」
はやみ。昨日みちるくんが瓦礫の山に向かって呼んでいた名前だったと思い出す。
「早弓くん」
「早弓だけに真海先輩のこと相談してたんです。だから真海先輩と付き合えたって伝えたかったんですけど」
その先は言わなかった。みちるくんは笑っているけれど、悲しみを含んでいてどんな言葉を返せばいいかわからなくなる。
「早弓くんは、どんな人なの?」
迷って言葉にしてから間違ったとすぐに後悔したけれど遅かった。亡くなった友達のことを思い出させるようなことを言って、みちるくんを傷つけてしまうかもしれない。恐る恐る顔を見るとみちるくんは何かを思い出したように笑い出した。
「あー、めっちゃばかです。真海先輩には見せらんないくらいの」
「そうなんだ」
ばかです、なんて言うみちるくんは見たことがなかったから新鮮で、普段のみちるくんが見れたみたいでうれしくなる。早弓くんはどんな人だったんだろう。恋愛の相談をするくらいだから、心を許していた存在なんだろう。涙を流すみちるくんのことを思い出す。
わたしはかずはるくんのスニーカーを見つけたとき、涙が出なかった。それどころか、心が動くこともなくて、死んでしまったという事実を理解するだけだった。
かずはるくんじゃなくて、ゆうちゃんたちだったらわたしは泣いていたのかな。自分でわからなくて考えるけど答えは出ない。それに、ゆうちゃんたちはまだ死んだって決まったわけじゃないし、どこかで生きているんだと思い込むようにしている。
みちるくんの背中をぽんとやさしく叩くと、わたしの顔を見て微笑んだ。その頬に浮かぶ薄い笑窪を手のひらで撫でる。
「先輩の手、小さい」
「みちるくんの手が大きいんだよ」
みちるくんの骨張った手の感触を確かめるように少しだけ力を入れてその手を握る。愛しい手。わたしの愛する人の手。
「あのひかり、消えましたね」
窓際へ移動して、外の景色を眺めながらみちるくんが言った。わたしも同じようにして窓の外を見る。町は相変わらずだけど薄明光線のような青いひかりはやはり消え去っていて遠くに澄んだ海が見える。穏やかな水色の海の表面がひかりを乗せてきらきらと白く光る。
「揺れももう来ないし、あとは救助を待つだけだね。あっ」
今朝のことをふと思い出したわたしに「どうしました?」とみちるくんが首を傾げる。
「あのね、今朝、ヘリコプターの音が聞こえた気がしたの」
「えっ。本当ですか?」
「起きたときには遠ざかって、すぐに音が消えちゃったから聞き間違いしれないんだけど」
確かにあの音はプロペラの音に似ていたけれど、まどろんでいたから聞き間違いかもしれない。時間が経つにつれてあれがヘリコプターだったのか自信がなくなっている。
「聞き間違いでもいいです。また来るのを待ちましょう」
「そうだね」
「校庭にSOSって書きますか。目立つように机とか並べて」
「あ、それいいかも」
机を運ぶのは大変だろうからやるとしたら夜かな、なんて考えて隣のみちるくんをみると表情が少し沈んでいる。
「救助が来たら、離れ離れになるのかな」
悲しげな表情でみちるくんが言った言葉にわたしは何も返せなくて窓の外を向き直す。遠くの町が廃墟に見える。
家族が生きていたとして家は無事なんだろうか。わたしもみちるくんも高校から電車で二十分ほどのところにあるから、ここからは見えないけど被害はないとは思えない。お互い引っ越さないといけなくなったら離れ離れになってしまうし、もしも家族が死んでいたとしたらわたしたちはどうなるんだろう。親戚の家とかに預けられるのかな。あるいは施設とか。
知るのが怖くて、知っても怖くて、甘い考えだけでこの二人だけのしあわせな時間を過ごしていたけれど、もうその時間も少ないのかもしれない。ヘリコプターの音はこの時間の終わりを知らせる合図のように思えてくる。
「一緒に居たいな」
「わたしも」
みちるくんと離れたくなかった。
もっと、もっとみちるくんのことを知りたいし、ずっと傍で見ていたい。自分がこんな風になるなんて知らなかった。こんなにも人を愛して、溺れるなんて初めてだった。もう少しだけ今はこのままでいいか、なんて思ってしまう。
「でもおれは真海先輩のこと離さないし、どこにいても見つけるよ」
「ありがとう」
実際にわたしを見つけてくれたみちるくんの言葉はわたしを安心させてくれる。みちるくんの名前が刺繍されたジャージをぎゅっと胸に抱く。
たとえこの時間が終わりを迎えたとしても、何があったとしてもわたしはみちるくんと一緒にいたい。心の中で強くそう願った。
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