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「みちるくんだけに怖い思いさせちゃったね」
真海先輩の指がおれの顔へ伸びてきて涙の跡をそっとなぞる。自分の意思で土砂に潰れた死体を見て泣いたのに、情けないのに、こんなおれに寄り添ってくれる真海先輩はどこまでもやさしい。おれが真海先輩を守らなきゃいけないのに守られてばかりいる。
「みちるくん、帰ろう」
もう帰ろう、と続ける先輩のやさしい声に一瞬迷ってから首を横に振る。これ以上死体を見てしまったらおれがだめになると思ってそう言ってくれたのはわかったけれど、ここまで来て引き返すよりも避難所の様子を見た方がいいと思った。もし鶫森小学校に誰もいなくても誰かが死んでいても、ここまで来たなら自分の目で確かめてこの状況の手がかりを掴みたかった。そしてもし青野先輩が避難所で生きているのなら、真海先輩と話してほしかった。青野先輩を選ぶかもしれないなんていう心配や不安はもうなくて、真海先輩はきっと伝えたいことがあるだろうからちゃんと伝えて欲しかった。
「避難して生きてる人がいるか確かめたいです。真海先輩は、帰りたいですか?」
「ううん。わたしは大丈夫なんだけどみちるくんが心配」
「大丈夫です、けど、少しだけ抱きしめさせてください」
「え? うん。いいよ」
おいでと両手を開いた真海先輩の身体を抱きしめると柔らかくて、細くて、ちゃんと人の温度がした。おれも真海先輩も確かに生きている。呼吸の音も、心臓の鼓動も伝ってくる。
早弓やあの瓦礫の下に埋まった人たちのことを考えると心が折れてしまいそうで、考えないように血のついたスニーカーを意識の隅に置いやる。真海先輩があそこで止めてくれなかったら、死体を間近で見てしまったら戻って来れなかったかもしれない。自分の精神は強い方だと根拠もなくずっと思っていたけれど、実際は弱くて脆くて、あのままあれ以上の惨状を目にしてしまったら精神が壊れていたかもしれない。
おれには真海先輩がいるから、そう思うことで自分を奮い立たすことができた。鶫森小学校がここ以上の惨状だったとしても、強くいなければいけないと改めて言い聞かせる。
「真海先輩が生きててくれてよかった」
できることなら早弓も避難した他のみんなとも生きて会いたかったけれど、もうそんなことを祈ったって命が戻ることなんてないと理解しているし、早弓が死んだことを受け入れる余裕もないから考えるのを後回しにする。薄情だと思うけれどそうしないと心が壊れてしまう。今は目の前にいる真海先輩と生きることを考える。
「わたしも、みちるくんが生きててくれてよかった」
一緒に生きようね、先輩。言葉には出さずに細い身体を強く抱きしめる。真海先輩の手がおれの背中をやさしいリズムで撫でる。
「ありがとう、先輩」
やわらかく笑う真海先輩の表情に不安感や恐怖感が和らいでいくのを感じる。真海先輩だって怖いはずなのに、こうしてやさしさを与えられる強さにまた惹かれてしまう。
「小学校に行きましょう。どんな結果でも確かめたい」
「わかった。でもしんどかったら言ってね」
手のひらでおれの頬をぎゅっと押して笑った。
もう一度ハンカチを鼻に当てて死体が埋まる瓦礫の山に近づく、だらんと伸びた白い足がはっきり見える前に足を止めた。瓦礫の上を渡るのは危険だし、死体が埋まっていると知りながら踏むのは気が引ける。
「こっちなら通れると思います」
道の崖側は一メートルほど盛り上がった段差になっていて、土砂はみんなを巻き込んだところで止まっているから、その段差さえ登ればこの道を通り過ぎることはできるだろう。木や伸びた草で足に切り傷ができる可能性もあるけど、ここを通りすぎるにはこの道しかない。
「先輩、手」
念のため軍手を着けて段差を登って真海先輩に手を差し出す。
「ありがとう」
握った手を引くと先輩はやっぱり軽くて簡単に段差を登ることができた。
それから道とは呼べない山の中を茂みを掻き分けながら進む。真海先輩はスカートが短いし生足の部分が多いから、草で足を怪我してしまわないか心配だったけれど先輩は平気だよと笑ってくれた。
右側にはみんなが埋まる瓦礫の山があって、なるべく見ないように視線を逸らすものの、ハンカチを死臭が通り抜けてそこに死体があるという事実を突きつけられる。
「これじゃ助けも来れないね。下の方はもっとひどいし」
改めて町を見下ろすと建物はほぼ倒壊していて、町は瓦礫の海と貸している。その上をひっくり返った自動車が何台も転がっていて、あの中に人はいるんだろうかと想像して背筋が震えた。目の前の動かない町には何人の死体が眠っているんだろうか。
土砂崩れは五十メートルほどの幅で、通り過ぎたところで道路に降りる。先輩の足はきれいなままでほっとした。
振り返ると瓦礫の山が遠くに見える。
避難した人たちはここを通り過ぎるときに、タイミング悪く土砂に巻き込まれてしまったんだろう。学校を出た時間が数分違えば生きていたかもしれないと思うとやりきれない。
もしもあのとき逃げていたらここで死んでいたかもしれないし、生きていたとしても目の前で人が瓦礫に潰されていたかもしれない。もし目の前で人が死んだらと想像しただけでもぞっとするし、実際にそういう人がいてもおかしくない。
「ねえ」
おれの手を握った真海先輩が小さな声で言った。
「見て」
そう言って先輩が指差した先、いつもならこの場所から鶫森小学校の校舎の青い屋根が見えるはずなのに切り取られたみたいに、元々そこには何もなかったみたいに、白んだ空だけがきれいに見える。
「ここから小学校の屋根、見えたよね」
「はい。見えてました」
入学してから何度もこの道を通っていたから今目の前に見える景色には違和感がある。心臓の鼓動がどくんと大きく強く跳ねる。
「潰れてるのかな」
「とりあえず、近くまで行ってみましょう」
冷静を装ったつもりだが、真海先輩にはお見通しかもしれない。片隅に避けたはずの早弓の足がまだ脳裏に浮かんで嫌な汗が背中を伝う感覚がした。
そこからもうしばらく進んだところで、坂の上から鶫森小学校の大きな校舎が崩れているのが見えた。
「潰れてるね」
感情の読み取れない口調で真海先輩がぽつりと言う。
「とりあえず、行ってみましょう。体育館は大丈夫かもしれないし」
小鳩高校は三号棟と体育館は倒壊したものの他はきれいに形を保っているのに、どうして新しくて丈夫なはずの鶫森小学校の校舎が潰れているんだろう。場所だって被災マップでは安全地帯だったはずだったけど、まさか津波がここまで到達したのだろうか。
校門までたどり着くと私立鶫森小学校と刻まれた銘板が取れて落ちていた。石畳はひび割れていて、コンクリートの塀が崩れている。
校門から見える校舎はやはりどうみても倒壊しているけれど、避難した人たちがいるであろう体育館らしい建物はここから見えない。
「みちるくん大丈夫?」
「大丈夫です。行きましょう」
鶫森小学校の敷地内はいやに静かで、コンクリートや硝子の破片が地面に散らばっていて世界が終わったみたいだった。高校にいたときよりも現実感がなくて、映画を観ているような気持ちになる。
「みんな死んじゃったのかな」
そう思わずにはいられないほどの静けさだった。
「おれたち以外に生きてる人はいます。絶対」
自分に言い聞かせるように言葉にすると、先輩も「そうだよね」と頷いた。
「人に会えるまでは二人で頑張りましょう」
「うん。わたしみちるくんがいるから頑張れる」
真海先輩があまりにも可愛すぎて驚いて言葉を失った。早弓に馬鹿にされるだろうなと頭で考えた直後に血で汚れた早弓のスニーカーがまたちらついて、必死に振り払う。
校内を歩いて人がいないか確認したものの鶫森小学校の建物という建物は全て倒壊していて、ただ瓦礫の山がいくつもあるだけだった。敷地の奥にある体育館らしき建物も同じように崩れていた。
「校舎も、体育館も、だめだね」
体育館に近づくと来る途中の瓦礫の山と同じ死臭がして立ち止まる。ハンカチで鼻を抑えて近づくと大量の蝿が飛んでいて耳障りな羽音がうるさい。様子を見ようと踏み出したおれの手を引いて首を横に振った。
「行かないで」
静かにそう言った真海先輩はおれの手を引いて、崩れた体育館の離れた周りを歩き出す。人の姿は見えないけれど、確かにここに人がいたことは死臭でわかる。
避難した全員が死んでしまったんだろうか。それとも、ここからまた別の場所に避難している可能性もある。
「あっ」
瓦礫の脇に転がった黒いスニーカーを見つけて真海先輩が手を離して歩み寄った。
「はるの靴」
転がったスニーカーを手に取ってぽつりと呟くように言った先輩の言葉に、さっと全身の血の気が引くような感覚がした。
スニーカーの先にべったりと血がついている。黒いスニーカーは年季が入ってて血で赤く染まったつま先は今にも破れそうで、白いラインの部分が傷が入ったように汚れている。
ここに靴があると言うことは青野先輩はここまでたどり着くことができたらしい。つまり青野先輩はこの体育館の中、瓦礫の下にいる。
「真海先輩」
名前を呼ぶことはできても、顔を直視することはできなくて先輩の手中のスニーカーに視線を落とす。
「もしはるが生きていたら、ばいばいって言うつもりだったの」
いつもと変わらない口調だった。
「でもだめみたいだね」
真海先輩にさよならすら言わせない青野先輩はやっぱりずるい。けれどそれ以上に真海先輩の思いを聞けずに死んでしまったのなら、青野先輩は可哀想だと思った。
「ばいばい、はる」
体育館だったコンクリートの塊に向かって小さく呟くように言った。この下にいるであろう青野先輩に真海先輩の別れの言葉が届くことはないんだろう。
「どうしてだろ。涙が出ないの」
そこでやっと先輩の表情を見た。先輩は少し悲しそうな表情を浮かべているけれど目は潤んですらなくて、「不思議」と先輩は呟いた。元あったところにていねいにスニーカーを置く。先輩はスニーカーを持って帰るんじゃないかと思ったけれどそうはしなかった。
「帰ろう、みちるくん」
おれの手を握り直して、いつも通り笑う。それはきっと作り笑いだったんだろうけどあまりにも自然で、真海先輩はおれなんかよりもよっぽど大人なんだと思い知らされる。
「最初、死んでもいいって覚悟して校舎に残ったのに、わたしの方が生き残っちゃった」
「本当に。不思議ですね」
「昨日も言ったけど、ここが死後の世界なんじゃないかってまた考えちゃった。あまりにも人がいないし、わたしに都合がいいから」
「死後の世界にあんなに蝿がいたら嫌ですね」
先輩は「そうだね」とまた笑った。昨日したやりとりを繰り返しているみたいだった。ここが死後の世界だとしたらあまりにも現実的すぎる。死臭が鼻を刺すことだってないはずだ。
「家族も無事かな」
「生きてるの祈るしかないです」
「この状況で、何もわからないままみんなが死んだこと受け入れるのってすごく難しいよね」
「おれは、後回しにすることにしました。今向き合ったら心が折れそうなんで。考えないようにしてます」
「わたしもそうしよう。今は生きることだけ考えないとね」
にっこりと笑った先輩はわざと明るく振る舞っているのがわかったし、おれも同じように笑った。生き残ったんだから、二人しかいないんだから、今はこうして死から目を背けて前を向くしかない。
「それで、いつ死ぬかわからないからわたしはもっとみちるくんのことを知りたいなって思った」
手をぎゅっと握りしめたのが愛おしくて、おれも握り返すと先輩はうれしそうに微笑む。
「真海先輩。帰ろ」
おれたちには二人で帰る場所がある。それだけで心が救われるような気がした。友達が死んでも、生きてる人がいなくても、今おれの隣には真海先輩がいる。その事実だけでまだ生きていける。
「みちるくん、楽しい話しよう」
他愛ない話をしながら、来た道を戻る。みんなが埋まった瓦礫の山の横を通り過ぎるとき、おれも真海先輩もそのことには触れず、関係ない話をして気を逸らしていた。
「帰ってきたねー。わたしたちの家」
「落ち着きますね」
三号棟は半壊したとはいえ小鳩高校は倒壊した鶫森小学校に比べたらきれいに形を保っていてた。不思議に思いながらも家に帰ったような安心感が確かにあって深く考えるのをやめる。結局何が起こったのか手がかりは掴めなかったのだからおれと真海先輩はすごく運が良かった、とそれで片付けるしかない。
「ねえ、みちるくん」
「ん?」
「蝉の鳴き声が聞こえる」
耳を澄ますと真海先輩の言う通り、遠くからかすかにじわじわと鳴く蝉の声が聞こえた。蝉の声を聞いて安心する日が来るなんて思ってもいなかった。ふと、西の空を見ると太陽が夕方に傾きかけている。
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