2

「暑いね」

 先輩が携帯扇風機をおれに向ける。小さな羽が回転して生み出す風は思ったより強くて涼しい。

 今日は曇りだけど昨日雨が降ったせいか、室内はじっとりと蒸し暑い。空は雲が多いけれどあの不気味なひかりは昨日みたときよりもより薄くなって消えかけている。

「おいしい」

 真海先輩はサイダーを一口飲んでうれしそうに言った。真海先輩の明るい笑顔を見ると心が癒される。気付くとおれも笑顔になってしまう。

「おれにも一口ください」

 真海先輩は「いいよ」と笑顔でペットボトルを差し出す。恋人の距離感がうれしい。昨日からずっとこんな調子で浮かれている。

 あまり表情に出さないよう抑えているつもりだけれど、ふとした瞬間にはもう笑顔で多分真海先輩にはばれている。

 受け取ったサイダーを一口飲むと、甘い炭酸が口の中で弾けた。

「おいしいですね」

「ねー。久々に飲んだけど夏! って感じするね」

 ペットボトルを机の上に置くと、透明なサイダーの中を小さな泡が泳ぐ。

「よし。そろそろ準備しよっか」

「あ、そうですね」

 腕時計を見ると、針は十三時三十分を差していた。

 今日晴れていたら日中は避けて夕方あたりに鶫森小学校を見に行く予定だったけれど、曇りだったので早く出ることにした。

「またここに戻ってくるよね」

「一応そのつもりですけど」

 避難所の様子を見てからここに戻るつもりだけれど、大人に止められる可能性もある。行ってみないとどうなるかわからない。とりあえずできる限り必要な物を非常用持出袋に詰めることにした。

「あ、ちょっと重い」

 水と食料と貴重品と軍手と小鳩高校タオルと保健室にあった救急セットの中身、最低限のものだけ入れたはずなのに、持出袋を背負うとずしっとした重みが背中にのしかかった。

「大丈夫? わたしの方に入れる?」

「全然、大丈夫です」

「みちるくん、いっぱい持ってくれてるし、わたしまだ持てるよ」

「全然、平気なんで。大丈夫です」

「無理しないでね。いつでも持つからしんどくなったら言ってね」

 おれの強がりはお見通しみたいで真海先輩はやさしくそう言った。

「三日経っても人は来ないし、携帯は繋がらないし、どうなってるんだろうね」

 町が壊滅的なことは明らかだった。

 ただおれが分かるのはこの山の上から見える範囲だけで、見えない場所がどうなっているかは分からない。

 市全体が壊滅状態の可能性もあるし、隣の町に行けば何も被害が出てない可能性だってある。さすがに県全体とか日本全体とかそういう規模の話ではないと思うけど。

「行こっか。みちるくん」

 真海先輩が差し出した左手を握る。小さい手だった。

「はい、行きましょう」

 保健室を出ると、外は保健室よりもじっとりと暑い。湿気が強くてむっとした空気に全身を包み込む。

 見上げると灰色の雲の隙間から青い空がわずかに見えた。隙間から差すあの不気味な青いひかりはやはり薄くなっている、というよりほぼ消えかけている。

「やっぱり暑いね」

 そう言って真海先輩はおれに携帯扇風機を向けた。

 真海先輩は気遣ってくれているのか、携帯扇風機を自分一人で使うのではなく度々おれに向けてくれる。風が涼しくて気持ちいいけれど、気を遣わせて申し訳ない気持ちになる。

「ありがとうございます。おれは大丈夫なんで」

「あ、ごめんね。風嫌だった?」

「いや全然。むしろありがたいです。けど申し訳ないので」

「そんなこと気にしないで。涼しい方がいいでしょ?」

 無邪気に笑って携帯扇風機をまたおれに向けた。

 夏は蝉でうるさいはずの中庭はしんと静まりかえっている。

 中庭には昼休みや放課後に早弓たちとよくたむろっていたベンチがあって、少し前のことなのに遠くて懐かしい気がした。揺れから三日しか経っていないのに、昔のことのように感じられる。

「みちるくん、よくここに居たよね」

 ベンチを通り過ぎたところで真海先輩が言った。

「え、知ってたんですか?」

 先輩はおれのことを知らなかったはずだけど認識はしてくれていたみたいだ。

「うん。みちるくんはかっこいいし背も高くて目立つから」

 真海先輩が当たり前のようにかっこいいなんて言うから驚いてしまった。昨日まで可愛いとばかり言われていたから、恥ずかしくて顔が急に熱くなる。不意打ちはずるい。

 先輩がこちらに向ける携帯扇風機の風が涼しくて助かった。

 あのとき、避難するとき、この中庭で後ろを振り返った。

 そこで校舎に戻る真海先輩が見えておれは集団を抜けた。ゆっくり走って、集団の最後尾に移動して、そこから物陰に身体を隠してみんなが去るのを待って、真海先輩を追って校舎に戻った。

 あのときあそこで後ろを振り返ってほんとうによかった。浮かれているから運命な気さえしてくる。恥ずかしいから絶対に言えないけど。


「久しぶりだね、この景色」

「そうですね。でも三日前とは全然違いますね」

 中庭を抜けて、校門の前で足を止める。

 校門の向こうにはいつも通り長くて急な坂道が伸びている。けれど、いつもきれいに見える町は廃墟と化していて、別世界に飛ばされてしまったような気分になる。

 遠くに見える海だけがいつも通り青く広がっている。三日前は高かった波も今はおだやかでほっとする。

 相変わらず蝉の鳴き声は止んでいて、木々のざわめきだけが静かに聞こえる。

「あ、電池切れちゃった」

 そう言った真海先輩は羽の止まった携帯扇風機を落胆しながら持出袋に戻した。

「誰か持ってるかもだから明日探そうかな」

 おれもクラスメイトの鞄から拝借させてもらおう。と思ったけど、鶫森小学校に避難した人たちも高校が安全だとわかれば、荷物や食料を取りに戻る可能性が高い。

 もしかするともう二人で高校へ戻ることはないのかもしれない。だとしたら寂しくて、真海先輩の手をぎゅっと握ると真海先輩がおれに微笑みかけた。手のひらから考えてることが伝わっているような気がして、どきっとする。

「あれ、土砂崩れかな」

 しばらく坂を下ったところで真海先輩が足を止めてそう言った。

 指差した先は遠くてよく見えないものの、大きな何かが道を塞いでいるのは分かる。小鳩高校の体育館も土砂で潰されてしまったし、真海先輩の言うとおり道を塞いでいるのは土砂崩れの可能性が高い。

「そうみたいですね」

 三日経っても救助が来なかったのは、この土砂のせいで道が通れなかったからかもしれない。

 おれたちもここを通ることができないかもしれない。小鳩高校から町に繋がっているのはこの坂道だけだった。最悪、山の中を通ればいいけれど真海先輩はスカートだし足を汚してしまうかもしれない。

 どうしようか考えながら進んでいくと、道を塞いでいるのが土だけではなく、鉄骨やコンクリートなどの人工物が混ざっていることがわかった。おそらく、この真上にあった倉庫を巻き込んだんだろう。

「あそこ通るの危なそうだね」

「最悪、山の中を通ればいけると思いますけど、真海先輩足怪我しちゃうかもしれないからなんとか通りたいですね」

「足くらいなら大丈夫だよ」

 真海先輩はそういうと思ったけれど、おれとしては細くきれいな先輩の足に少しでも傷をつけるわけにはいかない。

 土砂に近づくにつれ、異臭が漂っていることに気づき、足を止める。腐ったようなにおい。嗅いだことのないくらい強いにおいが鼻を刺す。先輩も異臭に気づいたみたいで、顔を顰める。

 直感で、これは死のにおいだと思った。

「みちるくん」

 真海先輩も気づいたみたいで、不安そうな顔を浮かべておれを見た。先輩の方からおれの手を強く握る。

 信じたくはないけれど、きっとこの先に死体がある。それは人間かもしれないし、動物かもしれない。動物、きっと動物だ。山だから、鹿とか猪とか。必死にそう自分に言い聞かせる。

「先輩、ハンカチあります? 鼻を覆った方がいいです」

「あ、うん」

 ポケットから取り出したハンカチで鼻を塞ぐ。真海先輩も同じように鼻を覆った。それでもにおいは消えなくて、死臭が離れなくて、吐きそうになる。気持ちが悪い。

 このまま引き返してもよかった。

 きっとそうした方がよかった。けれど、何が起こっているのか確かめたくて一歩ずつ進む。真海先輩も同じ思いなのか、足を止めようとはしなかった。

 進むたびににおいが強くなっている気がした。

 数メートル進んだところで、瓦礫の下に白い物体が見えて、一瞬心臓が跳ねるような感覚がした。咄嗟に真海先輩の両目を手のひらで覆って隠した。

「みちるくん? ど、どうしたの?」

「真海先輩は見ない方がいいです」

「人が。埋まってるの?」

 真海先輩の声は震えているようだった。先輩の目を覆った手のひらが震える。

「……はい」

 よく見ると、白い物体は人間の足だということがわかった。

 土砂と瓦礫の下から血の気のない足が日本だらんと伸びているのが見える。わずかに見えるスカートだろう布のチェックの生地は小鳩高校の制服と同じだ。

 胴から上の部分は瓦礫が乗っていて、どう見ても生きているはずがない。恐怖が走り、全身ががたがたと震え始める。

「目、閉じてください」

 震える手のひらを先輩の目元から離して、手を握る。恐怖からか真海先輩はおれの手を強く握り返した。おれの手も、真海先輩の手も震えている。

「こっち来てください」

 目を覆ったまま真海先輩の手を引いて日陰まで誘導して、手を離す。

「高校の方向いて、座っててください」

 言うと真海先輩は頷いて、土砂に背中を向けるようにしてその場にしゃがみこんだ。顔は真っ青で身体は小さく震えている。

「おれが戻ってくるまでそのまま待っててください。見てきます」

「みちるくん」

 真海先輩は肩まで震えていて、潤んだ瞳でおれの顔を見る。

「大丈夫ですよ」

 震えたままの手で真海先輩の頭を撫でる。先輩は何か言いたげな表情をしていたけれど何も言わなかった。

 深呼吸をしても、うまく呼吸ができない。どくんどくんと鼓動が大きく、苦しい。恐怖だった。

 ほんとうは、できるなら見たくないけど、青野先輩がいるかどうかそれだけは確かめないといけない気がして、必死に震える重い足を動かす。

 瓦礫に近づくと、埋まっているのはやはり一人ではないことがわかった。

 最初に見えた女子生徒と思われる足の他に、瓦礫の間から腕や髪の毛の束が伸びているのが見えた。瓦礫は所々赤黒く染まっていて凄まじい死臭が漂っている。ハンカチを鼻に強く押し当てても消えないにおい。

 きっと埋まっているのは四日前に学校から避難した生徒だろう。

 土砂崩れの範囲は広く、道の先の方まで瓦礫の残骸が山になっている。数十人がこの下に埋まっていてもおかしくない。大量の蝿が瓦礫の上を飛んでいる。

 あのとき小鳩高校から避難したのは百人近くいたから全員がこの下に埋まっているとは思えないけど、おれや真海先輩の友達がいるかもしれない。青野先輩もここに。

「生きてますか」

 数メートル離れたところから瓦礫の山へ向かって呼びかけてみるが、やはり返事はない。蝿の羽音と木々のざわめきが聞こえるだけでそれ以外の音はしない。

 もう三日も経っているから当然だった。

 近づいて見るのが怖い。手足や血だけでも怖いのに顔や臓器を見てしまったら。想像しただけで恐ろしくて、がたがたと身体の震えが止まらない。鼓動もずっと早くて息が苦しい。気を失ってしまいそうだった。

 もう一度深呼吸をして瓦礫の方へ視線を動かす。

 そこに見覚えのあるスニーカーが見えて一瞬息が止まった。

「早弓」

 名前を呼ぶ。瓦礫の間から見えたのは早弓の靴だった。抽選で当たったと喜んで見せてくれたスニーカーだった。

 白い布地は血で赤く染まって、それが乾いて赤黒い染みになっている。体は瓦礫に飲まれていてどうなっているのか見えないけれど、死んでいることは一目見てわかる。

 靴を蛆が這うのが見えて、眩暈がした。全身の力が抜けるように感覚がしてその場に座り込む。

「早弓」

 名前も呼んでも意味がないことは明確だった。

 頭では理解しているのに、信じられなくて信じたくなくて、名前を呼ぶ。

「早弓。嘘でしょ」

 あの早弓が死んでいるなんて、何があっても生き残りそうな早弓がこんな風に瓦礫に押し潰されて死ぬなんて。

 涙が溢れ出して、止めようと思っても止まらなくて鼻を覆っていたハンカチで目で抑える。これほどにない死臭が鼻をついて、もうだめだった。視界の隅で早弓のスニーカーがぼやける。

 早弓が死ぬなんて考えてもいなかった。

 ぎゃははと笑う早弓の声が脳内で再生されて、もうそれを聞く術がないことに気づいてまた涙が溢れる。

 おれは真海先輩が一人で死ぬくらいなら一緒に死ぬつもりで校舎に戻ったのに、そのおれが生きて、生きるために避難した早弓が死んでしまった。

 校舎から出なければよかった。知らない方がよかった。でも知らなければならなかった

 早弓がいるってことはきっとあの日一緒にバスケをしていた他の友達もこの下にいる可能性が高い。青野先輩だって探さないといけないのに涙で前が見えなくなっている。

 血で汚れた早弓のスニーカーが目に焼き付いて、見ないように目を塞いでも頭に浮かんで、息をするのが苦しい。全身の震えは止まらないまま、心臓が裂けそうなほど強く鼓動を打つ。

「みちるくん」

 すぐ後ろで声がして、それが真海先輩だとわかっていても振り向くことができない。真海先輩は隣に座っておれの背中を小さい手でやさしく摩った。

「真海先輩、どうして。待っててって言ったじゃないですか」

 声が震えないように意識したけれどうわずってしまった。先輩の表情も何も見ることができないまま、ハンカチに涙だけが滲む。

「ごめんね。みちるくんが心配で」

 真海先輩は、落ち着いた口調だった。きっとおれを不安にさせないために取り繕っているんだろう。背中から手のひらの震えがわずかに伝わってくる。

「みちるくんゆっくり呼吸して」

 自分でも驚くほど呼吸が早く乱れていた。呼吸を何度繰り返しても酸素が上手く吸い込めない感じがして息苦しい。

「ごめんなさい。仲良いやつが、死んでて」

 早弓のスニーカーが頭に浮かぶ。そのあと、くだらない話をして笑う早弓の姿が浮かぶ。死んでいるなんて考えてもいなかった。

「みちるくん、少し落ち着こう。顔真っ青だよ」

 真海先輩はおれの背中を摩り続ける。

 早弓や避難した人たちのことを思うと苦しくなるからできる限り何も考えないように意識して、真海先輩のやさしさに縋る。

 それからしばらくしてやっと呼吸が落ち着いて、酸素を肺に入れる。涙も収まったところで目を覆っていたハンカチをずらして、早弓の方は見ないように、先輩に視線を向ける。

 真海先輩は心配した表情でおれの顔を覗き込んでいた。

「何人も、死んでます。あのとき避難した人たちです」

「そっか……」

 真海先輩が悲しそうな表情を浮かべるのを見て、青野先輩のことを思い出す。

 青野先輩を、探さないと。

 真海先輩は気持ちの区切りをつけたみたいだし、青野先輩に対して未練がないどころか好意がないのもわかっている。真海先輩が青野先輩を選ぶかもしれないなんて不安ももうない。

 だけど、顔を見て話してケリをつけた方が真海先輩としてもすっきりするんじゃないかと思う。

 ここで青野先輩を見つけても直接会話ができないことはわかっているし、全部おれのエゴでしかないけれど。それでも。

「青野先輩がいるか見ないと」

 立ち上がろうとすると身体が上手に動かなくてふらつく。思い出すとまた呼吸が乱れ始める。

「ううん、見なくていいよ。みちるくん」

 真海先輩は立ち上がっておれの手をやさしく握った。

「でも」

「わたしは、はるじゃなくてみちるくんが一番大事だから」

 真海先輩はおれの手を引いて、瓦礫の山から離れた。

「真海先輩?」

「あっちで一回休もう」

 さっき真海先輩が座っていた日陰よりも少し先、においがしないところまで歩いて、そこに座り込んだ。手を引っ張られておれもそのまま日陰に座る。

「ありがとうございます。ごめんなさい。おれ」

「謝らないで。ちょっとゆっくりしよ」

 そう言ってやさしく微笑む真海先輩に心が和らぐ。

 繋がっている手のひらから伝わる温度に確かに生きていることを感じて安堵した。

 夏のぬるい風が吹いて、真海先輩の黒い髪がさらさらと揺れる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る