4
すきな人に「すき」と言ってもらえたのは生まれて初めてだった。
ああ、たった二文字の響きでこんなにも心が満たされるのか。知らなかった。はじめて、わたしの空の花瓶に水を注いでもらえた。胸から全身へと熱が沁みていく。
「気付いてました?」
今度はいたずらに笑った白瀬くんが問い、わたしは首を振って答える。
全く気づかなかった。こんなわたしに白瀬くんが恋愛感情を抱いているなんてありえないことだし、考えてもいなかった。白瀬くんがわたしに対して嫌悪感を抱いていないのは伝わっていたけれど、それが恋愛感情の好意とは思いもしなかった。
だってわたしははるとあんなことをしていて、白瀬くんもそれを知っているのに、その上ですきなんてあまりにもわたしに都合が良すぎる。
目の前の白瀬くんがほんものなのかまぼろしなのか分からなくて首筋を見ると、そこには確かにわたしが付けた痕があり、まぼろしじゃないんだと自分に言い聞かせる。けれどやはり、こんなきれいな男の子がわたしに恋愛感情を向けているなんて単純に信じられない。キスマークを付け合ったのも、はるの残した痕を目立たなくさせるためだと思っていた。
「入学してすぐ先輩に一目惚れしたんです」
白瀬くんがわたしに? 信じられない。
真っ直ぐまなざしをわたしに向ける白瀬くんがそんな嘘をついてるとは思えないけど、やっぱり信じられない。視線が熱くて、わたしも白瀬くんから目が離せなくなる。
「先輩の絵を見て、どんな人が描いてるんだろうって気になってわざわざ美術室まで見に行ったことがあるんです」
白瀬くんみたいな人が美術室に来ていたら気づくだろうし記憶にも残るはずだ。
「そうなんだ。全然気づかなかった」
「先輩はデッサンしてました」
窓の外の人に気づけないほどデッサンに集中していたのかもしれない。デッサンをしているときは無心だから視野が狭くなってしまう。
そのとき白瀬くんの存在に気づいていればよかった。もっと早くに白瀬くんと出会っていれば、一緒に図書室に来ることができたかもしれない。存在しない日常を空想する。
「気持ち悪いですよね。ごめんなさい」
「ううん。気持ち悪くないよ。うれしいよ」
わたしが描いた絵を見て、話したこともないわたしのことを知ってくれて、すきになってくれたなんて純粋にうれしいと思う。それが白瀬くんだからもっとうれしい。
「でもね、わたしはるとあんなことしてて、それなのに」
うれしさの裏に後ろめたい気持ちが渦をまく。
「青野先輩と、セックスしたからって、おれは真海先輩のこと汚いなんて思いません」
「どうして?」
「おれが見てる真海先輩はずっときれいだったから」
「でも……」
「真海先輩」
わたしの名前を呼んだあと、白瀬くんはわたしの右の鎖骨の下を指さした。ワイシャツのの隙間から覗くと、右鎖骨の下、はるがつけた痕が消えていて驚く。今日朝見たときはまだ薄く残っていたのに、今はもう跡形もない。
「真海先輩はきれいです」
白瀬くんの瞳が熱い。
「先輩がしたことは別に悪いことでもないですし。おれははじめから真海先輩がすきだったから」
「ありがとう」
わたしを肯定してくれる言葉になんだか泣いてしまいそうだった。白瀬くんのやさしさに包まれているとほっとする。
「ただ気になるのは、どうして青野先輩のことがすきなんですか? 最初にも聞いたけど」
揺れがあった日、保健室のベッドでの白瀬くんの問いかけを反芻する。
あのとき、わたしはどうしても答えられなかった。わからなかったからだ。最初にすきになった理由も、不安だったのにずっとすきでいた理由も、全部靄がかかったみたいに曖昧になっている。
「考えてたんだけど、どうしてか思い出せなくて」
ずっと不安なのに追いかけていた理由を再び考える。三日前までの自分が客観的に見えて、ばかだったと他人事のように思う。
「追いかけてないとはるがいなくなりそうだったから、すきでいたのかもしれない」
プールサイドで白瀬くんがわたしに言った言葉を思い出しながら口にする。はるがわざとそうさせていたかはわからないけど、実際にわたしがはるを追いかけ続けていたのは不安だったからだ。
はるを追いかけなかったら、簡単にいなくなってしまった。わたしはそれをずっと恐れていたはずのに、今となってはもうはるを忘れかけていて、痕もなくなっていて、それどころか別の男の子の隣で安心して眠りについている。
揺れがあってまだ三日しか経ってないのに忘れるなんてわたしは薄情な人間だった。
「最初にすきになったきっかけも考えたんだけどやっぱり思い出せなくて。だめだね、わたし」
みちるくんはやさしい表情で首を横に振り「そんなことないですよ」と続けた。
「真海先輩が青野先輩の話をするとき、いつも悲しい顔をしてたのがずっと気になってて」
悲しい顔をしていたのか。言われて気づくほど無自覚だった。はるのことを考えるといつも不安になって心が曇って、それが意識せず表情に出てしまったんだろう。
どうしてそれでもすきでいられたんだろう。今のわたしにはわからない。
「はるは、心が揺れないの。はるの目には何も映ってないの」
はるの黒い瞳には誰だって映らない。何も見ていない。記憶の中のはるがもうずっと遠くて、最後に見たはずの背中がもう見えない。
わたしははるといつもどんな会話をしていたっけ。はるはどんな声だったっけ。わたしのことをなんて呼んでいたんだっけ。
「だからずっと不安で、苦しくて」
それでも身体だけ繋がって、はるを受け入れて。安心して、また不安になって。
「その小説を読んだってきっと何にも響かない人なの」
机の端に置かれたレモンイエローが眩しい。
「わたしの絵も、わたしのことも見てないの。それなのにどうして、わたしは。好きだったのか、もうわからなくて」
もうだめだった。言葉にすればするほど、はるから気持ちが遠ざかる。すきではなかったのだと、自覚してしまう。
「真海先輩。もう青野先輩のこと追いかけなくていいよ」
わたしの顔を覗き込んで続ける。
「おれは、真海先輩の今の気持ちが知りたいよ」
透き通る瞳にわたしだけが映っている。
わたしは、今のわたしは、もう。
「真海先輩はどう思ってます? おれのこと」
白瀬くんの顔を直視できなくて、思わず視線を逸らす。
「おれのこと、見て」
白瀬くんが顔を近づける。きれいなアーモンド型の目が、ブラウンの大きい瞳がわたしを捉えて離さない。
「どきどき、するよ」
胸の高鳴りがずっと止まらない。
「おれのこと、すきですか?」
どうしようもないくらいすきだった。
もう答えはとっくの前に出ているのに言葉にするのを躊躇してしまう。はるのことを思い出せない時点で、わたしの目には白瀬くんしか映っていなくて、それに気づかないふりなんてもうできなかった。けれど、汚れたわたしがこんなこと言ってもいいのだろうか。二日前にはるのことがすきだと言っていたのに今は白瀬くんがすきなんて、ふしだらだと幻滅されてもおかしくない。
いくら白瀬くんがわたしのことをきれいだと言ってくれても、はるの痕が消えても、はるの声を忘れても、わたしはまだ自分が汚く見える。
「教えて。真海先輩がおれのことすきでもきらいでも、おれは真海先輩のことすきだから」
それは変わらないから、と付け足す。
わたしは心から白瀬くんのことを求めている。
「すき、だよ」
わたしは白瀬くんがすき。
頭で抑えようとしても心から言葉が溢れてしまう。
頭がくらくらするほど愛おしくて、もう白瀬くんのことしか考えられないくらいにおかしくなっている。
鳴くように、刻むようにわたしの身体に残る白瀬くんの痕が熱を帯びて疼く。
「真海先輩、おれと付き合ってください」
告白の台詞に胸の高鳴りが止まない。その言葉をうれしいと思ったのは初めてだった。全身が熱い。
「わたしで、いいの?」
「真海先輩がいいです」
白瀬くんは頬を赤らめて笑う。答えは決まっていて、もう迷うことはなかった。ゆっくりと口を開いて、言葉にする。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
わたしの返答を聞いて、白瀬くんの顔がぱっと明るくなった。
「真海先輩。だいすき」
白瀬くんは今まで見た中でいちばんうれしそうな表情で言う。胸の奥がきゅっとして、幸福感が溢れ出してわたしも笑顔になる。
「どうしよう。夢? 信じられない。夢じゃないですよね? これ」
さっきまで笑っていた白瀬くんは急に慌て出して、「夢じゃないよね」と自分の頬を抓る。夢じゃないから痛がってて、それがおもしろくて笑う。
「わたしも信じられない。夢みたいだね」
わたしも白瀬くんの真似をして膝に下ろした左手の甲を指で抓ってみたけどやっぱり痛い。夢じゃない。
「ずっと真海先輩の彼氏になりたかったから、ほんとに夢みたいで、どうしよう」
白瀬くんがそんなにもわたしのことを思ってくれていたなんて本当に気づかなかった。真っ直ぐに愛を与えてくれるのがうれしくて、わたしももっと白瀬くんを満たしたいと思った。
「真海先輩、すき。だいすき」
うれしそうにすきを繰り返す。それだけでわたしの胸はいっぱいになる。
ずっと愛する人にすきと言って欲しかった。
白瀬くんの後ろに見えない尻尾を振っているのが見えて、大型犬みたいで可愛かった。頭を撫でたくなって黒い髪に触れる。そのまま長い前髪を分けると、きれいな形の額と目が露わになって美形だなと思った。白瀬くんは上目遣いでわたしを見つめる。
「可愛いね、白瀬くん」
「可愛いはうれしくないです。かっこいいがいいです」
「そういうところも可愛いよ」
「真海先輩がいちばん可愛いです」
笑っちゃうくらい甘いやり取りをして、お互い微笑み合う。
「おれ、かなりすきアピールしてたんですけど気づいてなかったんですね」
「わたしを安心させてくれるためにやさしくしてるんだろうなって思ってた」
「真海先輩だから。とくべつ」
本当にずっとわたしだけ特別視してくれていたんだな。気づかなかったわたしは自分が思っているより鈍感なのかもしれない。
「先輩、隣行ってもいい?」
「うん、いいよ」
わたしは立ち上がって、隣で倒れている椅子を起こした。白瀬くんがわたしの横に来て立ち止まる。立ったまま、わたしと白瀬くんは見つめ合う。
「真海先輩」
「ん? なあに」
「抱きしめてもいいですか?」
「うん」
白瀬くんがわたしの身体をやさしく抱きしめる。白瀬くんの体温が伝わってきて、薄水色のシャツからはフローラル系のいいかおりがした。
顔を上げると数センチ先に白瀬くんの顔があって、心臓が鳴る。白瀬くんといるとどきどきしすぎてわたしの心臓が持たないかもしれない。
「キスしてもいいですか?」
白瀬くんの言葉にわたしは頷く。するときれいな顔が近づいてきて、わたしは白瀬くんに近づきたくて少し背伸びをして、それから目を閉じる。
やわらかい唇の感触がした。白瀬くんの唇の温度を感じる。
「初めてキスしました」
満たされるような安心感で胸がいっぱいになる。キスにこんなにも幸福感があるなんて知らなかった。
わたしも初めてだと言えたらどんなによかっただろう。年相応のことをせずに知らなくていいことばかり覚えてしまった。
でもそんなわたしを白瀬くんは受け入れてくれたんだ。時間は戻せないからこのままのわたしで白瀬くんを愛すしかない。
「すごくどきどきした」
もうずっとどきどきしていて頭がくらくらする。体に力が入らなくて白瀬くんに寄りかかる。白瀬くんの大きな手がそんなわたしの頭をやさしく撫ぜた。
キスの感覚がまだ唇に残って消えない。
「もっと早く先輩に近づけば良かった。声すらかけられなかったんだけど」
「白瀬くんに話しかけて欲しかったな」
「名前」
「え?」
「名前で呼んで」
「え? んー。みちるくん」
呼ぶと、少し照れたように笑う。
「みちるくん」
名前を繰り返す。みちるくん。愛おしくて、うつくしい名前。
「わたしも名前で呼んでよ。まみって」
「真海先輩」
「先輩外してほしいの。あと敬語も」
「だめです。心臓がもたないのでまだだめ」
見ると白瀬くんは耳まで赤くなっていて、それもまた可愛かった。
「恋人の距離だ」
隣に座ったみちるくんが微笑んでそう言った。白い頬は赤らんでいる。
はるとは恋人以上のことをしてきたのに、こういうほんとうの恋人のやりとりは初めてだからどうしていいかわからない。
「どきどきして本、読めないかも」
「おれもです」
すぐ隣に、簡単に触れることのできる距離にみちるくんがいる。それだけで胸の高鳴りが止まなくて、こんなのは初めてだった。
はるのことをすきになったとき、今みたいにどきどきしていたんだっけ。
胸が熱く疼くような恋は知らなかったと思うけど、それも忘れてしまったんだろうか。
「真海先輩。いつになるか分からないけど普通の日常に戻ったら、デートいっぱいしたいです」
「いいね、デート。行こう」
普通の日常にはいつ戻れるんだろう。案外すぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。
「みちるくんはどこに行きたい?」
「そうですね。映画とか遊園地とか。あと水族館とか」
どれもみちるくんとだったら楽しそうでわくわくした。これからどうなるかわからないし、きっと悲しいこともあるんだろうけど、白瀬くんとのデートがその先にあると思えば、がんばれそうな気がした。
「デートしたことないからどこ行けばいいのかわかんないですね。先輩は行きたいところありますか?」
「んー。美術館とか? あとはカフェとか?」
わたしもデートなんてしたことがないから高校生カップルがどういうところに行くのか全く想像がつかない。
友達のゆうちゃんは夏休みに彼氏とプールに行くなんて言ってたっけ。白瀬くんはかなづちって言っていたけどプールもいいかもしれない。
ゆうちゃんもきほちゃんもめぐちゃんも今頃どうしているだろう。わたしに彼氏ができたって言ったらきっとびっくりするんだろうな、と揺れがあったあの日、最後に話した友達の顔を思い浮かべる。
友達三人の顔ははっきりと頭に浮かんで、教室での会話もしっかりと思い返せるのに、はるのことはやっぱり曖昧になっていて不思議な感覚だった。
「真海先輩と美術館行ったら楽しそう。カフェも行きたいな」
「いっぱいいろんなとこ行こうね」
そのときにはお洒落して、ちゃんとお化粧もして白瀬くんと一緒に歩きたい。
「どうしよう、おれすごくしあわせ」
「わたしもしあわせだよ」
こんなにもしあわせだと思えた日があっただろうか。この前買った可愛いワンピースはまだ生きてるのかな。
「真海先輩のこと離さないよ。青野先輩のことも忘れさせてあげる」
みちるくんがわたしにキスをする。
熱が迸り、全身が溶けてしまいそうだった。
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