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雨粒が保健室の窓を叩く音がした。心なしか重い身体を起こすと白瀬くんと目が合う。わたしより先に目覚めたみたいで椅子に座ってわたしに笑いかける。薄い皮膚に浮かぶえくぼがきれいで、胸が鳴る。
「おはよう、真海先輩」
「おはよう、白瀬くん」
今日もまた二人で生きる一日が始まる。
白瀬くんと二人、世界に取り残されたような二日間を過ごしたけれど、隣にいるのが白瀬くんだから安心できた。
家族のことや友達のこと、これからのこととかを考えると不安ではあるけれど、考えても仕方ないことは考えないようにしている。
スマホを見ると今日も圏外のままじわじわと充電だけが減っていて五十パーセントを切りそうだった。電源をオフにしてスカートのポケットにしまう。
「今日は雨ですね」
わたしは立ち上がって窓際に立った。開けっ放しだった保健室の窓は白瀬くんが閉めてくれていたようで、室内は濡れずに済んでいる。
窓から見える空は厚い灰色の雲で覆われていて、わずかな隙間からあの青白いひかりが差し込んでいた。
ひかりの柱は数が減っているけれど、曇りだから見えないだけかもしれない。音を立てて透明な雨粒が窓に張り付く。思っていたより強い雨だった。プール、もう入れないかな。
ふと数メートル先にバケツが五つ並べて置いてあることに気づいた。白瀬くんが雨水を集めるために並べてくれたのだろうか。
「白瀬くん、バケツ置いてくれたの?」
「あ、はい。空のバケツがあったから」
一昨日から白瀬くんは水を貯めてくれたり、食料を集めてくれたりしてとても助かっている、のにわたしは何もできてない。したことといえば、白瀬くんの手を引っ張ってプールに落としたくらいだ。わたしの方が先輩なのに情けない。
「ありがとう」
「全然。置いただけなんで」
白瀬くんがやわらかく微笑む。やさしくきれいな笑顔をわたしだけに向けてくれている。
それをうれしいと思う時点でもう白瀬くんしか見えていないのに、わたしから好きとは言えないから苦しくなる。
二日前にはるがすきだと言ったくせに、今は白瀬くんがすきだなんて、最低だし、身体だけじゃなくて心まで汚れていると自覚する。
こんなわたしがすきだと言葉にした時点で嘘くさいし、引かれるに違いない。自分は軽い人間ではないと思っていたけれど、そうじゃなかったみたいだ。本当に呪いだったらよかった。
「雨だから、外には出ない方がいいと思います」
学校でサバイバル生活をしているみたいだ。とはいえ、水も食料も寝る場所もあるこの状況をサバイバルなんて言ってしまったら誰かに怒られるかもしれない。
「救助の人とか、誰も来ないね」
しばらく白瀬くん以外の人を見ていないし、白瀬くんとしか会話をしていない。それが全く苦じゃなかったし、楽しかったからあまり意識していなかったけれど、わたしたち以外の人はどうしているだろうか。ちゃんと、生きているだろうか。
昨日のプールサイドでの揺れを最後に、今は収まっているけれどまたいつ大きな揺れが来てもおかしくない。
結局、あの揺れはなんだったんだろう。
地震にしては大きすぎるし、ミサイルが落とされたのだろうか。ミサイルの威力なんて想像したことがないからわからないけど、わからないからこそありえない話ではないのかもしれない。
でも空から放射状に降るあのひかりは、なんとなくミサイルとか地震とかそういうものじゃないように感じた。
白瀬くんの向かいの椅子に座る。
「わたしたち二人以外死んでたらどうしよう」
問いかけてから自分でも考えてみる。
もうみんな死んでいて、世界にわたしたち二人だけだったら。
うまく想像できないけれど、きっと死ぬほど悲しくて、不安で、それでも白瀬くんが隣に居てくれたら、わたしは安心して眠れそうな気がする。
「大丈夫ですよ。みんな生きてます」
ミサイルか地震か何なのかわからないけど日本全体がこの町みたいになっているわけはないだろうし、全員が死んでわたしたちだけ生き残っているなんて確かにありえない話だ。
「それか、わたしと白瀬くんが死んでたらどうしよう。これ死後の世界だったりして」
「うーん。そうですね。死後の世界に雨が降ってたらやだな」
確かに、これが死後の世界だったとしたら現実的すぎる。汗はかくし、お腹は減るし、トイレだって行きたくなる。こんなのが死後の世界なわけがなかった。
さっきからわたしの問いかけは浅はかすぎるなと少し反省する。
「髪伸びたらどうしよう」
白瀬くんの前髪はすでに目にかかるくらい長いから、このままここに居ることになればあっという間に前髪が目を隠してしまうだろう。
昨日プールに入ったとき、前髪を分けるのが似合っていたから伸びてもしばらくは大丈夫だろうけど。
「わたしが切ってあげるよ」
「切ったことあるんですか?」
「ないけど、美術部だから」
「ちょっと怖いなあ」
そう言う白瀬くんが可愛くて思わず笑ってしまう。
「でもおれも昨日同じようなこと考えました。おれが生きてて真海先輩がまぼろしだったらどうしようって」
「そうだったらいやだね」
白瀬くんがまぼろしだったら。それが一番いやだな。
もしかして、ずっと隣に居てくれる白瀬くんはまぼろしだから、はると関係を持ったわたしを拒絶しなかったのかな。なんて、考えて怖くなる。
「先輩、どうしたの?」
わたしの表情が曇ったことに気づいたのか、白瀬くんが問う。
「白瀬くんがまぼろしだったらって想像したら、すごくやだなって思ったの」
目の前でわたしに笑いかける白瀬くんがまぼろしだったとしたら、わたしはきっと耐えられない。
白瀬くん以外の人がみんないなくなるより、白瀬くん一人がいなくなってしまう方が悲しいと思ってしまう。もうだめかもしれない。気づいたら白瀬くんに落ちていて、もう戻れないところまで来てしまったみたいだ。
「おれはまぼろしじゃないよ。ほら」
白瀬くんがわたしの手を取って自分の胸に当てた。温かい体温とどくどくと心臓が動いているのが手のひらを通じて伝わってくる。
「真海先輩温かかったし、おれも温かいでしょ」
そう言って微笑んだシャツの襟から昨日わたしがつけた痕が赤く黒く浮いているのが見えた。まぼろしじゃなくて、安堵する。
「だから安心してください」
頷いて顔を見るとにっこり笑う白瀬くんがいて、もっと触れたいと思ってしまった。白瀬くんのことをもっと知りたくて、触れたくて、できないから胸の奥が切なくなる。そのたびにまた、はるが遠ざかる。
はるに対してこんなに恋しく、切なくなったことは今までなかった気がする。
はるといるときはいつも不安で必死に縋り付くような気持ちだった。そしてそれをセックスで紛らわしていた。
「そうだ先輩。今日は図書室に行きませんか。アウトドアとか防災の本があると思うので一応読んでおきたくて」
「いいね。行こ」
「じゃあ、準備したら行きましょう。朝ごはん、これでもいいですか?」
そう言って白瀬くんは机の上に非常食として持ち出し袋に入っていたショートブレッドの箱を置いた。
昨日で購買のパンを食べ終わってしまったから、しばらくはこのショートブレッドで過ごさなくてはならない。
わたしは少食だから大丈夫だけど白瀬くんは男の子だし足りないんじゃないかと心配になる。ただでさえ細いのにこれ以上痩せたら大変だ。
全校生徒分のショートブレッドがあるから多く食べても問題ないだろうけど、さすがに飽きそうだ。少しだけどカップ麺があったのは救いだった。
「ありがとう。じゃあ先に顔洗うね」
小鳩高校タオルと歯ブラシセットを持ち、ドアを開けたままにして保健室を出る。
人のいない廊下には雨の音がざあざあと響いている。
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