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 目が覚めてしばらくしてから小さな揺れがあって、真海先輩と話し合って今日も校内で救助を待つことにした。

 水も食料も十分あるし、非常用持出袋の中には簡易トイレもある。先ほど真海先輩と校内を回って改めて必要なものを調達したし、数日は問題なく過ごせるだろう。非常用持出袋は生徒全員に配布されていて、みんな教室に置いているからおれのクラスにある非常用持出袋を数個拝借した。他にサッカー部の友達がロッカーにボディーシートと水のいらないシャンプーを置いていたことを思い出して、それも勝手に借りた。お風呂に入れないことを気にしていた真海先輩はドライシャンプーがあって少しほっとしている様子だった。

「これ、大切に使わないとね」

 ドライシャンプーの説明書きを見ながら真海先輩が言う。結構汗をかいたし、昨日シャワーを浴びていないのにも関わらず先輩の肩下まで伸びた髪はさらさらときれいだった。

 校内で見つけた台車に乗せた荷物を下ろして保健室の床に並べる。非常用持出袋、職員室にあるウォーターサーバー用の水ボトル、家庭科室にあったガスコンロ、空のウォータータンク。避難所に行くよりもここにいた方が物資が充実しているかもしれない。

 昨日バケツに溜めた水をウォータータンクに移しながら、校内を回っているときに見た半壊した三号館と土砂に潰された体育館を思い出す。

 半壊した三号館は瓦礫の山のようになっていて、土砂に呑まれた体育館は跡形もなく土砂に潰れてしまっていた。

 一年一組の教室に立ち寄ったとき、窓から見えた廃墟のようになった町は電車も車も動いてなくて全てが止まっていてそれが静止画みたいで、おれも真海先輩も言葉を失った。

 昨日まで存在していたのに一瞬で崩壊して、まるで違う世界に来てしまったみたいだ。

 おれと真海先輩だけが違う世界に来たのか、あるいは隣にいる真海先輩はおれが見ているまぼろしなのかもしれない。いや、まぼろしだったとしたら青野先輩の名前は出て来ないか。

 真海先輩と校内を回っている間に二度揺れたけれど昨日ほど大きくはなかった。揺れに少し慣れてきたのか恐怖心は昨日よりも薄れているけれど、それでもまだ真海先輩と離れるのを怖く感じてしまう。不意にいなくなってしまったらと思うと怖くてずっと視界にいて欲しくて、昨日からずっと離れず真海先輩の傍にいる。さすがにトイレのときだけは離れるけれど、それ以外はずっと隣にいるから、おれが真海先輩のストレスになっているかもしれない。好きでもない男が四六時中隣にいてストレスを感じないわけがない。おれが青野先輩だったらよかった。真海先輩を傷つけることなんて絶対しないのに。

「暑いね」

 首にかけた小鳩高校タオルで額の汗を拭きながら真海先輩が言う。その横顔がきれいで、好きだと思うたびに青野先輩の顔が浮かんで胸の奥が痛む。自分が真海先輩の好きな人じゃないという事実が頭を何度も過ぎる。

「真海先輩。ずっと横に知らない男がいるのストレスですよね」

「ん? 全然そんなことないよ。白瀬くんはもう知らない人じゃないし」

 おれの顔を見てやわらかく微笑む。そんな顔でそんなことを言われるとより好きになってしまう。単純でばかな自分が嫌になる。

「白瀬くんは大丈夫? わたしがずっと横にいるの」

「真海先輩が居てくれると安心します」

「白瀬くんはやさしいね」

「やさしくないですよ、おれ」

「やさしいよ」

 おれがやさしいんだとしたらそれは真海先輩がすきだからです。なんて、そんなこと言えるわけもなく笑顔を取り繕う。やさしいのは真海先輩に好きになって欲しいという下心があるからで、校舎に戻る人が真海先輩じゃなかったら気づかないふりをしてみんなと避難していたと思う。

 おれはほんとうはやさしくなんかない。

 真海先輩が自分を汚れているというのならおれはそれ以上に汚い。青野先輩のことを忘れるくらい、おれで上書きしてしまいと思ってしまう。

「こんなに暑いのに蝉鳴いてないの、ちょっと怖いね」

「そうですね。こんなに晴れてるのにどこ行ったんだろ」

 静かすぎる保健室にはおれと真海先輩の声だけが響いている。昨日までうるさく鳴いていた蝉たちは本当にどこへ消えてしまったんだろう。鮮やかな青い空に浮かぶ白く大きな雲も、じりじりと地面を焼くような日差しも夏なのに、蝉がいないだけで夏が終わったみたいな錯覚を覚える。

「本当だったら今日もテストだったのにね」

「テストないのはうれしいけど全然喜べないっすね」

「なんか、夢でも見てるみたいだよね。信じらんない」

 この災害が全部夢だったらいいけど、夢だったら真海先輩とこうして一緒に居られなかったから複雑だ。こんな状況なのに真海先輩と一緒にいられることにしあわせを感じてしまっている。

「ねえ白瀬くん」

「ん? 何ですか?」

 言いづらそうに、少しだけ間を開けて真海先輩が口を開く。

「プール入ってもいい? 汗かいちゃったから」

 プール? と真海先輩の言葉を繰り返す。

 真海先輩は昨日からお風呂に入りたがっていた。確かにプールならまだ水はきれいだろうし、外は暑いから水が冷たい方がちょうどいいかもしれない。けれど今は体育もないから水着を置いている生徒もいないだろう。言いにくそうにしていたということは一人で入りたいという意味なんだと察する。

 正直、長時間真海先輩が視界からいなくなるのは不安だ。もし先輩が一人でプールに入っているときに何かあったらと思うと怖くなる。でも真海先輩はプールに入りたいだろうし、おれにだめだと言う権利なんてない。けれど。

「全然いいんですけど。先輩が見えないの、まだ怖いです」

 先輩の裸が見たいなどという下心は一切なくて、ただただ怖いのが本心だった。先輩は困ったような表情を浮かべ、そうだよねと言う。

「ごめんなさい。おれ男なのに怖がってばっかりで」

 真海先輩は昨日から意外とずっと冷静で、おれだけが怖がるばかりで本当に情けない。そんなおれに先輩はやさしく笑いかけてくれる。

「ううん。まだ揺れもあるし、わたしも白瀬くんと離れるの不安だし怖いよ」

「真海先輩。ごめんなさい」

「じゃあさ、見ないように後ろ向いて喋りながら一人ずつ入ろ。声聞こえてたら安心でしょ」

 いいこと思いついた、とうれしそうに真海先輩が付け足す。よっぽどプールに入りたかったんだ。おれも身体を洗えるのはうれしいけど、裸の真海先輩が近くにいる状況に耐えられる気がしない。

 真海先輩はバケツを二つ重ねて持って、その中に小鳩高校のタオルを数枚と保健室にあったバスタオルを入れた。

「おれ持ちますよ」

 真海先輩が抱えたバケツを引き取ると先輩はありがとうと微笑む。やっぱり先輩は可愛い。顔が小さいからただでさえ大きい目がより大きく見えるのに、目力は強くなくてやわらかい印象を受ける。

「他にいるものあります? シャツとか」

 一応保健室にシャツは数枚あったけれど、下着などはなかった気がする。

「シャツとかは今着てるの洗お。すぐ乾くだろうし。あっ、そうだ洗剤とー」

 そう言いながら真海先輩は保健室にある洗濯機の横から洗濯用洗剤のボトルとハンガーを数本手に取る。どうやら先輩は下着もまとめて洗うつもりらしい。

「入れてください」

「ありがとう。じゃあ行こっか」

 バケツの中に洗剤を置いて、真海先輩が保健室の外に繋がっている方のドアを開ける。

 外に一歩踏み出しただけで、夏の強い日差しが皮膚をじりじりと焼く感覚がした。暑いと呟いた真海先輩が捲ったブラウスの袖を伸ばして長袖で腕を覆う。日焼け防止のためだろう。

 空を見上げると太陽の光が燦々と降り注いでいるのとは別のところで白い雲の隙間から放射状に伸びた青い光が伸びていて目が眩む。

 先輩を見ると長い黒髪が光を浴びてきらりと光り、風で揺れてきれいだった。

「日傘と扇風機持ってくるの忘れちゃった」

「戻りますか?」

「ううん。早く入りたいから、行こ」

 真海先輩はもうプールしか見えていないみたいだった。

 お風呂を欠かしたくないところとか、お風呂に入ってなくてもいいかおりがするところとか真海先輩は女の子って感じがする。

 昨日の夜、本人は汗くさいかもと心配していたけれど先輩は甘くていいかおりがした。真海先輩と同じベッドで眠ったんだ、ということを思い出してどきっとする。


「グラウンド割れてるね」

 真海先輩の視線の先にはグラウンドがあって、離れていても分かるくらいきれいに真っ二つに割れていた。

「地割れなんて初めて見ました」

「わたしもだよ。あんなきれいにぱかって割れるんだね」

 たまごを割るみたいなジェスチャーをしながら言うから思わず笑ってしまった。遠くからグラウンドを眺めながらプールへと向かう。

 プールの授業を選択していなかったから、小鳩高校のプールに来るのは初めてだった。中学と違って更衣室の他にシャワー室があることに驚く。

 ちょっと待ってて、と唐突に先輩が言い、女子更衣室のドアを開けて入っていった。シャワーは出ないだろうし、何かあるんだろうか。

 考えつつ更衣室のドアの横に立っていると先輩はすぐに出てきた。手には何かを抱えている。

「じゃん! どう?」

 そう言って真海先輩はボトルを三本とチューブを一本、それと無地のポーチをおれに見せつけた。

 チューブには洗顔料と書いてあって、透明のボトルにはそれぞれ似たようなデザインおしゃれなラベルが貼ってある。

「これがシャンプーで、コンディショナーで、ボディソープ。こっちは洗顔料。でこの中には化粧水とか入ってるの」

「どうしたんですか、これ」

「クラスの水泳部の子が部活の後にシャワー室で洗って帰ってるって言ってたの思い出したの」

「あー。確かにその方が楽かもですね」

「髪洗えるのうれしいね」

 上機嫌でボトルを抱えてコンクリートの階段を登る先輩の後ろを歩く。

 日差しがコンクリートをじりじりと灼いて下を向いていても眩しい。

「ここに来るだけで汗かいちゃったね」

「暑すぎますね」

「白瀬くん溶けそう。バニラアイスみたい」

 おれの顔を見て真海先輩が笑った。おれの肌が白いからバニラアイスに例えたんだろうけど、それも可愛くてまた笑えてしまう。アイス食べたいな、と思ったけど食べられるわけがないからすぐ忘れることにした。

 階段を上がった先にあるプールは中学校のプールとほぼ同じだった。プールサイドのごつごつとしたコンクリートの質感に懐かしさを覚える。プールの水面は日差しを反射してきらきらと白くひかり真海先輩の油絵を彷彿とさせた。

「水もまだ汚れてなさそうだね」

 先輩が手のひらに水を掬いながら言う。浄化装置は止まっているだろうけどまだ一日しか経っていないし、雨も降っていないからそこまで汚れることはないだろう。ただこれがいつまで持つかはわからない。明日には入れないかもしれないな、と水に手を浸す真海先輩を見ながら思う。

「白瀬くん先入る?」

「先に入ってください。おれここで校舎の方見とくんで」

「わかった。ありがとう」

 おれは日除けの下に入り、体操座りをして膝を抱える。

 プールからでは三号館も体育館も見えないからいつもの学校と変わりなく見えてしまう。けれど、視線を少しずらすと遠くに真っ二つに割れたグラウンドが見えて、やっぱり現実なんだと思い知る。

「そうだ。白瀬くん、一緒に入ろうよ」

「え?」

 おれの傍に来た真海先輩がポケットの中からスマホとハンカチを出してコンクリートの上に置いて立ち上がった。それから思い出したように首元のリボンを外す。

「白瀬くんも濡れちゃいけないもの出して。靴と靴下、脱いで。あと腕時計も」

 言われるがままポケットの中のスマホとハンカチを取り出して腕時計を外す。先輩のスマホの横に置いて、座ったまま靴と靴下を脱ぐ。先輩と同じようにネクタイも外した。

 真海先輩の方を見ると、先輩の白く細い足が目の前にあった。

「行くよ」

「え? 先輩? えっ?」

 先輩がおれの手を握って引っ張る。

 おれが立ち上がるとそのまま手を引いてプールの方へと走り出し水面に向かってジャンプして飛び込む。

 先輩に手を引っ張られたままのおれはプールに落ちて、大きな水しぶきが二つあがった。ひんやりとした水に全身が包まれる。

「きもちいーね」

 おれの手を握ったまま、真海先輩が笑う。黒い髪が水に濡れてきらきらと見えた。

「一緒に入った方が早いもんね。服も洗っちゃえばいいし」

「びっくりしました」

 おれの顔を見て真海先輩が楽しそうに笑う。真海先輩が笑うのが可愛くて釣られておれも笑ってしまう。愛おしいと思う。真海先輩はずるい。そして、青野先輩もずるい。

「準備体操しないで飛び込んじゃった。心臓止まってない?」

「止まるかと思いました」

 いろんな意味で心臓が止まるところだった。実際に話してみるまで知らなかったけど、真海先輩はたまに大胆なときがある。そういうところにも惹かれてしまうおれは真海先輩がすきすぎてなんでも受け入れてしまう脳になっているのかもしれない。

「シャツとかも洗いたかったし。丁度よかった」

 おれの手を離すと、両手を上にあげて伸びをした。薄い水色のワイシャツが体に張り付いてピンク色の生地が透けて見える。それが下着だとすぐに分かって咄嗟に目を逸らす。

「ごめんね、強引に引っ張っちゃって」

「全然です。おれがわがまま言っちゃったんで」

「わがまま言ったのはわたしだよ。だから白瀬くんももっとわがまま言っていいよ」

 一緒のベッドで寝たいとか、腕を握りたいとか、かなりわがままを言ってきた自覚があるけれど真海先輩は覚えていないのだろうか。

「白瀬くん、見て」

 そう言ってから背泳ぎで数メートル泳いだあと先輩がおれの顔をみて楽しそうに笑った。白い歯を見せて笑う先輩が眩しくて、つい顔が綻ぶ。真海先輩の背泳ぎはフォームがとてもきれいで、運動をしているイメージがなかったから意外だった。

「泳ぐの、得意なんですか?」

「中学まで水泳部だったの」

 今は美術部だし、どちらかというと吹奏楽部とか文化部のイメージが強いから、水泳部は意外だった。

「だから背泳ぎきれいなんですね」

「そんなことないよ。試合とか全然なくてただゆるく泳ぐだけの部活だったから。何なら泳いでないときの方が多かったし」

 水泳経験者にはとても見えない華奢な肩なのはそういうことか。純粋に自分のペースの泳ぐのが好きなのかもしれない。

「水の絵を描いてたのも、水泳部だったからですか?」

「うん。水はよく見てたし、プール好きだったから」

 だから水の表現力が高かったのかと納得しながら、写真のような透明な水面を思い返す。

「白瀬くん!」

 不意に名前を呼ばれて真海先輩の方を見ると、ばしゃっと音がして冷たい水が顔に掛かり目を閉じる。

 顔に掛かった水を手のひらで拭って目を開くといたずらに笑う先輩が居た。

「真海先輩。冷たいです。もー」

 真似をして水を掛けると、先輩は笑いながらやり返してきた。水飛沫がきらきらと光って、その向こうに見える真海先輩が眩しく見える。二人して水を掛け合ってはしゃぐ。

「あはは、日焼けしちゃうね。夜にすればよかったかな」

「服乾かないですよ」

「確かにそうだね」

 おれが水を掛けたから、いつも下ろしている先輩の前髪が濡れてきれいな丸い額が露わになる。

「白瀬くんは前髪下ろしてるのも似合うけど、おでこ出してるのも似合うね」

 お互い似たようなことを考えていたらしい。先輩が目の前に来ておれの顔をまじまじと見つめるのに耐えられなくて少しだけ顔を逸らす。

「真海先輩もおでこ出してるの似合いますよ」

「お互いおでこ褒めあって、おもしろいね」

 無邪気に笑う顔が愛おしくて触れたくなるのを必死に抑える。

「じゃあそろそろ身体洗ってくるね。わたし先でもいい?」

「はい。おれあっち見てます」

 真海先輩がプールから上がる。

 プールの壁にもたれて先輩がいない方を向くと、広い空から広がるように落ちている青い光が強く輝いているのが見える。

 遠くてわからないけれど、あのひかりが差す先には何があるんだろう。どこから出ていて、何を照らしているんだろう。

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