3
保健室のドアを開く音が空っぽの廊下に大きく響いた。
一歩踏み出すと暗闇に飲まれた廊下が伸びていて、白瀬くんが持つ懐中電灯のひかりがグリーンのリノリウムを照らす。
懐中電灯はあと数本あったけど、まだ使う機会があるだろうし、電池の消費を考えて一本だけ使うことにした。電池が切れたときのために持ってきた小さい懐中電灯が白瀬くんのスラックスのポケットから覗いている。
廊下は窓が開いたままで、夏の夜の風が弱く吹き込んできて保健室よりも涼しい。ふと水道を見ると蛇口の下に水を張ったバケツがいくつも置いてあった。
「白瀬くん、ごめんね。こんな中一人でいろいろさせちゃって。水もありがとう」
「水川先輩は謝らないでください。おれが好きでやってるんで」
元はと言えばわたしが巻き込んでしまったのに。白瀬くんがあまりにやさしい。やさしすぎる。
ごめんね、と出かかった言葉を飲み込む。
「わたしたち以外に校舎に残ってる人いるかもしれないね」
「怖いこと言わないでください。急に人が出てきたら心臓止まります」
自分で言ったものの、確かに急に人が出てきたら怖い。そうだね、と言いかけたとき、どんっと遠くで音が響いた。
「うわっ!」
音と同時に白瀬くんが飛び上がり、肩がぶつかった。そのまま白瀬くんの手がわたしの腕を掴んですぐに離す。
「あっ! ごめんなさい!」
白瀬くんが謝ったのと同時に校舎が揺れ始める。昼の揺れよりは小さいけれど、三号館の方からコンクリートが崩れるような音が聞こえる。白瀬くんの顔を見ると目が潤んでいるように見えた。
「白瀬くん、いいよ。怖かったら掴んでて」
「すみません」
そう言って白瀬くんは大きく骨張った手でわたしの腕を握った。わずかに震えているのが伝わってくる。
わたしが眠っている間も揺れがあったと言っていたから、白瀬くんは一人で相当怖い思いをしたんだろう。
「水川先輩は怖くないんですか?」
「怖いけど、大丈夫なの」
正直わたしが怖がるより先に白瀬くんが怖がってくれるから、冷静でいることができた。怖くないと言えば嘘になるけれど、平然を装うことはできた。
「うわー。ぐちゃぐちゃですね」
職員室は物が多いせいか保健室よりも散乱と荒れていた。大きなラックが倒れ、中身のファイルが全て飛び出している。白瀬くんが照らした床には缶コーヒーが転がっていて、溢れた中身がテスト用紙に染みていた。せっかくテスト勉強したのに、意味なかったな。
「先輩、ありがとうございました。大分落ち着きました」
白瀬くんがわたしの腕を離す。先ほどまで伝わっていた白瀬くんの体温がじわりと薄ていくのを感じる。
「よかった。じゃあ、わたし鍵見てくるね」
「先輩これ、使ってください。おれ、電話繋がるか調べてきます」
白瀬くんから小さい懐中電灯を受け取って、ホワイトボードの方へ向かう。懐中電灯で照らした床は一面に紙が広がっていて、踏まないように気をつけるけれど歩くたびに紙を踏む感触がした。
確かホワイトボードの横に鍵をかけておくスペースがあったはずだ。ライトを照らしてみるとキーホルダーのついた鍵たちが板に掛けられている。その中から備蓄倉庫と書かれた鍵を取ってポケットにしまった。
「白瀬くん、備蓄倉庫の鍵あったよ」
「ありがとうございます。テレビも電話もだめでした」
残念そうな表情を浮かべる白瀬くんの方へ歩み寄ると、机の上の受話器をあげてわたしの耳に当てた。固い受話器の向こうは無音。ボタンを押しても反応せず、液晶画面も暗いままだった。
「全然繋がらないね」
「早く電気が復旧してくれればいいんですけど」
白瀬くんが受話器をていねいに置く。
「他に職員室で使えそうなものって何かあるかな?」
「……ライターとか?」
「確かに、あった方がいいかも」
校門の外で煙草を吸っている山科先生を思い出してデスクに近づく。懐中電灯で照らすと机の上にライターが二つ乱雑に置いてあった。
「ライターあったよ」
早、と驚きながらわたしの横に立った白瀬くんにライターを見せてポケットにしまう。すると白瀬くんが何かを見つけたようで山科先生のデスクに手を伸ばした。
「先輩、これ車の鍵ですよね。一応借りましょう」
運転はできないにしろ、車が使えればクーラーやラジオが使える。頷くと白瀬くんはきれいな笑みを浮かべて山科先生の車の鍵をポケットにしまった。
「あ、先輩。あれ」
白瀬くんが大きい段ボールを懐中電灯で照らす。二人で近づいてみると小鳩高校と書かれたタオルが段ボールいっぱいに入っていた。
「これ使えますよ。おれが持つから、先輩照らしてもらっていいですか?」
白瀬くんから懐中電灯を受け取って、自分で使っていた小さい懐中電灯を消し、鍵とライターとスマホでもういっぱいのポケットに押し込む。
「一旦廊下に置いて保健室戻るときに持っていきますね」
白瀬くんは重そうな段ボールを軽々と抱えて職員室を出た。白瀬くんは細いけど思ったより力持ちのようだ。女の子みたいに華奢なはると比べると骨格がしっかりしていて男の子らしいなと思う。
「じゃあ上行きましょうか」
段ボールを廊下に置いて、今度は白瀬くんが懐中電灯を持つ。
「うん。白瀬くんの教室から行こっか。何組だっけ」
「一組です」
階段を登りながら、わたしは揺れが起こるまでの日常をぼんやりと思い出していた。
いつも通り友達と話して、テストを受けて、放課後にみんなでだらだらテスト対策をして。それが一瞬で崩れるなんて思ってもいなかった。さっき見た床に散らばった意味をなくしたテスト用紙が頭に浮かぶ。
今朝まで普通に登っていた階段が暗いだけで全く違うものに見えて急に怖くなる。
わたしたち、これからどうなるんだろう。そんな不安がちらついて、先のことを考えようとしてしまうのを今は振り切る。
一年の教室は一号館の三階にあり、二階にある二年の教室より眺望が良い。はずなのに窓の外の町は相変わらず真っ暗で、あのひかり以外は何も見えない。
窓に手を当てるとひんやりして気持ちが良かった。がさがさと音がして振り返ると白瀬くんがスクールバッグに荷物を詰めている。
もし白瀬くんがいなくて、一人で残っていたとしたらわたしはどうしてたんだろう。こんな夜の校内を一人で歩き回ることなんてできないし、そもそも白瀬くんがいなければ教室で死んでいた可能性だってある。一人だったら死んでもいいくらいの気持ちでいたけれど、今は白瀬くんを一人残すことなんて出来ないし、結果白瀬くんが来てくれて生きることができてよかった。
白瀬くんといると、理由はわからないけど安心する。
「終わりました」
白瀬くんはスクールバッグを肩にかけ、背中には学校から配布された非常用持出袋を背負っている。持出袋は学校から生徒一人ずつに配られていて、中には食料や水の他に簡易トイレや軍手、絆創膏が入っていたはずだ。まともに開けて見たことなんてなかったし、使うこともないと思っていた。まさか、こんなことになるなんて。
「ねえ白瀬くん。下の名前なんて言うの?」
ふと白瀬くんの下の名前を聞いていないことを思い出して問う。
「みちるです」
「じゃあ、チルチルだね」
頭に浮かんだフレーズをそのまま口にすると、白瀬くんは振り返って不思議そうな顔でわたしを見た。
「なんですか? それ」
「あれ、なんだったっけ」
口に出しておきながら、何のフレーズだったか思い出せずに誤魔化すと白瀬くんは少し笑ってくれた。
「チルチルは言われたことないなー」
白瀬くんは落ちて割れた白いチョークを拾い上げ、黒板にあまりきれいとは言えない男の子らしい字で白瀬未散と書いた。
「しらせみちるです」
「きれいな名前だね」
そんなことないですよ、と言った白瀬くんは照れているのかわたしの目を見ないまま、自分の名前の下に水川真海とわたしの名前を書く。
「先輩の名前も知ってます。みずかわまみ先輩」
どこでわたしの名前を知ったんだろう。「どうして?」と問うと白瀬くんは小さく微笑む。
「美術室の絵の下に名前書いてあったから」
美術室にはわたしの油絵とデッサンが二枚壁に貼ってある。
水面を描いた油絵を顧問の
「そうだったんだね。どうして知ってるのかなって思ってたの」
「水川先輩も、すごくきれいな名前です」
言われてみると結構恥ずかしくて、そんなことないですよ、と咄嗟に白瀬くんの真似をした。きれいな目を細めてまた微笑んだ白瀬くんはやっぱり儚く見える。
「わたしのことはまみでいいからね。あと敬語もなくていいよ。気にしないから」
「じゃあ、真海先輩って呼んでいいですか。敬語は、徐々に外します」
水川先輩と呼ぶのも敬語も面倒だろうと思っていたので提案したものの、敬語の方はしばらく外れないだろうなとなんとなく思った。
「じゃあ、先輩の教室行きましょうか」
階段を降りる足音が反響する。
誰もいない校舎がこんなに静かなことを知らなかったし、知らずにいることができたら幸せだったろうな、としょうがないことが頭に浮かぶ。
「昼よりひどいね」
二年二組の教室は昼に見た時よりも荒れているような気がした。わたしと白瀬くんが起こした机と椅子が横たわっている。
自分の机を起こし、落ちていたスクールバッグを机の上に置いて、バッグの中に入っていた教科書を机の中にしまう。
お菓子とポーチと携帯扇風機、折り畳み傘、歯ブラシセット、日焼け止め。使えそうなものをバッグに入れてもまだ空きがあるので、スカートのポケットにしまった小さい懐中電灯と、さっき職員室で見つけたライターと備蓄倉庫の鍵を入れた。ロッカーに置いてある非常用持出袋を白瀬くんと同じように背負う。
白瀬くんは一年一組の教室でわたしがしていたのと同じように窓際に立って外のひかりを見ていた。
「揺れが来る前、先輩は教室に居たんですか?」
窓から離れた白瀬くんが今度はわたしを見て言う。
「ううん。友達と教室に居たんだけど、美術室に忘れ物取りに行ったの。そのときに」
本当にタイミングが悪かったなと思う。
もしもあのとき、教室にみんなと居たとしてわたしははると逃げていたんだろうか。
結局、校舎に戻る気がするし、校舎に戻る選択をしてよかったと今は思う。
「白瀬くんは?」
「おれも教室でテスト勉強してたんですけど、息抜きに体育館の前で友達とバスケして遊んでました。そしたら揺れが来て、放送のあと急いで校庭に行ったんです」
「そうだったんだ。土砂に巻き込まれなくてよかった」
「先輩は校庭にいなかったですよね?」
「あ、うん。美術室から校庭まで歩いてたから、後ろの方にいたんだよね。校庭に着く途中で揺れが来て座ってたらみんなが校庭に走り出して行っちゃって」
「そうだったんですね。……おれ、先輩のこと探してたんです。今日午前までだったけど、もしかしたら水川先輩がいるかもって」
おれ、先輩のこと探してたんで、と気を失う前、二年二組の教室で白瀬くんが言っていた言葉を思い出す。
そうだ、わたしは白瀬くんにその言葉を聞こうとして、そのあとすぐに気を失ってしまったんだった。
「わたしを?」
「ごめんなさい、気持ち悪いですよね」
「気持ち悪くないよ。でもどうしてかわからなくて」
どうして話したこともないわたしを白瀬くんが探していたのか、全く心当たりがない。白瀬くんはまっすぐわたしの目を見つめて、ゆっくりと口を開く。
「水川先輩の絵、ずっと好きだったんです」
「美術室の?」
「はい、あの水面の。絵詳しくないんですけど、あんなにきれいな絵を近くで見たの初めてだったから」
美術部で初めて描いた水面の絵。まさか白瀬くんがそこまでわたしの絵を気に入ってくれていたとは思わなかった。
油絵なんて一度描いたきりだし、そこまで上手ではないけれど、自分でも気に入っている作品だからうれしくなる。
「ありがとう」
「ずっと話したいと思ってたんです。だから、探してて」
「そうだったんだ」
「油絵はもう描かないんですか?」
栂屋先生に薦められて油絵を描いてみたものの、水面以外に描きたいもの、というか描けるものが見つからなかった。
中学生のとき水泳部で水には見慣れていたから、あの絵を描いているときは悩むことなく筆が動いたし、水の透明感やひかりを表現するのが楽しかった。
あの絵を描いてから他のモチーフで何度か油絵を描こうとしたけれど、どれも筆が止まって最後まで描けなかった。
「描きたいんだけど、描きたいものがなくて。初心者だし構図の練習でデッサンしてるの」
構図が納得いかなくてどうしようか頭で考えているとはるが邪魔をして、不安な気持ちになり、筆が止まる。
画面の構成に慣れるために、というのは建前で、準備も気持ちも楽なデッサンに逃げた。油絵からは随分遠ざかってしまっている。
「デッサンは鉛筆の黒だけで目の前にあるものを描くだけでいいし」
美術部に入部したのは美術の授業でデッサンをしたときに手軽に集中できるし、デッサンをしている間ははるのことを考えなくて済むと思いついたからだった。自分でもあまりよくない動機だと思う。あくまで現実逃避の手段でしかないから、別に油絵が描けなくても問題はないのだけれど、水面を描いたときは確かに楽しかったし、先生に褒められてうれしかった。白瀬くんの目に止まったこともとてもうれしい。
白瀬くんの言葉で久しぶり油絵を描くやる気が湧いたけれど、この状況じゃ二学期を迎えられるとは思えない。やっとモチベーションか上がりそうなのに。次にわたしが油絵を描くのはいつになるんだろう。
「そうだったんですね。おれ、先輩の絵好きなんでまた別の油絵も見たいです。デッサンもすごくて好きですけど」
「ありがとう。すごくうれしい。あっ、白瀬くんは何部なの? バスケ部?」
「いや、帰宅部です。バスケは中学まで」
意外だった。放課後にバスケするくらいだし、白瀬くんは身長が高いからてっきりバスケ部だと思った。百六十七センチのはるより十センチくらい高く見える。もしかすると百八十センチくらいはあるかもしれない。
「そうなんだ」
「家に帰っても特に何かするわけじゃないし、そのうち何か入ろうと思ってたんですけどね。気づいたら七月になってました」
「あっという間だったね」
「バスケ部から勧誘はされてて、入ってもいいんですけど、別のこともやってみたいしなーって感じでずるずる」
「やりたいこと、見つかるといいね」
「そもそも球技とかスポーツとかあんまり得意じゃないし」
白瀬くんはそう言って眉を下げて笑った。スポーツが苦手なのは意外で、そういうギャップを見せられると年下って感じがして思わず可愛いと思ってしまう。よくない。
「涼しいですね、夜は」
廊下に出ると、全開の窓から流れ込む夜の風がさっきよりも少し冷たくて気持ちいい。
昔観た映画みたいだな、と思った。映画のタイトルも忘れてしまったけど。
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