2
目を覚ますと闇が広がっていた。どこを見ても真っ暗で何も見えない。暑く澱んだ空気がわたしの身体にまとわりつく。何が、あったんだっけ。
背骨のあたりにわずかな痛みを感じ、目を擦りながら起き上がる。身体の上に被せられた硬い布団を捲り、しばらくそのままでいると暗順応で徐々に部屋の輪郭が浮かんできて、闇だと思ったところが学校の保健室だということに気づく。
わたし、どうしてここにいるんだっけ。とても大きな揺れが来て、みんな逃げて、わたしは校舎に残って、それで。頭の処理が追いついていない。
スカートのポケットに手を入れるとスマホの感覚がして安堵する。画面をつけると圏外で、時間は二十一時過ぎを差していた。
「みずかわせんぱあい」
泣きそうに震えた声がした方を見ると、背の高い男子生徒が立っていた。長めの前髪から覗く幅の広い目がわたしを見つめる。うつくしさに一瞬気を取られるところだった。
白瀬くん、と咄嗟に名前を思い出して声に出すと、また泣きそうな顔をして「せんぱあい」と繰り返した。
「よかった。目覚ましてくれた」
わたしがいるベッドの横に来て、ばさっと硬い布団に顔を埋めた白瀬くんはもう一度「よかったあ」と言った。
白瀬くんはうつくしくて、消えてしまうんじゃないかと思わせる儚さを醸し出しているけれど、実際話してみると大型犬みたいな愛らしさがある。はるとは対照的だ。白瀬くんを見ながら、猫みたいなはるのことを思い出して、ちくんと胸に針が刺さったような痛みが走った。
「わたし、どうして保健室にいるんだろ。ごめん、ちょっと記憶が曖昧で」
みんなと離れて二年二組の教室に戻ったあと白瀬くんが来て、それからの記憶がぷつっと途切れている。
「教室で強い揺れが来て先輩が机から落ちて、咄嗟にこう、抱えたので頭とかは打ってないと思うんですけど、先輩、気失って。そのあとおれも気失っちゃって」
抱えるようなジェスチャーをする白瀬くんを見ながら、最後に教室で見たのはわたしの名前を呼んで机の下から飛び出してくる白瀬くんだったことを思い出す。
あのとき、校舎が大きく揺れて机から落ちたわたしが頭を打たないように抱えてくれたのか。白瀬くんがいなければあそこで死んでもおかしくなかった。最初に白瀬くんが言ったように机の下に隠れていれば余計な迷惑をかけなくて済んだのに机の上に座ったりして、また悪いことをしてしまった。
「おれは三時間くらい前に目覚まして、先輩を保健室に運んだんです」
男子とはいえ細い白瀬くんがわたしをここまで運んでくれたなんて、大変だっただろう。
「ごめんなさい。重かったよね」
「全然、全く。それより先輩が目覚ましてくれてよかったです。身体は大丈夫ですか?」
「ありがとう。全然、大丈夫」
「あの、ごめんなさい。運ぶとき触っちゃって」
触られたことなんて気にしていないのに。教室でわたしが手を振り払ったことを気にしての配慮だったとしたら、申し訳ないことをしてしまった。
「全然、気にしないで。わたしが悪いから」
身体を起こす。背中にわずかな痛みが残っているけれど白瀬くんがベッドまで運んでくれたおかげか残るような重い痛みではなかった。
保健室の中を見渡すと、暗くて完全には見えないが棚の中から飛び出したファイルやガーゼや絆創膏が床に散乱しているくらいで思っていたよりひどくはないようだ。
「先輩、外見てください」
一番大きな窓のカーテンを開けながら白瀬くんが言った。窓は開けていたみたいで、近づくと夜の風が保健室に流れて少しだけ涼しかった。
「怖くてカーテン閉めてたんですけど」
不安そうな声に恐る恐る窓の向こうを見ると、ブルーブラックの絵の具でそのまま塗りつぶしたみたいに月も星もない黒い空から青白いひかりが放射状に差している。
一本だけ柱のように差していたはずのひかりが、二十本ほどに増えており放射状に広がっている。昼に見た時よりも薄明光線に近い。
「ひかり、増えてる」
「すごく不気味ですよね」
怯えた声で言う白瀬くんの顔を青白いひかりが照らす。
普段の日常ならあのひかりをきれいと言えたかもしれないけれど、揺れと関係があるかもしれないと思うと不気味で悍ましいひかりにしか見えなかった。
「あの揺れと関係あるよね、きっと」
「あれ、地震とは思えないですよね。隕石とか、ミサイルとかの可能性もありますよね」
地震、隕石、ミサイル。普段使わない言葉に違和感を覚えつつも頷く。根拠はないけれど地震よりももっと未知の現象のような気がした。大きな地震を体験したことがないからそう思うだけなのかもしれないけれど、窓の外の不気味なひかりを見ているとあながち間違いじゃないように思えてくる。
「今は見えないんですけど、町の方はすごいことになってました。廃墟みたいな」
マンションや家の明かり、街頭が消えた町はぽっかりと空いた深い穴に落ちてしまったみたいに真っ暗で、白瀬くんが廃墟と例えた今の町を想像しただけで恐怖が身体の中を走るような感覚を覚える。
「スマホがずっと圏外で、電気も止まってるから情報が入ってこなくてどうなってるかわからないんですよね」
またポケットからスマホを取り出して画面を見る。圏外のままで通知はやはりひとつもない。バッテリーは八十パーセント以上残っているから使わなければ数日は持つだろう。電源を入れていてもバッテリーを消費するだけなので電源を切る。
「家族も生きてるか分かんないし。避難した人たちも無事か心配です」
「そうだね……。でも、連絡の取りようもないし、生きてるって思うしかないかも、今は」
自分に言い聞かせるように言う。
家族のことも、鶫森小学校に避難した友達のことも、何度も頭を過ったけど、通信手段が遮断されている以上安否確認はできないし、考えても心を圧迫するだけだから生きていると思うことにした。
そして、はるのことはあまり考えないようにしていた。
「そう思わないと、しんどくなっちゃうしね」
「そうですね。おれもみんな生きてるって思うことにします」
白瀬くんはわずかに微笑むとカーテンを開けたまま窓から離れた。
わたしは窓から顔を出して深呼吸をする。夏の夜の風とそのにおいが気持ちいい。空を見上げると雲間から落ちる青白いひかりの柱に目が眩みそうだった。
「先輩が眠ってる間にとりあえず要りそうなものとか探してたんですけど」
そう言って白瀬くんが置いてあった懐中電灯を手に取り机の方に向ける。スイッチを押すと眩しいひかりがスポットライトのように、パンと飲料水、ジュース、ウェットティッシュ、懐中電灯など白瀬くんが集めてきたであろう物資を照らしていた。
「情けないんですけど、夜の学校、怖くて見れてないところの方が多いです。ごめんなさい」
「謝ることなんてないよ。むしろわたしがごめんね。こんなにしてくれてありがとう」
わたしが気を失っている間、白瀬くんは不安だっただろう。そんな中、校舎の中を回って物資を集めてくれたと思うと本当にありがたかった。
「パン、食べてください。購買の自販機が倒れて中身が出てたから全部持ってきました。飲み物も沢山あるんで」
そう言って白瀬くんはわたしを椅子に座るよう誘導した。
「ありがとう。白瀬くんは食べた?」
「おれはさっき食べました」
「そっか、じゃあいただくね」
賞味期限の短そうな紙パックの牛乳とやきそばパンを手に取る。変な組み合わせになってしまったと思いつつ、パンのビニール袋を開ける。
「このパン、明日の夜くらいならぎりぎり食べれると思うんですけど、腐っちゃうかな」
「うーん、そうだね。冷蔵庫も使えないし。とりあえず日陰に置いとこっか」
一日くらい持つだろうし、この状況で食べ物を捨てるのは気が引ける。
やきそばパンを一口食べるとしょっぱいソースの味が口に広がった。パックにストローを刺して牛乳を飲むと今度はソースの味をかき消すような甘い味がする。
「いろいろ校内を見て回ったんですけど三号館が半壊してて、体育館が土砂で潰れてました」
最初に揺れがあったとき、土埃が舞っていたのはやはり体育館が土砂崩れに飲み込まれたからだったのか。三号館の方は一番古い校舎だから、あの大きな揺れに耐えられなかったのかもしれない。
「おれが起きたあとも何回か揺れと音があって、大きい揺れじゃなかったんですけど、しばらく気をつけた方がいいと思います」
「そっか。じゃあ……とりあえず今日はここで過ごして、揺れがおさまるまでは救助が来るのを待った方がいいかもね」
三号館が半壊したとはいえ、わたしたちが今いる一号館は崩れる気配もないし、教室がある二号館や美術室がある四号館もあの揺れを耐えたのだから、外に出るよりはここに残った方が安全だろう。
教室には各生徒に配られた非常用持出袋があるし、備蓄倉庫もあるから食料に困ることはないし、寝る場所もある。お風呂に入れないのが問題だけれど数日くらいなら耐えられるだろう。耐えられる、だろうか。
「水も止まってるよね、きっと」
「おれが起きてすぐは水が出たんで、バケツに水溜めたんですけど、さっき見たら水道も止まってました」
「えっ。そこまでしてくれたの? ありがとう」
言うと、白瀬くんは微笑んで「全然」と答えた。その表情があまりにも整っていて目を奪われそうだった。気も利いて、優しくて、白瀬くんはすごいな。
はるに見つけて欲しかったけれど、はるじゃなくてよかったのかもしれない。
もしもわたしを見つけてくれたのがはるだったら、今よりずっと不安でいなきゃいけない。
思い出さないようにしていたのに、すぐにはるの顔が浮かんで嫌になる。
「わたし、まだ眠くないから備蓄倉庫の鍵とかいるもの探してこようかな。白瀬くんは寝てて」
食べ終わったパンの袋をゴミ箱に捨て、立ち上がる。幸いにも保健室にはベッドが二つあるから、わたしが使ってない方のベッドを指差すと白瀬くんが立ち上がった。
「おれも行きます」
「いいよ。一人でいろいろしてくれてたし、疲れてると思うから。白瀬くんは寝てて」
「いや、心配なんで着いていきます。教室にも行きたかったし」
そう言ってくれたものの、またわたしのわがまま付き合わせてしまったみたいで申し訳なくなる。
「そっか、ごめんね」
小さく謝ると、白瀬くんは首を横に振ってやさしく笑った。
「行きましょう、水川先輩」
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