教室
1
厚い雲の隙間から青ざめたひかりが落ちていく。
瞬間、聞いたこともないような轟音と共に地面が揺れ始め、棚の上にあった石膏の胸像が床に落ちて白いかけらが床に散らばった。しゃがんで揺れが収まるのを待つものの、酔いそうなほど激しい揺れは収まることなく、美術室の机や棚をがたがたと激しく揺らし続けた。
地震? だとしたら震度はどのくらいだろうか。六、それとも七くらい? 大きくても震度四くらいの地震しか体感したことがないから、これがどのくらいの揺れなのかわからない。ただ、十六年生きてきた中で一番大きな揺れだということは確かだった。
見渡すと美術室がぐにゃりと歪んで見えて、窓の外に視線を移しても同じようにグラウンドが歪んで波打っているように見える。
遠くには昼なのにわかるほど青白いひかりが雲の隙間から柱のように一直線に落ちている。下から伸びているのか上から差してきているのかはわからない。薄明光線に少しだけ似ているけれど放射状ではないし、あれよりもずっと強いひかりで、不気味に青白い。
わたしの通う
ぱりん。背後で割れるような音がして振り返ると、石膏像が二つ、また棚から落ちて割れていた。人の顔を模ったものが割れて白いかけらとなって床に散らばる。
それからすぐに揺れは収まったものの、地鳴りのような不穏な音がまだ聞こえる。
何、これ。地震? じゃああのひかりは? 思考が絡まる。全身が震え出して冷静になれない。両手で自分の肩を抱き震えを押さえつけるも、その両手までがたがたと震えていた。
ついさっきまで、わたしは教室に居て友達と喋りながら明日のテスト範囲の勉強をしていた。教室にははるも居て、はるははるで仲の良い男の子たちと英単語の問題を出し合っていた。
今日で苦手な数学のテストが終わったから、テスト勉強の息抜きに家でデッサンでもしようと思い立って、美術室に置いていた鉛筆を取りに何気なく席を立った。そして美術室に着いて鉛筆ケースを手に取ろうとした直後、あの激しい揺れに見舞われた。
せめて教室にいるときだったら良かった。みんなが、はるが傍にいれば、同じ状況だったとしてもわたしはもう少し冷静でいられたはずだ。
窓の外、遠くに見えるひかりの柱のようなものはいまだに消えず眩しく輝いている。地震ってこんな風に空がひかるものなのだろうか。最初の轟音も大きな地震が来たら起こる現象なのだろうか。
そういえば、と思い立ちスカートのポケットにしまったスマホを取り出す。先ほどから地震のアラートは一切鳴っていない。画面を見るとやはり圏外だった。
突然ぶつっと美術室のスピーカーから音がして、焦った様子の男性の声が流れ始めた。いつもの校内放送と違ってチャイムのような音は鳴らなかった。
「地震が発生しました。ただちにグラウンドに避難してください」
この聴き慣れた声の主は担任の
山科先生のアナウンスが流れてすぐ、校舎から生徒たちと、おそらく誘導係の先生が四人歩いてグラウンドへとぞろぞろ出てくる。
わたしは思わず走り出してしまいそうになった足を止めた。歩いてくる生徒たちを見て、押さない、走らない、みたいな決まりがあったことを思い出す。こんな非常事態にそんな決まりをていねいに守れるほどみんなはわたしよりずっと冷静なのかもしれない。
「校舎に残っている生徒はただちにグラウンドに避難してください」
山科先生のアナウンスが繰り返し流れている。授業中ならまだしも今は放課後だから学校に残っている生徒はそう多くはない。その分生徒の人数や居場所など把握しにくいだろうから、おそらく誘導をしていない先生たちは校内に残っている生徒がいないか見回っているはずだ。
美術室から外に繋がるドアを出て、グラウンドの方へ歩き出す。小鳩高校は校内も土足履きのためわざわざ履き替える必要がなく、そのまま校舎と外を行き来できる。こういうときに土足が役に立つとは考えたこともなかった。
七月の太陽がコンクリートを灼いていて、いつもなら蝉がうるさく鳴いているはずなのに今は一切聞こえない。歩いているからか冷静になれて、日焼け止めを塗り直してなかったことを思い出して日陰に入る。
グラウンドにはすでに百人ほどの生徒が集まっていて、列にはなっていないものの正面に立つ先生の話を聞いていた。美術室からグラウンドは離れた位置にあって、大勢の生徒たちが小さく見えるほどまだ遠くにいる。誰もいないし走ってもいいんじゃないか、と一瞬思ったけれど汗をかきたくないからやめた。
正面に立つ先生は拡声器を使って喋っているようだけれど、わたしのいる距離までは届かなかった。遠くに並んだ沢山の後ろ頭の中からはるを探しながら近づく。教師たちの車に隠れて日陰を、校舎の脇を歩くわたしの存在には誰も気づいていないようだった。
見回りをしていたであろう先生たちと何人かの生徒が校舎から小走りで出てくるのが見えた。あれが最後の生徒だろう。そろそろわたしも合流しなければと思い日陰から出ようとした瞬間、またあの轟音がした。
先ほどよりも大きな揺れだった。突き上げるような縦揺れに足を止める。同時にグラウンドからいくつもの悲鳴が上がった。ぱきぱきと枝が折れるような音が聞こえた後、それをかき消すように建物が倒壊するような激しい音が響いた。
音の方を見ると土が煙のように舞い上がっている。位置的に体育館あたりだろう。はっきりと見ることはできないが、体育館の裏はすぐ山になっているから土砂崩れで潰れた可能性が高い。
大きな悲鳴が聞こえ、グラウンドを見ると地面がひび割れ出していた。遠くから見てもわかるほど、グラウンドの真ん中を二つに割るように線が入っていく。人が落ちるようなものではないものの見たことのない地割れだった。
パニックを起こした女子生徒が校門へ走り出したのに続いて他の生徒も校門へと走りだす。すでに揺れは収まっていたものの、地鳴りや建物が倒壊するような音はまだ止んでいない。「落ち着いて!」と拡声器から流れる声が音に呑まれていく。
死ぬと思った。すでにどこかで亡くなっている人がいるかもしれない。町の方を見る。様子はわからないけどひかりの柱はまだまばゆく、雲の間から降りてきた梯子のように不気味に存在しており、底知れない恐怖感が胸を支配した。
「
山科先生の叫ぶ声が聞こえた。緊急避難所に指定されている私立小学校へ向かうらしい。
わたしたちの高校も避難所として機能するように備蓄倉庫などの設備が作られるけれど、山の中にあるため土砂崩れが起こったときはここから十五分ほど山を降ったところにある鶫森小学校へ避難することになっていた。
鶫森小学校は数年前に建て替え工事が行われているから校舎は丈夫だし、山の下にあるものの擁壁があり土砂災害への対策もしっかりと行われていると聞いたことがある。移動するまでに土砂崩れに巻き込まれる可能性があっても山の中にある高校の古い校舎に残るよりは安全なのかもしれない。
「絶対に押さないで! 鶫森小学校へ!」
グラウンドに居た生徒たちを誘導しながら先生たちも校門の方へ向かっていく。わたしも数十メートル先の集団を追って校門へ向かうものの離れたところにいるわたしの存在には誰も気付いていないようだった。
グラウンドから校門の間にある中庭まで走ったところで、息が切れ始めて下を向く。汗が背中をたらりと伝う感覚が気持ち悪い。全然走ってないのに日頃運動をしていないからか昔に比べてずっと体力が落ちてしまった。息を吐き、顔を上げてみんなの背中を追うけれど、ずっと遠く見える。
「はる」
追いつかない集団の中に見慣れた後ろ姿が見えて思わず名前を呼んだ。けれど、小さな声で呼んだ名前は届くことなく土埃に呑まれる。
はる、振り向いてよ。
真っ直ぐな黒い髪に男の子にしては華奢な身体、何度も触れてきたのに今は手を伸ばしても届かない距離にあって、はるがわたしから遠ざかる。これが最後になるのかもしれないから、はるの後ろ姿を記憶に焼き付けるように見つめる。
わたしがいなくなったってはるはそのことに気付かないんだろうな。いくら熱を帯びた視線を投げかけたってはるには届かない。
はるはきっと、わたしがいなくてもへいき。
わたしが死んだとしてもはるは悲しんだりしない。はるが見てくれないわたしなんていらないな。はるがわたしを見つけてくれるか、そうでなければわたしかはるのどっちかが死ねばいい。もうはるを思って傷つかなくていいのならそっちの方が楽かもしれない。これは、そういうことなのかもしれない。
気づくと足は止まっていた。
今まではるに縋っていた自分も、はるの背中とともに遠のいていく気がした。急に今日までの自分がばかみたいに思えてくる。のに、まだどこかではるが振り向いてくれると思っている。だめだ。もう、だめ。
覚悟を決め、踵を返して校舎の方へ走り出す。案外ここに残る方が安全かもしれないと根拠のない理論を自分に言い聞かせ一度振り返る。するとやはり誰も後ろにいるわたしのことなんて気付いてなくて、校門へと逃げる沢山の足音と悲鳴が遠ざかっていくのだけが耳に嫌に残った。
地割れの音も、建物が崩れる音も止んでいて、誰もいない校舎は息が苦しくなるほど静かで、白く眩しい。
どくどくと激しく心臓を打つ音だけが全身に響いていて緊張と恐怖で吐きそうになる。自分で選んだくせに、ばかだなあ、わたしは。
階段を上り、二年二組の教室に入る。
クーラーの冷気がまだ残っているようで、開いたドアから冷たい空気が漏れていた。
教室は机と椅子が散乱し、床にはゆうちゃんが飲んでいた紙パックのチャイラテが落ちて水溜まりを作っていて、先ほどまで居た教室とは全く違う場所に見える。
自分の机を起こして机の上に座ると天板のひやりとした感覚が太腿の裏をじんわりと伝わってきた。机の上に座るのなんて初めてかもしれない。けど、今、そんなことは大した問題じゃない。
二階から見る町は美術室で見たときよりも見晴らしが良く、その分よく見える町はいつもと全く違っていて、倒壊した家や歪んだマンション、火災が起こっているのかあちこちで煙が上がっている。
遠くの海から押し寄せている波は高く、今にも町を飲み込みそうなほど荒くて、悍ましい。
みんなが逃げた鶫森小学校はここからでは見えないけれど、海から離れているしおそらく大丈夫だろう。
家は大丈夫だろうか。学校から見えない場所にあるからどうなっているかわからない。家族は生きているだろうか。スマホを取り出して見るも圏外のままで、持つ手ががたがたと震えていた。覚悟を決めてここに残ったのに、死が間近に迫っている状況がわたしを恐怖から逃してくれなかった。
「先輩、何してるんですか」
突然後ろから声がして身体が大袈裟に跳ねる。
声がしたドアの方を振り返るとそこにははるじゃなくて、すらっと背の高い男子生徒が立っていた。
肌が白くて、薄く甘い顔をした男子生徒はここまで走ってきたのか、息を切らしながらわたしの顔を見る。長めの前髪から覗く、きれいな二重の目がわたしを見据えている。
名前は知らないけれど学校で何度か見かけたことのある生徒だった。きれいな顔をしているから四月にきほちゃんが「新入生にイケメンがいる!」なんて言ってはしゃいでいたのを思い出す。
「おれ、一年の白瀬です。水川先輩、ですよね」
白瀬と名乗った男子生徒はなぜかわたしのことを名前を知っていて、焦った表情でわたしの方へ歩み寄ってくる。
「先輩、早く逃げましょう」
そう言った白瀬くんがわたしの腕を掴んだのを咄嗟に振り払う。「あっ。ごめん」とすぐに謝ったものの、罪悪感が胸に広がっていく。
「わたし、ここにいるから大丈夫だよ」
「死にたいんですか?」
見透かしたような涼しげな目元を直視できず、逃げるように目を逸らし、「違うよ」と否定する。
「案外こっちにいたほうがいいかもって思っただけ」
取り繕った言葉はそれらしい理由になってない気もしたけれど、わたしは窓の外を向き直す。
白瀬くんの足音がまたわたしに近づいてくる。手を引っ張って無理矢理連れていくのだろうか、と思っていると白瀬くんは倒れた机をわたしの横に起こし、机の下に潜り込んだ。白瀬くんは背が高いから机の下は窮屈そうで、なんとなく犬みたいだなと余計なことを思った。
「先輩も机の下入った方がいいですよ。また揺れるかもしれないです」
「白瀬くん、逃げなよ。今ならまだ追いつけるよ」
今から走れば集団に追いつけるだろう。わたしの命をかけたしょうもないエゴに白瀬くんを巻き込むのは罪悪感しかないし、もしこれで白瀬くんが死んでしまったら、わたしは申し訳なさで死んでも死にきれなくなってしまう。
「水川先輩を残していけないです」
話したことのない相手に「残していけない」なんてわたしならそんなことを言えないし、はるもきっとそんなこと言ってくれない気がする。
ほんとうは。
ほんとうは、はるがここに来ないことなんて最初からわかっていた。
きっとわたしがいないことに気づいてすらいない。
はるがわたしに向ける感情はずっと無で、はるの大きな丸い瞳にはいつも何も映っていない。わたしだけじゃない。家族に対しても友達に対してもはるの心が揺れることなんてない。
「どうして白瀬くんはここに来たの」
「水川先輩が校舎に戻ってくの見えたから」
みんな必死で校門まで走っていたから誰もわたしに気付いていないと思っていたのに、まさか白瀬くんが見ていたとは。
「友達とかに止められなかったの?」
「ばれないように抜けました。みんな必死だったから多分誰もおれが抜けたことに気付いてないと思います」
「そっか、ごめんね」
「謝らないでください。水川先輩のこと探してたんで」
え? と声が出て白瀬くんの潜る机の方を見るけれど、天板で隠れて顔は見えない。わたしのことを探していた? 話したこともないのに? どういう意味で白瀬くんが探していたと言ったのか考えても心当たりがない。
白瀬くん、と声をかけようとした瞬間、窓の外からどん、と轟音が響き渡り、教室が大きく揺れて倒れた机や椅子ががたがたと動く音がした。
「水川先輩!」
机から身体が浮く感覚を覚える。わたしの名前を呼ぶ白瀬くんが机の下から飛び出してくるのが、スローモーション映像みたいに不自然に見えた。
誰かが暴れてめちゃくちゃにしたあとみたいに散乱した教室の風景も同じようにゆっくりと回転していく。
水川先輩、とすぐ近くで白瀬くんの声がして視界が暗転した。
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