4
開けた窓から入りこむ夏の夜の風は涼しいけれど、やっぱりクーラーのつかない保健室は蒸し暑くて、寝ようにもすぐには眠れそうにない。
制服のスカートが邪魔でブラウスの襟元が鬱陶しい。できれば脱いでしまいたいけれど、薄いカーテンの向こうに白瀬くんがいるからそんなことはできない。テスト期間中だから体操着を持ってきてる人もいないし、ありそうな保健室にもなかった。ワイシャツはあるのになんで体操着がないんだろう。お風呂に入りたい。
「先輩、まだ起きてますか」
カーテン越しに白瀬くんの声が聞こえてきて「起きてるよ」と返した。
「明日には救助とか来ますかね」
「こういうときってどうなんだろうね。すぐ来るものなのかなあ」
「もしかしたらここに逃げてくる人とかいるかもしれないですね」
声のトーンで不安そうなのが伝わってくる。
「明日また使えそうなもの集めましょうね」
「そうだね。体操服とかどこかにあるよね、きっと」
「購買とか? でも名前刺繍するから在庫とかないかもしれませんね」
「お風呂とジャージとクーラーがあれば完璧なのに。ここで暮らせるのに」
冗談を言うと白瀬くんのやさしい笑い声がして、わたしも一緒に笑った。
白瀬くんがどんな表情をしているのか気になって白いカーテンを見つめるけど窓から流れる弱い風にわずかに揺れるだけで、何も見えない。
どん、と突然轟音がわたしたちの笑い声をかき消すように鳴り、窓の外を雷のように眩しいひかりが走る。
「うわっ!」
白瀬くんの声と同時に地面が揺れ始める。最初に来たのと同じくらい大きな横揺れだった。
がたがたと保健室の棚から音と一緒に物が床に落ちる音がした。カーテンを閉めているから保健室全体を見ることはできないけれど、きっと棚の中の重いファイルが床に散らばった音だろう。
「先輩大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
揺れはすぐに収まった。けれどまだ揺れているような感覚が身体に残っていて気持ち悪い。
「先輩。カーテン開けてもいいですか?」
「ん、いいよ」
開いたカーテンの向こうから、泣きそうな顔を浮かべた白瀬くんが現れる。
「窓の外、ひかり増えてますよね」
白瀬くんが指さした先の窓の外を見ると、先ほどよりもひかりの柱の数が増えているように見える。青白く眩しいひかりが空から降り注いでいて不気味だ。
白瀬くんに視線を戻すと潤んだ瞳でわたしを見つめている。
「先輩、おれ、怖いです。朝起きて先輩がいなくなってたらどうしようって」
「わたしはいなくならないよ」
もし朝起きて白瀬くんがいなかったらわたしだって不安だ。カーテンを開けて白瀬くんがいなかったら悲しいし、きっと心が折れてしまう。過ごした時間は短いのに、白瀬くんがいる安心感に慣れてしまった。
「先輩、そっち行ってもいいですか」
「え? えっと、いいけど、狭いよ」
間を作ってしまっては悪いと思ってすぐに返答をしてしまったことを後悔した。
はるの顔が頭に浮かんで胸の奥がずんと重くなる。白瀬くんがちゃんと存在しているって感じていたくて、視界にいて欲しいけれど、わたしは。
「先輩、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。わたしも怖いから」
無理矢理笑顔を作ってベッドの端に寄る。頭の中で白瀬くんを近くに感じたい気持ちと近づいてはいけない気持ちがせめぎ合っている。
「ありがとうございます」
保健室のベッドはシングルより少し小さくて二人がぎりぎり眠れるスペースしかない。
咄嗟にいいよと言ってしまったことをまた後悔する。白瀬くんは身体は細いけど、背も高いし、ちゃんと男の子の骨格だからスペースに余裕がない。
白瀬くんの薄く甘い顔が目の前に来て思わず顔を離す。白瀬くんは目の形もきれいだけど鼻筋もきれいで、鼻が高くて、厚めの下唇は血色が良くて、近くで見るには整いすぎているなと思った。
「ごめん、わたし汗くさいよね」
昼に汗をかいた制服のままだったことを思い出し、後悔が重なる。
「全然、においしないです。絶対におれの方が汗かいてます。バスケしてたし」
そう言って謝るけれど、白瀬くんのシャツからは柔軟剤のいい香りがした。汗のにおいなんてひとつもしなくて、わたしだけが汗くさかったらどうしようとベッドから落ちないくらいに少しだけ身体を離す。
「先輩が隣にいると安心する」
白瀬くんの声がすぐ近くに聞こえてどきっとする。
わたしも白瀬くんといると安心した。安心をくれるから、いなくなってしまったらどうしようと不安になってしまう。これは不安の中でも幸福な不安なのかもしれない。
「先輩、さっきみたいに腕貸してくれませんか?」
「え、あ、うん」
また何も考えずに返事をしてしまった。目は冴えているけど、頭は眠いのかもしれない。
白瀬くんの細く長い、けれどしっかりした指がわたしの腕をやさしく握った。はるの手は女の子みたいに華奢だったなと無意識にはると白瀬くんを比べてしまう自分が汚くて、白瀬くんに対する罪悪感で胸の中がいっぱいになる。わたしはもうすでにはると関係を持っているから。
「ごめん、やっぱり、わたし汚いから近づかない方がいいかも」
わたしの絵をきれいだと言ってくれる後輩を幻滅させてしまうかもしれない。
わたしは白瀬くんを汚してはいけない。
「汚くないですよ」
「白瀬くんが思ってるよりわたし、汚いよ。きれいな絵が描けてもわたしは汚いよ」
「どうしてですか?」
「わたし」
はるの顔が浮かんで不安な気持ちになる。
「青野くんって知ってる?」
「はい、知ってます。あのきらきらした人」
はるは顔が小さくて目が大きくて、アイドルみたいにきらきらして見えるけど、瞳は底のない穴みたいに深く暗く何も映っていないことをわたしは嫌というほど知っている。
「もしかして、青野先輩と付き合ってるんですか?」
はると恋人同士だったら今こんなことになってないだろうな、と考えながら首を横に振ると白瀬くんは考えるような表情を浮かべた。
「わたし青野くんと幼馴染で、青野くんと、その」
わたしが口籠るのを見て白瀬くんは察したようで、今度はどこか悲しそうな表情を浮かべる。無意識にわたしもそんな表情をしていたのかもしれない。
白瀬くんのその顔を見ていられなくて、気まずい話題を投げかけたら、好きだよと言ったら目を逸らすはるの気持ちが、今少しわかった気がした。
「セフレってことですか?」
言葉にされてやっぱり汚いなと改めて自覚した。小さく頷くと白瀬くんは驚いたように一瞬目を見開いたけど、手を離すことはせずにわたしの目を真っ直ぐに見た。
「好きって言ったんだけど、曖昧にされて。……でも、そういう関係になって」
言葉にすればするほど自分が汚れの塊みたいに思えて、きれいな手から逃げ出したくなるのに狭いベッドでは逃げ場がない。白瀬くんに触れている部分が熱くなる。
「だから触らない方がいいよ。白瀬くんを汚したくないの。ごめんね、先に言うべきだった」
そう言っても白瀬くんはわたしの腕を離さなかった。わたしは視線を逸らしたまま白瀬くんから逃げる。
「先輩はもしかして、青野先輩が来るのを待ってたんですか?」
図星をつかれて何も言い返すことができない。
あのとき、ドアが開いたとき、はるが来てくれたんじゃないかって思ってしまった。死ぬかもってときくらいわたしのことを思い出して、わたしの傍に来てくれるんじゃないかって。振り返ることなく遠ざかったあの背中が答えだって分かってたのに。
「ごめんなさい、おれ」
「ううん、違うの。白瀬くんが来てくれてよかった」
あのときははるを待っていたけれど、結局はると離れることが出来てよかったんだと思う。はると居る時のわたしはずっと不安で、セックスをしているときだけはるが人間らしく見えて、近く見えて安心していた。そんな関係は間違いだったし、もっと早く離れなければいけなかったんだと今更気づいた。
「はると居るときはずっと不安だったから」
そして、わたしに安心を与えてくれたのは白瀬くんだった。なのにわたしは。わたしを探して見つけてくれた白瀬くんに最低なことをしている。
わたしがはるを待っていたと知った白瀬くんがどんな表情をしているのか怖くて見れない。幻滅されても仕方がない。
「……どうして青野先輩が好きなんですか?」
問われて、答えが見つからないことに気付く。
どうしてわたしははるのことが好きなんだっけ。そもそもきっかけは何だった? いつから好きだった?
どうしてわたしははるとセックスをするようになったんだっけ。
どうしてか全部曖昧で思い出せない。
「真海先輩は汚くないですよ」
「汚いの、わたし」
「おれは汚いと思いません、真海先輩のこと」
白瀬くんの手にわずかに力が入る。すぐ近くに白瀬くんの顔があって、目が合う。
「真海先輩、ごめんなさい。わがままですけど、今はおれの隣にいてください」
こんなわたしでもいいの? と、聞こうとしてやめる。ここには二人しかいないからきっと白瀬くんは寂しいんだろう。だから、こんなわたしを受け入れてくれたんだろう。
頷くと白瀬くんはやさしく微笑み、それからきれいな二重の目を閉じた。薄く大きい手から伝わる白瀬くんの温もりに身を任せてわたしも目を閉じる。
遠くで世界が壊れる音がした。青ざめた銀色のひかりが窓の外を落ちていく。
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