プール
1
美術室の壁に飾られた油絵を見たとき、衝撃が走った。
水面を描いた油絵はまるで写真のようで、ひかりの反射や透き通った水の質感、プールに張った水を描いているのか底の四角いタイルの歪みがリアルでうつくしくて、キャンバスに広がる水色に飲み込まれそうになった。
絵の下には水川真海という名前が貼ってある。
きれいな名前だと思った。
「初めての油画でここまで描ける子っていないからびっくりしたのよねー」
魅入っていたせいで隣に人が来ていることに気づかなかったから驚く。おれに声をかけたのは美術部の顧問の栂屋先生だった。
「そうなんですか」
「今はデッサンしかしてないのよね。もっと描けばいいのに」
油絵の横にデッサンが一枚飾ってあって、ガラス製のグラスを描いたものだった。
鉛筆の濃淡だけで精密に描写されていて、影までリアルに表現されている。グラスの透明感がきれいで、水川先輩の描く絵は油絵もデッサンも透明感があるなと思った。
「白瀬くん、美術部入る?」
「え。おれ絵下手なんで無理っす」
言うと、栂屋先生は笑った。初っ端のデッサンの授業で上手に描けずに悩んでいるおれを知っているからこその笑みだった気がして恥ずかしくなる。
「下手なんて関係ないのに」
そう言った栂屋先生の顔がなんとなく頭に残っていて、美術部に入るのもありかもしれないな、とそのとき思った。
数日後の放課後、まだ四月だった。
わざわざ遠回りをして美術室まで水川先輩を見に行ったことがある。
美術室にはイーゼルに向かう女子生徒の後ろ姿があって、他に誰もいなくて、女子生徒は静寂の中で一人真剣に鉛筆を走らせていた。
直感で水川先輩だ、と分かって足を止める。背中越しに見えるデッサンは美術室に貼られているものと線や色の濃さが同じだった。鉛筆を走らせるたびに黒く濃く、鮮明になっていく線。透明を描く線はやはりうつくしかった。
グラウンド側の窓から先輩の後ろ姿を見ていると、遠くで運動部の掛け声が響いた。行けー! と野球部の声が聞こえて我に帰って一歩ずつ進む。
一度通り過ぎて、折り返すときに声を掛けよう。そう決心して美術室の脇を通り過ぎたところで再び足を止める。
何て声を掛ければいいんだ。「絵、きれいですね」とか? いや、突然そんなこと言われても気持ち悪いだけだ。
栂屋先生に用事があるふりをして「栂屋先生いますか?」って声を掛けてみようか。でも、もし準備室に栂屋先生が居たとしたら、本当は用なんてないから終わるのが目に見える。とりあえず、折り返して勢いで声を掛けよう。
美術室の横をゆっくり歩いては止まるおれはグラウンドにいる運動部の誰かから見たら不審者に違いない。なんて声をかければいいんだ。考えながらゆっくりと歩く。
美術室の窓が見えてきて、鼓動が早まるのを感じ、下を向いて深い呼吸をした。二歩、三歩進んで顔をあげる。開いた窓の向こうにいる先輩が視界に入った瞬間、音が消えたような感覚がした。
さっきまでグラウンドに響いていた運動部の声が消えて、時間がゆっくり流れるような錯覚を覚える。
胸あたりまで伸びたきれいな髪が西日を浴びてオレンジ色に染まってきらりと光る。先輩は絵に集中していておれの方には気づかない。おれは先輩を見ながら、ゆっくり歩く。
丸く垂れた大きな目と主張の弱い小さな鼻と小さな口にきれいな色の唇。小さく可愛らしい顔に、真剣な表情を浮かべてイーゼルに向かっていた。
机の上に置いたバスケットボールを見るまっすぐな瞳がきれいで、ただただ見惚れているうちに美術室を通り過ぎてしまった。
離れたところで足を止める。胸の奥がどきどきして、息が苦しくなる。しばらくして運動部の声が耳に届いて、再び我に帰る。
もう一度戻って声を掛けるなんてことはもうできなくて、そのまま美術室から離れた。胸の高鳴りはそれからもしばらく止まなかった。
一目惚れで、そして初恋だった。
人を好きになる気持ちを初めて知ったのと同時に、こんなにも苦しくてもどかしい思いをするんだと知った。
頭の中が水川先輩でいっぱいになる自分が怖くなるくらい、惹かれていた。
その後もう一度声をかけようと放課後美術室の横を通ったけど、胸が高鳴るだけで結局何もできずに通り過ぎただけだった。
それから校内で水川先輩を見かけるたびに目で追うようになった。
水川先輩は清楚な印象だけれどスカートは膝上まで短くしていて、チェックのスカートの裾からは細く白い足が真っ直ぐ伸びている。
校内で見る水川先輩はギャルっぽい友達と四人で居ることが多く、いつ見ても楽しそうに柔らかく笑っていた。水川先輩たち四人が通るたびにその場の空気が明るくなる感じがした。
「
入学してすぐに仲良くなった早弓は明るくてうるさくてやたらと友達が多いやつだった。バスケ部に入っていて、入学してすぐにおれをバスケ部に勧誘してきたのがきっかけで仲良くなった。
「ん、誰? 右から二番目の? あー。水川先輩だっけ」
早弓も水川先輩の存在と名前は知っていたらしい。
「そうだけど。早弓知ってたんだ」
「いや、有名だよ。芸能人レベルで可愛いし性格もいいから二年の男子はみんな一回は惚れてるってバスケ部の先輩が言ってた」
「え」
水川先輩は可愛いし、人気があるのも納得だけどそんなにモテるんだったら彼氏がいてもおかしくない。というか、いない方がおかしいんじゃないかと思う。
落胆を隠しきれないおれとは反対に早弓の表情は先ほどより明るくなっている。おれの顔を覗き込んでにやにやと笑う。
「え、てか待って。白瀬、もしかして恋!? まじで!?」
「いや、違くて。ちょっと気になって」
「今までどんな女子にも興味示さなかった白瀬の〝ちょっと気になる〟はオレからしたら好きって言ってるようなもんだよ」
早弓はおれのことを何だと思ってるんだろう、と思ったけれど確かに女子に一切興味を示さなかったから驚くのも当然かもしれない。
「そっかー。白瀬はああいう清楚系のたぬき顔が好きなんだなー。まあ、彼氏いそうだけど」
彼氏いそう、と早弓が何気なく言った言葉に胸が再び重くなる。
水川先輩に彼氏がいたらおれは立ち直れるだろうか。想像しただけでもこんなに苦しくなるのに。
「バスケ部の先輩はなんか言ってなかった? 水川先輩に彼氏いるとか」
「告白してフラれたって言ってた人はいたけど、どうなんだろ」
「そっか」
「いやでもあの先輩、白瀬とめっちゃお似合いだと思う。美男美女で少女漫画かよ、って感じだし。白瀬みたいなやつはやっぱり可愛い子が好きなんかっていう僻み? みたいな感情生まれるし、でも勝手にデートしてるところ想像して今泣きそうになってる」
「早弓、一人で喋ってる」
「あの先輩と白瀬がデートしてるとこなんか見たらオレ嬉しくて泣いちゃうし赤飯のおにぎり買うかも。まじで応援する!」
一人で盛り上がる早弓を見ると、先輩に彼氏がいるかもしれないという不安な思いが少しやわらいで思わず笑えた。
そういえば早弓は普段から赤飯のおにぎりを食べているけど、あれはまさかどこかでカップルが成立するたびに食べていたのだろうか。友達が多いからその可能性もあるな、と思いながらも赤飯については触れないことにした。
「いや、やっぱいい。ほんと、本当にちょっと気になっただけだし話したこともないから。おれの言ったこと全部忘れて」
自分から水川先輩のことを切り出したものの、おれを置いて盛り上がる早弓を見ると余計なことをしそうな気がして少し後悔した。
「まじ? 忘れていいの? 誰にも言わんし女バスの先輩にあのギャルの仲間いるから彼氏いるかとか連絡先とか聞けるけど」
「連絡先は自分で聞きたい、から」
「めっちゃ恋してるじゃん。おけ。じゃあ彼氏いるかだけ聞いてくるわ。白瀬の名前は伏せるし。オレそういうの得意だし」
実績がある上で得意と言っているのかは不明だけど、赤飯のおにぎりを食べている早弓を思い返して信じることにした。
それに一度早弓に言ってしまった以上後には引けない気もしたから。
「白瀬、女子と連絡先交換するの全部断ってたし、他校の女子と遊ぶって言っても来ないしさー」
早弓はバスケ部への勧誘とは別に女子の連絡先を渡してくることも多く、その度に断っていた。
もし、おれが水川先輩の連絡先を手に入れようとして断られたら落ち込む気しかしない。おれが断ってきた女子たちも少なからず落ち込んでいたのだろうか。それはさすがに思い上がりか。
恋愛の難しさを改めて思い知り気が重くなる。水川先輩が遠すぎる。
「正直オレのことが好きなんかと思ってた」
「そんなわけない」
言うとぎゃはは、と大声で早弓が笑った。突然大声で笑うから、水川先輩たちがおれたちを一瞬見る。
「おい、やめろって」
「たぬき先輩と付き合えたらオレのおかげってことで白瀬、バスケ部入れよ」
「何でそうなんの」
言うと、また早弓は口を大きく開けて笑った。
たぬパイ彼氏いないってよ! と早弓が嬉々として報告してきたのは五月のことで、最初たぬパイの意味がわからなかったが、すぐにそれがたぬき先輩の略だということに気づいた。
勝手にあだ名をつけていたことに正直どうかと思ったけれど、それ以上に彼氏がいないことが確認できてほっとした。言葉を交わす前に終わらなくてよかった。
ありがとうと言うと早弓はなぜか今まで見たことがないくらいうれしそうに微笑んでいた。
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