10

 あれから二年──俺は柳葉の犬として生き、泥沼のなかに堕ちていった。あまりにも深いところまで堕ちすぎていたから、もう抜け出すことは不可能になっていた。


 逃げたかった──しかしそれも不可能だった。逃げたとして、その先一生追われる羽目になり、挙句には殺されるだろう。奴らはそんなに甘くない。


 安全な逃げ場所として刑務所も考えたが、組織を裏切った人間が刑務所のなかで殺されたという話をきいて諦めた。


 どんなプロセスを経たとしても結末は〝死〟しかない。


(だったら……)


 と俺は真剣に自殺について考えるようになっていた。


 特区内部の情報漏洩事件についても(柳葉の裏工作により)捜査の進展はなく、むしろ(柳葉の手口が大胆かつ巧妙になっていったせいで)情報漏洩の件数は増加し、より悪質なものになっていた。その状況に業を煮やした政府が陸軍による特別部隊をつくり、すでに内偵捜査をおこなっている──という噂まであった。


 俺はそんな話を聞くたびに──いつかバレるかもしれない──と神経を擦り減らした。


 ある日、体に異変が起きた。心臓がバクバクと脈打ち、息苦しく、いてもたってもいられなくなった。俺は恐ろしくなり病院へと駆けこんだ。精密検査をしても異常はみつからず、精神科にまわされた。


〝軽度の鬱病およびパニック障害〟


 と診断され、薬を処方された。




 ある日、仕事帰りに左翼団体の街宣に出くわした。黒塗りのバンに取り付けられたスピーカーから大音量で演説を垂れ流していたが、音が割れていてなにをいっているのか聞きとれなかった。演説を聞いている者は一人もおらず、街行く人々は迷惑そうに街宣車の前を通り過ぎていくだけだった。


 俺も急ぎ足で騒音から逃れようとしていたとき、団体関係者とおもわれる人間が「お願いします」とチラシを差し出してきた。俺はそれを無視して通り過ぎた。


「あれ? 真田?」


 反射的に振り向くとエンゼルスの赤い野球帽をかぶった男が立っていた。さっきチラシをくばっていた男だ。男が帽子をとる。


「やっぱ真田だ。金子だよ。こんなとこで会うなんて奇遇だな。東京じゃなかったのか」金子は、盗撮していたころとはまるで別人の、快活な人物にみえた。「何年ぶりだ? そういや、いまも警察官やってるのか?」


「ああ、まあな」


「……」金子は心配げな表情で俺をみた。「お前、大丈夫か? 体でも悪いのか?」


「……そう、みえるのか」


「あ、いや、すまない……それよりよかったら、これ読んでみてくれ」


 チラシをわたされた。〝世界政府の不平等政策に鉄槌を!〟〝児童保護法撤廃!〟などと書かれていた。いかにも被害妄想患者がいいそうな戯言だ。


「あとで読んでおく」


「連絡先おしえてく──」


「じゃあな」俺はとっとと立ち去りたかった。


「ちょっと……あっ、そういやあの子もここらへんに住んでるらしいぞ。ほら、菊池さんっていったっけ」


「!」


「中学のとき、俺と階段でぶつかって──」


「どこだ」


「え?」


「どこにいけば彼女に会える」

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