Bパート


 限りなく澄んだ瞳がギュッとあたしの心臓をとらえ、そしてふたたびそれは閉ざされる、さながら夜の帳のように。


 ってあたしは詩人か!


「ちょ、ちょ、ちょ待って。寝ちゃダメ。朝、もう朝だからあ」


 ゆっさゆっさ、と全力で相手の身体を揺さぶる。


「むぅー」


 あ。カワイイ。

 見ためはどう見てもキレイなおねえさんって感じなのに、むずかる声は赤ちゃんのそれだ。悶える。このヒトのこんな声を聞けるのはあたしだけ、と思うと全身が待ったなしで骨ぬきにされてマウ。


「あ、あのですね。よく聞いて。い、ま、は、朝。朝でーす。ニンゲンは朝になったら起きなければなりません」


 三日前までのことをスッカリ棚にあげてエラソーにいうあたし。


 しかたがないじゃない?

 これがお母さんから託されたあたしの仕事なのだ。


 放っとくとこの赤ちゃんは三、四日ものあいだこんこんと眠りつづける。そして目をさますと今度は同じ日数のあいだ起きている(らしい)。まるで一日の長さがそういう周期の、べつの世界からやってきたみたいだってお母さんはいってた。でもそれじゃ不便でしょ、すくなくとも「この世界」で暮らしてくばあいは。だからちゃんと「この世界」の周期を身体にしみこませてあげなくちゃいけないの。わかったかな? よし。じゃ、おまえに委せた。しっかりおやり。


 なあんてことをいっぽう的にいって、戻ってきたつぎの日にはもう勤めている病院の仕事に戻ってしまった。


 あれは怪物だね。


 ってゆーか、自分の医師としての技術が、世の中をより善くすることに貢献してるって信じきっている。だから一日でも休んだら、それは世界にとっての損失なのだ。そんなふうに考えられるわが母上を誇りに思うけど、同じことを娘のあたしに期待されても困る。もちろん、お母さんはそんなことをひと言も口にしたことはないけれど(ちなみにこのとき、あたしがちらりとお父さんの表情をうかがうと、お父さんは苦笑いを浮かべていた。とりあえず、みぢかに理解者がいてくれるってことは救いだよ)。


「はいはいはぁい。起きましょ起きましょおう。おいしーごはんが待っていますよ」


 と声を弾ませながらむりやり相手の身体からふとんをひっぺがす。


 やだ。これってけっこー快感かも。


 さすがにふとんの引っぱりっこは始まんなくて(ちょっとザンネン)、あのヒトはいさぎよくベッドから起きあがってくれた。


「おはようございます――天使ちゃん」


 キョトン、とした表情であたしを見つめかえすあのヒト。


 これもいつものことだった。


 ま、そーだわな。あたしだって「天使ちゃん」なんて他人から呼ばれたらこんな表情をするしかない。そのいっぽうで、このヒトを天使と名づけたお母さんの気持ちも痛いくらいわかる。ほんとうに、それ以外にないくらい、お似合いの名前だもん。






 腐った大地の中心に、天使ちゃんは横たわっていた、


 


 どっかにぶつけてできたあざとかたんこぶみたいなくすんだ紫色をした、ぶよぶよの地面の上に、輝くようにまっ白い肌の天使ちゃんを見つけてしまったら、そう呼ぶしかないだろう。それはきっと、雨あがりのぶ厚い雲の隙間から射しこむ数条の光の帯みたいに清く、神々しく見えたにちがいない。


 お母さんは慎重に周囲を見まわし、目撃者がひとり(お母さん本人)だけしかいないことを確認すると、よっこらせっ、と天使ちゃんを背負って、その場から立ち去った。それから瘴気渦巻く汚染地帯をぬけて安全な場所までたどりついたところで、天使ちゃんを地面に降ろし、今度はそこに置き去りにした(ちゃんと服は着せた)。


 どうして、そんなことを?


 べつの誰かに天使ちゃんを発見させるためだ。


 すでに町の消滅からかなりの時間が経っていたから、その災害とは直接の関係はないものとして扱われるだろう。だけどその辺りで怪我人が見つかれば、なんにしてもお母さんたちのところへ報告が行くはずだ。そのときになってはじめてお母さんは天使ちゃんのことを知る、というふうになるわけだ、公式には。


 そうじゃなくて、汚染地帯の奥で生存者が発見されたとなれば、これはタダゴトではすまない。お母さんたちはともかく、となりの国の関係者はそれを放ってはおけないだろう。天使ちゃんは治療もそこそこに、拘束されることになるかもしれない。この惨状の真相を知る可能性を持つ重要参考人として。


 だからってそんな嘘をついて許されるの?


 お母さんはいった。


 許されなくてもやるのよ。後悔したくなければね。そうやってきたから、ほら、わたしはいま、ちっとも後悔しちゃいない。


 なるほど。


 でもこれから後悔するかもしれないじゃない?


 わかってる。


 目の前に助けられる生命があるならただ手を差しのべる――


 お母さんを動かしている真実なんてそれだけだ。バカみたいに単純。なんて考えなしなの、お母さん!


 そのおかげでこうしてタダ飯ぐらいの同志を得ることができたんだから文句はいえない。それにあたしがいま最も欲しいと思っているものはきっと、そんなお母さんみたいな単純さなんだと思う。






 お父さんの作ってくれた朝食をぺろりと平らげたあと、あたしたちは外へでかけた。これもお母さんからいいつけられた新しい日課のひとつ。


 できる限り、刺激を与えなさい。


 天使ちゃんが消滅した町で失ってしまった多くのものを取り戻すには、何よりもそれが大事なんだって。


 三日前までは寝るときのかっこうのまま夕がたまで過ごすことも珍しくなかったのに、いまやバッチリおめかしして、にぎやかな午前中の大通りを歩いてる。なんだか信じられないキブン(おめかししてるのは、こんなにも美しいヒトといっしょに行動するからには、最低限これぐらいはしておかないと、という礼儀、っていうか使命感のせいだ。こっちが見劣りするのはしかたがないとはいえ、せめて天使ちゃんに恥をかかせるわけにはゆかヌ)。


 あたしたちはこの街の名所という名所を片っ端から見てまわってる。


 テナブ市はデカ公国の中心となる都市だからそういう場所は多いの。ひとまず、数箇月のあいだはあたしたちの予定がつきることはない。


 それってつまり、そのあいだ、毎日、この美しいひととおでかけできるってコッタパンナコッタ。ああっ、女神さまっ、勇者さまっ、天使ちゃんさまさまっ、アリガトーゴゼーマスダア。って思わず訛っちゃうくらい、あたしには嬉しいことだった。


 まね。この絶頂がそんなに長い時間、続かないなんてことは経験上知ってた。


 たとえばこの日は午後になってから、学校帰りの幼なじみに見つかって、へえ珍しいじゃん、おまえが陽のあるうちに外を出歩くなんて、などと揶揄われ、げぇ、なんだよこの絶世の美人、しょしょ紹介しろよう、だなんだとそのあともしつこくつきまとわれ、あたしたちの甘い(と思ってるのは、たぶん、あたしだけだろうけど)時間は終わりを告げた(それから、ほかにも数名の年齢の近いご近所さんが全員集合して、急遽、「天使ちゃんを囲む会」が催されることになりました、ちゃんちゃん)。


 だけどさすがに、一週間後の夜、いつものように天使ちゃんといっしょに帰宅すると、わが家の居間で公爵さまが待っているなんてことは予想もできなかった。


「やあ。妹君。ひさしぶりだね」


 天使ちゃんがとなりにいてくれなかったらもの怖じしちゃうくらいのキラッキラの豪奢な笑顔で、この国でいちばん偉いかたがあたしを迎えてくれる。


 ナニコレドッキリ? わけわかんない。


 この情況ははじめてじゃない。


 ご本人がおっしゃったように、わが家に公爵さまをお迎えするのはこれで二度めだ。

 最初はお姉ちゃんが騎士団に入団したときだった。


「娘さんをどうかわたしにいただきたい」


 このおかたはあたしの両親の前でそういって頭を垂れた。


 よその国に比べれば形式上の性格が強いとはいえ、有事となれば騎士団は文字どおり命を擲ってでも彼女をお護りしなければならない。だから騎士団にはいる者全員の家庭へ赴き、ねんごろにあいさつをするのが、いまの公爵さまの流儀。これには批判も多いけど、その親しみやすさがこのおかたの人気の理由のひとつだってことは間違いない。


 でもこの夜はそうじゃない。


 椅子の上にお座りになっている公爵さまの笑顔に比べて、奥に控えて立ったままあたしたちの帰りを待っていた両親の表情はけわしかった。


 それでぴんときた。


 当たり前だけど、この国でいちばん偉いかたが待っていたのはあたしじゃないんだ。


 彼女の目的は、天使ちゃんだった。


「隣国からの正式な要請なんだ。無下にすることはできないよ」


 あくまで強制のけはいを感じさせずに、公爵さまはおっしゃった。


「明日、その子を城まできちんと案内すると約束してくれるなら、今晩のところはこのまま帰ろう。誰にだって別れを惜しむ時間は必要だわ」


 もちろん、断ることなんてできなかった。

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