[新] わが家の天使ちゃん

 Aパート


「……むにゃむにゃ。もぉたべられないよーう」


 ハッ。

 こんなふうに寝てるばあいじゃなかった。早く起きてあのヒトを起こしにいかなくちゃ。


 あたし、マリューム・シンクレア。十六歳。デカ公国でいちばんおおきな街、テナブ市で暮らしているよ。


 お父さんはテナブ市にひとつだけある大学の教授、お母さんはこの国でも珍しい女性の医師をやってる。どっちもみんなから「先生」って呼ばれる仕事をしていて、お姉ちゃんだって(いまはどこをほっつき歩いているんだか)以前は公国騎士団に所属して(こっちは女医さんほど珍しくない。なんといってもこの国の公爵位は代々女性のかたが受け継ぐしきたりになっていて、彼女をお護りする騎士も女性を中心に選ばれるから)、家族はみんな優秀なのに、あたしだけ頭のデキがサイアクサイキョーにイクナイ。数年前に卒業した(もう何年前のことだかハッキリしない)小学校の高等科の成績は下から数えていちばんだった、やったね! こんな成績じゃつぎの学校に進学するめどもつかないし、お父さんもお母さんも通っていた大学(なんと、あの風委せのお姉ちゃんですら!)になんてトーテー行けそうもない。


 だったら働くか、ってことになるはずだけど、さいわいわが家は、貴族の生まれとか大金持ちではないんだけど、お父さんとお母さんがちゃんとした職に就いてて、しかもふたりとも優秀(もういっかいいいました、えっへん)なので稼ぎがいいから、とりあえずお金には困ってない。何がいいたいかっていうと、よーするに、あたしのようなタダ飯ぐらいを養う余裕があるってコッタパンナコッタ。


 幼なじみや元同級生、親戚のおじさんおばさんや近所のひとたちに対しては、家族と同じ大学にはいるために自宅でせっせと勉強中というふうにいってるんだけど、そんないいわけが通じるのもあと数年のあいだだけだろうし(いまのあたしの年齢のときにはお姉ちゃんはもう大学に通ってた)、それがいいわけだってことは、たぶん、というかゼッタイみんなに見ぬかれてる。


 はぁ。

 あたしはいったいどうしたらいいんだろお。


 というわけで何もしていないあたしは、いつもならお日さまがかなーり高いところに昇るまでベッドの中で惰眠を貪るところなんだけど、三日前からわが家の事情は変わってた。


 もう一匹、タダ飯ぐらいが増えました。


 わぁい。

 仲間だ、仲間。これでもう寂しくないネ☆


 お母さんからあのヒトの世話を仰せつかったあたしは、家の内でやることが見つかったことに気をよくして、今朝もはよから仕事に勤しむのでした。勤労ってすばらしいわ!






「えー、こほん……オハヨーございまーぅ」


 寝てる。


 ほんとうによく寝るひとだと思う。


 といっても三日前までのあたしとはぜんぜんちがう。

 あたしなんてきっと、必要もないのに寝つづけるものだから歯ぎしりしたり、ごろんごろん左右に転がってお腹とかぽりぽり掻いてたに決まってるんだけど、このヒトはベッドの上に行儀よく横たわったまま、ほとんど動かない。


 まるで眠れる森の美女。


 絵本の中からそっくりそのままぬけだしてきたみたいで、目の前にいるのにとても現実とは思えない。


 でもやっぱり絵そのものじゃないから、ジッと見てると呼吸にあわせて規則的に胸のところがちいさく上下に動いてるのがわかる(カンケーないけど、すごい胸のおおきさ。これだけおっきーのにほとんど横に垂れずに上を向いてるのは奇蹟というしかないんじゃないのお? 疑うわけじゃないけど、魔法を使ってぽよよん、って持ちあげているんじゃないかなあ。だって魔法使いって意外に見栄っぱりで、ほんとうはおばあちゃんくらいの年齢なのに、魔法で見ためを若い娘に変えている、みたいな話をよく耳にするもん)。


 お母さんが出張から帰ってきてからというもの、あたしってばほとんどうっとりしっぱなし。とりわけ、朝はそう。


 なんで、って?


 そんなの決まってるよ。

 こんな美人の寝顔をこころゆくまでタンノーできるんだもの。


 変態か?


 そういわれてもしかたがないくらい、いまのあたしの表情はゆるゆるになってるにちがいない。それとも、大聖堂に高々と掲げられた巨大な飾り窓を見あげるときみたいな顔つきかな。何かよこしまなことなんて考える余裕もないくらい見とれちゃう。それくらいこのヒトの寝顔は美しかった。


 このまま何時間でも、なんなら日が暮れるまで眺めていたって厭きないくらいなんだけど、そんなことをしたらさすがに取りかえしがつかない、疑問形じゃなく、正真正銘の変態さんになってしまうので、ここは涙をこらえてユサユサ、目の前の身体を揺り起こしにかかる。


 すると、ぱちっと、というかふぁサー、って感じで、びっしりと密な睫毛が滑らかで輝く肌から浮きあがり、まるで渡り鳥のようにそのまま大空へ飛びたってしまいそうな軽やかさでまぶたが開く。そこであらわになるのが――


 黄昏色の瞳。


 あたしはこれほど澄んだ瞳を、というより瞳以外のありとあらゆるものを含めてこれほど澄んだ何かを見たことがない。


 その、世界で最も澄んだものが、ぼんやりとしたユメウツツの状態から、誰あろうあたしに向かって、ゆっくりと焦点が絞られてく。


 変態か?


 もっかいそういわれてしまうかもしれないことは承知しているけど、表情がトロけるのをとめらんない。おとなしく受けいれようじゃないの。



 ――ああ、もう。ここで死んだって惜しくはない。



 こんなにも美しいものが、この瞬間、あたしだけを見ててくれる、それだけで、なんてゆーか、あたしのぺらっぺらの人生がすべて報われたつもりになる。そこに愛なんてなくていいのだ。この瞳はあたしを愛しているから美しく見えるのではなく、ただ美しいから美しい。この世に真実と呼べるものがあるとしたら、きっと、これがそうだ。


「おはようゴザイマゥ」


 精いっぱいの笑顔で虚勢を張ろうとするけれど、語尾がふるえるのはやっぱりこらえきれんかった。


 返事はない。


 いつものことだ。

 無視されてるんじゃなくて、しゃべりかたを忘れてしまったそうだ。


 ――戦争の後遺症。


 お母さんがいうには、そういうことになる。






 となりの国で戦争があった。


 もちろん、いま世界は魔物の群れに襲われててヒドいことになってるんだけど、その戦争というのは魔物に対する防衛のための戦争じゃなくて、むつかしいことはあたしにはよくわかんないんだけど、ひと言でいえば、昔からよくある同じ人間どうしが領土とか財産とか地位とか名誉――あとそれから女――をめぐって争う、ありふれたやつだった。


 このご時世にわざわざそんなことするなよー、っていうのはあたしじゃなくても思うことらしくて、だから隣国と同盟を結んでるこの国やほかの多くの国も協力を拒んだんだけど、それでもおとなりさんは戦争を始めちゃった。


 それが三月くらい前の話だ。


 でもこの戦いは、意外なかたちで幕を閉じることになる(正確にはまだこの時点では戦争終了の取り決めが交わされていたわけじゃないんだけど、起こったできごとのあまりの異常さに、となりの国はいうまでもなく、その敵国もいったい何が起きたのか、それについてどう対処したらいいのか決めかねて、事実上、すべての戦闘が停止していた)。


 実際に何が起こったのか、というと町がひとつ、地図の上から消えた。


 地図からだけじゃない。

 現実に、ひとつの町がこつぜんと消えてしまったのだ、一夜にして。


 その現場に赴いたお母さんの話によれば、町が消えただけじゃなくて、雑草いっぽん生えない汚染地帯になっちゃった。


 そもそもお母さんが呼ばれたのもそれが理由だった。


 瘴気、というらしい。


 魔物の多くいる場所にはそういう空気、というか空気を汚す何かがみち溢れてて、それがあまりに濃すぎると大地もやられてしまうんだそうだ。これもお母さんから聞いた話だけど、腐った果物の上を歩いているみたいに地面がぐじゅぐじゅに凹んじゃうらしい。この国にはないけれど、世界にはそういうところがいくつかあって、有名なのは大昔に魔王と呼ばれる魔物が城を築いていた場所で、そこは魔王が倒されて何百年も経つのに、いまでも植物ひとつ育たない不毛の土地になっている。人間はもちろん、野生の動物や、どんなしぶとい昆虫だって棲めない状態がずっと続いてるみたい。


 そういう場所に近づくと、フツーの人間ならたちまち気分が悪くなってゲェーゲェー吐いちゃうし、抵抗力の低いひとだと気を失う(サイアク、死ぬことだってある!)。どんなに頑丈なひとでも長時間いつづければ体調が崩れるのを避けることはできない。ところが、ものごとには例外というものが必ずあって、ごくまれに瘴気の中でもぴんぴんしていられるひとがいる。


 そのひとりがあたしのお母さん。


 どうもわが家の女にはそういう人間が多いらしくて、お母さんだけじゃなく、お母さんのお母さん(つまり、あたしのお祖母ちゃん)もそうだし、そのお祖母ちゃんの、そのまたお祖母ちゃんもそうだったとかいう話だ。


 それはともかく。


 瘴気がみちているということはなんらかのかたちで魔物がかかわっているのは間違いない。でも辺り一帯がそんな状態になっちゃったんじゃ何が起きたのか調べられもしない。


 もっともお母さんは調査のために派遣されたわけじゃなかった。


 もっと緊急で、もっと切実な問題があった。


 くりかえしになるけれど、お母さんはお医者だ。

 そこにはおびただしい数の怪我人がいた。

 ひとつの町が消えるというのはそういうことだ。


 それは見世物小屋の手品なんかじゃない。布をかけて、呪文をひとつ、つぎに持ちあげると、ハイッ、消えました、というわけにはいかないのだ。


 お父さんは反対した。ほんとうにまだ何が起こっているのかわからないんだよ、危険じゃないか! この意見にはあたしも賛成だったけど、お母さんをとめらんないことはわかってた(きっと、お父さんだってわかっていたはずだ)。あたしのお母さんは誰かを救いたいから医者になったと公言してはばからない、まったく英雄的な人物なのだ。どう考えてもあたしはお父さん似だ(頭の中身以外)。お母さんの血を濃く受け継いでるのは、間違いなくお姉ちゃん。


 同盟相手からの救援要請を受けるかたちで公爵さまが組織した、医師や学者や騎士を中心とした一団に加わって、お母さんは旅立った。


 これが三週間くらい前のこと。


 そして三日前。

 となりの国から五体満足で帰ってきたお母さんのとなりには、あたしのタダ飯ぐらいの同志になるために(ちがう!)この超絶美人が立っていたってわけだ。

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