とある異世界のひととせ

今福シノ

『もういっそのこと異世界にでも異動させてくれ』


 たしかに転勤希望の紙にそういったニュアンスのことを書いた記憶はあった。あの時は毎日深夜まで残業していたせいでストレスと鬱憤うっぷんがたまっていて、だけど現状など変わるわけがないと半分諦めていて。このままじゃ過労死して異世界転生することになるぞ、なんて嫌味をこめたつもりだった。


「……それがまさかこんな形で実現するなんて」


 4月1日。最寄り駅からバスに揺られること1時間・・・。私は奈良県の天川てんかわ村という場所にやってきていた。駅からこれだけ遠いとなると、最寄り駅と言っていいのかどうかは疑問だけど。


 目の前には村役場の建物。今日から私が働く職場だ。といっても、私はもともと役場の職員じゃない。昨日までの私は東京都民、そして霞が関で働いていた。いわゆる国家公務員というやつだ。

 てっきりこの春からも同じような地獄の生活が続くと思っていたのに。投げやりに書いた転勤希望が奇跡的に聞き入れてもらえたのか、人事交流という形でこの村へとやってくることになったのだ。どうも人事はこの村のことを異世界と解釈したらしい。


「ん~、空気がおいしい」


 目いっぱい深呼吸すると、肺が少しだけひんやりとする。都会と違って余計なものは一切混じっていない、無添加の空気。

 そして周りの景色は――緑。山々に囲まれた自然。東京生まれ東京育ちの私にとっては異世界そのものだ。


「おはようございます」


 私は所属することになる部署に向かい、簡単に自己紹介をする。それから他の部署にあいさつ回りへ。


「東京から人事交流できました、広瀬ひろせ芳乃よしのと申します。今日からよろしくお願いします」


 数年前に新社会人になった気持ちで、背すじをピンと伸ばしてお辞儀をする。村役場とはいえ公務員の集まり。東京と一緒でみんなカッチリしているに違いない。なんて思っていたのだけど、


「おー、わざわざ東京からー。よろしくなー」

「不慣れなとこもあるやろうから、なんでも聞いてなー」

「は、はい……」


 全員が全員、フランクでにこやかで面食らう。


 ……す、すごい。

 東京だったら、たとえ勤務初日だろうが年末最終日だろうが、みんな息つく間もなくパソコンとにらめっこして、ひっきりなしに電話をかけたりしていた。眉間みけんにシワを寄せて。けわしい表情で。それがどうだ、たしかに仕事はしているけど、誰もゾンビみたいな顔をしていない。


 こ、これが田舎の雰囲気……!

 まさに異世界。私が望んでいた環境。


「あ、そうだ広瀬さん。たしか村営住宅に住むんよね?」


 感激に包まれていると、隣の席に座る職員が声をかけてくる。私よりもひとまわりくらい年上のおばさまだ。たしか名前は中谷なかたにさん。


「私も同じところに住んでるから、よかったら帰り送ろうか? 広瀬さん、車持ってないって聞いてるし」


 彼女の言うとおり、私は村営住宅を借りて生活をすることになっている。役場から車で15分程度の、洞川どろがわという地区にあって、必要な荷物などは先にあらかた送ってもらっていたのだけど、


「い、いえそんな、悪いですよ。バスがありますから」

「気にせんでええって。初日やし、疲れてるやろ?」

「えっとそれじゃあ、お言葉に甘えて……」


 私は小さく頭を下げる。

 いい人たちだな。少しぐいぐいくるところはあるけど迷惑ってほどじゃないし、これが都会では感じられない「人とのつながり」っていうやつなんだろう。

 ここでなら、やっていけるかも。


 それから午前中、簡単な仕事を済ませたりしていると、12時を告げるチャイムが鳴った。お昼休みだ。


「あっ、そうだ」


 ごはんを食べようとして思い出す。そういえば先月の、前の賃貸での電気代の払い込みがまだだった。


 たしか近くにコンビニがあったはず……。


 役場に着く手前、バスの車窓からチラリと看板が見えた。あの青い色と形は間違いない、ローソンだ。


「あった、ここだ」


 歩いて10分もかからないうちに、独特の形の青い看板が見えてくる。

それにしてもこんな田舎にも出店してるなんて、さすがは大手コンビニ――


「ん?」


 と、私の足は思わず止まる。看板に描かれたものが目に入ってきたから。

 たしかローソンの看板には牛乳の缶が描かれているはず。だけどそこにあるのは……やかんだった。

 しかも、


「……も、もーそん?」


看板の文字は『MAWSON』。Lではなく、M。


「こ、ここは……」

「あれ、広瀬さん。どうしたのこんなところで」


 固まっていると、店先にいた人に名前を呼ばれる。中谷さんだった。


「あ、えっとここって……」

「ああー。おもしろいやろ? 本物のローソンみたいで。ホントはただの商店やのに、マスターがこんな看板にしたらしいねん」


 じ、自由すぎる! 東京でやったら一発アウトだよ!?

 ってそうじゃなくて。


「じゃ、じゃあコンビニは……」

「あははは、コンビニなんて村内にはないよー。一番近いので……どうだろ、車で30分くらいかかるかなあ」

「さっ、さん……」


 最寄りのコンビニが車で30分!?

 東京じゃあどの方向を見ても必ず1件は視界に入りそうなコンビニが!?


 ……私、この村で生活していけるのかなあ。

 このとき、私は異世界、もとい田舎をなめていたことを痛感したのだった。

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