幕間1

「ふぁ……ああ……」

 今日何度目かの欠伸をすると、凪人は目尻に滲む涙を拭った。日中もそうだったけれど、夕食を食べている今も眠くて仕方がない。寝落ちそうになるのを必死に堪えようと、なんとか口にご飯を入れると咀嚼することで目を覚まそうとする。けれど抗うことのできない眠気に、気付けば凪人は机に額を打ち付けていた。

「いっ……」

「何やってんの」

 正面に座る母親が、呆れたように凪人に言う。凪人は打ち付けた額を押さえながら、苦笑いを浮かべた。

「食べながら寝てた……」

「あんたね……」

 言外に『高校生にもなって何をやっているの』という母親の思いが含まれている気がした。凪人だってまさか自分が、食事中に寝そうになるなんて思ってもみなかった。

「昨日の夜、寝るの遅かったの?」

「そんなことないんだけど……」

 母親に答えながら就寝時間を思い出す。たしか二十三時過ぎには数学の宿題を終えてベッドに入ったはずだから、朝の七時までたっぷり八時間は寝ているはずだ。

「成長期かな」

「まあ、あんたは赤ん坊の頃からよく寝る子だったからね。そういえば離乳食を食べながら今みたいに寝てたことがあったわ。覚えてない?」

「覚えてるわけないだろ」

 思い出したように母親は笑うけれど、離乳食を食べてる頃のことなんて覚えているわけがない。まさかの赤ん坊時代と同列に扱われ、なんとも言えない気分になる。

 けれど最近は本当に寝ても寝ても眠い。今日なんてまだ十九時だというのに、もう起きていられない程の眠気だ。

「お風呂入って、それでもまだ眠いようなら宿題は明日に回して今日は寝ちゃったら? 眠いときに無理矢理やっても頭に入らないし」

 余程眠そうだったのだろう。普段なら凪人がテレビを見ていると『さっさと宿題してしまいなさい』と小言をいう母親が、気遣うように言った。

「んー、そうだね。そうするよ」

 と、いうかこのまま宿題をしたら、机の上で寝てしまいそうだ。

 どうにか詰め込むようにして夕食を終えると、少し冷たい湯でシャワーを浴びた。湯船に浸かるともっと眠気に襲われそうだったからやめた。……それに、万が一湯船の中で眠ってしまったら。そう考えるとどうしても入る気にはなれなかった。

「あーもうだめ。一秒も起きてられない」

 ベッドに倒れ込むようにして突っ伏す。ポケットに入れていたスマホを枕の横に置いたときに時間を確認すると、まだ二十一時だった。こんな時間に寝るなんて小学生の時以来だ。むしろあの頃の方がもっと起きていられた気がする。

 小学生の時以来、といえば。

「……久しぶりに詩月と喋ったな」

 もうずっと自分には詩月と話をする資格なんてないと思っていた。あの日、きちんと約束を守ってさえいれば、何かが変わったかもしれない。例え変わらなかったとしても、助けてあげられたかもしれない。

 そう思うと、どうしても詩月のそばによることができなかった。だからせめて少し離れたところから見守れれば、そう思ってきたのだけれど。

「だからって……あれは……すとー……か……」

 意識がどんどんまどろみの中へと落ちていく。詩月と話したことや、表情、声のトーン。思い出したいことはたくさんあるはずなのに、どうしても睡魔に抗うことはできなかった。


 気が付くと、耳元でスマホのアラームが鳴り響き、一階から母親の怒鳴るような声がする。

「凪人! いつまで寝てるの! 学校遅刻してもいいの!?」

 その言葉に慌てて飛び起きると、スマホの時計は八時と表示されていた。昨日の夜、二十一時には眠ったはずだ。目覚ましだってかけていて、今鳴っているのは家を出る時間のアラームだ。

 それなのに、どうして。

「……疲れてるのかな」

 そんなに疲れているつもりはなかったけれど、高校に入学して半年、知らないうちに疲れが溜まっていたのかもしれない。

 けれどその日から睡魔に抗うことができなくなり、どんどん睡眠時間が増えていくようになるなんて、このときの凪人はまだ知るよしもなかった。


 朝ご飯を食べることなく学校に向かった。おかげで遅刻することなく、いつもより少し遅いぐらいに学校に着いたのだけれど、そのせいで詩月が登校するよりも少し遅くなってしまった。

 詩月がいることを確認して安心したくて、凪人は早足で教室へと向かう。

 別に、多少目を離したって大丈夫だとはわかっている。あの頃のように、無力な子どもじゃない。スマホだってあるし、助けを呼ぶことだってできると頭では理解していた。でも、それでも詩月を視界にいれていないとどうしても不安だった。もしかしたらまた自分のいないところで詩月が倒れているのでは、苦しんでいるのではと思うと怖くて怖くて仕方がなかった。

 それに……。

「頭、痛いって言ってたけど大丈夫かな……」

 詩月のことだ。もしも頭痛が酷くても両親に相談しない気がする。他の人に心配かけることを嫌がる詩月のことだ。ギリギリまで我慢して、一人で苦しんでいる気がする。

 そんなの、凪人は嫌だった。

 教室の扉を開けると、凪人は室内を見回した。詩月の姿は――そこになかった。

「どうして……」

 机を見ると、カバンがかかっているのがわかった。つまり詩月はもう学校には来ているはずだ。

 凪人は教室へと足を踏み入れると、詩月の席へと向かった。

「花岡?」

 詩月の席、ではなくその前の席の加茂山の前に立った。突然現れた凪人に、加茂山は不審そうに顔を上げた。

「あの、さ。詩月ってどこ行ったか知らない?」

「詩月?」

 そう言いながら、加茂山が眉をひそめたのがわかった。

「知らない」

 加茂山の口調に、どこか棘を感じる。普段は詩月と仲が良かったはずだけれど、どうしたのだろう。

「どうかしたの?」

「何が?」

「や、なんかあったのかなって」

「なんもないよ。先生に呼ばれたなんて言って教室飛び出して行ったよ。私が話してる途中にさ」

 加茂山はそれだけ言うと凪人から視線を外し、ポケットから取り出したスマホを弄り始めた。これ以上話すことはないとでも言うように。

 どうやら加茂山の話の途中に、突然詩月が席を立ち、それに対して不満に思っているようだった。詩月が友人に対してそんな態度を取るなんて珍しい。何かあったの、か――。

 そこまで考えて、もしかしてと凪人は思う。話を聞きたくなかったのではない。話を聞けなかったんだ。それも嘘を吐いて教室を出て行かなければいけない理由で。

「……あー、あの件かも」

「は?」

 凪人の言葉に、加茂山はスマホから顔を上げた。

「何、あの件って」

「や、昨日の放課後さ担任から『この前の小テストのことで話があるから明日の朝、職員室に来るように』って言われてたんだよね。今からじゃな駄目なのかって聞いたら『今から職員会議だ』なんてさ。勝手だよなぁ」

「……へえ」

「ってか『この前の小テストのこと』って加茂山何か知ってる?」

 わざとらしく言う凪人に、加茂山は少し考えてから口角を上げた。

「あー、あのことね」

「え、何々?」

「や、詩月が教えてないのに勝手に話しちゃ駄目でしょ」

 凪人が知らなくて自分が知っていることが楽しいらしく、わざとニヤニヤと笑う加茂山に、凪人はこれ見よがしに悔しがって見せた。

「えーー、や、まあそうなんだけどさ-」

「どうしても気になるなら詩月に聞いてみたら? 教えてくれるかはわかんないけど」

「んじゃ、そうするかな。よし、職員室行ってくるよ!」

「え、本気?」

 加茂山が引いているのかわかったけれど、凪人は一秒でも早くこの茶番のような会話を終わらせて詩月の元に駆けつけたかった。どこかで一人頭痛を堪えているのかもしれないと思うだけで、胸が苦しくなる。

 そばにいたって何もできないかもしれない。それでも寄り添うことも辛い気持ちを聞くこともできる。苛立ちを凪人にぶつけることで少しでも詩月が楽になるならそれでもよかった。

 教室を出て行こうとする凪人の背中に「うわー」と言う加茂山の声が聞こえたけれど、気にせず扉を閉めた。

 詩月の行きそうなところを考える。この喧噪の中にいたくないだろうから、外か、それとも――。

 凪人は教室の一番近くの階段をのぼり始めた。きっと詩月はそこにいる、という確信を持って。


 結果的に、詩月は凪人の思った場所にいた。そしてやはり頭痛に苦しんでいた。ただ……。

「大丈夫だって言ってるでしょ!」

 感情的に言う詩月に、凪人はどうしていいかわからなくなっていた。そばにいたいと思った。守りたいと思った。けれどそれが、詩月の迷惑になっているのなら……。

「お願いだから一人にして」苦しそうに言う詩月に、凪人は背を向けた。もう決して、離れないとあのとき誓ったのに。

 ただそれでも、やっぱり詩月のことが心配で、階段の一番下の段を下りると、詩月から死角になる位置にしゃがみ込んだ。ここなら、詩月に何かあれば駆けつけられるかな。

 そう思っていたのに。

「ごめんね、凪人。……いっそ私のことなんて嫌いになってくれたらいいのに」

 突然聞こえて来た自分の名前に、続けて聞こえて来た言葉に凪人は息を呑んだ。

 詩月が、泣いている。声を押し殺すようにして。泣かせたいわけじゃない。ただ守りたいだけなのに。

 自分の気持ちは、詩月にとって迷惑なのだろうか。負担に、なっているのだろうか。どうすることが、詩月のためになるのだろうか。考えても考えても、その問いかけの答えはわからなかった。

 ――どれぐらいの時間が経っただろう。気付けば泣き声はやみ、代わりに規則正しい呼吸音が聞こえて来た。

 そっと階段を上ると、そこには屋上に続く扉にもたれかかったまま眠る詩月の姿があった。泣き疲れたのだろうか、頬にはまだ乾ききっていない涙のあとがいくつもあった。

「詩月、ごめん」

 苦しめていることがわかったとしても、それでもそばにいることを諦められない。あの時みたいな後悔は、二度としたくない。大切で大好きな女の子を守れなかった後悔なんて。

 目尻に浮かぶ涙を、ブレザーの袖口でそっと拭う。

「なぎ……と……」

 寝言で名前を呼ばれるだけで、泣きたいぐらい嬉しいなんてきっと詩月は知らない。知らないままでいい。

「今も昔も……詩月のことが大好きだよ」

 届くことのない告白は、誰もいない踊り場に吸い込まれて、消えた。誰の耳にも、届くことなく。

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