眠り姫は君と永遠の夢を見る
望月くらげ
第一章
人間は嘘を吐く生き物だと知っている。
あまりにも世界は嘘で溢れていた。
胸元の光が見えるようになったのは小学五年の時だった。病院で目覚めた詩月は、周りの大人たちの胸元が光っていることに気付いた。けれどそれが一体何なのかはわからなかった。ただ綺麗に光って見えたので、優しい気持ちが光になっているのかなと、そんなことを考えていた。
けれどそれが、嘘を吐くと光るのだと気付くまでにそう時間はかからなかった。
両親と呼ばれた診察室。医者が詩月に「すぐによくなりますよ」と笑顔を浮かべて言ったとき、胸元が眩しく光っていた。――そのあと、詩月だけを部屋から出し、両親に『五年再発率』の話をしていた。すぐ良くなるなんて嘘で、本当は死んでいても不思議じゃなかったことも。
「はぁ……」
余計なことまで思い出して、苦々しく思う。十六歳になる詩月にとって、今年こそが五年目なのだから。今年を無事に、終えられるのだろうか――。
ツキンと痛む頭を、紛らわすように指先で押し込む。この痛みの理由を知ることが、今の詩月には怖くて怖くて仕方がなかった。
「ねえねえ、詩月。ちょっと聞いて欲しいだけどさ」
名前を呼ばれふと我に返ると、一つ前の席に座る友人――
「うちの母親の友達がさー、子どもがカッコイイからって勝手に履歴書をアイドル養成事務所に送ったんだって」
「へえ、それでどうなったの?」
「んーなんか今書類選考通って次面接って言ってたかな。でもその子からさ電話がかかってきて「俺、誰かのアイドルになんてなりたくない」って言われて。そのあと「俺はお前のことが好きなんだ!」って告白されちゃったの」
目の前の友人の胸元がぽわんと光った。その姿を見ながら、話の中に僅かに混じる嘘に苦笑いを浮かべそうになるのを慌てて堪えた。
「えー、凄い。ドラマみたいだね」
「ねー! 私もビックリしちゃって返事保留でって言ったの」
どの言葉が本当でどこが嘘なのか詩月にはわからないし、追求することはしない。それでも今の友人の言葉に嘘が混じっている。それだけはたしかだった。
悪意がある嘘ばかりではないことはわかっている。強がって見せたり、隠したいことがあったり、嘘を吐く理由なんて様々だ。だからこうやって光っているのを見ても、もう何も思わない。人は嘘を吐く生き物だ。そう思っているから。
――たった一人を覗いて。
「あ、また
「やめてよ。私は好きじゃないんだから」
からかうように言う友人に、詩月は眉をひそめると視線から逃げるように顔を背けた。
春岡
凪人は詩月に嘘を吐かない。いや、詩月だけではない。凪人が誰かに嘘を吐いているところを、詩月は小学五年にこの能力が現れてから今まで一度も見たことがなかった。いつも本音を話している。
「えーでもそんなこと言ってたら誰かに春岡くんのこと取られちゃうよ」
「別に、取られたっていいよ」
凪人のことなんて好きじゃない。誠実で真っ直ぐで嘘を吐かなくて、いつも詩月のことを見守っている。そんな凪人のことが、詩月は大嫌いだった。
その日の授業が終わり、詩月は帰る支度をして教室を出る。詩月のクラスの終了が少し早かったからか、廊下を一人静かに歩く詩月の後ろから、誰かが着いて来てい る。誰か、なんて振り返らなくてもわかった。凪人だ。
小学五年のあの日から毎日、凪人は詩月を守るようにこうやって後ろを歩いている。たまたま同じタイミングがあったわけではない。かといって一緒に帰るわけでもない。ただ後ろをついて歩くだけ。昨日も一昨日もそうだった。そしてきっと明日以降もこうやって同じ日々を過ごすのだろう。
夕日が街を照らしだし、詩月と、それから凪人の伸びた影が地面に映る。もうずっと並ぶことのない影が。
詩月は息を吸い込むと、凪人を振り返った。
「え……」
「ねえ」
振り返るだなんて思っていなかったのだろう。真正面から詩月に見つめられた凪人は、どこか居心地が悪そうに鼻の頭を掻いた。
「どうしたの?」
「いつまでついてくるつもりなの?」
「それ、は」
凪人は言葉に詰まったかと思うと、困ったようにへらっと笑った。
「わかんない」
「なっ」
まるで他人事のような凪人の答えに苛立ちを隠すことができず、咎めるように拳を握り凪人を責め立てる。
「わかんないって何!? 自分のことじでしょ」
「それは、そうだけど」
「わからないのなら今すぐやめてよ」
ぶつけるように言う詩月に、凪人は静かに首を振った。
「それはできない」
「なんで」
「なんででも。ね、こんなこと言い合ってないで早く帰ろうよ」
誰のせいで言い合っていると思っているのか。とはいえ、確かに日が暮れかかっていたはずの空は気付けば暗闇がマーブル色のように混じり始めていた。
このままここで言い合いを続けても仕方がない。溜め息を一つ吐くと、詩月は回れ右をして歩き出した――はずだった。
「いた……っ」
「詩月!?」
突然の割れるような頭の痛みに、詩月は動けなくなってしまう。蹲ってしまった詩月に、凪人は慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「だ、い……じょぶ」
「そんな真っ青な顔色で大丈夫って言っても説得力ないよ!」
ポケットからスマートフォンを取り出すと、凪人はどこかにかけようとする。そんな凪人の腕を、詩月は必死に掴んだ。
「余計なことしないで!」
「余計なって……」
呼吸を二度三度と繰り返し、頭痛が少し落ち着いたことを確かめると、詩月は静かにその場に立ち上がった。
「詩月……?」
「もう放っておいて」
漸く立ち上がった凪人を置いて、詩月は一人帰り道を歩く。
あの日の後悔を引きずったまま、いつまでもああやって自分のそばにいる凪人が、詩月は大っ嫌いだった。
翌日、学校に行った詩月は一日中視線を感じ続けていた。授業中も休み時間も、そして昼休みも。
教室が喧噪に包まれる中、相変わらず詩月を見つめる凪人の視線を無視し続けていると、頭上で誰かが笑った。
「今日はいつにも増して、凪人くんに見つめられてるね」
友人の
「別に、いつも通りでしょ」
「そうかな? 私には朝からずっと見つめているように見えるけど。そりゃたしかにいつもうるさいぐらいに見つめてるけど、ここまでじゃないでしょ?」
事情を知らない心陽から見ても、いや事情を知らないからこそ、今日の凪人は異常に見えるらしい。どう説明したものか、と考えていると「どうしたの?」という声が聞こえてくる。
「んー凪人くんの話」
「あー、今日凄いよね。視線が熱い」
詩月と心陽がくっつけた机に、椅子だけ持ってきて座ったのは
チラチラと見える凪人の姿に気付かないふりをすると、詩月もお弁当を取りだし昼ご飯を食べる。けれど二人は視線が気になるのか、何度か凪人へ視線を向けていた。
「見なくていいよ」
「やー、でもあれは気になるでしょ」
「まあ、そうだよね」
気にするなと言っても、あれだけ露骨に見ていれば気にしない方が無理だろう。思わず詩月は深いため息を吐く。
「ってか、ずっと疑問だったんだけどなんでこんなことになってるの? 昔、二人仲良かったよね?」
小学校から一緒なのは凪人だけではない。クラスは違うこともあったけれど、唯愛も小学校から高校まで同じ学校に通っていた。だから、詩月と凪人の幼い頃の姿を知っていた。
「え、そうなの? 凪人くんと仲良かったの?」
驚いたように心陽は言う。驚きすぎて、お箸で掴んでいたタコさんウインナーをスカートに落としそうになって慌てて掴み直したぐらいだ。
「あ、そっか。心陽は一緒になったの中学からだもんね。小学校のときは二人、仲良かったんだよ。一緒に登下校したり、二人で遊びに行ったり」
幼なじみというのはいいときもあれば悪いときもある。唯愛によって思い出したくない思い出を強制的に思い出さされる。まだ詩月が凪人のことを大好きで、いつも一緒にいたあの頃のことを。
「何年も前の話だよ。小学校卒業する前ぐらいからは全然。話しすらしてないし、向こうだって話しかけてなんて来ないよ」
「だから、それがなんでって聞いてるの」
「そういえば私も二人が疎遠に――っていうか、一方的に凪人くんがストーカーみたいになった理由は知らないや。何があったの?」
二人にジッと見つめられ、詩月は観念することにした。どうせたいした理由はないのだ。話したところでなんてことはない。
「小五の時、夏祭りに行こうって誘ったの」
「誰が!?」
「私が」
「誰を?」
「凪人を」
思わず昔のように『凪人』と呼んでしまい、照れくさいような、それでいて懐かしさに胸が苦しくなるような不思議な感覚が詩月を襲う。そんな詩月をよそに、二人は楽しそうに盛り上がっている。
「それってやっぱり好きだったからだよね」
「きゃー、めっちゃときめく! それで? それで!?」
それで、と言われても。現在の二人の様子を見れば何かあったとわかりそうなものなのに、まるで恋愛映画でも見ているかのような二人はその事実に気付いていない。
「ね、それでどうなったのか勿体ぶらずに教えてよ!」
「勿体ぶるって……。そんなんじゃないよ。勇気を出して誘ったけど、凪人は待ち合わせ場所に来なかった。それだけ」
「ええー! 酷い! すっぽかしたってこと?」
「まあ、そういうこと、かな」
苦笑いを浮かべるけれど、そのことについてはあまり思い出したくない。それに……。
「でも、じゃあどうして今こうなってるの?」
「ん?」
心陽の疑問に、唯愛が首を傾げる。
「こうって?」
「だって、今の状況ってどう見ても凪人くんの方が詩月を追いかけて付き纏ってるでしょ? 待ち合わせをすっぽかすほど詩月のことが好きじゃないなら、今の状況は変じゃない?」
「言われて見れば確かに」
まあ普通に考えればそこは不思議に思うだろう。
「……凪人は、私への償いのためにああやってるの」
「償い?」
「そう。あの日、凪人に約束をすっぽかされて、家に帰ろうとしてたときにちょっとトラブルがあったの。それをずっと悔やんでて、だから凪人は今も何かあったら今度こそすぐに駆けつけられるようにってああやって私のことを見守ってるの」
そんなことしてほしいなんて、一度も頼んでいないのに。決して詩月の隣に並ばないのは、凪人なりの線引きなんだろう。隣を歩きたいわけではなくて、責任感から義務感からああやって見守り続けてくれている。
そんな凪人が、詩月は大嫌いだった。
「そっか、なんかそれって悲しいね……」
「え?」
心陽の言葉に、詩月は思わず顔を上げた。
「悲しい……?」
「だってそうでしょ。詩月は凪人くんのことが好きなのに、凪人くんは詩月のことを償う対象としてしか見ていないってことだもん。そんなの悲しすぎるよ」
「待って、私が凪人を好き? ないない、そんなんじゃないよ」
昔はそうだったかもしれない。けれど、今は絶対にそんなことはない。
「だって私、凪人のこと大嫌いだもん」
凪人の視線を感じるたびにイライラしてしまう。何年も前のことを未だに気にしているのかと、もう忘れてしまっていいのにとずっとそう思っている。
「……そっか」
何か言いたそうに心陽は小さく微笑むけれど、それ以上追求することはしなかった。したとしても、詩月にとっていい話は聞こえて来そうになかったから。
結局、一日中凪人の視線を感じ続けていた。誰かに気付かれることも厭わないぐらいに、凪人は詩月を見つめてくる。それが昨日のことが原因だと詩月はわかっていた。まさか凪人に見られてしまうなんて思わなかった。頭痛に襲われる詩月を、凪人はどう思ったのだろう。またあのときのように自分が原因だと責めているのだろうか。
そんなふうに思わないで欲しいのに。もう忘れてくれていいのに。凪人も詩月もいつまでもあの日のことに縛られ続けている。
今も、帰る準備をする詩月のことを凪人が見つめ続けている。そんな歪な二人のことを教室でクラスメイトヒソヒソと話すのが聞こえてきて、居たたまれなくなった詩月はホームルームが終わると同時に教室を駆け出した。
「はあ……はあ……」
全力で階段を駆け下り、昇降口へと向かう。急いで出てきたからか、凪人はまだ追いついていないようだった。今のうちに帰ろう。そう思い、学校から出ようとすると後ろから誰かに腕を掴まれた。
「詩月!」
「え……凪、人?」
あんなに詩月から距離を取っていたはずの凪人が、自分から詩月の腕を掴み名前を呼んだ。他の人からしたらなんともない光景なのかもしれない。けれど詩月からすると、絶対に有り得ないことだった。
「なん、で」
「顔色悪かったし急に走り出したから何かあったんだと思って。頭痛? 大丈夫なのか?」
「……っ」
もしかしたら何か話があったんじゃないかなんて思った自分が馬鹿だった。離れたところから見つめるだけじゃなくて、また昔みたいに戻れるんじゃないか、なんて僅かでも考えたことが間違っていた。
結局、凪人にとっての詩月はあの日からずっと贖罪の対象でしかないのだから。
「大丈夫だよ! だから放っておいて!」
凪人の腕を振り払うと、詩月は校門に向かってグラウンド横の道を歩いて行く。運動部がすでに何人かグラウンドで準備をしていたけれど、詩月たちに視線を向ける人はいなかった。
凪人を無視するように歩いて行く詩月の後ろ――ではなく、隣に凪人は並ぶ。
「無理しない方がいいって。荷物、俺持つから貸して」
「大丈夫、病人扱いしないで」
「だけど……」
「もう、嫌なの。みんなに腫れ物みたいに扱われるのは」
「あ……」
詩月の言葉に、凪人は小さく「ごめん」と謝った。謝らせたいわけじゃない。あのときのことを思い出させて責任を感じさせたいわけでもない。なのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
黙ったまま、凪人は詩月の数歩後ろを歩いてくる。詩月は小さくため息を吐くと、口を開いた。
「昨日に比べたら今日はマシだよ」
「そ……っか、ならよかった」
安心した声が後ろから聞こえてくる。その距離がどうにも苛立たしくて、詩月はわざと歩調を緩めた。
「詩月?」
気付けば詩月の隣を歩いていたことに、凪人は少し驚いたような表情を浮かべ、それから後ろに下がろうとする。
子どもの頃の話を、心陽と唯愛にしたからだろうか。それとも昨日今日と久しぶりに凪人と話したからだろうか。
今の凪人と、あの頃の凪人の姿がなぜか重なる。気付けば言葉が口をついて出ていた。
「一緒に帰ろうよ」
「え……」
詩月の言葉に、凪人は驚いたように立ち止まる。
別に、心陽の言うように今でも好きなわけじゃない。けれど、昔好きだった人というのはどこか特別で、今もこうやって一緒にいるとなんとなく気持ちがそわそわする。
大っ嫌いだと、思っていたのに。
「駄目……?」
「……ううん、一緒に帰ろうか」
少しだけ考えるような様子を見せながらも、凪人は優しく微笑んだ。
隣を歩く凪人と、特に会話をすることもなく帰り道を歩く。何を話していいかわからず、何か話した方がいいのではと会話を探してみたものの、考えれば考えるほどドツボにはまり、結局何も言えないまま歩き続けた。
「ふぁ、ふぁあ……」
隣で二度三度と大あくびをする凪人に、やはり無言のままでは退屈だったのでは、と思わず足を止めた。
「どうしたの?」
急に動かなくなった詩月に、凪人は立ち止まると不思議そうに首を傾げた。
「や、あの退屈、だったかなって」
「え?」
「ほら、眠そうだったから。私と一緒に帰っても退屈なのかなって」
詩月の言葉に、凪人はふっと柔らかく笑った。
「退屈なわけないでしょ」
そう言う凪人の胸元は、光ることはなかった。嘘を吐いていないということに安心して、でもそれじゃあどうしてという疑問が浮かぶ。そんな詩月の疑問を感じ取ったのか、凪人はもう一度欠伸をすると言った。
「最近いつも眠くてさ」
「寝不足?」
「んー、そういうわけじゃないんだけど」
もう一度大あくびをした凪人に「今日は早めに寝てね」と言うと「わかった」と言って笑った。
こんなふうに話をするのは、小学五年生のあの日以来だ。あの日から、詩月と凪人の関係は変わってしまった。
もう一度あの時みたいに戻れるのだろうか。隣を歩く凪人を見ながらそう思う詩月の頭を、再び小さな痛みが襲う。
あと少しで家に着くから、それまではどうか――。
漸く見えてきた自宅に安堵する。凪人も詩月の家が近づいてきたことに気付いたのか、小さく手を振った。
「それじゃあ」
「う、ん。また明日」
怪しまれないように、でも少しだけ早足で自宅に飛び込むと、玄関のドアを閉めてその場に座り込んだ。
「痛い……頭……痛い……」
少しずつ痛みが酷くなっていっている気がする。けれどこの痛みを、詩月は誰にも言えずにいた。言えばきっと心配かけることがわかっているから。
「凪、人……」
気付かないでほしい。でも気付いてほしい。そんな正反対な思いを抱えながら、詩月は玄関の冷たいタイルの上で丸まったまま意識を失った。
スマホが鳴り響く音で、詩月は気が付いた。辺りは薄暗くなっていて、前髪が汗で額にへばりついている。一瞬、なんでこんなところで眠っていたのかわからなかった。
「そっか、私……」
学校から帰ってきて。あまりの頭痛の酷さに倒れたことを思い出して息を吐いた。
両親が帰ってくるよりも前に気が付いてよかった。こんなところで倒れているのを見られたら、理由を聞かれるよりも先に救急車を呼ばれかねない。
「い……った」
身体を起こすと、側頭部に刃物で刺されるような強い痛みを感じた。以前に比べて痛みの頻度も、強さも大きくなっている気がする。
やはり、再発なのだろうか。せっかく今年が五年目だというのに、やはり駄目だったのか。
「ううん、そんなことない。ただの偏頭痛かもしれない。疲れているのかもしれない。もしそうじゃなかったとしても、風邪とか他の病気の可能性だってある」
まるで自分に言い聞かせるように、詩月は何度も何度も呟いた。
翌日、重い気持ちを抱えたまま詩月は学校へと向かった。朝から頭痛が酷く、いつもなら少し経てば落ち着くはずが今日は長びいていた。
一瞬、学校を休もうかとも思ったけれど両親に心配をかけたくなかったし、昨日の今日で休んだりなんかしたら凪人がどう思うか、それが不安で休むことができなかった。
学校に着くと、凪人の姿はまだなくて少し安堵する。家を出るときに、救急箱から取ってきた頭痛薬を口に放り込むと、水筒のお茶で飲み下す。これで少しはマシになってくれればいいのだけれど。
頭が痛い今日は、いつもよりも教室の喧噪が耳に障る。少しでも静かなところに行こうと教室を出ようと席を立った。
「あれ? 詩月どこか行くの?」
一つ前の席から、有希が振り返った。
「あ、えっと」
咄嗟に言い訳が思い浮かばず、口ごもる。普段なら何とでも言えるのに、頭が痛すぎて言葉が出てこない。
「どうかした? ってかさ、どこも行かないならこの間の話の続き聞いて欲しいんだけど」
有希は椅子を詩月の机に向ける。今にも「あのさー」と話し始めそうな有希の言葉を、詩月は遮った。
「ご、ごめん!」
「へ?」
「ちょっと先生のところに行かなきゃいけなくて。またあとで聞くね!」
「そっか、わかった。いってらっしゃーい」
手を振る有希にもう一度「ごめんね」と言うと教室を飛び出した。兎に角一人になれるところに行きたい。詩月は階段をひたすら上がり、屋上に通じる扉の前までやってきた。
少し前にトラブルがあったらしく屋上は閉鎖されている。なので、誰かがここまで来る心配はなかった。
扉に背中を預けて、そのまま床に座り込む。頭をもたれかからせた扉の冷たさが心地よかった。教室の喧噪が遠くなったおかげで、頭痛がマシになった気がする。もう少ししたら薬も効いてくるだろうし、それまでここに――。
「詩月?」
姿を見なくてもわかる。階段の下から聞こえてきた声は、紛れもなく凪人のものだった。
座り込んでいた詩月は顔を上げると、心配そうにこちらを見つめる凪人がいた。
「大丈夫……? もしかして頭、痛い……?」
不安そうに尋ねる凪人に、詩月は首を振った。
「ううん、教室がうるさすぎて批難してただけ」
何の躊躇いもなく嘘を吐く自分自身に笑ってしまいそうになる。きっとこれが他人なら、今頃胸元が光っているのが見えただろう。
「本当に……?」
それでもなお、凪人は心配そうな表情を崩さない。凪人に心配されたくなかった。頭痛のことを気付かれたくなかった。なのに。
「本当は頭が痛いんじゃないの? しんどくて、だからここに来たんじゃないの?」
「違う……」
「でも……」
「大丈夫だって言ってるでしょ!」
否定しているのに、それでもなお追求してくる凪人に、詩月は思わず声を荒らげた。
「詩月……」
驚いたように、そしてショックを受けたような表情を浮かべる凪人に後悔したけれど、もうどうしようもなかった。
「教室がうるさくてここにいるだけだから。お願いだから一人にして」
「……わかった」
凪人は「ごめんね」と静かに微笑むと、階段をあとにした。
薬が効き始めていたはずなのに、先ほど大きな声を出してしまったせいか、再び頭痛が詩月を襲う。
階段を下りる凪人の足音が完全に聞こえなくなるのを確認してから、詩月は深く息を吐いた。
あんな言い方をしたかったわけではない。傷つけたかったわけでもない。けれど、今再び詩月を頭痛が襲っていることを凪人が知れば、きっとまたあの日のことを後悔する。後悔して、自分のことを責めて、また心を痛める。もうそんな想いはしてほしくなかった。たとえ自分が悪者になったとしても。もうあの日のことなんて忘れてほしかった。
「ごめんね、凪人」
凪人のことなんか大嫌いだ。凪人が悪いわけじゃないのに、自分自身を責め続ける。詩月のことを守らなきゃと義務感と責任感でそばに居続ける、凪人のことが詩月は大っ嫌いだった。
「いっそ私のことなんて嫌いになってくれたらいいのに」
詩月を守らなきゃなんて思わえないぐらい嫌いになってくれたら、そうしたら解放してあげられるのに。
「凪人なんて……」
大嫌いと続けようとして、声が出なかった。喉の奥がキュッと狭まって空気が抜ける音しか聞こえない。
嘘でも大嫌いなんて口に出せないくらい、あの頃と変わらず凪人のことが大好きだから。
だからこそ、そばにいたくないしいられない。詩月と一緒にいる限り、凪人はあの日の後悔から逃れられない。
「頭、痛い……痛い、よお……」
次から次に、頬を涙が伝い落ちる。
「涙が出るぐらい、頭が、痛いよ……」
誰に聞かせるわけでもなく涙の理由を言い訳する。誰か、じゃなくて自分自身に言い訳するように。
気が抜けたように座り込んでいた詩月は、聞こえて来たチャイムに慌てて立ち上がった。少しウトウトしていたようで、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
先ほどのことを思い出し、重い気を引きずりながら階段を下りていく。薬が効いたのか、頭痛はほとんどなくなっていた。
予鈴が鳴ったため廊下には殆ど人の姿はなく、遅刻ギリギリで焦っているのか慌てて誰かが教室へと駆けていく足音だけが聞こえる。詩月も少し早足で教室へと戻った。
教室の扉を開けると、詩月以外みんな席に着いていて、先生が来たのかと勘違いしたのか教室中の視線を浴びた。――凪人を除いて。
いつもなら詩月をジッと見つめているはずの凪人の視線は、今は机に向けられていた。まるで頑なに、詩月を見まいとするかのように。
「遅かったね」
席に着いた詩月に、有希が振り向きながら声をかけてきた。
「うん、ちょっと話し長びいちゃって」
「そっか、お疲れさま」
気の毒そうに笑う有希に、詩月は申し訳なさそうな表情を作った。
「さっきの話、あとで聞かせてよ」
「え?」
「ほら、私が教室を出る前に言いかけていた話。さっき聞けなかったからさ」
「ホント? 聞いてくれる?」
パッと笑顔を浮かべる有希にホッとする。頭痛が酷くてぞんざいな態度を取ってしまっていたから。
ふと、詩月は違和感を覚えて振り返った。いつもならこちらを見ている凪人が、今日は一度も詩月の方を見てこない。他の人なら当たり前なのだけれど、凪人にとっては普通ではない。
さっき、言い過ぎただろうか。でも、それで詩月から離れられるならきっと凪人のこれからにとってはいいはずだ。
いいはずなのに。
凪人がこちらを一切見ないことに、寂しさを覚えるけれどきっといつか慣れる。慣れるはず、だから。
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