第二章
チャイムが鳴り、今日の授業が終わる。結局、一日中凪人が詩月を見ることはなかった。あんな酷いことを言ったのだから当然だ、と思う。けれど、どうしてだろう。凪人に嫌われたのではないかと不安な気持ちが湧き出てくるのは。
「今日、一日中変だったね」
帰る準備をしていた詩月に、有希は振り返って言う。
「え? あ、凪人のこと? ね。いつもあんなに――」
「花岡くんもだけど、詩月も」
「私?」
首を傾げる詩月に、有希は頷いた。
「そう。ソワソワしてるっていうか、なんかずっと不安そうっていうか」
「そんなこと、ないよ」
否定しながらも、そうだっただろうかと自分の行動を省みる。……そうだった、かもしれない。
「そんなに先生の話、悪かったの?」
「え?」
「や、だから朝の先生の話」
そういえばそんなことを言って教室を出て行った気がする。取り繕うように、詩月は苦笑いを浮かべた。
「あー……うん、そうなんだよね」
「小テストのことでしょ? まあね、詩月あれヤバかったもんね」
「小、テスト?」
有希がなんの話をしているのかわからなかった。けれど、詩月が置いてけぼりになっていることには気付かず、有希は話を続ける。
「花岡くんが何で呼ばれたか知りたそうだったから誤魔化しておいたよ。小テストの件だって聞いてピンときたんだから。私に感謝してよね」
「凪人?」
「朝、詩月が先生に呼ばれて行ったあと、花岡くんが詩月がどこに行ったか知らないかって聞いてきたから『先生に呼ばれてたのを思い出して出て行ったよ』って教えてあげたの。そしたら『小テストの件か』って」
「嘘……」
どうして、そんな。だって、先生に呼ばれたというのは詩月の吐いた嘘で、本当はそんな事実はない。それなのに――。
「詩月?」
「……ううん、なんでもない。えっと、とりあえず次のテスト頑張らないとまずいぞっていう話だったよ」
「もうすぐ中間だもんねー。はー、しんどいー」
詩月の机に突っ伏す有希に「頑張らなきゃね」と声をかけると詩月は立ち上がった。さりげなく凪人の方を見ると、まだ席に座っていた。このまま離れた方が凪人のためだと思う気持ちと、朝のことを謝りたい気持ちが入り交じる。
どうしようか悩んだ結果、詩月は一人教室を出た。そして。
「え?」
詩月を追いかけるように教室から出てきた凪人は、扉を出たところで立ち止まっていた詩月に驚いたように声を上げた。
「どうして」
「……ちょっと話したかったから」
「そう、なんだ」
動揺する凪人に「帰ろ」と言うと詩月は歩き出した。少し離れたところを、いつものように凪人はついてくる。
廊下を通り過ぎ、昇降口を出る。校庭横を通り抜けて校門を出ると詩月はそっと歩くペースを落とした。自然と、凪人の隣を歩く形になる。
いつものように帰りたいのではない。詩月は凪人と話が、ううん。朝のことをきちんと謝りたいのだ。
なんて切り出せばいいだろうか。とにかく謝って、それで――。
「凪人?」
色々考えていると、隣を歩いていたはずの凪人が少し小走りにどこかへ向かって駆け出した。いったいどうしたのだろう。凪人の行く先に視線を向けると、そこには荷物を持った一人のおばあさんがいた。
凪人はその人に声をかける。知っている人なのだろうか。
不思議に思いながら少し早足で追いつくと、凪人は何かおばあさんと話していた。
「大丈夫よ、ありがとう」
「でも、足痛いんじゃないですか?」
凪人は心配そうに言う。詩月は何があったのか凪人に問いかけた。
「凪人? どうしたの?」
「あ……。えっと、おばあさんがさっきそこで躓いて転んだんだ。そのときに足を痛めたみたいで」
「大丈夫よ。ありがとうね」
おばあさんは凪人にそう言うと、大きな荷物を持ったまま歩き出す。右足をひょこひょこと引きずるようにしながら。
「やっぱり捻ってますよ。ご家族の方を呼ばれたほうが」
「一人暮らしをしているから家族は誰もいなくてね。どうしても無理ならバスに乗るから心配しないで」
凪人に心配をかけまいと、おばあさんは言う。凪人は何かを迷うように詩月とおばあさんを見比べた。おばあさんを家まで送って行ってあげたい気持ちと、詩月を一人にしたくない気持ち、その二つで凪人の想いが揺れているのがわかった。
昔と変わらず、凪人は優しい。小学生の頃も、迷子になって泣いている子どもの母親を門限を過ぎても探し続け、結果的に自分が怒られていた。
他人のことを思って、誰かのために行動できる人。そんな凪人だから、あの頃の詩月は好きになったのだ。
「……おばあさん」
詩月はおばあさんの隣に立つと、手を差し出した。
「私が荷物持ちます」
「え?」
「凪人はおばあさんのことおんぶしてあげてくれる? この足だと歩くの痛いと思うから」
「詩月……」
少し驚いたような表情を浮かべたあと、凪人は顔をくしゃくしゃにして笑みを浮かべた。
「ありがと」
「……別に」
凪人のためじゃない。困っているおばあさんのためだ。そんなふうに言い訳をしながら、まだどうしようか悩んでいるおばあさんにもう一度手を差し出した。
「ね、無理に歩いて悪化しても困るしそうしましょう? 一人で暮らしているなら余計に足痛めたら困ると思うんです」
「……そう、ね。じゃあ甘えさせてもらおうかしら」
おばあさんは申し訳なさそうに微笑むと、詩月に荷物を手渡した。おばあさんが軽々持っていたのでそう重くはないと思っていたけれど、意外と重量のあるそれに一瞬焦りそうになりながら、けれどそんな姿を見せればおばあさんが遠慮してしまうと思い、必死に何でもないフリをする。
隣に立つ凪人が小声で「大丈夫?」と尋ねてきたので、小さく頷いた。
おばあさんを背に乗せると、詩月と並んで凪人が歩き出した。
「家はどの辺りなんですか?」
「この道を真っ直ぐ行くと小学校があるのわかるかしら? その近くなの」
それは詩月と凪人の卒業した小学校だった。
「私たち、そこの卒業生です」
「あら? そうなの?」
「はい。なので帰り道の途中ですし、気にしないでくださいね」
詩月の言葉に、おばあさんは「ありがとう」と微笑んだ。
暫く歩いていると、おばあさんはぽつりと言った。
「私にもね、あなたたちぐらいの孫がいるの」
「お孫さん、何歳なんですか?
「たしか来年高校生だったはずよ。……もう何年も会ってないんだけどね」
おばあさんの寂しそうな声が気にかかった。
「遠くに住んでるんですか?」
「そうね、娘の旦那さんの仕事の都合で違う県に住むことになったの。最後に孫と会ったのはまだ小学生の頃だったかしら。「おばあちゃん! おばあちゃん!」って可愛くて……」
涙混じりの声で言うおばあさんに、詩月も凪人も何も言えなかった。
「ごめんなさいね、年を取ると涙もろくて」
「いえ……」
「でもね、年を取ると不安になるの。あと何回、会いたい人に会えるんだろうって。二人はまだ若いけど、それでも会いたい人にはちゃんと会った方がいいわ。人間いつ何があるかわからないんだから」
おばあさんの言葉は、詩月の胸に重くのしかかった。『いつ何があるかわからない』再発に怯える詩月にとっては、まさにいつ再発して命がなくなるかわからない状況だ。
隣を歩く凪人にそっと視線を向ける。
隣にいるけれど、近くて遠い存在。会えているけれど、会話も殆どない状況。そばにいるけれど、隣にはいない。
もしも何かあった時、自分は後悔しないだろうか。もっと凪人と話しておけば良かった、と。
誰かじゃなくて、詩月自身が後悔、しないだろうか。
そんなことを考えながら、おばあさんを背負う凪人の隣を歩き続けた。
おばあさんの家は小学校の真裏にあった。この辺りは小学生の頃、よく遊んだ覚えがあった。それは凪人も同様だったようで、隣で「懐かしい」と呟いた。
「少し待っていてくれるかしら」と言うと、おばあさんは詩月から荷物を受け取り、自宅へと入っていく。待ってるようにと言われたので勝手に帰るわけにもいかず、門の前で待つことにした。
それにしても、この辺りまで来るのは小学校を卒業して以来だ。あの頃はよくこの辺りにも来ていた。たしか――。
「ここ真っ直ぐ行ったとこに公園あったよね」
同じことを考えていたのか、凪人はおばあさんちから北へと向かう道を指さした。
「あったあった。よく一緒に遊んだよね」
学校が終わってランドセルを置いたら、近くの公園まで駆けていき、先客がいれば別の公園に移動する。ここの公園も、数あるうちの一つだった。
「昔さ、あそこの公園で私が靴なくしたの覚えてる?」
「覚えてる。缶蹴りやってたら、思いっきり靴まで飛ばしたんだよね」
あれは小学二年生、だっただろうか。家の近くの公園が全部高学年の人に使われていて、初めてここに来たときのことだった。
「そうそう。茂みに入ったはずなのにどうしてか全然見つからなくて。どんどん暗くなってくるし、でも靴がなかったら帰れないしで凄く悲しくて、泣きそうになるのを必死に我慢してさ」
当時は恥ずかしいやら悲しいやらでいっぱいだったけれど、こうやって思い出すとなんとも懐かしくて微笑ましさすら感じる。
その時のことを思い出しながら、沈み始めた夕日を見つめていると、隣に立っていた凪人が「ふっ」と笑った。
「何?」
「泣きそうになるのを我慢してたんじゃなくて、泣いてたでしょ」
「な、泣いてないよ!」
「嘘ばっかり。詩月があまりにも泣き止まないから、どうしたらいいか困ったんだから」
そう、だっただろうか。そんな記憶は詩月にはない。ただ。
「でも、おんぶして帰ってくれたよね、私のこと」
「……置いて行けないからしょうがないだろ」
顔を背ける凪人の頬が、少し赤らんで見えて笑いそうになるのをなんとか堪えた。
今でも覚えている。殆ど身長も体重もが変わらないはずの詩月のことを、落とさないように必死で負ぶって歩いてくれた。
「あのときの凪人、カッコよかったよね」
「……ども」
あの頃は、隣にいるのが当たり前だった。なのに、今は近くにいても遠くに感じてしまう。
溜息を吐くと同時に、ドアの開く音が聞こえた。
「お待たせしちゃってごめんなさいね」
そう言って出てきたおばあさんは、手に何かを持って出ていた。
「これね、すぐそこのアイス屋さんの無料券なの。お礼が貰い物なんてよくないとは思ったんだけど、お金だと受け取ってもらえないとおもって」
おばあさんの言葉に、詩月は凪人と顔を見合わせる。たしかに『これでアイスを買ってね』とお金を渡されたとしても固辞しただろう。けれど、貰い物のチケットなら受け取りやすい。そこまで考えてわざわざ探してくれたのであれば――。
「ありがとうございます」
同じことを考えたのか、詩月が口を開くよりも先に凪人がお礼を言う。慌てて詩月も「ありがとうございます」とお礼を言うと、頭を下げた。
「こちらこそありがとう。家まで運んでくれたことは勿論だけれど、あなたたちの優しさに触れられてとても嬉しかったわ」
おばあさんはにこやかな笑みを浮かべていた。
おばあさんの家をあとにして、詩月たちは近くにあるというアイスクリーム屋へと向かった。詩月たちが小学生の頃にはなかったように思うから、最近できたのかもしれない。
「あった」
先に見つけたのは凪人だった。詩月が視線を追いかけると、ピンク色の屋根をしたポップなアイスクリーム屋があった。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、人の姿はまばらでそこまで混んではいないようだった。無理もないかもしれない。ここから一番近い学校は詩月たちの通っていた小学校だ。小学生の小遣いでは――いや、小遣いはなんとかなったとしても、小学生がアイスクリーム屋に行って子どもだけで注文するというのはなかなかハードルが高く思えた。コンビニならまだしも、だ。
「あの、このチケットを貰ったんですけど」
レジにいた店員に凪人が先ほど貰ったチケットを見せると「ああ」と笑みを浮かべた。
「このチケットなら、どのアイスでも注文できますよ。どれにしますか?」
店員に言われ、凪人はボックスの中を覗き込むけれど詩月は見なくても決まっていた。
「私はバニラで」
「じゃあ、俺は抹茶で」
「え?」
「何?」
「あ、ううん。なんでもない」
凪人の選んだアイスに驚いて、詩月は思わず声を上げてしまった。だって、小学生の頃は――。
「昔は抹茶苦手だったのに、とか思ってる?」
店員がアイスをコーンに入れてくれているのを見ていると、隣に立った凪人が言った。
「……思ってる。だって苦手だったでしょ?」
「何年前の話だよ。あの頃は苦手だったけど、今は好きだよ」
「そう、なんだ」
いつの間にか伸びた身長、気付けば少し低くなった声、変わった好み、話さないだけでずっと一緒にいた気がしていたけれど、詩月が目を背けていただけで、今の凪人はもう詩月の知っていた凪人とは違うのかもしれない。それが何故か寂しくて、切なくて、胸が痛い。
「……でも」
俯きそうになった詩月の耳に、凪人のちょっと恥ずかしそうな声が聞こえてきた。
「相変わらずカレーは甘口が好きだけど」
「え?」
思わず顔を上げると、凪人は詩月を真っ直ぐに見つめていた。
「あの頃と変わったこともあるけど、今も変わらないことだってあるよ。詩月だって、同じだろ?」
「あ……」
あの頃と変わらずバニラのアイスが好きで、けれどいつの間にか苦手だったわさびが食べられるようになった。お寿司の玉子ばかり食べちゃうけど、あの頃食べられなかったホタテが気付けば好物になっていた。変わったことばかりではない。変わらないことばかりでもない。それでも今の詩月も凪人もあの頃の延長線上にいる。決して、あの頃と繋がっていないわけではないのだ。
「そう、だね」
「そうだよ」
隣に並ぶと、凪人を見上げなきゃいけなくなった。でも、隣が居心地いいのは、今も昔も変わっていない。
「お待たせしました」
受け取ったアイスを手に、どちらともなく近くの公園に向かった。詩月が靴をなくしたあの公園に。
五時を過ぎたこともあり、公園にはもう子どもの姿はなかった。忘れられたサッカーボールだけが、ポツンと転がっている。
街灯の下のベンチに並んで座ると、凪人は自分の持っているアイスを詩月に差し出した。
「一口いる?」
「え、あ……うん」
まだ口の付けられていないアイスを一口もらう。抹茶のほろ苦さとほのかな甘さが口の中に拡がった。
「美味しい!」
詩月の言葉に、凪人も自分のアイスを一口食べると「うん、美味しい」と笑った。損な凪人に、詩月は少し悩みながら自分のアイスも差し出した、
「こっちも、一口食べる?」
緊張していることを気取られないように、何気なさを装って。
「……うん」
凪人も少し躊躇うように頷くと、詩月が差し出したアイスを一口食べた。
「……甘い」
「まあ、バニラだしね」
「そうだね」
そのまま二人並んでアイスを食べた。バニラのアイスなんて子どもの頃から何回も食べていて、食べ慣れているはずだった。なのに、今日食べたアイスが、今までで一番美味しい気がするのは、どうしてだろう。
アイスを食べ終わる頃には、辺りはすっかり暗くなり、詩月たちの頭上の街灯が公園を照らしていた。
「遅くなっちゃったね、そろそろ帰ろうか」
そう言って凪人は立ち上がる。いつぶりだろう、というぐらい久しぶりに楽しく離すことができたのに、このまま帰ってしまえばまた全てが元に戻ってしまうかもしれない。
土日を挟んで月曜日を迎えてしまえば、凪人はまた詩月から距離を取ってしまうかもしれない。我が侭かもしれないけれど、そんなのは嫌だった。
「あ、あの」
「え?」
立ち上がることさえできずベンチに座ったままの詩月に、振り向いた凪人は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 帰らないの?」
「帰るん、だけど」
「詩月?」
「……あの、えっと、明日って暇、かな?」
歩き出した凪人の隣に並ぶと、詩月は少し緊張して声が上擦るのをなんとか堪えて切り出した。けれど。
「明日? 明日かぁ」
悩ましそうに言う凪人に、詩月は慌てて訂正する。
「明日じゃなくて明後日でもいいの。この土日のどっちか、暇してないかなって。や、特に行きたいところがあるわけじゃないんだけど。なんか、なんだろ。せっかくだしもうちょっと凪人と話がしたいというか」
「俺と……?」
驚いたような声を上げる凪人に、詩月の先ほどまでの勢いはどんどんとしぼんでいく。そもそももう少し話したいってなんだっていう話で。そんなこと突然言われても凪人だって困るというか、困らないにしても唐突にこいつ何を言い出してるんだって怪訝に思われる可能性だってある。
でも、それでも。少しでいいから凪人と過ごす時間が欲しかった。
「どこか行きたいところがあるわけじゃないんだよね?」
「え、あ、うん」
「それじゃあさ、図書館でもいい?」
「図書館?」
今度は詩月が首を傾げる番だった。宿題でもしにいくのだろうか。それとも読みたい本でもあるのだろうか。不思議に思っていると、凪人は話を続ける。
「うん、明日読み聞かせの日なんだ」
「読み聞かせって、小学校の時にあったみたいな?」
「そうそう。月に一度、中央図書館でボランティアの人がやっててさ。知ってる?」
首を振る詩月に「まあ普通知らないよね」と凪人は笑った。
「読み聞かせに行ってどうするの? 聞くの?」
「なんでだよ。読むの」
「誰が?」
「俺が」
「何を?」
「絵本を!」
「え……えええ!?」
知らないうちに抹茶を食べられるようになっていたこと以上に詩月は驚いた。だって凪人が図書館で子どもに読み聞かせを、それもボランティアで。俄には信じられなかった。
けれど、凪人の胸元はいつもそうであるように光ることはない。ううん、そんなので確認しなくたってわかる。凪人は決して嘘を吐かない。それは詩月がよく知っていた。
ただ嘘ではないとわかっていることと、驚かないということは全く別物で。
「そんなビックリする?」
「や、だって。凪人と読み聞かせが結びつかなくて」
「まあ、そうだよね」
「そうだよ。小学校の時の読み聞かせ、いつも『退屈だー』『つまらないー』って言ってたし」
詩月の言葉に「たしかに」と笑う凪人は、少し大人っぽい表情をしているように見えた。
「中学の時かな、先生に頼まれて行ったんだけど、俺なんかがさ拙い感じで読む絵本に子どもらが凄く食いついてきて。それが妙に嬉しくて、そこからハマっちゃったんだよね」
「読み聞かせに?」
「そう、変かな?」
「ううん、変じゃないよ。変じゃないけど、想像つかないな」
そう言いながら、詩月はほんの少しだけ寂しさを覚えた。また一つ、詩月の知らない凪人がいることを知ってしまった。勝手に凪人のことなら知っているような気になっていたけれど、本当は詩月が知っている凪人なんてほんの少しで、知らないことの方が多いのかもしれない。それはなんだかとても寂しいことのように思えた。
「だから、明日一緒に図書館に行こうよ。そうしたら想像つくでしょ」
「いいの?」
「いいのっていうか、来たら来たで手伝ってもらうから俺の方こそ『いいの?』だけどね。どうする?」
「行く!」
即答する詩月に凪人は笑う。
「おっけ。じゃあ十二時半ぐらいに迎えに行くよ」
「いいの?」
「どうせ同じところに行くんだから一緒に行けばいいだろ。行きながらどういうふうにするかの説明もできるしね」
「わかった」
そうこうしている間にも、詩月の自宅が見えてきた。そういえば、凪人の家は少し手前を曲がるはずなのに、どうして。
「なぎ――」
「じゃあ、また明日」
「あっ」
詩月が尋ねるよりも早く、凪人は手を振ると元来た道を帰っていく。その後ろ姿を見送りながら思う。
詩月の少し後ろを歩く凪人のことは大嫌いだった。様子を窺って、視線だけ向けて、でも決して詩月に話しかけようとしない凪人のことが大っ嫌いだった。
でも――。
隣で笑って話す凪人のことは、嫌いじゃない、かもしれない。
翌朝、土曜日なのにいつも学校に行くのと同じ時間に目が覚めた。緊張して――ではなく、酷い頭痛で。
「いっ……た……」
痛くて痛くて、ベッドから起き上がることができない。今日は凪人と一緒に出かけるのに、どうしてこんな。
「だ……め……」
声を出したら、隣の部屋で寝ている両親に聞こえるかもしれない。布団を固く握りしめ、必死に声を押し殺す。
脂汗が額から頬を伝って落ちていく。シーツに染みを作るけれど、気にしている余裕はなかった。
目を閉じて、なんとか痛みをやり過ごそうとしてみる。このまま眠ってしまえれば、寝ている間は痛みを感じないかもしれない。目が覚めたら痛みがマシになっているかもしれない。
必死に痛みに耐えた詩月は――まるで気絶するように、もう一度眠りについた。
次に目覚めたのは、随分と日が高くなってからだった。カーテンの隙間から漏れ入る太陽光が、倒れるように眠っていた詩月の顔を照らした。
「ん……あ……」
身体を起こすと、まだ少し頭痛は残っていたけれど、先ほどに比べると随分とマシになっていた。これなら薬を飲めば、なんとかなるかもしれない。
スマホの時計を確認すると午前十一時半と表示されていた。あと一時間で凪人が迎えに来てしまう。
慌ててパジャマを脱ごうとするけれど、寝汗でぺたりと身体にくっついていた。あまりの痛みに汗をかいたようで、パジャマが薄ら濡れていた。
パジャマを洗濯機に入れるついでに軽くシャワーを浴び、なんとか凪人が迎えに来る十分前に準備を終えることができた。
「――お待たせ!」
外で待っていた凪人の元に、詩月は慌てて駆け寄る。準備は終わっていたのだけれど。
「ごめん、ご飯食べるの忘れてて」
準備ができて外に出ようと思った詩月に、母親が「朝も昼も食べずに行く気?」と少し怒ったような声で言ってきたのが五分前。そこから慌てて食べて出てきたせいで、結局五分程凪人のことを待たせることになってしまった。
「大丈夫だよ、どうせここから歩いて十五分もかからないし。集合時間には余裕があるから」
「読み聞かせって何時からなの?」
「十三時。俺たちは三十分前に図書館について、リーダーから説明を受けるんだ」
当たり前のように隣を歩きながら、凪人は詩月に説明する。時折肩が当たって「ごめん」と言われるのだけれど、それすらなんとなく嬉しく思ってしまう自分がいることに、詩月は気付いていた。
詩月たちが図書館に着いたのは、集合時間の五分前だった。図書館の入り口に行くと、そこにはすでに今日のボランティアと思われる人たちが集まっていた。
「その子が今日初めての子?」
「はい、そうです」
大学生ぐらいだろうか、年上の女の人が凪人に話しかける。凪人が詩月のことを紹介すると、サインペンと首から提げるネームカードを渡された。
「ここに名前書いてくれるかな? あ、小さな子たちにわかるようにひらがなでね」
「わかりました」
受け取ったサインペンで『しづき』と書いた。凪人たちも同じようにひらがなで名前を書いたカードをぶら下げていた。
「ふ、ふふ……」
「どうしたの?」
首から下げたネームカードを見て笑う詩月に、凪人が首を傾げた。
「や、なんか『なぎと』ってひらがなで書いてるの見るの小学校ぶりだなって思ったらちょっとおもしろくなっちゃって」
「そんなのお互い様だろ」
「まあそうなんだけど。子どもの時はそうは思わなかったけど、ひらがなで書くとこんなにも間が抜けた感じになったんだなって」
詩月の言葉に、凪人は自分のネームカードを見て「ホントだ」と笑った。そんな他愛のない会話が楽しくて仕方がなかった。
開始時間の少し前に、詩月は凪人と一緒に絵本コーナーへと向かった。ここは一番小さな子たちが来るコーナーで、それ以外にも小学校低学年向けの読み聞かせコーナーもあるようだった。
子どもたちが我先にと集まってくると、凪人は優しく声をかけた。
「こんにちは、今日の一冊目はこの絵本です。知ってる人もいるかな?」
「しってる!」
「ぼくも!」
凪人の持っている絵本は、詩月も子どもの頃に読んだことがあった。三匹の子羊の兄妹がお母さんを探して冒険に出る物語だ。
「知っているお友達も、はじめてのお友達も楽しんでくれたら嬉しいです」
始まりの合図を告げると、子どもたちの拍手とともに読み聞かせはスタートした。
凪人は感情豊かに絵本を読んでいく。時に三匹の子羊に、時に悪の狼に、と。詩月はそんな凪人の読み聞かせを驚いて見ていた。
「――そして三匹とお母さん羊は、仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
最後まで読み終えると、始まったときよりも大きな拍手の音が鳴り響く。子どもたちは思い思いに感想を口にする。それを凪人は嬉しそうに笑みを浮かべて眺めていた。
「お疲れさま」
「詩月。その、どうだった?」
「上手だったからビックリした」
詩月の言葉に凪人は照れくさそうに笑う。それから、思い出したように言った。
「そういえば読み聞かせのことさ、学校の人には言わないでくれる?」
「それは大丈夫だけど、どうして?」
「ボランティアでこういうことしてるの、誰にも言ったことがなくて。詩月しか知らないんだ。だから」
凪人はまだ何か言っていたけれど、もう詩月の耳には入っていなかった。
詩月の知らない凪人がいると思って少し寂しく思っていた。でも、詩月が新しく知った凪人の姿は詩月以外、誰も知らない。詩月しか知らない凪人の姿。
「詩月?」
「わかった、誰にも言わない。だから凪人も誰かに言っちゃ駄目だよ」
「え? あ、うん。俺は言わないけど」
「約束ね」
当たり前のように小指を出した詩月に、凪人は一瞬固まって、それから噴き出した。
「凪人?」
「いや、約束ね」
小指を絡めて約束を交わす。まるで幼い頃の二人がそうしたように。
暫くして、辺りが俄に騒がしくなった。どうしたのかと思うと、女の子と男の子が言い合いをしていた。五歳ぐらいだろうか、二人とも絵本を持ったままにらみ合っている。
「だから! つぎはこのごほんをよんでもらうの!」
「ぜったいこっちがいいって!」
「じゅんばんまもってよ! わたしがさきだったでしょ!」
一冊目の本は凪人が選んで読んだけれど、二冊目以降は子どもたちが持ってきたものを順番に読むことになっているらしい。今揉めているのはどちらのを先に読んでもらうか、ということだった。
「わたしがさき!」
「おれがさきだよ!」
どちらも引かない様子に、凪人と目を合わせ頷く。
「それじゃあこっちはお姉さんが読もうかな。お兄さんとお姉さんで一冊ずつ読むから、聞きたい方を――」
「それじゃだめなの!」
詩月の言葉を、女の子は怒った様子で遮った。
「だって、じゅんばんでしょ? じゅんばんぬかししたけんたくんまでいちばんなんてへんじゃないの?」
「それは、そうだけど」
五歳に言い負かされそうになる。けれど、たしかにこの女の子の言うことは正しかった。喧嘩にならないようにどちらも読むというのもきっと間違いではない。でも女の子の言う通り、順番に読む、というルールなのであればどちらも一番というのは間違っている。
「それにけんたくんといっしょにこのごほんをききたいの!」
女の子の主張に頭を悩ませ、凪人の方へ視線を向ける。けれど凪人も詩月と同じように悩ましい表情を浮かべているのが見えた。
「わたしの!」
「おれの!」
どちらも一歩も引かない二人に、どうするのが正解なのだろうと悩んでしまう。
「でもさ、そんなえほんぜったいおもしろくねーよ!」
「な……」
「こっちのほうがあわくわくできてぜったいにたのしいって」
そう言った瞬間、男の子の胸元がぽわんと光ったのがわかった。嘘を吐いている。でも、どうして。
嘘も気になるけれど、今はそれよりもこの二人をどうにかしなければ。読み聞かせをしているとはいえ、ここは図書館で。これ以上騒ごうものなら、先ほどからこちらを何度もチラチラと見ている図書館の人から叱られそうな気がする。
詩月は女の子と目線を合わせると、持っていた絵本を覗き込んだ。
「わ、凄く可愛い」
「でしょ! これねまいがいちばんすきなえほんなの!」
まいという女の子が見せてくれた絵本は、ウサギの女の子が大好きなウサギの男の子と夢の中で遊びに行くというお話だった。目をキラキラさせて話しているのを見ると、こちらまで嬉しくなってくる。
「おうちにもあって、けんたくんといっしょにこのえほんみたいなっておもってて。だから……」
「そっか……」
自分の好きなものを好きな人にも知って欲しい。もし好きになってくれたらもっと嬉しい、そんな女の子の感情が伝わってくるようだった。その気持ちは詩月にもわかる。でも。
「自分の好きなものを好きな子が気に入ってくれたら嬉しいよね」
「うん! だから」
「でもね、好きな子の好きなものを知るのはもっと嬉しいことかもしれないよ」
「好きな子の、好きなもの?」
詩月の言葉の意味が気にかかったようで、まいは不思議そうに、けれど真剣な眼差しを詩月に向けた。
「どういうこと?」
「けんたくんの好きなものとか嫌いなものとかまいちゃん以外の女の子が知ってたら嫌じゃない?」
「やだ!」
「でしょ? じゃあ今日、けんたくんがどんな絵本が好きなのか知れたら、他の女の子の知らないけんたくんをまいちゃんは知ってることになる。それって嬉しくない?」
「……うれしい、かも」
まいちゃんは絵本をギュッと抱きしめると、頬を少し赤らめた。
「これ、もどしてこようかな」
「どっちも読むから、戻してこなくていいよ」
そう言いながら、詩月の視線はけんたに向けられていた。
詩月はけんたの正面に立つと、しゃがみ込んで目線を合わせた。
「な、なんだよ」
「ねえねえ」
詩月は声を潜めると、けんたの耳元で言った。
「好きな子の気を引きたいからって、別に読んで欲しい訳じゃない本を持ってきて意地悪するのはかっこわるいと思うよ」
「なっ……!」
詩月の言葉に、けんたの顔が真っ赤になったがわかった。
まいとけんたが揉め始めてからずっと、けんたが「このほんがすきだ」「このほんをよんでほしい」と言うたびに胸元が光っていた。だから考えた。けんたがそんな嘘を吐く理由を。そしてどうやら詩月が想像した理由は、大正解だったようだ。
「べ、べつにそんなんじゃないからな!」
「そうなの?」
「そうだよ! な、なんで俺があんな――」
「しんかんせんのごほん?」
けんたが悪態を吐こうとしたのと同時に、けんたの持っていた本をまいが覗き込んだ。
「ねえ、これどんなごほんなの?」
「どんなって……。このしんかんせんはどこをはしってるとか、しんかんせんのなかはどんなふうになってるとかってそういうのだよ」
「へー! まいね、しんかんせんこのまえのったよ! とうきょうのおばあちゃんちにいったの」
まいは楽しそうに新幹線に乗った話をけんたにする。けんたは最初こそ適当に話を聞いていたけれど、新幹線の話をし始めた途端、まいの言葉に夢中になった。
そろそろ良さそうだ。
「じゃあ、どっちの絵本から読んでもらおうか? 先に読む本を持ってきてもらっていいかな?」
詩月の言葉に、まいはたかしに言った。
「たかしくんのをさきによんでもらっていいよ!」
「え……?」
「そのあとでまいのをよんでもらうから、いっしょにきいてくれる?」
「もちろん!」
そう言った後、けんたは少しだけ気まずそうに、けれど真っ直ぐ頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「え?」
「さっきじゅんばんぬかししちゃって」
「ううん、だいじょうぶ。ね、ならんでいっしょにきこう?」
手を差し出すと、まいはけんたの手を握りしめ一番前に座る。漸く落ち着いた空気に、凪人はけんたから渡された物語を読み始めた。
読み聞かせの時間が終わり、まいとけんたが「またね!」と手を振りながら保護者と帰っていく。絵本コーナーに残された詩月と凪人は、今日読んだ絵本を一冊ずつ片付けていた。
「……詩月はすごいね」
「え?」
片付けの最中、凪人がポツリと呟いた。
「だってああやって子どもたちがちゃんと納得できるように説明してたでしょ。それって凄いことだと思うんだ。言うこと聞いてくれなかったり、話が通じなければ嫌になることだってあるだろうし」
「そんなこと、ないよ」
凪人の言う通り、詩月が偉いなんてことはない。ただたまたまけんたのついた嘘が目についたから、気になっていただけだ。
「……詩月は凄いね」
「何が?」
凪人は最後の一冊を本棚に戻すと、詩月に笑みを浮かべた。
「ああいうふうにどちらの気持ちにも寄り添えるのは、詩月の凄いところだと思う」
「そう、かな」
「そうだよ」
褒められるようなことはできていない。見えてさえいれば誰にでも気付ける。詩月が凄いわけではないのだ。
「詩月はさ、そんなことないって思うかもしれないけど、ああやって誰かの痛みや気持ちにより添えることができるのって凄いことだと思う。誰にでもできることじゃない。現にあの二人が今日を楽しく終えられたのは、詩月のおかげだよ。俺じゃできなかった」
凪人はそう言うと詩月に微笑みかけた。
「でも……」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
曖昧に微笑むと、詩月は詩月は首から提げていたネームカードを外しながら思う。他の誰の気持ちに寄り添えたって、本当に寄り添いたい人の気持ちに寄り添えなければ意味がない。
詩月が寄り添いたいのは、知りたいのは、隣にいる近くて遠いたった一人のことなのだ。
止まっていたはずの時間が、いや。止めたとばかり思っていたはずの気持ちが、今再び動き出す音が聞こえた気がした。
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