砂漠の針: 彼らの視点

 一面が雪に覆われた高原の中に、朝居(あさい)医療センターはたたずんでいた。

 カップに注いだコーヒーすら凍ってしまいそうな寒さに、こんなところに収監されてはさらに頭をおかしくしてしまうのではないかとさえ感じられる。だが職員によれば、寒ければキチンと行動するようになるから心の健康に良いんです、という話らしい。

 医療センターとは名ばかりなのか、建物の周りは頑丈そうな塀にぐるりと囲まれている。警備員らしき屈強な男たちも、あちこちで目を光らせているようである。

近寄り難い雰囲気からもわかる通り、朝居医療センターは一般人向けの医療施設ではない。俗に閉鎖病棟と呼ばれる類の施設であり、精神的な疾患を抱えた犯罪者、もしくは前科者が収容されている場所だった。 

 3枚の通行証を見せられた監視員が、塀の中まで車を案内する。

意外にも施設の中は穏やかで、サクラの木々や花壇、テラステーブルまでが設置されている。中庭では患者たちらしきグループが除雪作業を行っており、何かをしてさぼろうにも寒さで不可能なためか、全員それなりに熱心に働いている様子だった。

 車を停めて時計を見ると、まもなく針が予定の時間を指そうとしていた。慌てて受付ロビーまで急ごうとしたが、杖がなければ真っすぐ歩けもしない体では走ることもできなかった。結局肩を借りながら、数分遅れで医療センターに入ることとなった。

 「こんな面倒な場所にあるとはな」 

 受付と手続きを済ませてタバコを取り出す。面会に来たということもあって、手荷物や金属類の持ち込みも厳しく検査された。タバコに火をつけようとしたが、すぐ目の前に喫煙厳禁と書かれており、仕方なくポケットに戻した。

面会のためやって来た訪問者は待合室に案内され、各々の確認が終わるまで待たされる。休憩室といってもテレビどころか雑誌の一冊も置かれていない空間で、あるのは医療パンフレットと、読み方もわからない外国語の医学書だけだった。

視線を窓の外に向ける以外にすることがない中、よほど暇だったのか、先に待合室に入っていた1人の男が話しかけてきた。

 「失礼、貴方たちも面会ですか?」

歳は30くらいに見えるが、いかにも苦労が多い人生を送っていそうな、しわと白髪の多い男だった。頷いて返すと、男はそうですかと言いながら近くの席に座り直す。

 「私は父親に会いに来たんです。父はその…悪い癖が多くて。母が亡くなってからというもの毎日のように揉め事を起こしてました」

 男は同じように窓に写る景色を見ながら話し始めた。

 「なんでも、子どもの頃に受けてた虐待が、あの歳になってフラッシュバックするようになったみたいで。酒を飲んではパニックを起こして、今では塀の中です。いい人だったんですがねえ。あんな変人になってしまうなんて」

 男は少し肩を落としながら、どこか恥ずかしそうに頭をかく。見た目の疲れ具合の通り中々に苦労しているらしい。

 「まあ、生き方なんて、誰にも決められないですから」

 後ろのソファに座っていた彼からそう言われると、男は頷いては苦笑を浮かべた。しばらくすると名前が呼ばれたようで、一礼して待合室を出ていった。

 男が去れば、京吾はソファに座る彼を一瞥しながらも、もう一度窓の外を向いた。窓の外を眺める中、頭にぼんやりの浮かんでくるのは、あの3日間の出来事だけである。

 時間にしてみれば短いが、あまりにも多くのことがありすぎて、あの3日の間に10年分は歳をとったように感じられる。少し記憶が飛んでしまっているところもあるが、4年と数か月が経過した今でも、自分が辿った数奇な運命を忘れることはなかった。

 何とか黒間たちを爆殺することができたものの、京吾と累の2人は、力尽きる寸前まで追い詰められていた。

 死は避けられないと思われたが、彼らを窮地から救ったのは、旧地下駐車場での異変を知り突入した機動隊員たちだった。リフトの前に倒れていたところを発見されると、すぐさま累は救助され、ギリギリのところで京吾も命を拾われたのだった。

 当然ながらホテルを制圧した警官や機動隊員には、何が起こったのか検討もつかない状況であった。

部屋から逃げた犯人と人質をホテルの部屋に追い詰めていたはずが、累たちが発見されたのは、神経系の毒ガスが撒かれた旧地下駐車場の中。その場の警戒に当たっていたはずの数人の隊員たちも全員意識を失っていた。

何よりも、爆発して豪炎を吹き上げるリフトと、脚から大量に失血しながら倒れていた京吾の姿は、現場にかけつけた隊員たちの言葉を奪った。犯人がリフトでの逃走をはかって失敗したのか、それとも機械系統の故障で起こったトラブルなのか、何にせよ彼らの予測や理解を越えた異常な光景が、ホテルの地下で待っていたのである。

 唯一何があったかを察知できたのは、黒間の異変に気付き彼を追いかけてた捜査官、大鳥だけだった。

黒間を追って別のルートから地下に突入した大鳥は、意識を奪われそうになりながらも、毒ガスが撒き散らされた地下空間を探索していた。そして一足先に、重傷を追って倒れている京吾と累を発見したのだった。結果として、2人を死なせてはならないと迅速に処置に当たった彼のおかげで、2人は助けられたのである。

 京吾は、二日ほどは意識を失ったままだった。しかし何とか命を拾われることができ、警察が手配した医療機関のベッドの上で、辛うじて地獄から意識を取り戻した。

目が覚めたばかりの頃は何があったほとんど思い出せなかったが、累の顔だけは鮮明に焼き付いて離れることはなかった。放心していた彼のメンター的な役割を担ったのも大鳥だった。

 『ここ数日何があったか覚えてるか?』

 そう聞かれても、京吾の頭の中はごちゃごちゃなままであり、何も答えることができなかった。大鳥は彼に記憶を探らせるように、事件の結末を話してやった。

 黒間及び機動隊員の装備を奪ってホテルに侵入していた九院寺統一郎は、爆発炎上したリフトの中で死亡。その他現場に潜伏していた者、逃走をはかった者も、夜が明けない内に全員が確保された。

累が握っていた証拠を鍵に真相を知った大鳥の指示により、一族の面々もすぐさま身柄を拘束された。たった一晩のうちに、一族は事実上の壊滅を迎えることとなったのである。

指示役である九院寺喜代美を中心に、追い詰められた一族の面々もしばらくの間は、捜査チームへの反抗を続けていた。しかし事態を知った青野谷ら一族への協力者たちが次々と口を割ったことで、連邦捜査局までもが合流して突入に踏み切り、わずか一時間足らずで制圧されてしまった。

大鳥に一族の末路を聞かされた京吾はようやく安堵した。そして同時に、自分と累に何があったか、記憶を蘇らせていた。

一通りの話を聞き終わる頃には、累とともに死の間際まで追い詰められたことも、最後に自分が黒間にとどめを刺したことも、何も知らずに病床にいるであろう母のことも、全てを思い出すことができた。

 『一族は終わりだ。今までの犯行も、密売団との協定も...奴らの蛮行も。全てが明るみになりつつある』

 そう言って大鳥が広げた新聞には、一族の崩壊とともに、警察側の大失態を伝える記事も大きく取り上げられていた。

一族の指示役が内部に忍び込んでいたという異常な事態に、警察へのバッシングも多かったらしい。チームは一度解体され、一連の事件の後始末は連邦捜査局のみが行うことが決定した。唯一九院寺累と京吾との繋がりを持っていた大鳥ら数人だけが、捜査に残ることになったのである。

 語るまでもなく、信用していたリーダーが全ての黒幕だったことを知った大鳥が受けたショックも、計り知れないものだった。自責の念にかられ、全てが終われば職を辞すると大鳥は決めていたが、「自分の役目からは逃げられんからな」と、京吾や累の聞き役を引き受けていた。

 『じゃあこれで...全部終わったってことか?』

 ベッドの上で京吾がつぶやいたが、大鳥は首を横に振った。

 『いいやこれからだ。アンタにはまずこれがある。ボロボロなところ悪いが、逮捕状だ』

 大鳥にそう言われて京吾は、自嘲するように笑い出してしまった。

 あまりにも特殊なケースではあったが、結局のところ累の拉致をはじめとする犯行が、全てなかったことになったわけではない。その後京吾は、改めて身柄を拘束されることとなった。

しかしながら、累の家族は全員がお縄になった上に累自身から訴えられることもなかったため、前例と比べても京吾の刑期は短くなった。彼がそもそも凶悪犯になれるほどの意思を持っていなかったこともあり、4年が経った現在は保護観察期間となっている。黒間に半殺しにされた後遺症で体には麻痺が残り、杖がないと歩けないほどに脚の怪我も重傷となっている点でも、再犯の可能性は極めて低いとされた。大鳥曰く『死なずに済んだのが幸運』なほどの大怪我である。

 体の怪我は一生治ることはないだろうが、京吾の心情は、彼が思っている以上に爽やかだった。

 しばらくは医療センターの外に広がる景色を見ながら記憶をたどっていたが、ようやく名前を呼ばれると、京吾は杖を使って立ち上がった。

 「金属類はこちらに置いてください。鈍器となりそうな物も持ち込み禁止です」

 若い職員にそう言われるが、持ち物と言えば杖くらいであり、「これも禁止か?」と尋ねながら差し出す。職員は少し険しい顔を浮かべて杖を調べ始めたが、京吾が荷物代に手をつかないとまっすぐ立つこともできないのを見ると、仕方なさそうに杖を返した。

 「面会時間に制限はありませんが、30分に1度は休憩を設けさせていただきます。物品の受け渡しはできませんし、身体的な接触も禁止です。また、患者に異変が見られればこちらの判断で面会を打ち切らせていただきますので、あらかじめご了承を」

 「ああ、わかってます。どうも」

 そう返した京吾は、連れにちょっと待ってろよと声をかける。そのまま職員に面会室へと案内された。

 あらためてドアの前に立つと妙な緊張感を覚えたが、そんなことはお構いなしに職員が扉を開けてしまった。再び金属探知機で体を調べられる。ようやくサインで許可を出されれば、京吾は面会室の中へと恐る恐る足を踏み入れた。

 部屋の中にはストーブが取り付けられており、若干焦げ臭い匂いが広がっていた。ガラス板で区切られた部屋の向こう側にはまだ誰もいないようである。不器用に足を動かして、何とか椅子までたどり着いて腰かけた。

京吾が座ったのとほぼ同時に、反対の部屋のドアが開いた。そして別の職員に連れられて、1人の患者が姿を現し、少しうつむいた様子で部屋に入った。

彼は京吾の方には目もくれないままゆっくりと歩き、反対側の椅子座る。職員が部屋から退出すれば、ようやく顔を上げ、ボサボサになった前髪をかき分けた。

数秒の間は沈黙が続く。だが2人は顔を見合わせると、何となく気恥ずかしい笑いがこみあげてきて、同時に吹き出したように笑い声を漏らしてしまった。

 「…随分と、久しぶりじゃない」

 テーブルに肘をつき、ガラス越しに笑みを見せる累が先に口を開いた。

何かの影響なのか髪を肩まで伸ばしており、長い間見ないうちに血相も良くなったようで、気のせいか表情も少し大人びたように感じられる。何度か顔を見たことはあったが、京吾が対面して累の声を聞いたのは、あの一件以降はじめてのことだった。

一旦は人質として保護された累だったが、黒間の計画や一族の闇が明るみになるにつれ、死体遺棄や襲撃に関わったとして彼自身にも容疑がかけられることとなった。ある種の洗脳状態にあったとはいえ無罪放免ともいかず、治療を受けている最中に身柄を抑えられたらしい。しかしながら、累の告発が一族や密売団を抑える契機になったとして、重罰が下されることもなかった。

現在はこの医療センターで薬漬けにされた体や精神疾患の治療を受けていると聞いていたが、ひとまずは元気そうな姿に、京吾は少し安心した。累はかなり落ち着いている様子で、リラックスした表情を見せている。

「まあ色々あってな。もっと早くその面を拝みたいところだったが」

「色々って…ムショ仕事でしょ?」

累はからかうように話す。京吾は眉間にしわを寄せるが、一方で小生意気な態度も変わっていない様子にホッとしてもいた。

「相変わらず生意気な口だな。そっちはなかなか元気そうでなによりだぜ」

「当分は塀の中みたいだけど、結構快適だしね。ドラッグも暴力もナイフもなし。変な味のゼリーがどっさり食べれるし」

京吾も刑務所での食事を思い出しながら頷く。

「あんなものばかり食べてちゃ脳みそが溶けるぜ。ある意味ヤクより不健全ってやつだ」

「慣れれば美味しいもんだよ」

「あらら。お前はもう手遅れだな。というか、治療?ってのはどうなんだ。俺にはよくわからねえがよ」

京吾に聞かれると、累の顔から微笑みが消える。肌の色は少しは良くなった累だったが、体はむしろ以前より痩せてしまったように見えた。目の下にはくまもできている。

「しんどいね。結構しんどい。今だって…聞きたくもない声が耳から離れないし、思い出したくもないものがいくつも頭に浮かんでくる。被害者面できる立場じゃないけど…『レモン』が欲しくておかしくなって、気が違いそうになることだってあるよ」

累の言葉に京吾は、レモンの香料あらためコカインをめぐって言い争ったことを思い出す。一族に受けた教育は、4年が経った今でも、累の体を完全に解放してくれていなかったのだ。

アドレナリンが大量に出ていた間は抑えられていたようだったが、4年前の累も、時折見せた動悸や充血した目を見せていた。文字通り骨の髄まで薬漬けにされたのだろう。年月に関係なく、きっぱりと立ち直れるわけがないかと、京吾はかける言葉を迷う。

「…まあ、あれだったらタバコでも始めろよ。毒には変わらんが、少なくとも合法だしマシな毒だ。死にたくなるよりマシだろ」

「いやいや、もう薬もタバコも、お酒もコーヒーもやらないよ。それに…」

累は言葉を詰まらせる。

「…もう肉だって食べれないんだ。というか、だいたい何も喉を通らない」

累の瞳には、充の姿が思い起こされている。想像しがたいトラウマは未だ離れることがないのか、累は身震いすると、慌てて目を擦って顔を上げた。

「そっちはどうなのさ?杖がないと歩けないみたいだけど」

杖を指しながら累が問う。京吾は答えづらそうにしながらも口を開いた。

「俺はあれだ、『健全で建設的な社会復帰』ってやつだ。その…若干言いづらいんだが、お袋の店で働いてる」

意外にも累は、少し嬉しそうにその話を聞いていた。

「お母さん無事だったんだね!良かったじゃん」

「まあ、そうだな。結局金なんかなくても、勝手に治っちまったらしいんだがな」

母親を助けるため計画に出た京吾だったが、結局のところどのプランも上手くいかず、一銭も得ることができないまま半殺しの状態まで堕ちてしまった。だが死の淵をさまよう息子の危機を感じ取ったのか、彼の母親は突然眠りから覚め、京吾が眠る病室に飛び込みにくるほどの回復を見せるようになったのである。

当然ながら京吾の誘拐を知った母親は驚愕し、「アイツを殺して私も死ぬ」と言って、怒りと悲痛な思いを爆発させていた。

しかしながら、京吾の行動が全て自分を助けるためであったこと、そして無惨にも殺された夫ともう1人の息子の報いに繋がったことを知ると、ようやく京吾を迎え入れた。今では一族の報復を避けるために名前も身分も変えて生活しているが、新しい街でレストランを開業し、慌ただしくも平穏に暮らしている。

「アンタも随分変わったんだね。例のチリドッグでも売ってるの?」

「その通りだ!本物を売ってる店だぜ。俺は料理番をやってる。何か変なマネをしたらすぐにお縄な身だけどな。まあ、もう一生そんなことをする気もねえが」

「野菜のドッグもある?」

「あるぜあるぜ。大事なのは豆とトマトのソース、それとマスタード。パンの中身なんて空っぽでも誰も気づかねぇ」

「そっか。じゃあ、食べに行くよ。今度さ」

累は微笑んで言葉をかける。その目には、ぼんやりとだが前向きそうな光が宿っていた。京吾も同じような表情を返す。

「いつでも来やがれ。その前に体を治さねえとな」

それからしばらくは、長い年月の間に起こったことを話す時間が続いた。

本来であれば、彼らは顔を合わせることすら許されざる関係である。だが2人の間には、友情と呼ぶにはあまりにも奇妙な巡り合わせではあったものの、とにかく強い精神の繋がりがあった。

相手の変わらない様子に安堵していたのは、累の方も同じだった。

立場は複雑ではあったものの、彼の因縁に決着をつけたのは京吾だった。彼に、本当の九院寺累とは何者かを思い出させてくれたのも、例えようのないほど数奇な因果だが、京吾と言わざるを得なかった。

「あのさ」

言葉を遮って、累が視線を落としながらつぶやく。京吾は妙な緊張を感じたが、咳払いして姿勢を正す。

「世間とか社会から見れば、アンタがしたことはまともな人間のそれじゃないかもしれない。母親を助けたかったとはいえ、そもそも許されていい話じゃないし」

「あ、あらためて言われなくてもわかってるがよ…」

京吾は目を逸らして答える。累は顔を上げて机に手を付くと、京吾の方をまっすぐ見つめながら続けた。

「でも…おかしなことなんだけど、アンタといたしばらくの間は、本当に名前を呼んでもらえた気がした。九院寺家の人形じゃなく、本当の九院寺累って名前をね。充が死んでからずっと…死んだように生きてたみたいだった。でも今は、いい気分なんだ。わかるでしょ?」

京吾も累の方に向き直る。

「だから…その、ありがとね」

累の言葉に、京吾はすぐには何も返せなかった。というより、どう返せばいいかわからなかった。だが、穏やかな笑みを見せる累を見ていると、あの晩に黒間に殺されてしまった父と弟の顔が浮かんでくる。そして、ようやく自分の人生も救われたと思えるたのだった。

「礼なんて言うんじゃねえ。そもそも俺はロクデナシだった」

再び視線を逸らす京吾だが、無意識に「ありがとな」とつぶやいていた。累が首をかしげると、誤魔化すように首を振った。

「ま、まあ良かったじゃねえか。もうお前を縛り上げる連中はいねえ。前を向けとは言わないが、何も後ろ向きに生きる必要もねえ」

累は椅子にもたれかかるように座り直す。傷が癒えることはないが、少しずつマシになってきている気はしていた。自分を縛り続けていた鎖がようやく解けたようでもあった。

「努力してみるよ」

累の言葉に京吾は頷くと、杖をついてヨロヨロと立ち上がった。

「もう行っちゃうの?」

「いや、ちょっと今日は…サプライズがあってな」

使い慣れていない言葉を口にすると、京吾は職員の方を向いて目で伝えた。職員は頷きで返すと、部屋のドアを開け、廊下にいる誰かに声をかける。

しばらくすると、少しだけ明かりの強い廊下から、1人の小柄な影が姿を見せた。累は目を細めてガラス板に顔を近づけながら、ジッと反対側を見つめる。

小柄な影の正体は、まだ少年らしかった。厚めのベンチコートに身を包んで、ニットの帽子を深々と被っている。顔はほとんど見えなかったが、帽子から少しだけはみ出させているカールがかった髪の毛は、どこか懐かしい記憶を累に思い起こさせた。

京吾は彼を席に座らせる。累は目をこすって、目の前の席に腰掛けた彼が誰かを確かめた。そして、思わず言葉を失った。

信じられないと思いながら頬をつねる。今自分が見ているものが確かに夢ではないと実感しながら、待ち望んでいた一瞬がようやく現実のものとなったことに気づいていく。涙が自然と溢れて、いつまでも見ていたい彼の顔がぼやけてしまった。

「遥…?」

累はようやく言葉を形にし、震えた声で問いかけた。

目の前の彼がニット帽を外す。4年の間に顔立ちや体格も少し変わっていたが、そばかすや青く澄んだ瞳は、昔と同じままだ。 

彼こそが、累が一瞬たりとも忘れたことのない存在、九院寺遥に違いなかった。

名前を聞くこと以外、累は何も口にできなくなる。ずっと心にかかっていた深い深い霧が、少しずつ晴れていくようだった。

 遥は微笑んで、累にピースサインを見せた。

「賢かったんだぜ?お前の弟は。ずっと1人でも逃げ続けてたんだとよ」

京吾が彼の肩に手をかけながら話す。

あの夜1人で逃げたあとも、遥は無事だったのである。列車の行き先を知られて一族に追われることとなった遥だが、偶然にも船の乗り継ぎを間違えてしまったらしく、当初の行き先とは真反対の北海道まで移動してしまった。

それでも累に言われたことを守り、遥を家出少年と勘違いした老婆の家に転がり込んでいた。消息不明になった彼が見つかるのにも大変な時間がかかったが、逆にそのおかげで、一族の追っ手を煙に巻くこともできていたらしい。

遥はもう一度ピースする。そして静かに、それでいて暖かい笑顔で、累に笑ってみせた。

「久しぶり、ル―二―」

累は涙を拭いて、思い切り笑い返す。京吾もようやく肩の荷が降りたようで、テーブルに寄りかかりながら一息ついた。

特別な言葉で飾られることはない。しかし、遥の声を聞いた累は、涙を止まることができないまま、これまでの全てはこの瞬間のためだったと、強く感じていた。

「…ありがとう、ありがとね」

話したいことは山ほどあるが、今はありがとうの一言だけで精一杯だ。血みどろな道を辿ることになろうと、あまりにも長い時間が経とうと、それでも揺らぐことのなかった希望が、言葉にできない幸せとなって狭苦しい部屋に満ちる。

交わされる声は少なくとも、真っ暗闇の中に光が差し込んだかのように、2人の世界は明るく染まっていた。

日が差しても冷たい空気が広がるままの外では、ある男が京吾と遥を待っていた。

全ての捜査が一段落ついたことでチームが解体され、しばらくの間休職することになった元捜査員、大鳥である。ホットで買ったはずが氷いらずのアイスドリンクになってしまったコーヒーを飲んでは、何となく雪景色を眺めている。

事件を経て、精神的に参ってしまいそうになることも多かった。だが今となっては、自分が辿った運命を不思議に思いつつも、今命があることを何より幸運に感じていた。

入口が開くと、杖をついて歩く京吾が施設から出てきた。大鳥は近づいて体を支えてやろうとしたが、京吾は手を挙げて大丈夫と示した。

「遥はどうした?」

「もう少し2人で話すってことで残ってます。俺がいない方が話しやすいこともあるんで」

京吾は話し慣れていない口調で答える。累に協力し、一族の犯行を公とすることに力を尽くしてくれた大鳥には頭が上がらないのだ。

話を聞いてオレゴンから遥を見つけ出しただけでなく、今日こうして2人を累に会せる時間を作ってくれたのも、他でもない大鳥だった。京吾は倒れそうになりながらも深々とお辞儀する。

「感謝しかないです。久々にアイツのいい顔を見れた」

京吾の言葉に、大鳥はニカッと歯を見せて笑った。

「お前のためじゃねえ、遥のためにやったんだ。少しでも支えになるといいんだがな」

話しながら大鳥はタバコを取り出す。1本差し出したが、京吾は首を横に振った。

「遥も感謝してますよ。何があったにせよ…心を許せる家族がいるってのはいいことで。嬉しそうに笑ってました」

そう言う京吾の目には、どこか寂しそうな色があった。

大鳥は事件について調べる中で、京吾の身の内に何があったかも知っていた。同情や哀れみを感じているわけではない。しかし、累と遥の生還は、彼の人生にとって大きな意味があることだったのだろうと、その心情を察してやることくらいはできた。

「俺も未だに信じられん」

雪景色に視線を移して、大鳥はつぶやく。

「今でも、黒間さんがあんなクソ野郎だったなんて、夢だったんじゃないかと思うぜ。そして俺がどんなに間抜けだったか、何度も思い知ってる。一通り片付いたら警官は辞めるつもりだが…俺みたいな間抜けが明日を生きるなんて図々しいことしていいのか?なんて思う日も多い」

京吾は黙って大鳥の背中を見つめている。

「だがな、後悔することだけが人生じゃない。起こったこと全てに、何か別の意味があったのかもしれない。そうとでも思ってねえと…頭のネジなんてどっかに飛んじまうからな」

そう話す大鳥自身、激流のような驚きの連続だった日々と、その後に味わった深い絶望を忘れることができない。それでも彼は、自分に残された役目を果たすことに全力だった。下を向く京吾の方に振り向いては再び声をかける。

「お前さんもそう思うしかないだろ?少なくとも今遥が笑ってられるのは…お前さんが累を助けてやれたからだ」

京吾は黙ったまま、車に寄りかかる大鳥の隣で景色に目をやる。

「それに、お袋さんも無事だったんだろ?」

「はい。と言うより、今じゃ元気すぎるくらいです」

「それならもう二度と馬鹿な真似は起こすんじゃねえ。もしまた何かやりやがったら、俺が真っ先にぶっ殺して止めてやる」

冗談交じりに大鳥がそう言えば、京吾は杖を見せながら穏やかな口調で言い返した。

「もちろんです。そもそも、この体じゃ何もできませんよ」

大鳥は「そりゃそうだな」と言い返すと、アイスコーヒーを飲み干す。ふと黒間の顔が頭に浮かんだが、複雑な感情を振り払うように、紙コップをぐしゃりと握りつぶした。

「まあこれからは…しぶとく生きるってこった。先のことなんて、誰にも何もわからねえんだから」

そう言うと大鳥は京吾の肩を叩く。少しよろめきそうになりながらも京吾は頷き、車に体を寄せて白い息を吐いた。

「一族はまだ…なくなってないんですよね?」

思い出したように京吾が聞くと、大鳥は険しい目付きに変わった。

「行方知らずの奴はまだいる。アイツらが全員捕まるまでは…まだまだ休んでられないかもな。もし連中が復讐をしたがってるなら、お前さんだって安全じゃねえ」

「俺だけならいい。だけど、お袋と累たちだけは何としても守ってやらねえと。アイツらの人生はまだ始まったばかりだ」

京吾は決意を表すように話す。大鳥はゆっくりと車から離れて伸びをすると、医療センターの方を向いた。

「じゃあとにかく…しぶとくやってみようじゃねえか。力になりたいのは俺も同じ気持ちだからよ」

話を終えた大鳥は、遥を迎えに施設へ歩き始める。待ってろと指で指示されたが、京吾は体を持ち上げて杖をついた。

ようやく降りやんだ雪が、太陽に照らされてキラキラと光る。道もほとんど凍ってしまっていたが、氷の隙間を縫うようにして、小さなクリスマスローズもあちこちに咲き始めていた。

北風が、あの夜と変わらない様子で吹き荒れる。次の冬も、その次の冬も、同じように吹き続けるのだろう。だが京吾の中では、あの夜から永遠のように在った冷たさが、少しずつどこかへ消えようとしていた。

ふと何かを感じて、京吾は振り返る。そこには、真っ白な雪に覆われたアスファルトの道路と、その上に立つ2人の影があった。京吾は白い息を吐きながら黙って2人を見つめる。心は冬空のように静かだった。

「おーい、何をボーッとしてるんだ?」

大鳥に声をかけられた京吾は慌てて前を向き、彼を追ってゆっくりと進み始めた。

一歩を踏み出す度に、今まで見てきたものが、流星のように頭の中を駆け巡った。京吾は立ち止まって、もう一度後ろを振り返る。そこにはもう誰もいなかった。

不意にポケットの中に重さを感じて、塀の中じゃ退屈だろうと思って累のために持ってきていたものがあったことを思い出す。かじかんだ手で取り出したのは、累が好きだと話していた『ウィ・スティル・ガッタ・ウォーク』のカセットだった。

タイトルを見つめながら少し物思いにふけたていた京吾だったが、再び大鳥に呼びかけられれば、カセットをポケットにしまい直した。

「……行くか」

そうつぶやいて杖に体を預けると、ふらふらとした足取りで、彼は再び歩き出す。雲行きは、少しずつ明るくなってきていた。

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俺が誘拐したのは、殺人鬼かもしれない リー・ヒロ @TanakaRakka

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