フラッシュ: 3人の視点③
累と京吾の逃走は続いていた。
ようやく最後のハッチを開けると、うっすらとした灯りと冷気が広がる空間に通じた。京吾は顔を出して辺りを確認し、ハッチの穴から地面に飛び降りる。遅れて累も、梯子に腰を下ろして一段一段降りるようにしながら、何とか地面までたどり着いた。
「地下駐車場及び巨大倉庫…間違いねえ、ここだ!」
目の前にたたずむ大きなシャッターと自分の記憶を照らし合わせて、京吾は喜びの声を上げる。
天井に取り付けられた照明が薄緑の光を放ち、ところどころに闇を残しながらも、ぼんやりと地下を照らしている。居心地がいい空間とは言えず、床には水溜まりや剥げたアスファルト、壁にはペンキが朽ちた跡が残っている。
「それに、ビンゴだぜ!警備どころかネズミ一匹いないみたいじゃねえか?」
地下空間は今では倉庫としても使われていないようだった。ボロボロになり埃を被った冷蔵庫やテレビ、ワゴンなどが廃棄されているだけである。
京吾の声が地下の壁に跳ね返され響いたが、警官や特殊部隊が姿を現すことはない。目前のシャッターに耳を当ててもわずかな振動すら感じられず、京吾の予想以上に、地下の空間は人を寄せてつけていなかったようだ。
「でも、妙だよ」
累が天井を見上げながらつぶやく。京吾は同じく、どこからともなく水滴が垂れてくる天井を見ながらも首を傾けた。
「妙って何がだ?」
「ライトだよ。どうして電気がついてるの?見た感じ、全く使われてないみたいなのに」
累に言われてみれば、京吾も同じ違和感を覚えた。
搬入用のハッチの廃れ具合から見ても、地下倉庫がもはや廃材の放置場、というよりも完全なデッドスペースと化しているのは明らかだった。しかし地下の照明は、時折点滅を見せることはあるものの、今も灯り続けている。
「いやこれは…非常灯ってやつだろ。使われてないとこでもずっと切れないようになってんだ」
累に言い聞かすというよりも自分を納得させるかのような話し方で京吾は答える。そして最後の扉、もとい閉ざされた防火シャッターに近づいた。
「それよりもさっさと脱出することの方が優先だろ?次こそは任せておけ」
そう言うと京吾は下部に取り付けられた錠を外そうと、鍵穴をガチャガチャといじり始めた。古い型にして錆び付いていることもあってそこまで苦労はせず、客室からくすねたフォークをねじ込めば、無理やりにロックを外すことができた。
「お、いけるぜ!」
「よかった」
京吾は錠を外すと、シャッターを開けるためのノブを手探りで探す。一方の累は『よかった』と言いつつも、一度感じた不安を忘れることができていなかった。
妙な胸騒ぎが、まるで胸元にへばりついたかのように離れない。原因はわからないが、何かとてつもなく嫌な予感が、彼の頭の中で渦巻いているのだ。累は銃を取り出し、シャッターを向けた先にいるであろう不安の種を警戒した。
京吾もあくまで慎重だった。シャッターに連結する黒いハンドルを見つけると、袖で水滴を拭き取って強く握る。ゆっくりと回していくと、それと連動するように、ギギギと音を立てながらシャッターも上昇し始めた。
0.5m程持ち上がったが、何故か京吾は急に動きを止めた。そして何かを確かめるように、繰り返しシャッターに耳を当てている。
「どうしたの?」
「…足音がするぜ」
そう言われて累も近づくと、コンクリートの地面を蹴るような音が反対側から聞こえてくるのを感じ取った。
待ち伏せされていたのかと2人は疑ったが、それにしては足音が小さい上に不規則であり、大勢が向こう側にいるとは思えない。誰かがシャッターの奥にいることに変わりはないが、少なくとも部隊が銃を向けて待っているわけでなはさそうだと、累は推察する。
「まあ、ここまで来て引くわけにはいかねえな」
京吾はそう言ってハンドルを握る手に力をこめ、累の方に振り向いた。累は安全装置を外した銃をシャッターに向けると視線を返す。京吾がハンドルを回せば、錆び付いたシャッターが再び動き出した。
段々と、向こう側の視界が開けていく。
緑の照明が続いているのは同じなようで、地面や壁の造りまで変わらない薄暗い空間が2人を待ち受けているようだった。ただし一つだけ違うのは、地面から立ち昇るように広がっていた、奇妙な白い煙の存在だ。
シャッターが開けば、煙は外へと吸い出されていくかのように、その体積を広げていく。予想通り何の集団も2人を待ち構えてはいない。だがシャッターの奥は、無人というわけでもなかった。
銃を握る累に緊張が走る。特殊部隊の隊員らしき男が一名、紺色の装備に身を包み、銃を手にしながら立っていたからだ。先に聞こえた足音の主はこの男に違いなかった。
しかしながら男は、累たちを止めようとすることも、銃を構えることもしない。むしろ、ふらついた足取りでよろめいたかと思うと、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「な、なんだ?コイツは?」
明夫の演技を思い出した京吾も警戒を口にする。しかしながら男は本当に半身を起こすのがやっとなようで、累たちの姿もはっきりと見えていないのか、助けを求めるように震えた手を伸ばした。
「だ、誰か…いるのか…!?助け、助けてくれ!お願いだぁ…」
男の体は痙攣しており、銃を持つことすらできない様子だった。さらに辺りを見ると、男と同じ装備をした隊員たちが、喉を抑えたりうめき声を上げたりしながら地面に倒れていた。中にはピクリとも動かない物もおり、異様な光景に京吾は動揺する。
「な、なんか様子がおかしくねえか!?」
焦りを浮かべるのは累も同じだったが、照明に照らされた煙が雲のようにあちこちで立ち昇っているのを見ると、何があったかを察する。
「これは...例の毒ガス弾だ!誰がやったかは知らないけど、あちこちに撒かれてる!」
そう言われると京吾は、慌てて一歩下がった。
九院寺玲亜らに路上で襲われた際と同じような刺激臭も感じられた。反対側で何があったかはわからないが、今倒れている特殊部隊の隊員たちは、何も知らないまま毒ガスを吸わされてしまったようである。立ち上る白煙も全て毒ガスだったのだろう。
「これって…これってやばいってことじゃないか…僕らの動きは読まれてたんだ!アイツら、どこからクソッタレ毒ガスなんて撒いたんだよ!?」
累は銃をり回すようにしながら落ち着きを失う。京吾も銃を取り出すが、片方の手で肩を掴んで累を抑えた。
「落ち着けって!地下通路は他にもある!しらみつぶしに罠を仕掛けてるのかもしれねえ!どのみち引く選択肢はもうないんだ、進むしかねえ!」
京吾がそう言うと、累は引き下がりたい思いをこらえながらも、体の震えを沈める。猛烈な不安に包み込まれたまま2人は歩き始めた。
とろどころには煙を吐き出しきったガス弾が転がっていた。累と京吾は毒の霧を避けるようにしながら、慎重に一歩ずつ歩みを進めていく。倒れている隊員たちはまだ息があるようだが、当然ながら、彼らを介抱している余裕などなかった。
2人は旧駐車場へ続く地下道路を歩いているが、こちらも現在は完全に閉鎖されているのか、一台の車も見受けられない。放置されたままらしい看板やペンキ跡が残っているだけである。
だが照明は変わらずに道を照らしており、不気味な灯りは、2人を不吉な世界へと誘っているようだった。本来であれば走ってでもここを抜け出したいと思う京吾だったが、いつどこから敵が飛び出してくるかもわからず、累の少し前を慎重に歩き続けた。
「誰も...いねえな」
ようやく煙が晴れてきた頃、京吾がつぶやく。
しかしすでに特殊部隊が送り込まれていたことから、地下駐車場の存在は知られているには違いない。もしかして自分たちは罠に片足を突っ込んでいっているのではないかと、言葉にならない緊張が膨らんでいく。
京吾に何かを返そうとしていた累だったが、不意に地面から振動を感じ、思わず立ち止まった。
「...な、なんだか、揺れてない?」
京吾も立ち止まって地面に手を触れる。やはり振動を感じたがそれだけではなく、機械か何かが動いているらしい重たいガガガという思たい音も、地下のどこかから響き始めていた。
2人は互いに背中を預けるようにして銃を持つ。しばらくすると、京吾が音の正体に気付いた。
「わかったぜ…リフトだ。リフトが下りてきてやがる!」
そう言って京吾が指さす壁面には、巨大なシャッターと変わらないほど大きな扉が取り付けられていた。音と振動は、その扉の反対側から響いてきているようだった。
扉の奥にあるのは車を上層から運ぶことができるほど巨大なリフトであり、エレベーターのように上下する構造で他の階に繋がっている。このリフトも今では使われていないはずであり、累も京吾も、追手が乗ってきているに違いないと確信した。
「ふ、ふざけんじゃねぇ!あんなところから銃でもぶっぱなされりゃあ、蜂の巣だぜ!そんなことさせるかよ!」
京吾は慌てて走り出すと、リフトの扉まで駆け寄った。
「ち、ちょっと何する気だよ!」
累の引き止めにも応じず、京吾は扉の横にある操作盤を探ると、何か細工し始めた。
「ラッキーなことに、このタイプの口なら詳しく知ってるんだぜ俺は…...こっち側からロックするスイッチがどっかにあるはずだ!」
扉から離れようとしない京吾を、累は不安げに見つめる。しかし今から逃げようとしても、リフトの遠くに離れられるとは思えない。京吾が扉を封鎖できることに賭けるしかなかった。
だがこの瞬間累は、音と振動もあってか、周囲への警戒をわずかにおこたってしまった。そうして生まれた隙が、2人を死の間際まで追い詰めることとなった。
「それまでだな」
突然背後から声がした。その直後に累は大柄な男に首元を掴まれ、一瞬の間に、勢い強く地面に抑え込まれてしまった。
ガスマスクを被っている男は素早く銃を奪うと、脇腹に片膝を押し付けるようにして固定し、累の体から自由を奪う。先に見た特殊部隊と同じ服装をしていたが、独特な体術を受けた累は、顔を見ずとも男の正体を勘づいた。
「...統一郎...だな!」
累に睨みつけられる九院寺統一郎は、ガスマスク越しに視線を交わしたまま何も答えない。力で見れば彼らには歴然とした差があり、統一郎が累を無力化してしまうまでには、ほんの3秒とかからなかった。
異変に気付いた京吾は振り返り、咄嗟に銃を向ける。
「だ、誰だテメエは!?どこから入ってきた!?ソイツから離れやがれ!」
銃を構えられようと、統一郎は動じる様子を見せない。その注意は累のみに向けられている。
京吾は意を決して引き金に指をかける。必死にもがく累は、京吾の方に顔を上げたのとほぼ同時に、リフト近くの柱から動き出した別の人影を目撃した。
「ひ、左を見ろ!もう一人いるぞ!」
瞬発的に累が声を出す。しかし京吾が男の接近に気付くより早く、彼の右脚は銃弾にえぐられた。
京吾の絶叫が地下に響く。
筋肉が吹き飛ばされ、文字通り骨の髄まで強烈な痛みに襲われた京吾は、叫びながらのたうち回った。水風船に針を刺したかのように血が溢れ出し、灼熱のような激痛が、撃たれた右脚に広がっていく。
「なんだ、どんな大物かと思っていたが...」
もだえ苦しむ京吾を見て、統一郎はつぶやく。
彼が話に聞いた限りでは、累と行動していた男はかなりの切れ者、加えて戦闘においては相当な凄腕の持ち主であるはずだった。しかし実際に目の前に現れたのは、隙だらけで銃の持ち方すら稚拙な、三匹の子豚に出てくる狼のようなウスノロである。内心、統一郎は困惑していた。
一方で累は、京吾が撃たれたのを見て放心するとともに、銃弾を放った男が誰かを理解し始めていた。
背筋が凍り付き、動悸は歯止めを失って激しくなっていく。今すぐ何かしなければ2人とも殺されるとわかっているが、恐怖が鎖となって彼の体を縛り付けた。
暗がりの中から、その男、黒間もとい九院寺竜一がその姿を現す。
統一郎と同じ装備を身に着けているがガスマスクは外しており、威圧するような眼力の素顔を晒している。片方の手には小銃、もう片方の手にはガス弾が握られていた。
黒間はまだ何も言わず、冷酷な光を放つ目を累に向ける。京吾のことは一瞥すらしていなかった。
ようやくリフトが到着し扉が開けば累は目線を移す。しかし、中には誰も乗っていない。2人を足止めするため、そして溜まった毒の霧を追い出すために動かされた無人のリフトだった。完全に考えを読まれていたと累が気付いた頃には、すでに2人は崖っぷちへと追い詰められてしまった。
黒間は閉口したまま眉間に深いしわを寄せて、必死に統一郎から離れようとする累を見下ろす。
「よくもまあ、こんなところまで来たものだ」
黒間はそう言うと銃の先を累の頭部に合わせる。そして別れの言葉をかけることも恨み言を言うこともせず、沈着に累を射殺しようと、引き金に指をかけた。
「やめろ!」
激痛に耐えることに必死だった京吾だったが、黒間が銃を構えていることに気づくと、必死に体を飛び起こさせた。足を引きずりながらも何とか黒間の足首を掴む。痛みのあまり力も十分に入らないが、脚に噛みついてまで彼を止めようとした。
黒間はしばらくの間、無言で京吾を見下ろし続けた。だが突然表目を見開くと、今までの怒りをぶつけるかのように、京吾の顔を思い切りに蹴り飛ばした。
体が浮かび上がるほどに吹き飛ばされれば、京吾の右脚の痛みは増した。それでも立ち上がろうとする京吾を押さえつけるように、黒間は再び重たい一撃を腹部に与える。京吾が膝から崩れ落ちたのを見れば、そのまま踏みつけるように、何度も何度も重たい蹴りを叩きこんだ。
黒間は、表の顔においても裏の顔においても、つねに冷静で感情を見せることのない男だった。しかしながら惨めにも足掻き続ける京吾を前にすれば、溜まっていた鬱憤を晴らさずにはいられなくなり、その本性をさらけ出しすようになった。
「いい加減にしろ!貴様…豚の餌にもならないゴミ虫の分際で!貴様のような虫が!視界に入ることすら!あまりにも屈辱的だ!」
暴言を浴びせながら、黒間は何度も京吾を打ちのめす。
何とか食らいつこうとする京吾だったが、次第に力が尽きそうになる。累も止めようとするが、打ちのめされた京吾の姿は自分が受けてきた痛みや教育と重なり、視界は歪んで力も入らない。
「何故そうまでして累に味方したんだ?貴様には何の関係もない話だったはずだ」
「理由なんざ覚えちゃいねえよ…ただ!お前らの好きにはさせねえって言ってんだ!累は殺させねえ!」
その言葉を聞いた累は顔を上げ、自分の目がかすかに潤むのを感じた。声を荒げる京吾自身、累を助けようとする明確な理由はなかった。だが理屈以上の何か、おそらくは自分が味わってきた後悔が、彼の体を突き動かしていたのである。京吾はかつてないほど必死だった。息を荒らげながらも黒間の袖を掴み、臆することのない目の力をぶつけ続けた。
黒間は機械のような眼光を返す。
そして京吾の髪を掴んで少し持ち上げると、強く握りしめた拳を、顔目掛けて金槌のように振り下ろした。鈍い音とともに鼻の骨が折られれば、京吾は声を漏らして痙攣する。
「図に乗るんじゃないぞ…貴様は累の正体を知った時点で、とっとと我々に引き渡すべきだった。それをくだらない知恵を絞って、余計な邪魔までしてくれやがって…」
黒間は首を掴んで京吾の体を持ち上げると、ズルズルと引きずり、アスファルトの地面に思い切り叩きつける。京吾は呼吸すらままならないほどに追い詰められた。しかし、何としても累を助けてやるという決意は、その目から離れることはなかった。
「どこまでも腹立たしい奴だ」
そう言うと黒間は腰に手を回す。彼のベルトには、硬式ボールほどの大きさであるガス弾がいくつか取り付けられていた。一つのガス弾の中から取り外したカプセルを開け、中に詰められていた毒の霧をばら撒く。そして再び京吾の頭を掴むと、無理やりに毒を浴びさせた。
京吾は不安定な呼吸のまま毒の霧を吸い込んでしまった。意識は飛びかけて、視界はチカチカと点滅し、あちこちで不自然な震えが止まらなくなる。目を真っ赤にしながら、胴体の一部を踏み潰されてしまった虫のように、京吾の身体は暴れ狂った。
「虫にしてはしぶといな。望み通り長く苦しませてから死なせてやる」
黒間は冷酷な言葉をかけて京吾の姿を眺める。累は死に物狂いで手足をばたつかせるが、彼を押さえつける統一郎が力を緩めることはない。
「もうやめさせて!僕はどこにも逃げないから!」
「遥、いつからそんな生意気を言うようになった?お前が逃げるかどうかなんて関係ない。どうせ2人とも、今ここで死ぬのだからな」
「死ぬのはそっちだろ!」
累はそう言うと不意に顔を上げ、袖の内側からスライドさせるように、金属製のフォークを取り出した。京吾に言われてホテルの部屋からくすねていたものである。
すぐさま腕を振り上げて統一郎の首を刺す。マスクとプロテクターの間にフォークをねじ込まれると統一郎は目を見開き、血を吹き出しながら意識もぐらつかせた。
力が緩んだのを見た累は一気に拘束を解き、服の中から折りたたみ式のナイフを出す。首の出血を抑えながらも体制を立て直そうとする統一郎だったが、流れるように素早くナイフで切られてしまえば、全く抵抗できないまま崩れ落ちた。
累はとどめの肘打ちを食らわせて統一郎を吹き飛ばす。そのまま体を起こすと、黙って二人を見ていた黒間と目が合った。
ナイフを向けられようと、銃を持つ黒間は圧倒的に有利な立ち位置にいた。しかし何故か銃口を向けることはせず、あえて迎え撃つかのように身構える。来るなら来い、思い知らせてやるとでも言うように、手招きしては不気味な笑みを浮かべた。
黒間の気迫に飲まれそうになる累だったが、雄叫びのような声を上げて恐れを払う。そして片足を引きずりながらも駆け出し、ナイフを強く握ったまま、黒間に飛びかかった。
ナイフで突き刺そうとするが、黒間は身軽に体を引いてかわす。続けて腕を振り回すように荒々しく刃を振りかざしたが、あくびをこらえるような表情のまま、いなすように簡単に避けられてしまう。それでも一撃を与えてやろうと襟首を掴み、回し蹴りを食らわせようとする。しかし身を屈めた黒間は、右腕で容易にガードした。
全く歯が立たないことは累にもわかっていた。それでも彼には、攻め続けるという手段しか残されていない。
ナイフを振り回し、殴りかかり、ときには頭突きまで使って食らいつこうとする。騙し討ちをしかける余裕すらなく、累の攻撃は全て単調である。それらをかわすことは、黒間からすれば造作もないことだった。
「それが全力なのか?」
暴れる累を前にしても黒間は冷静だった。距離を離すことはなく、むしろギリギリで避けることで累に無力さを味わわせ、挑発するように言葉をぶつける。累はさらに躍起になり、足の痛みに耐えながらも、地面を蹴って突進した。
手にしたナイフを正面に向けて刺そうとしたが、やはり俊敏な動きでかわされてしまう。ついに黒間はしびれを切らすと、累の腕を握りつぶすような握力で掴み、反対の手で握った銃を鈍器代わりに叩きつけた。
重たい打撃に肘の骨が折れそうになる。腕が痺れ、累はナイフを手放してしまった。しかし食い下がることなく、再び黒間の襟首に掴みかかる。そして顔を目掛けて思い切りのパンチを打ち込んだ。
今度こそ累の攻撃が命中し、鈍い音が地下に響いた。
「お前は!もう!顔も見たくない!」
累は自分を奮い立たせるように声を上げ、繰り返し黒間を殴り続ける。不器用な反撃ではあったが、一発一発に恐怖への反抗と怒りを込めた、力強い殴打の連続だった。
「お前は僕から全部奪ったんだ!」
もう一度顔面を目掛けて殴りかかった累だったが、黒間は目にも止まらぬ速さで腕を掴み、その拳を止めた。
何発殴られようとも怯む様子すら見せず、氷のような目付きで累を見下し続ける。手を離させようとする累だったが、どれだけ力をこめても黒間は彼の腕を離さず、次第に自分の血の気が引いていくのを感じた。
「私が全てを奪っただと?おかしなことを言うんじゃない」
そうつぶやくと黒間は銃を振り上げる。
「お前には元々何もないだろうが!」
避けようとする腕を離さすことのないまま、黒間はまたしても、銃で累の頭部を殴りつけた。金属の塊を打ち付けられれば頭から出血し、累は意識を飛ばしそうになった。
さらに黒間の攻撃は続く。累を一度突き飛ばして離したかと思うと、息をつかせる間もなく、腹部に鋭い蹴りを与えた。表情を歪ませた累がうずくまると、今度は後頭部から髪を掴んで引き寄せ、顔面に膝蹴りをぶつけた。
累はボタボタと血を垂らす。だがその目からは、目の前の男を焼き殺そうとするかのような眼光が離れないままである。黒間は無理やり累の体を起こさせると、下腹部に銃口を押し付けた。
「お前は空っぽなんだ。一族の名誉があってこそ意味のある存在であれたのに…あのネズミ肉のような男が、お前をそそのかしさえしなければ…」
黒間の言葉に、累は自分が食わされた肉の触感を思い出す。身震いしながらも歯を食いしばり、燃え盛るような怒りを火の粉のように繰り返し湧き上がらせた。
「アイツをそんなふうに呼ぶな!」
そう叫ぶと、口の中に溢れた血を毒霧のように相手の目に吹きかける。黒間が一瞬怯んだのを見れば、累は首を振り回すようにして勢いをつけ、力強い頭突きを食らわせた。
黒間は額を抑明夫が強烈な頭突きを喰らおうと、彼の意識は微動だにすることもなかった。
袖で血を拭き取ると累の頭を掴んで引き寄せ、さらに重みのある頭突きをぶつけ返した。ボーリングの玉で殴られたような衝撃に、累の視界はゆらゆらと揺さぶられ、わずかな力も奪われてしまう。目も回ってしまったのか、真っすぐ体を起こすことすらできなくなってしまった。
「ドブのような血をかけやがって…お前はもう一族の人間ではない。地獄を味わって死ぬのが相応しい」
黒間はそう言うと血が付着したグローブを放り捨てる。累を地面に叩きつけるように突き離すと、ベルトからガス弾を取り外して3つほどばら撒き、辺りを毒の煙で満たした。
「もう少し必要かと思ったが、今のお前にはこれだけあれば十分だな。さよならだ、累」
ガス弾を1つだけ手にしたまま、黒間は累を侮辱するように見下ろす。最後にもう一度だけ体を蹴り上げて、動くこともできなくなった累を寝転がした。
もはや累は、何の抵抗も見せることができない。毒を吸ってしまえば呼吸も荒ぶり、血を垂らしながら体を痙攣させ、立ち上がることもできなくなってしまったのだ。
2人にはもう目もくれず、黒間はかろうじて息があった統一郎に肩を貸して、空っぽのリフトの方へと歩いていく。操作盤のスイッチを押すと、リフトが上昇のため稼働し始めた。その振動音は累に、彼の完全なる敗北を終焉を味わわせているかのようだった。
立つこともできなくなった累だが、意外にもその精神は落ち着いていた。自分は負けた、もう助からないんだと、奇妙な感覚で自分の運命を受け入れようとしていたのである。
体を引きずるように地面を這い、何とか京吾に近寄る。
「...まだ...生きてる?」
累が弱々しく声をかけるが、京吾は何も答えることができない。息を荒げて、天井の照明をぼんやりと見つめている。そばに寄ると累は続けて話した。
「...元から、死んでたような日々だった...だから、後悔してないよ。でも...最後にもう一度...遥と話がしたかった」
次第に累の声から力が失われていく。どこからともなく溢れた涙で視界もぼやけた。体は鈍い痛みと熱に包まれている。だが累の内心は、今までにないほど穏やかで、静かな気持ちに満ちていた。
「...充が殺されてからは...僕はずっとドン底だった。でも...このしばらくの間は、自分が本当は誰かって…思い出せた気がするんだよね」
かすかに言葉を聴き取った京吾が、ゆっくりと首を累に向ける。累は微笑みを作ってみせた。
「...だからさ、不思議なことを言うんだけど...いい気分だった。ありがとう。僕の名前を呼んでくれて」
そう言い終わると、累は眠りにつくかのように、静かに目を閉ざしてしまった。
惨めったらしく足掻けるところまで足掻くと決めていた累だが、今では自分の行く道を受け入れていた。ただ一つ、遥のことだけを気がかりに思いながらも、深い深い眠りの中に足を踏み入れていく。次第に彼の世界からは、光も音も、一切の感情さえも失われていった。
だが、京吾は違った。
鉛のように重たくなった体をなんとか持ち上げて、ほふく前進で少し動いては手を伸ばす。その先には、統一郎にはじかれた累の銃が落ちていた。銃を拾い上げた京吾は、銃弾が入っていることを確かめる。
「いいや。まだ終わらねえよ」
累に、そして自分自身に言い聞かせると、京吾は肘を付いたまま銃を構える。そして、リフトに乗り込もうとする黒間に照準を合わせた。
体は毒に侵され、十分に力を入れることもできはしない。足も感覚がなくなるほどの重傷である。それでも京吾は、息を整えて手の震えを抑えようとした。黒間は2人に目をやることもせず、リフトの扉が開くと統一郎とともに中に入り、閉鎖のスイッチを操作していた。
...今しかない!今!今だ!やりやがれ!
京吾は自分に向けて心の中で叫ぶ。そして引き金に指をかけて片目を閉じると、黒間を撃とうと力をこめた。
しかしそれでも、体の震えが止まることはなかった。
「...クソ...なんでだ...なんで撃てねえ!...」
毒の霧もあって目の前の世界は歪み、ピンぼけしているかのようにはっきりと見えなくなってしまう。手首や指の痙攣も次第に大きくなり、京吾からわずかな力さえ奪っていった。
呼吸も再び乱れ、「早く撃つんだ!」という焦りとは反対に、引き金を引く力すら入らなくなっていく。銃の先もグラグラと揺れてしまい、もし撃つことができたとしても、どこに銃弾が飛んでいくかわからない。何もすることができないまま、ただ絶望だけが、京吾の意思をむしばんでいく。
リフトの扉が音を立てながら閉ざされ始めれば、京吾はさらに焦燥にかられる。それでも体は動かない。段々とまぶたも下がってきては、銃を支える腕すら脱力し、意識も体から離れて飛んでいきそうになった。
消えかける意識の中、ふと頭に、あの晩の光景が映し出される。血溜まりと雪色の地面に倒れてピクリとも動かない2人の姿だ。
そうだ。そうだ、馬鹿野郎。このま玲亜ゃお前は、また何もできねぇままだ。なんでもいいからなんとかしろ。動かせ!体を動かせ!
京吾は自分自身を奮い立たせながら、最後の力をふり絞りる。深く息をして体の震えを押さえつけると、覚悟を決めるように銃を握り直し、閉じかけていた目を開けた。
その一瞬、京吾の瞳に写ったそれが、彼の呼吸を止めた。
「...…十字だと?」
思わず口に出してつぶやく。目に写ったのはほんのわずかな一瞬の間だけだ。それでも、黒間の手に見えたその傷跡は、焼き付けられたように彼の意識から離れなくなった。
操作盤に手を伸ばした黒間の右手。グローブを外したことではじめて晒された手の甲。そこには確かに、あの夜の殺し屋と同じ、十字の形をした古い傷跡があったのである。
何も気付いていない黒間は、傷跡の疼きを抑えるように、手の甲を逆の手でかきむしる。京吾の頭の中では、あの夜に両親と弟を撃ち殺した男の姿が浮かび上がり、叩きつけるような衝撃も走っていた。
忘れることのできなかった記憶が、フラッシュバックしたかのように目の前に広がる。
雪が積もったアスファルトの道。2人を撃ち殺した銃から煙が上がる。男は鬱陶しそうに右手をコートの裾で擦っている。男の右手にある十字型の傷は、はっきりと京吾の記憶に刻み付けられていた。
体の震えが止まる。時間さえも制止してしまったかのような静寂が訪れる中、京吾は無意識に言葉をこぼした。
「……そうかよ。そういうことかよ」
あの夜に男が見せた十字型の傷と、リフトの灯りに照らされた黒間の右手の傷が、切り絵のようにピッタリと重なる。視界も今までにないほど鮮明に晴れていく。
運命なんて当てにならない。あまりにもごちゃごちゃで、あまりにも回りくどい。
京吾はゆっくりと銃を構え直し、一切の震えも起こすことなく、もう一度黒間に銃の先端を合わせる。わずかな躊躇いも、一片の恐れも、もはや彼の心にはなかった。
地球が止まったかのような静けさの中、京吾は引き金を引いた。
乾いた銃声が地下を飛ぶ。飛び出した銃弾は、閉じる寸前だった扉の隙間を縫うように、そしてどこかに吸い寄せられていくかのように、霧がかった空気を切り裂いていく。
そのまま銃弾は黒間に届き、彼の右手を一瞬のうちに貫く。
手を吹き飛ばして尚、銃弾の軌道が変わることはない。京吾が放った銃弾は、まるで引き付けられたかのように、黒間の手に握られていたガス弾に命中した。
突然の痛みと衝撃が黒間に走る。彼は視線を移したときには、右手は銃弾でえぐられ、破壊されたガス弾から閃光が広がり始めていた。
黒間は全てを理解する。そして同時に、全てが遅かったことも思い知らされた。
「ありえな...」
黒間の言葉は轟く爆音に遮られた。
リフトの中はガス弾の炸裂に飲み込まれる。一度は閉じた扉を押し開き、地響きを鳴らすほどの衝撃を生みながら、着火したガス弾は大爆発を引き起こした。
爆発はリフト内側の壁も破壊してしまった。地下を満たしていた毒霧が、流れ込むようにリフト内を通って外へと逃げていく。破れたケーブルからは火花が散り、火の粉が毒ガスに引火すれば、さらに大きな爆発が起こった。リフトは粉々になるほど大破し、巨大な火を吹き上げながら炎上した。
非常ベルが鳴り響き、スプリンクラーが作動する。だがリフトの火は消える気配も見せることはなかった。
爆発音に叩き起こされた累は、痛みに耐えながらふらふらと体を起こす。当然ながら今の彼には何があったかはわからない。だが、銃を手にして倒れ込む京吾と、メラメラと火柱を上げるリフトを見て、ほんの数秒の間に何が起こったかを察することはできた。
スプリンクラーの雨に打たれながら燃え上がる炎を見て、充と一緒に見た花火と、あの雨の夜を思い出す。リフトを包む火は、彼の胸にあった怒りや憎しみ、そして、哀しささえも焼き尽くしていくようだった。
脚を引きずりながら京吾に近づき、そっと肩に手を添える。京吾の意識は朦朧としていたが、累に気付けば、不器用な笑みを作って見せた。
「俺がお前をさらったのは...偶然じゃなかった。俺は...お前を選ばなきゃいけなかった。このために」
京吾の言葉の真意はわからなかったが、累は何も言わずに、ただ笑顔を返す。それを見た京吾は天井を見上げるように仰向けになった。
「...いい気分だな」
ふと京吾がつぶやく。そのまま彼は目を閉じた。
隣で横になる累も、次第に意識が遠のいていくのを感じていた。冷たさとも暑さとも違う不思議な感覚の中、ゆっくりと視界がかすんでいくかのように、累の目も閉ざされた。
燃え盛る炎は、2人の影を壁に浮かばせながら、消えることなく揺れ続けた。
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