発覚: 3人の視点 ②

 一日があっという間に終わろうとしている。

 累と京吾は、当初取引場所として選んでいたニューロッド1ではなく、ニューロッド3という別のホテルで体を休めていた。

 変わらず厳戒態勢が敷かれている中では想像以上に車での移動が難航し、2人は急遽道を変えて、茨城県南部に移動していた。現在の位置は南部に位置する是津明市(ぜつめいし)。同系列のホテルであるニューロッド3に身を隠し、部屋の中で取引の準備を着々と進めていたのだった。

京吾からすれば、早く自分は殺人鬼なんかじゃないと証明したいところだった。しかしあくまでも累を人質にしている誘拐犯という建前で交渉を行っているため(誘拐犯であることには違いないのだが)、慎重に次の動きを練らなければならなかった。

 京吾は時計から視線を外し、カーテンをめくっては、窓からホテルの外の様子を伺う。

 日没が早くなってきていることもあってか、すっかり太陽は沈んでいる。彼の荒れた心情とは真反対に、夜の色に染まりつつある空は、物静かな空気で満たされつつあった。もうあと少しの辛抱だと、京吾は深く息をした。

 カーテンを戻して累の方を見る。累はどうにも落ち着かない様子で、これから渡すことになるであろう証拠の文書を読み直していた。

文書は一見すると不規則な形の記号が何行にも渡って書き連ねられているだけにしか見えないが、実は一族が使用する暗号が書かれていおり、解読すれば一族の過去の犯行と『儀式』の記録が全て明らかになるらしい。はじめて京吾が文書を目にしたのは累を誘拐して荷物を漁っていたときだった。

そのときの彼に文字の意味がわかるはずがなく、アラビア語で書かれた詩か何かと思っていた。それ故、潜伏場所から離れる際累が慌てて文書を集めるのを見たときは不思議に思った。

文書に加えて累が握っているのは、ウェブページには載っていない、一族の犯行を写した写真の数々。これも京吾は、累を誘拐したばかりのときに目にしていた。やれやれあのときに捨てちまなわいでよかったぜと安堵する。

 「連中の鼻を明かしてやるのは、お前の口からじゃねえとな」

 部屋の外から聞こえる音がないか警戒しながら京吾が言葉を口にする。

文書や写真はもちろんのことだったが、この状況で何よりも奪われてはならないのは、累自身だった。

警察の協力を得ることができれば、一族の一員として育ち、彼らのほとんどを知り尽くす累は、かなり重要な証人になるだろう。未だに安否が不明である遥を見つけ出すにも、彼を一番理解している累がいなくてはならなかった。

逆に言えば、万が一にも累が死ねば、京吾への信用は失われ、遥も永遠に兄を待ち続けることとなってしまう。ここまで揃えた証拠も機能しなくなるかもしれない。

「気を抜かないことだね。ギリギリまで連絡できなかったのもあるけど、あの大鳥って人が到着するまではまだ時間がかかるだろうからさ」

「それはそうだが、いくら一族の奴らでも、ここからお前を殺すようなことが...」

 「できるさ。毒ガスを持ち歩いてるような奴らなんだから」

 万が一にも2人の動向を知られてしまうことがないよう、取引は大鳥をはじめとする数人のみと極秘に行うことになっている。

当然ながらマスコミに報道させることも許可していない。警察側が京吾を追うことを止めて累たちの保護を認めれば、その時点で全てグッドエンディングといったところだった。しかしながら一族も必死になっているに違いなく、どのような手段を選んでくるかは検討もつかない。

 「もしこの場所がばれて、連中がここまで追ってきたら...」

 累は京吾の方を見てつぶやくが、途中で言葉を詰まらせる。京吾は視線を返しつつ、わかってる、また殺し合いになったらどうすればいい?って言いたいんだろ、と頷いた。

 「そのときは...そのときだ。話し合いで全部何とかなるだなんて、俺も思っちゃいねえよ」

 繰り返し外を見張る素振りをしながら京吾は話す。そして言葉を発しながら、ここまでの短いながら果てしなく長かったと感じられる逃亡劇を思い出していた。

今考えてみても数奇だ。この世界に、いや、虻内市市だけでも数万といる人間の中から誰かを選んで、ソイツを誘拐するターゲットに選ぶとする。そのターゲットにたまたま、世間や警察が血眼になって探している殺人鬼を引き当てちまうなんて、どんな確率だ!?って話だ。

可能性で言えば、藁山の中から針を探すような...いいやもっとだ。砂漠のどこかにポツンと落とされた一本の針を見つけ出すような、恐ろしくあり得ない話だぜ。だが俺はその針を、あろうことか探す気もないままに、歩いてたらただ偶然に踏みつけちまった。

 そう思い返して自分の厄介な境遇に頭を悩ませながらも、もう一度累に目をやる京吾は、後悔とは別の感情を抱えていた。今になって思えば、そんな偶然や凶運も、何か意味があって起こったものなのかもしれないと、京吾は奇妙な感覚で現実を受け止め始めていたのである。

京吾の頭の中では、静かながらも幼さが残る累の表情と、記憶にハッキリと焼き付くある人物の姿が重なっていた。あの晩十字傷の男に撃ち殺され、京吾に手を伸ばしたまま死二度と動かなくなってしまった、彼の弟の姿だ。

…あの日の俺は誰も救えなかった。だが今回はそうはいかねえ。この頭のイカれたガキとその弟を何とかして助けてやる。第二のチャンスとは言わねえが、わけもわからないまま誰かが死ぬのを見るのなんざ、もうまっぴらだ。それに俺はどうしても...このガキを追い払って逃げる気になれねえんだ。

すまねえお袋。もう少しだけ耐えててくれ。全部終わったら、ふんだくり屋な医者どもに、鞄いっぱいに積めた金を突き出してやるからよ。

 「何をぼーっとしてるの?」

 ポエミーな使命感に浸っていたことが顔に出てしまったが、京吾は慌てて気を引き締める。

 「な、何でもねえ。あれだ。今日のチリドッグは会心の出来だったなーって思ってただけだ」

 意味不明な返答だったが、累は微笑みを見せて小さく頷く。

 「確かにね。もしあれが最後の晩餐になったとしても、結構悪くないよ」

 「縁起でもねえ!だが、そう言えるのも当然だぜ。何と言っても本物だからな」

 緊張を紛らわすような談笑が少しだけ部屋の中で続く。笑みを浮かべる累を見る中、京吾は再び、自分が果たすべき役割を頭の中に焼き付けていた。

累はまだ、人としての道に引き返せる。心の奥底まで怪物色に染まっているわけじゃねえ。万が一この後、赤羽や玲亜のときみたいに手を汚さざるを得なくなったとしたら、その役目は...

 京吾は身震いしつつも、覚悟を決めろと自分に言い聞かせた。

会話が止まると、累が何となくテレビのスイッチを付ける。京吾も何か動きがないかと外に視線を移した。彼が窓の外の違和感に気づいたのは、その直後のことだ。

「なんだかやけに…外が騒がしくなってねえか?」

累たちの部屋はホテルの出入口やターミナル、駐車場やそこに続く道路を見渡すことができる高さにあった。先程まではほとんど車通りすら見られなかったが、今では何故か、何台もの車が出入りを繰り返している。車のライトがあちこちを動き回っているのも見えた。

しばらくは気にしすぎかと思っていた京吾を煽るかのように、警察のマークが描かれた車や救急車、さらにはテレビ局のワゴン車まで続々と姿を現し始める。京吾は目を疑った。

「ど、どうなってやがる!?」

京吾が漏らした驚きの声を聞くと、累も慌てて窓に近づいて外を見る。そして同じように驚愕した。

警察車両はホテルの入口を取り囲むような陣形になり、一分足らずで車体のバリケードを作り上げた。警官たちも次々と車から降りる。真っ黒な装甲車からは、盾や銃を持つ特殊部隊のような面々も姿を現した。

ランプに照らされて外の景色は明るくなり、カメラやマイクを構える報道陣も集結している。それを制止するように規制線が貼られるほど、ホテルの外は騒がしくなっていたのだ。京吾は気をおかしくしそうになった。

「お、俺は確かに言ったよな!?取引はひっそり済ませて、マスコミはナシ!はっきりそう伝えたはずだぜ!」

窓の外を見る京吾がパニック声で喚き散らす。テレビの方を振り返った累は、画面が天気予報から切り替わると、キャスターが何かを速報で伝え始めたことに気づいた。

何度も見間違いじゃないかと目をこするが、確かにそのキャスターの後ろには、2人が身を隠すニューロッド3が写っている。慌ただしくホテルの周囲が封鎖されていく様子も、さらに鮮明に確認できた。

しばらくは京吾と同じように混乱していた累だが、もはや2人が想定した形での取引は完全に不可能になったと察する。いつからかはわからない。だが、ニューロッド3に逃げたところを追っ手に見られて、先に手を打たれてしまったに違いなかった。

『…発表によると、現在ニューロッド3に人質とともに立てこもっている男は、【人喰い男】を名乗る声明を出しています。さらに、今朝発生した強盗事件の犯人と同一人物とも見られているようです』

 ホテルの前でマイクを持つキャスターが早口で続報を伝えている。累と京吾は一族が次の手に出たのだと理解し、顔を見合わせた。

『..すでにホテルでは宿泊客1名が射殺された状態で発見されているほか、犯人が乗り捨てたと見られる車も見つかっています。従業員や宿泊客の避難が進められていますが、ホテルは実質の封鎖状態にあり、難航しているとのことです。一体犯人の目的は何なのでしょうか?全国を騒がしてきた人喰い男事件ですが、波乱を呼ぶ結末を迎えることになりそうです』

身の覚えのない情報を次々と突きつけられれば、京吾は壁に手をついてうなり声を漏らす。平和的に解決させるはずが、気付けば彼は、凶悪犯と呼ぶに相応しい危険人物の各印を押されてしまった。

 「待て待て待て!おまわりどもは何をやってやがるんだ!?それに、俺は客なんて撃っちゃいねえ!」

 一度として引き金が引かれることのなかった猟銃を指さしながら、ドグは意味もなくテレビに向かって訴える。

 「一族の誰かがやったんだろうさ...クソ、何でこんなことに...」

 京吾は再び一族の脅威を実感する。京吾を凶悪犯に仕立て上げるためとはいえ、無関係な人間からこうも簡単に命を奪った一族に人とは思えない残忍さを感じ、手の震えが止まらなくなった。

 「まだホテルに入ったばかりだってのに!こんなに早く手を打たれるなんて!」

 累が叫ぶ。彼の言う通り、2人がホテルの部屋に身を隠したのはほんの30分程前のことである。

九院寺家は、僅かな時間の間に犯人を語る嘘のメッセージをでっち上げ、京吾を凶暴な立てこもりに仕立て上げた。さらには一人を殺害し、警察を動かしてホテルを包囲させた。2人をすぐさま行動不能にできるほどに、一族の逆襲はあっという間に進められていたのである。

 京吾は自分の判断を悔やんで呆然となるが、累は辛うじて冷静さを保っていた。考えられる限りで最悪なケースが現実のものとなってしまったと察しつつ、テレビから流れてくる情報を何とか飲み込む。

 「間違いないよ...一族は警察とも繋がってたんだ。僕らの動きは、全部筒抜けだった!」

 うすうす同じことを考えてはいたのか、京吾は、累の言葉を聞くと振り返った。

だがその表情には未だに信じられないという苦痛に近い顔色が浮かんでおり、そんなバカな、ありえねえ、などとかすれた声でぼやいている。その様子は累に向けて話しているというよりも、自分自身に必死に言い聞かせて、最厄な事実から逃げようとしているようだった。

 「大鳥とかいうサツはどうした!アイツも追手だったってのか!?」

 電話で話した捜査員のことを思い出した京吾だが、彼を頼っても無駄だよと言うように、累が首を横に振る。大鳥が一族と繋がっていたか否かは彼らには不明だが、少なくとも、話し合いにいって事態を終息できる可能性が完全に失われたことは明白だった。

 「僕らの作戦は完全に失敗したんだ。取引がどうとかなんて考えても無駄だよ」

 累はそう言うとベッドに腰を下ろす。いよいよ彼にもどうすればいいかわからなくなり、連日の疲労もあってか、思考が完全にストップしてしまった。

2人は部屋の外に飛び出す気にもなれなかった。そもそも、すでに特殊部隊が銃を構えて部屋を包囲しているかもしれず、ドアを開けることすらできない状況である。騒がしさを増し続ける窓の外と打って変わり、部屋の中は静まり返る。

 そんな中、重苦しい空気を切り裂くように、部屋に置かれた電話が突然に鳴り出した。

 京吾と累は視線を交わすが、2人とも、言葉にしようのない不安と緊張が顔に表れている。電話は一族からに違いなく、出るか?と京吾に目で聞かれると、累はこわばりながらも頷いて返した。

震えたままの手で、京吾は電話を取る。

 「...誰だ!」

 『累を出せ』

 電話越しに言葉を発した男は京吾の問いをかき消し、彼を圧倒するような凄んだ声で命令した。

京吾はさらにパニックになった。電話から聞こえる男の声が、先に話した大鳥とは口調も声色も異なっていたからだ。

 「お、俺は、お前は誰だと聞いてるんだ!お前もサツか!?それとも...」

 一族の誰かなのかと聞こうとする京吾だが、あまりの緊張に言葉を詰まらせる。電話の男からは一切の返答はない。しかしその沈黙は、京吾の恐怖をどんな言葉よりも煽っていた。

京吾の様子を見て、累の不安はさらに高まっていく。

 「何て言ってるのさ?」

「お前を出せと言ってるぜ。サツの人間なのか、一族の奴なのかもわからねえ。だが少なくとも、あの大鳥って警官じゃないことは確かだ」

累は電話台に近づき、スピーカーのスイッチを入れる。累が無言で頷いたのを見ると、京吾は恐る恐る口を開いた。

「...累はここにいる。お前の声も聞こえるようにしてるぜ」 

またしばらくの静寂が訪れるが、電話の男はようやく言葉を発した。

『私が誰かわかるか?』

当然京吾には電話の男の正体などわかるはずもなかったが、淡々と話す雰囲気や声に宿る覇気は、かつて2人を襲った九院寺赤羽を思い起こさせた。

やっぱり一族の誰かか?と聞こうとした京吾だったが、累を見るとすぐに異変に気付いた。累は呼吸が止まったような顔になり、立ちくらみを起こすほどに放心していたのである。

「オイ!しっかりしやがれ!」

まともな状態ではないのは京吾も同じだ。しかい今の累の動揺は、赤羽や玲亜らを前にして見せたどの表情よりも、パニックと形容するにふさわしい放心状態を見せていた。段々と息は荒く、かつ速くなり、まばたきの仕方すら忘れたように、累の体は硬直していく。電話の男が一族の中でも只者ではないと京吾は感じ取り、倒れそうになる累の肩を慌てて支えた。

京吾は「コイツは誰なんだ?」と聞くが、酷く怯える累は、上手く口を動かすことすらできていなかった。

『言わずともわかるだろうが、すでにお前たちの作戦は失敗している。あと数分とせずに我々の部隊が部屋に入るだろう』

男の口ぶりから京吾は、累と京吾がもはや誘拐犯と人質という関係ではないことは、一族に容易に把握されていると察知する。それは同時に、人質を殺すぞなどと脅しをかけたところで何の意味もないということも意味していた。

『上手く立ち回ろうとしたようだが、我々を甘く見たようだな。大鳥に取引の話を持ちかけたときはヒヤリとしたが、今や警察も私の指示通りに動いてくれている』

「…どんなホラを吹きやがった?累の密告で、お前たちも疑われたはずだろうが!」

『確かに簡単ではなかったな。だが妄想癖持ちのイカれた殺人犯とそれに従う人質という話にすれば、ここまで持ち込むのはそう難しくはない。少しの駒を潰してやる必要もあったが』

京吾は電話の男を恐ろしく思うとともに、簡単に1人の命を奪ってみせた一族に怒りを覚えた。

「テメー...それだけのために2人も殺しやがったのか!」

『誘拐犯のくせに感情的な説教か?ここまで話がもつれ込んだのは貴様のせいだろう。そもそも、貴様が余計な協力をしなければ…我々はとっくに累を捕らえていたところだった!』

段々と男は怒りを吐き出すような口調になり、電話を持つ京吾の手は、一層の震えを帯びる。累は耳を塞くが、男への恐怖、もしくは自分の中のトラウマに食い潰されそうになっているようだった。

 『貴様が何者かも、どんな経緯で累に協力しているのかも知らない。だがとりあえず貴様は死ね』

 男の静かな怒りはその声色に強く現れている。

自分の名前すらも知られていないことに少し安堵する京吾だったが、とにかく一族は自分に死んでもらいたがっているらしく、逃げ道が潰されていくのを感じた。累とともに行動するようになったのは偶然の流れに過ぎないのだが、今更になって経緯を説明したところでおめおめ見逃してくれるわけがない。

 『累、お前もそこで聞いてるだろう?』

 男が累に呼びかける。累は耳を塞いだままだったが、わずかに聞こえた声さえも、彼を怯えあがらせるには十分な威圧感を放っていた。

 『本当に厄介なことをしてくれたな。私が手を打たなければ、手のつけようがなくなっていたぞ...お前には当然死んでもらうし、こうなった以上遥にも消えてもらうしかない。残念だ。あれほど言い聞かせてやったのに...もう全て終わりだな』

 京吾は言葉を遮るようにスピーカーをオフにし、子機を自分の耳に当てた。

話を聞くだけの京吾には、累が男やからどんな仕打ちを受けてきたのかは、想像することしかできない。しかし今の累を見て、彼が言葉に表せないほどの恐怖を味わってきたことは容易に理解できた。

 「いい加減にしやがれ!終わりになるのはテメーらの方だ!こっちには証拠だってあるんだぜ?なんとかこれを渡せば...」

 『上手く言いくるめられるとでも?貴様にはさっさと死んでもらいたいからな、特別に教えてやろう。私の名は黒間。人喰い男事件を担当する部署のチーム長だ』

 ついに黒間は、自分の正体を淡々と言い放った。

 その言葉に京吾は戦慄する。警察の関係者とは薄々勘付きつつもあったが、そこまでの地位を持つ者とは予想もしていなかった。

 『貴様ごときが立てた策など、赤子をぶち殺すほど簡単に潰せるということだ。せいぜいその部屋で自分の頭でも撃ち抜いてくれ。それとも死ぬ間際に累と乳繰り合うか?随分好かれているようだからな』

 黒間の言葉に憤りを覚える京吾だたったが、何も言い返すことができないまま、一方的に電話を切られてしまった。

これ以上何かを交渉する余地すら与えられず、京吾は電話を置くと台に手をついて途方に暮れる。ベッドの方を見ると、累は額を手で覆い、過呼吸になってしまっているようだった。

 「オイ!落ち着けって!お前が落ち着かねえと、俺が落ち着けねえだろうが!」

 累に近寄ると、京吾は肩を掴んで言い聞かせる。だがそう言う彼自身も完全にパニックに陥っていた。

 累はふいに目を閉じて、手を合わせて三角形を作りながらゆっくりと呼吸を整え直す。彼がかつて充から教わった軽い瞑想だった。何とか冷静さを取り戻していき、まだ視点が定まらないままの目を開ける。

 「お、落ち着いたか?」

 「まあ、何とかね」

 「これからどうすればいいかわかるか?」

 京吾の泣きつくような問いに累は頷き「手っ取り早い手段がある」とつぶやく。そしてベッドのそばに立てかけられていた猟銃に手を伸ばした。

 「自殺するんだ」

 累がそう言い放つと、京吾は咄嗟に彼の手から猟銃を引き離した。

 「ば、ば!馬鹿を言うんじゃねえ!」

 絶望的な状況であることは京吾にも理解できた。かといって、自ら命を絶てるほどに頭のネジを外すことはできていない。猟銃を奪うと、再び肩を掴んで「落ち着け」と言い聞かせる。累は遠い目をしたまま首を振った。

 「もう終わったんだよ。アイツが警察に潜り込んでるなんて思いもしなかった。僕たちの負けだ」

 「なんだあ?らしくないじゃねえかよ!あの黒間?って奴が何だって言うんだ」

 今までも累は、一族の者への恐れを見せたことはあった。しかしながら今の累の目の光には、恐れというより諦めに近い、絶望の色が写っている。電話で話した黒間という男は一族の中でもそんなに恐ろしい存在だったのかと、京吾は不安げに累を見た。

 「黒間は偽名だよ。アイツは九院寺竜一。僕の親で、かつては一族のトップだった。しばらく姿を消してたけど、まさか警察を乗っ取ってるだなんて...」

厳密には黒間は1チームのトップにすぎないが、この状況においては、思い通りに情報を操作できる地位にいることに変わりはない。

京吾は累の話を聞いて、以前の電話で話した大鳥のことを思い出した。

彼も黒間の部下だったようだが、おそらくその正体については何も知らなかったに違いない。話し方からして黒い脅しに屈するような警官にも思えず、累の家族に疑いの目を持っていた彼の身がどうなったか想像することは難しくなかった。

 「俺たちを殺そうとしてた一族も、俺たちを追っていたサツも、どっちもボスは同じ野郎だったってことか!?」

 累は何も答えない。自分の震えを抑えることに必死でいる。薬物を切らしていたこともあり、挙動は一層不安定になっていた。

「…じ、冗談じゃねえ!ここまで来て諦められるわけがねえだろうが!」 

万事休す、絶体絶命と呼ぶにこれ以上ない事態に追い込まれた2人だったが、京吾の諦めの悪さは、その絶望にもなんとか立ち向かおうとしていた。テーブルの上のペンをとると、伝票の裏に地図のようなものを描き始める。

「まさか逃げる気でいるの?それとも交渉?無駄だよ、銃を向けてくるのは警官だけじゃないんだから。どこに逃げ道があるって言うのさ?」

累の言う通り、周りは封鎖されているばかりか、彼らの命を狙う銃の数すら不明である。白旗を振って出てきたところで一族の者に狙撃されるかもしれず、2人は降参すら許されない状況にあった。

「逃げ道ならあるんだぜ、それが」

京吾は書き終えた図面を累に見せる。いつ記憶したのか、ニューロッド3の階ごとの俯瞰図だった。

「ちょっとわけがあってな…この建物には詳しいのさ」

ニューロッド3は、閉鎖された古い別のホテルをニューロッド社が買い取り、一部を改築して低所得者層向けに新しくオープンさせたホテルである。京吾は数年前より何度か工事に参加したことがあり、もちろんこのような形で役に立つとは予測していなかったが、偶然にもホテルの構造には精通していた。

「このホテルにはバカでかい地下通路と地下駐車場がある。今はクローズしてるがエレベーターや電気系統は生きててな、倉庫代わりに使ってるって話だ。とはいえ普段は真っ暗闇。地下を通れば包囲も警備も手薄になるはずだぜ」

 地図に丸をつけながら京吾は経路を説明する。

旧地下駐車場へは客室から行くことはできないものの、同じ階にある非常階段を通れば、地下まで移動することができる。入口はシャッターで閉ざされているが手動で開閉でき、駐車場に入れさえすれば、高速道路の近くまで続くトンネルや下水道に出ることも可能だろうという見立てだった。

「ホテルの周りはほとんど平地だからよ、窓から逃げたところで目立つだけだ。だが地下から逃げりゃあ誰にも見つからないかもしれんぜ」

「でもどうやってこの部屋から出るわけ?」

累は依然として諦めたような目つきのままだが、京吾はベッドを動かすと、床に取り付けられていたスチール製の枠を指さす。部屋の中に家具や寝具を運び入れるためのハッチであり、この辺りのホテルではよく見られる作りだった。

「コイツを使えば下に出れる。文字通り緊急事態なんでな、鍵はぶっ壊させてもらうが」

京吾は肩にかけた猟銃を撫でながら話す。まだ逃げ切れる可能性を捨てきれないといった表情で、累を再び揺さぶった。

「ほ、本気で逃げ切れると思ってるの?」

「当たり前だろ!この2日ばかりでどれだけピンチに遭ったと思ってんだ?こんなチープなホテルでくたばってたまるかってんだよ!」

そう強く言い聞かされても、累は下を向いてしまう。

 頭の中では遥のことを思い出していた。消息は不明なままだが、玲亜や黒間の発言から察するに、遥はまだ捕まっていない。今もどこかで累のことを待っているかもしれなかった。

「…わかったよ。足掻くなら、最後までとことんいくよ」

累がそうつぶやくと、京吾は肩を叩いて笑みを浮かべた。一族に追い詰められようと、二人の意思は辛うじて、崖っぷちからの悪あがきをしようと決意したのだ。

ハッチを使って旧地下駐車場に行くことができたとして、ホテルの敷地から逃げられる保証はない。しかし2人には、それ以上の策を考えている時間も余裕もなかった。早速動き出し、重たい猟銃やケースを部屋に置いては、軽量の銃やガーゼ類のみをジャケットの中にしまい込む。一族の犯行を記録した文書や写真も折りたたんで携帯した。

さらに京吾は、すぐに部屋に突入されることがないよう、椅子や冷蔵庫などの家具を引きずってはドアに押し付けていく。木製の棚まで持ってきてギッチリと固定すれば、即席ではあるものの、牛が突っ込んできてもすぐには破壊できないであろうほど頑丈なドアストッパーとなった。

「これなら当分は開かずの扉だぜ」

「次はハッチを開けないとね?」

「ああ任せとけ、この手のを外すのは得意分野だ」

そう言いながら京吾はナイフを手に取る。ドライバーのようにネジ部分にねじ込んでハッチを外そうとするが、すぐに累が遮った。

「そんなチマチマやってられないよ、どいて」

累はそう言うと置いていくはずだった猟銃を持ち出す。慌てて京吾が離れたのを見ると、ハッチの鍵を目掛けて発砲した。

元々頑丈な作りでないこともあってか一発で鍵は吹き飛ばされ、いとも簡単にハッチがこじ開けられた。

「あ、相変わらずいい腕してやがる」

火薬の匂いが部屋に広がり始めれば、いよいよ後に引くことはできなくなった。幸いなことにハッチが繋がる先は客室ではなく薄暗い倉庫である。その倉庫からさらに別のハッチに移れば、アリの巣のようにホテル内を移動できた。

最近ではほとんど使われていないのか、ハッチの中は真っ暗闇でじんめりと湿っており、あちこちに蜘蛛の巣が垂れ下がっている。ネズミも寄り付かなそうなほど移動手段として劣悪である。だが今の2人にとっては救いの道だった。

「覚悟はいいな?」

京吾は梯子に手を伸ばし、累に声をかけた。

表情にはまだ躊躇いが見られるが、それを振り払うかのように、累は強く頷く。そして京吾に下から支えられながら、重たい足をなんとかハッチの中まで引きずり込んだ。

「じゃあ俺から行くぜ!」

京吾の声がコンクリート造りの壁に反響する。そのまま京吾は、梯子に身を寄せて滑り落ちるように、暗闇の中を降りていった。

累は自分を奮い立たせて、後を追うように京吾に続く。だがやはり手足は震えたままで、黒間が目と鼻の先まで迫っているという恐怖を断ち切れないままでいた。

  累と京吾が暗闇に吸い込まれた頃、ホテルの中では、もう一人の男が奮闘していた。指示を受けて現場に到着した大鳥である。

 累たちの予想に反して、一族は彼の始末を後回しにした。そのため大鳥は何も知らないままニューロッド3までやって来て、従業員や客の避難に尽力していたのである。

「これでこの階は全員です!」

  同行していた警官の言葉に、大鳥はひとまず安堵の息をつく。

狂乱状態にある犯人、それも人質と立てこもって爆弾まで手にしているらしい凶悪犯を刺激できないとして、特殊部隊の突入は避難が完了するまで避けられていた。男はあくまで単独でホテルの中に入ったとの話で、今のところ銃撃戦や衝突が起きるには至っていない。

「しかしなんで…こんな手段に出やがったんだ。電話で話したことは全部嘘だったのか?」

大鳥は思わず疑問を声にする。彼は依然として、京吾との会話を思い出しては、なぜ急にこんな凶行に踏み切ったんだと頭を悩ませていた。

犯人が潜伏している部屋には確かに九院寺累もいるようで、今ニューロッド3に立てこもっているのはあの男で間違いないと、大鳥も把握している。だが、男は狂乱に陥って犯行にと及んでおり、人質である累も洗脳状態にあるという本部の考えには懐疑的だった。

彼が電話越しに観た様子からは、男はあくまで交渉を望んでいたようであり、何より殺人鬼のような残酷さも感じられなかった。すでに偽のメッセージが何度か送りつけられていたこともある。今の状況は真犯人が作り上げた偽りの正念場であり、自分たちはその上で都合よく踊らされているだけなのではないか。そう考える大鳥は疑心暗鬼になっていた。

「事実として男は人質とともにホテルに立てこもっているし…すでに死体だって発見されています。今は奴を止めることに最善を尽くすべきです」

大鳥が口にした疑問を聞いたのか、近くにいた特殊部隊の隊員が声をかけてきた。口調は穏やかだったが、胸の内では怒りを燃やしているのか、力強い声色である。

しかし大鳥は、死体で発見された男についてもまた、違和感を覚えたままだった。細かく調べたわけではないが、宿泊客の1人だったとされる男の顔は、大鳥が以前目をつけていた密売団の男とよく似ていた。特徴的なスキンヘッドや目元の傷跡、背丈も含めて、ブラックリストに入れていた男の写真とそっくりだったのである。

偶然密売団の男がホテルに泊まってたって言うのか?いや考えすぎか。他人の空似ってことも当然あるだろう。だがそれにしても…

「どうしました?大丈夫ですか?」

考え込む様子を不審に思われたのか、特殊部隊の隊員は繰り返し大鳥に声をかけた。我に返った大鳥は慌てて首を縦に振る。

とにかく一瞬の遅れも許されない状況であることに変わりはない。これ以上の犠牲が出る前に犯人を制圧し九院寺累の身柄を抑えることが最優先というのが、上からの命令である。今は大鳥もその指示に従うしかなかった。

「よし、じゃあ俺は他のフロアを……ちょっと待った。黒間さんはどうした?」

ふと違和感に気づいた大鳥は足を止め、エレベーター前に集まった面々に声をかける。何人かはそう言えば見ないなといった様子だったが、そのうち1人の若い巡査が、何かを言いづらそうに手を挙げた。

「じ、実は…『ケリをつけにいく』と言って少し前にこの階を離れていまして…」

「何だと!?1人で行ったのか!?」

耳を疑った大鳥に問われて、巡査は頷く。

「も、もちろん私も止めたのですが、『策がある』の一点張りで…ですが、あくまで言葉で解決すると言っていました」

「俺には何も言わずにか!」

大鳥は焦りを浮かべる。慌てて黒間に通信を入れようとするが、同じ建物にいるにも関わらず電波トラブルで連絡が取れなくなっていた。

大鳥は黒間を信頼してはいる。しかしながら、真犯人への疑いが強まる中、九院寺累の一族と黒間との奇妙な繋がりを偶然で片づけられなくなってもいた。その動向を不自然に思ったのも自然である。

「犯人が立て篭もっている部屋は…B4-022号室だったな?」

大鳥に問われると、巡査は頷きながら「そうです」と答えた。

部屋の周りはおろか4階まるごとが部隊によって包囲されている中では、いくら現場で指揮を執る黒間であっても、単身部屋に立ち入ることはできないはずだった。それでも本当に何か策があって説得に向かったのかと、大鳥は首をひねって思考を巡らす。

「ええい、考えてもしょうがねえ!お前たちはもう一度この階に誰かいないか確かめろ!他の階から応援に呼ばれたらそっちにも人手を回せ!」

「大鳥さんはどうするんですか!」

「俺は…黒間さんの助けに回る!説得するなら俺が必要だ!」

臨時で指示を告げると、大鳥はエレベーター横の階段に走る。今彼がいるのはB館の2階であり、同館4階に位置するB4-022号室までは、走ればなんてことのない距離だった。

「あ!待ってください!」

若い巡査が慌てた様子で制止した。大鳥は足を止めて振り向く。

「チーム長は階段を下に行きましたよ!」

「下だと?」

巡査の言葉に、大鳥は再び頭を悩ませることとなった。

どういうこった!?説得に出ると言いながら目的の部屋から離れるなんて!別のルートで部屋に入るのか?外から呼びかける策か?それとも交渉を許してもらいに上に掛け合いに行ったのか!?

様々な憶測がドッと頭の中に流れ込んできたが、迷っている時間はない。大鳥は手すりを飛び越えると、黒間の後を追うため階段を駆け下りた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る