取引: 3人の視点①
短い昼が終わりつつある中、人喰い男事件を担当するチームは、押し寄せて来た情報の波に若干のパニック状態になっていた。
捜査員たちは今までの資料を一から掘り返し、折りたたみ式のの薄っぺらなテーブルの上で慌ただしく並べ直している。黒間は1人表情を変えることのないままで、九院寺累の写真を見つめながら何かを考えていた。
ようやく一通りの情報を整理し終えた大鳥は紙カップに入れたカフェモカを飲む。だがほっと一息のコーヒーブレイクとはいかず、どうせまた砂糖たっぷりのコーヒーを飲むだろうと、目覚まし代わりに思い切って飲み干した。
「今日は厄日ともラッキーデーとも言えますね。ずっと足止めを食らっていたのに、こんなに情報が飛んでくるなんて」
捜査員の1人がつぶやく。ほとんど進展が見られなかった事件の捜査だったが、今朝の誘拐事件をきっかけに続々と情報や犯人からのメッセージがなだれ込み、まるで導線に火がつけられたかのような大騒ぎとなっていたのである。
中には面白半分で出されたらしいフェイクや真偽不明のものもあった。しかし、ホワイトボードに書き加えられた情報の束は、今まで不透明だった真犯人の正体を少しずつ浮かび上がらせようとしていた。
「そろそろ時間です。男からの電話が来るなら、もうあと五分足らずってところだ」
大鳥が黒間に話しかける。
彼らはすでに2回、九院寺累を誘拐した犯人を名乗る男からのメッセージを受け取っていた。1回目は誘拐事件発覚の直後。2回目を受け取ったのは、今より丁度1時間前の午後3時である。
奇妙だったのは、2回のメッセージの内容が大きく食い違っていることだった。異常なことに、メッセージを送った人物も、1回目と2回目で全く異なると考えられる。大鳥は電話の記録を取り出し、確認のためもう一度チームの面々に向けて読み上げた。
「皆、確認してくれ。2つのメッセージを読み上げるぞ」
捜査員たちは一度手を止めて、ボードの前に立つ大鳥に注目する。
「1件目は、『人喰い男』を名乗る誘拐犯からのメッセージだ。九院寺累の命が惜しければ200万ドルを用意して次の指令を待て、という内容だった」
1件目のメッセージについてはすでにニュースでも報道されており、各地では九院寺累の顔写真や目撃された犯人のイメージ画像も公開されている。
「我々もはじめは、この連絡を元に厳戒態勢を敷いていた。だが二件目のメッセージが全て変えてしまった。なんせ、中身も指示も、声すらも、1件目と大きく違っていたんだからな」
大鳥がそう話しながら電話記録を見せると、捜査員全員が頭を悩ますように沈黙する。ホワイトボードには九院寺累の顔写真も貼られていた。
2件目のメッセージも同じく『九院寺累を拉致した男』からの連絡であったが、1件目に電話をしてきた男とは明らかに別人である声に、捜査員たちは驚いた。加えて2件目の方の男は、電話越しではあるものの、九院寺累の声も聞かせてやると大鳥たちに話したのである。
『僕の名前は九院寺累です。僕は今朝確かに、ある男に誘拐されました』
一時間前のメッセージについて再度大鳥が伝えると、黒間は右手の甲を掻きむしった。彼が思考を巡らせているときによく見せる仕草であり、大鳥も同じように考えを働かせる。
「あくまで自称の段階ではあるが…九院寺累と彼を拐った誘拐犯は、本物の殺人鬼は別にいると語った。それだけじゃない。初めにメッセージを送った犯人が、累を拉致した男を連続殺人鬼に仕立てあげようとしているとも抜かしやがった」
話を続ける大鳥自身も、初めて電話で話した際は、被害者である累が犯人の目を盗んで警察に電話することに成功したのかと驚愕した。だが累が話した内容はその驚きを容易にしのぐほど予測不能なものであり、彼を含め、チームの面々の大半は話についていけなかった。
2件目の電話から一時間前ほどが経ったが、今も真相を考察しがたい事態であることに変わりはない。大鳥は再び、電話記録のテープに録音されていた、九院寺累からのメッセージを再生する。
『伝えたいことは山ほどあるけど…第一に、僕を誘拐した男と、殺人鬼人喰い男は別人だっことを伝えたい。はじめは連絡を寄越した奴…いや、奴らは嘘つきだ。それと、これから僕が話すことは、家族の誰にも伝えないで』
録音された声が流れる中、若い捜査員が大鳥を遮って疑問を口にした。
「誘拐されたという状況なら、本来、家族への連絡ほど安心できるものはありませんよね。それなのに九院寺累は、『家族には伝えないで』と話した。これは本当にただ事じゃないですよ」
若い捜査員が机に肘を着きながらそう言うが、大鳥は過去のケースが書かれたノートを指さしながら別の意見を口にする。
「いや、前代未聞とは言いきれん。家出やトラブルで家族の誰かがいなくなった後、その疾走が『誘拐された』とでっち上げられたっていうケースは何件かある。何かいざこざがあって、九院寺累が家族を信用できてない可能性もある」
「累の家族はすでに1件目のメッセージについては我々から聞いています。その際には累を拐った犯人に間違いないと言っていましたよ?」
「…九院寺累が話したように、彼の家族の方に何か裏があるのかもしれん。とにかく、九院寺累の失踪が、単なる身代金目的の誘拐によって引き起こたものじゃないってことは確かだ」
大鳥はそう言いながら、2件目のメッセージのその後を思い出す。累は警察側に引き続き話を聴くよう説得すると、とうとう誘拐犯である男に電話を変わった。
『あー、えっと…俺は九院寺累を誘拐した者だ。以前お前たちに来た連絡について教えておくが、あれは偽物からの偽の連絡だ。断言するが、俺は人喰い男じゃない。だが色々あって、一連の事件の濡れ衣を着せられそうになっている』
男の突拍子のない話を聞いた直後は、捜査チームは唖然となっていた。遅れて電話を聴き始めた黒間さえも動揺しているようだった。
大鳥の経験から言って意外なことに、男の話し方からは、強盗を犯した挙句青年を誘拐するような危険な凶悪犯といった雰囲気は微塵も感じられない。電話越しでもわかるほどオドオドした声色には覇気も凄みもなくわ自分は人喰い男ではないと訴える彼の話を、少しばかり信用しそうになるほどだった。
『こんなことを言うだけじゃ信じてもらえねえだろうから、こっちから証拠を送ってやることにした。今から教えるアドレスにアクセスしろ。まだお前らが知らない情報を見せてやる』
早速チームの一人が指示されたアドレスを調べてみると、つい最近立ち上げられたばかりらしい簡素なウェブページが表示された。
「サイトには掲示板形式で一連の犠牲者やその詳細が記されていた。未発表の遺体の発見場所や我々が掴んだ犯人の足取りなど、公表されていない機密情報と合致するものがあったことも驚きだが…」
捜査員の1人がプロジェクターでウェブページを投影すれば、大鳥はパソコンを動かした。考え込んでいるらしい黒間も黙ってスクリーンを注視する。
「何より非常だったのは、我々も未だに掴んでいない情報が載っていたことだ!」
大鳥がページを動かすと、新しい情報の数々が一覧となって表示される。未だ発見されていない被害者とその遺体が遺棄されている場所、さらには角宇野原農園の面々をはじめとする、真犯人へ協力した者のリストまでもが載っている。以前より密告する準備を進めていたとしか思えないような情報量だった。
この一時間の間に捜査員たちが飛ぶようにして指示された場所を調べた。その結果、ウェブページに書かれていた通りに、死体や潜伏していた協力者が続々と発見されている。
その後も男は電話越しに語った。彼は人喰い男事件の真犯人を知っており、それ故に消されそうになっているという。一件目の連絡はその真犯人側がでっち上げたメッセージに違いなく、彼を本物の『人喰い男』の名を着せようとしているのだというのが、男が訴えるように語った推察だった。
当初はその奇妙な話に疑いの目しか向けていなかった大鳥たちだったが、送られてくる情報が確かに真犯人の足取りを示すものであるとわかるにつれ、男の話を信じるようになっていったのである。
「少なくともあのウェブサイトは、真犯人の犯行と何らかの繋がりがあります。もしくはその正体と動向を握る人物の手によって、情報を流す穴として作られたものに違いありません」
捜査員が繰り返せば大鳥は強く頷く。黒間はやっと立ち上がって、部屋に置かれている時計を確認した。
「…連絡の時間だな。だがまだ音沙汰なしか」
一時間後また連絡するというメッセージを受け、黒間、大鳥をはじめとする捜査チームの上層たちは部署の中で連絡を待っていた。しかし時計の針が指定された時間を過ぎても、何の連絡もかかってこない。
未だ男の正体も、男が語る『真犯人』の正体も不明なままだったが、とにかく今は次の指示を待つほかないというのが現状であった。チーム内には今までにない緊張が立ち込めている。
大鳥はずっと気にかかっている点を改めて黒間に話す。
「しかし…何度考えても妙だ。誘拐犯の指示には、『九院寺累の家族には連絡するな』というものもありました。犯人が家族に警察にはチクるなって指示を出すのは理解できますが...これじゃその逆だ」
「確かに妙だな」
「これはまだ推測の段階に過ぎませんが...九院寺累の家族も、男が言う真犯人と何か繋がりを持っているとか...いや、というよりも...」
大鳥の言葉を聞くと、黒間は視線を彼に移す。黒間の目には、彼が時折見せる豹のような鋭い目力が宿っていた。
「言葉を鵜呑みにしすぎるな。累が真犯人に脅されている可能性も当然ある。そもそも、本物の累であるかも真偽不明だ」
黒間に指摘されると、大鳥は慌てて
「わ、わかってますよ。あくまで推測!推測ですから!」
と言葉を付け足した。
予測を立てていくことは必要だが、それが行き過ぎれば得られた情報の見方に偏りが出てしまい、本当のヒントを見落としてしまかとしれない。大鳥はそれを思い起こし、一旦自分の仮説を忘れることにした。黒間は視線を元に戻す。
「次もお前が電話に出るんだ」
黒間にそう指示されれば大鳥の表情はこわばったが、当然ノーとは言えなかった。
大鳥は渋々頷き、電話の前にスタンバイする。部署の中には、一層切り詰めた緊張感が広がり、自然と誰も言葉を漏らさなくなった。大鳥は電話機を、黒間は時計の針をそれぞれ睨み続ける。時計の針が動く音だけが、カチカチと響き続けていた。
その一方、寒気のような緊張が走り続けていたのは、累と京吾の2人も同じだった。
2人は結局、京吾がどうしても交渉人らしい話し方ができないと言うため、わざわざ原稿を作っては警察に連絡するに至っていた。終始たどたどしい京吾の語りが続くことにはなっていたが、累が準備していたウェブページが大きく役立つこととなり、何とか交渉の段階まで持ち込むことができた。
「し、しかし不安だぜ。連中はこんな話に乗ってくれてるのか?」
「大丈夫だよ。何のために餌を撒いたと思ってるのさ?」
京吾を落ち着かせるようにそう話す累だが、彼自身も不安を払えないままではあった。
時計の針は第2の電話をかけるべき時間をすでにオーバーしている。なるべく離れた場所で別の電話を見つけるため、そして京吾用の台本を書き上げるために1時間のギャップを開けたが、結局のところ想像以上の時間がかかってしまった。
「現状、僕たちは『人喰い男事件の鍵を握る何者か』とは認識されてるはずだよ。だから取引するなら今しかない!今とにかく、このタイミングでやるしかないんだ」
累に言葉をかけられると、京吾は自分の頬を叩いて頷く。ようやく腹をくくっては、電話に震えた手を伸ばした。
同じように決意に満ちた表情を浮かべるのは、捜査チームの面々も同様である。大鳥は電話台の前に立ち、その他の捜査員も次の電話が来るのを今か今かと待っている。
ようやく、ベルの音が鳴らされた。乾いた空気が揺れれば、いよいよ電話が来たぞと大鳥は息を飲む。黒間に合図されると、一瞬だけ深呼吸し、素早い動作で電話を出た。
「もしもし?」
『…あー、俺だ。訳あって違う番号からかけさせてもらってる』
先程連絡してきた犯人と同じ声、すなわち京吾の声が電話口から聴こえると、大鳥は周りの捜査員に目配せをする。電話は、どこかの公衆電話からかけられていた。
「やあ。俺は大鳥。先の電話でも君と話した者だ」
『プレゼントは受け取ってくれたか?』
いかにも犯罪者らしい言い回しで、京吾は累が公開したウェブページについて口にする。大鳥はさらに緊張を覚えつつも応じた。
「あ、ああ。どこで手に入れたか知らないが、あれは本当に...」
『詳しく教えてやりてえところだが、こっちも時間がなくてな。いつどこでライフル銃に脳みそを吹っ飛ばされるかわからねえ』
累を誘拐した男は、事件の真相を知っているが故に、真犯人に消されることを警戒している。大鳥はそう察すると話す口調を変えた。
「どうやら追い込まれてる立場にいるらしいな。累君を拉致したのも、お前が言っていた『真犯人』と何か関わりがあるのか?」
『え?ち、ちょっと待ってね....えっとだな、今俺が答えられる質問には限りがあって、つまり今のは、答えられない方の質問だったということだ』
「...なんだ、その...随分緊張してるようだが」
『そんなことはねえ!ただその、こっちはもうギリギリってとこにいるんだ!』
前の会話とは随分雰囲気が違う固まった声色に、大鳥は少し違和感を覚えた。おそらくは真犯人に追われている中で何かあったに違いないと推察しつつも、電話で話す男の正体を探ろうと頭の中で長々と思考を巡らせた。
もしコイツの言っていることが正しいのなら、俺たちの予想通り、一連の事件を引き起こしたのは単独犯じゃないってことで決まりになる。複数による犯行。それも、何らかの社会的な権力や財力を持った組織が絡んでる蛮行だ。犯人も目的も定かじゃないが。
今考えられるのは…この誘拐犯は何らかの形で真犯人に協力していた人物、もしくは、その関係者であるってことだ。何かがきっかけで真犯人たちを裏切り、追われる身になっちまったんだろう。少なくとも、この誘拐犯が本物の人喰い男ってんなら、自分から名乗り出てヒントを与えるような真似をする理由がない。
下手なことを言えばこの男を興奮させ、交渉に見切りをつけられかねん。プロの犯罪者か?それともドラッグの密売人か?電話越しに話してるのが何者にせよ、ここで反感を買うような言動は避けねばならんな…
現状を整理した大鳥は、その後も慎重に言葉を選びながら話を続ける。
一方の京吾は、準備していなかった質問がくる度に累の方を向いては、どうする?どうする!と大慌てになっていた。
いいから落ち着けよ!とジェスチャーで指示されて、何とか呼吸を整え、大鳥との問答に戻る。
「そっちの状況はだいたい理解している。だからどうか落ち着いてくれ」
『...オホン、そりゃ助かるな。どうも今の俺には敵が多い。おたくもそうだろうが』
「生憎俺の敵はコレステロールだけさ。そうだ、腹は空いてないか?飯を食べてる余裕なんてなかっただろう?」
次々と話を転換させる大鳥には、多少は交渉術の心得があった。
この手のやり取りにおいては、犯人のタイプは2つに分かれる。淡々と指示を行うだけのメッセンジャータイプか、もしくは警察側とのコミュニケーションを図ろうとする交渉人タイプだ。
話し方から見るにこの男は後者であると大鳥は判断した。であれば、会話を通じてできる限りの信頼を築くことが必要であり、多少のジョークを交えながら話すのも策略の内というのが、大鳥の戦術だった。
ただ実際のところは、京吾はただ慌てふためいているだけではあった。
『ご、ご心配どうも。だがもう十分腹は膨れてる。時間がないんでな、そろそろ本題に移らせてもらうぜ』
「あ、ああ。わかった」
大鳥が手でサインを送ると、近くにいる捜査員がメモを準備した。黒間は閉口したまま、九院寺累の写真を睨み続けている。
『先に教えたサイトはあくまで、俺が握ってる情報のほんの一片にすぎねぇ。言っちまえば、お前さん方にまとめに取り合ってもらうための…前菜みたいなもんだ』
電話の声に凄みが戻る。中々話し慣れているような話し方に警戒心を覚え、大鳥は額の汗を拭う。声のトーンも落ち着いて来たようでもあり、やはりこの男、相当のやり手かもしれんと気を引き締めた。
大鳥の見立てとは対照的に、京吾はこの世の終わりのように焦っていた。
声の調子が戻るのも、累が用意した台本を読んでいるときだけである。隣に座ってあれこれと手振りで指示する累を横目に、緊張を隠しながら話すことに精一杯だ。こんな遠回しな言い方でいいのかよ?と目で聞くが、累は「続けて!」と手で示す。
『だ、だがまあ、相当なヒントにはなったと思うぜ?』
「ああ、もしこれが本当なら…信じられん事実だ。これはあくまで、我々、と言うより俺の見立てになってしまうが…」
相手側の反応を伺いながらも、大鳥は言葉を繋げる。
誘拐された九院寺累と、殺害された桜野充の関係。家族には連絡するなという不可解な指示。そして、誘拐犯京吾を追い、偽のメッセージを届けたとされる集団の存在。何点もの疑惑が、真犯人たちの正体を暗に浮かび上がらせていた。
「誘拐された累さんも、家族には何も言うなと釘を刺していた。もし彼の家族と真犯人との間に、何らかの繋がりがあるのなら……いやもしくは、彼ら自身が…!…」
『…そこから先を決めるのはお前さん方の仕事だろ?1つだけはっきり言えるのは、俺たちは真犯人の敵ってこと。そして敵の敵は味方だってことだぜ』
それじゃ言えることが2つあるじゃんか、しっかり話せよと累に突っ込まれ、少し京吾はしどろもどろになったが、大鳥は何も返さない。
『も、もう少し踏み込んだ証拠を渡したいところだが、メールで送れるようなブツじゃなくてな。そこでここからが取引だ。俺たちの要求を飲むなら、情報と証拠を渡す!』
いよいよ交渉の段階に進むとなると、部署の中でざわめきが起こる。黒間と大鳥はあくまでも冷静さを保った。
『俺たち』だと?やはり、累もこの男に協力しているのか?いやそれとも、コイツも単独で動いているわけではないのか?
相手側の流れに飲まれないよう注意を払いつつ、大鳥は相手の裏を読もうと、頭をひねって考える。黒間もすでに、何としても累の身柄を抑えなくてはならないと策を練り始めていた。
「…要求を聞かせてくれ」
京吾は累との打ち合わせの通り、リストに書いた要求を読み上げ始めた。
捜査員たちの予想通り、『情報は身の安全の確保と引き換えにして欲しい』との要求が告げられた。強盗を犯して2名に重傷を負わせた上に累を拉致したことが事実ならば、当然ながら、酌量の余地がない重罪である。
だが裏で糸を引く真犯人がいたならば話は別だ。見返りとしての身の安全とは、保護を受けることはもちろんのこと、早い話累を誘拐した罪を減刑してくれという話だろうと、大鳥は把握した。
「協力してくれるなら、もちろん身の安全は約束する。恩恵だってそれなりに与えられるだろう。もちろん、人質は解放してくれるな?」
『そこが2つ目の条件だ。累の開放は最後の最後で行わせてもらう。情報の受け渡しは..あー...』
紙か何かをガサガサ漁る音のみが聞こえるようになったが、しばらくすると再び声が聞こえてきた。
『場所は俺が指定する。そうだな...ニューロッド1ってホテルを知ってるか?』
「ああ、知ってる。サンタフェにあるホテルだな」
『今から俺たちはそこの一室に向かう。詳しい時間と部屋はまた連絡するが...俺たちのいる部屋にたった一人だけ、受取人が入るのを許す。証拠が本物かどうかはおたくらで調べればいいさ。俺たちの安全が保証された時点で...いや、俺の安全か。その時点で累を引き渡そう。アンタらは真犯人を捕まえられて、これでウィンウィンハッピーエンドってやつだ』
「了承した。その他の要求はあるか?」
『そうだな...できればホテルにはアンタが来てくれ。それとだ!この電話のことをマスコミだのに公表するんじゃねえぞ!』
京吾の話に返答しながら、大鳥は目で黒間に聞く。
身代金も物品の要求もなし。随分俺たちに有利な条件ですが、何か裏がありそうで。大丈夫ですかい?と言うような不安が、大鳥の目の動きには現れていた。黒間は口を閉ざしたまま頷き、そのまま続けろと指示を出す。
「もちろんだ。こちらも真犯人が何者か知れるなら、それ以上のことはない」
『よし、決まりだ!そうだな次は余裕を持って...3時間後だ。3時間後にもう一度、この電話にかけさせてもらう』
その後もを京吾と大鳥の間で会話が続く。しかし京吾の緊張がほぐれてきたところで、急に電話が切れてしまった。累が公衆電話のスイッチを切ったためであった。
「ちょっと話しすぎだよ、公衆電話から場所を特定することなんてそう難しくないんだから。余計な口も滑らせそうだったし」
京吾は軽く謝りながら、電話台に散らされていた紙を乱暴に片付けて立ち上がった。
「悪かった悪かった。だが連中は、俺たちの話に乗ってくれてたみたいだったぜ?お前の前菜が結構効いたらしいな」
「それは結構なことだけど...九院寺家の影は広いんだ。警察だって信用ならないよ。一族の中にも、警察と繋がってるやつもいるかもしれない」
累が忠告すると、京吾の動きが一瞬固まる。しかし不安を晴らすかのように、まさかの話だろと首を横に振った。
「まあでもとにかく…もうここまで来たら引き返せない。それに追われてる身なのは変わらないんだから、どうやってホテルまで行くかも考えなくちゃ」
「その点は任せとけ。この辺の地理には詳しいからよ、ニューロッド1までなら線路沿いを通ればずっと無人の道みたいなもんだ」
2人は逃げ道について話しながら車に戻る。すでに宿泊所から移動していた彼らは、人の目を避けながら電話ができる場所を探していた。車も知られていると考えると、車体を隠すことができるスペースも必要だった。
「丁度いいところに停められてよかったぜ。電話も使えたしな」
京吾は車のドアに手をかけて、辺りに何の動きも人影も見られないことに安堵する。偶然にも潰れた博物館の跡地が見つかり、建物の影になる場所に車を停められた。電話線が生きていた公衆電話も使うことができた。
「随分時間に余裕を持ったみたいだけど、とにかくかっ飛ばそうよ」
「おうよ。だがその前にちょっとひと工夫だ」
京吾はそう言うとガソリンスタンドで買った小規模ないメイク道具を取り出し、累に見せる。
少し顔の暗さを変えれば別人に見えるんだぜ、と京吾に豪語されてはいたが、累は懐疑的、と言うよりあまり乗り気ではなかった。だが今となっては何でも試しておくしかなく、助手席に座ると、渋々化粧を始める。京吾は運転席に戻ってキーを回した。
「ここからが勝負だ!」
京吾の一声とともに、2人を乗せた車が動き出す。同時刻、黒間と大鳥がいる部署の中は、三度の大騒ぎとなっていた。
取引の場所が決まったとなれば、応援を集める者、今までの情報を整理する者、誘拐犯への疑問を書き出す者など、各々が大急ぎで準備を進めている。3時間後とは指定されたものの、どれくらいの猶予があるかは不明であった。
黒間も誘拐犯から提示されたウェブページを見ながら、次の動きを他のチームに指示する。大鳥は気合を入れるようにマシュマロ入りのココアをグイッと一飲みし、電話での会話から考えられる犯人の癖を見直していた。
手筈を整えて連絡を済ませた黒間は、もう一度チームの面々に声をかける。
「全員すぐに準備しろ!大鳥、お前は俺と一緒に来るんだ」
「もうホテルに向かうんですかい?
「先に寄るところがある。九院寺玲亜と九院寺明夫に会うんだ。奴ら累について、何か知っているかもしれない」
黒間はそう話しながらコンピューターを動かし、ウェブページ上で何かを調べている。
「ですが、家族には何も言うなという要求でしたぜ?」
「何も全てを聞くわけじゃない。ちょっと探りを入れに行くだけだ」
「了解!3分で仕度してみせますよ」
捜査チームからの要請を受けて、外からの応援を知らせる連絡も着々と届き始めている。すぐにでも出発をと車を準備しに動いた大鳥だが、黒間に呼び止められる。
「待て大鳥。現場には特殊部隊も必要だ」
黒間の指示は、チーム内に一瞬の緊張を呼んだ。
誘拐事件において犯人と接触するとなれば、戦闘による制圧を避けられない事態も起こり得る。しかし人質を握られている場合は、犯人を刺激しないよう、特殊部隊の導入は最後の最後の手段となるのが通常である。
話し方から見るに犯人は銃の撃ち合いなど望んでいないようだった。大鳥は、リスクのある行動をとることに抵抗を感じていた。
「安心しろ。あくまでも念のため、だ」
そう言われると大鳥は頷き、再び本部と連絡を取った。
誘拐犯が持っている証拠や真犯人の正体など、多くの謎は残されたままである。混乱状態なのはチームの外も同じだろう。あらゆる可能性を警戒しておく必要があるのだと、大鳥は黒間の指示を理解した。
「大鳥さん。チーム長の指示、本当に大丈夫でしょうか?犯人に知られたら、下手に刺激することになるのでは…」
捜査員の1人が小声で言葉をかけてきたが、大鳥は自分自身の迷いを振り払うように、首を大袈裟に縦に振る。
「今鍵を握っているのは…誘拐犯とともにいる九院寺累だ。疑惑の人物と繋がりがあるだけじゃない。事件の真相を知ってるらしい誘拐犯とも行動をともにしてる。彼を殺されるような真似は絶対避けなきゃいけない、ってことだ。どんな手段でもやるっきゃねえのさ」
覚悟を決めつつ身震いする大鳥とは反対に、黒間の感情は平静に保たれていた。
ゆっくりと立ち上がり、携帯電話から次の指示を送る。時間が刻一刻と迫る中、早々に次の手を打つため思考をめぐらす。その表情に焦りは見られないが、もうここまでこればもう手段は選んでいられないというある種冷酷な決意に満ちていた。
外に向かおうとする黒間に、伝達を済ませた大鳥もついていく。刻一刻と約束の時間が近づくことを示すかのように、時計の針はいつもより早く進んでいるようであった。
その頃、玲亜たちの元に向かう黒間たちより早く、病院を訪れていた人物がいた。
重症を負った2人は救急車で運ばれ、玲亜は未だに集中治療を受けている最中である。しかし明夫の方は、すでに意識を取り戻す程の回復を見せ、医者や警察の目を丸くさせていた。
しかし明夫は未だに、警察からの何の質問にも口を開いていない。一族からの指示を待っているからである。そんな中周りの目を盗み、黒間たちより早く病室に侵入していたのは、一族の邸宅より移動してきた九院寺統一郎だ。
「明夫さん、ご無事で何よりです」
そう言う統一郎に手を差し伸べられれば明夫はその手を握る。両腕には包帯が巻かれているが、老体に似合わない強い握力も依然として健在だった。
「歳だな。ここまで酷くやられてしまった」
「累は結構頭が切れる。それに、彼の協力者も同じく戦闘のプロなのでしょう。今となっては仕方のないことです。玲亜も無事であればいいのですが…」
玲亜の身を案じる様子を見せながら、統一郎は手を握り返して声をかける。だが明夫は首を横に動かして、少し不可解そうに目を細めていた。
「確かに累には適わなかったが…協力者の男については、そういうわけじゃなかった」
統一郎は手を離して片方の眉をあげ、「どういうわけです?」と聞く。明夫は自分の腕を見ながら、彼が林道で目にした誘拐犯について語った。
「男は我々を殺そうともしなかった。玲亜を殺そうとした累のことも止めていた。どうも、そこらの売人や殺し屋とは違う人種のように見えたんだ」
明夫の話を聞いても統一郎は何も答えない。しかしながら、内心、累が誘拐犯と行動をともにした理由を察していた。
累が平穏を欲しがっていた。特に、充と仲を深めてからは尚更だ。おそらくは誘拐犯に道徳的な説得でもされて、この人なら自分を救い出してくれるとでも思ったに違いない。
「なるほど、興味深い。とにかくこれで、累と協力者が共闘関係にあるとわかりましたね」
統一郎はそう言いながら時計を見て、時間を気にする素振りを見せた。明夫は自分の腕に視線を落としたままでいる。
「旦那様に申し訳が立たん。男に罪を着せようとしていたみたいだが、どうやら奴らも封じ手に移ったようじゃないか」
病室に持ち込まれたテレビを指しながら明夫は不安を口にする。統一郎は、彼を安心させるように軽く手を振った。
「ご安心を。協力者と累が行動に出ることも全て、旦那様の想定のうちです。むしろ偽のメッセージを送ったのは、奴らを動かして、逆に追い込むための状況を作るためだったのですよ」
明夫は統一郎の方を見て聞き返す。
「追い込む、だと?」
「その通りです。奴らは間もなく袋の鼠になる。そして明日の新聞には、『人喰い男、人質とともに死亡』と書かれることになるでしょう。どうか心配なさらず体をお安めください」
話を飲み込めていない明夫に少し不気味な微笑みを見せると、統一郎はそそくさと病室を出ていってしまった。仕切りに時間を気にして、廊下を早歩きで移動しながら、次の指示が来るのを待つ。
病室を離れると同時に、統一郎の顔からは笑みが消えていった。代わりに、怒りを孕んだギラつきが、力強い目力を持つ瞳に浮かび始めた。
約立たずの老いぼれめ!しくじっておきながらノコノコと生き残りやがって。そのくせにふざけた口を聞いてるんじゃねえぞボケた豚野郎が!あの女狐もだ。肝心な時には何の役にも立ちやしない!どうせ累を見くびって、いつもの遊び癖を出して敗れたんだろう。次にその面を見たときには奥歯をぶち抜いて二度と笑えない面にしてやる。
心の中でありったけの暴言を吐き散らす。そして深呼吸すると、ようやく落ち着いたように、顔色を気のいい男風に戻した。
「さて、一族の人間も来るとの話だったが…いよいよ私が、累をぶち殺してやるほかなくなったようだな」
そうつぶやく統一郎の内心は、すでにメラメラとした殺意に燃えている。まだ何の武器も持っていないが、溢れそうな攻撃性を抑える代わりに、何となく掴んだ廊下の手すりを思い切り握った。
スチール製の手すりがいともたやすくねじ曲げられる。手を離した統一郎は、次の指示を待ちながら時計を睨み続けた。
病院の外では、黒間と大鳥の車が病院に到着していた。車から降りると、2人は走っているも同然な速さで病院に入っていく。
廊下を歩きながら、ふと大鳥が口を開く。
「これで晴れて、事件が解決すればいいんですがね。しかし、縁ってのは奇妙なもんだ」
「奇妙だと?」
彼より少し前を歩く黒間に聞き返されると、大鳥は累からのメッセージを思い出しながら答えた。
「奇妙な偶然じゃないですか。まだあくまで、もしもの話ですが。ここまで捜査に尽力してきた黒間さんと、真犯人が同じ名前を持っていたとしたら...きっとこれは、宿命的な何かですよ。まるで映画だ」
大鳥の言葉を聞いても、黒間は彼の方を向かなかった。
「この辺じゃよくある苗字と言ったろ。それに、九院寺はあくまで俺の古い名だ。何の因果も関係もない」
また喋りすぎだと叱られると思い、大鳥もそれ以上は何も言わない。というより特に気にすることもしなかった。一足先に九院寺玲亜たちの容態を知るため、小走りで黒間を追い抜く。
黒間は一度立ち止まると携帯電話を開き、次の動きに関する指示を電子メールで送った。
本来であれば捜査の関係者が外部と連絡することは厳禁である。だが黒間はその立場上、電話を使っていても特別怪しまれることはなかった。それほどの信用と地位を築くことに彼は成功していたのである。
彼の手帳には、黒間・フーヴァーという名前が書かれている。これは偽名ではない。ただし黒間は、ある目的のため、社会的な名前を変えた過去があった。それを知っているのは、調べ癖が災いして偶然古い名前を知ってしまった大鳥のみである。
九院寺竜一。それが彼の古い名前だ。
黒間はすでに、厄介な繋がりを知ってしまったかもしれない自分の部下をどう始末するかも、計画の内に入れている。当然ながら大鳥がその動きに気付くことはない。
ましてや、累が描いた最悪のケースが現実のものとなろうしていることなど、必死になって逃げている2人には知る由もなかった。
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