ようこそここが戦場: 累と京吾の視点 ④

 粉々になったドアガラスから熱気が入り込み、数秒前までの肌寒さを思い出せないほどに、車の中は蒸し焼きになっていた。朦朧とした意識の中、京吾は、あの日の光景を頭に思い浮かべていた。

そうだ。あの日も、冬にしては随分暖かかったな。忘れもしない、12月25日の夜。プレゼントの箱を持って、アイツと一緒に家に帰ろうとしていたときだったか…

「…い…オイ!…っかりしてよ!まだ死んじゃいないだろ!」

京吾の回想は、左側より飛んできた声によってかき消されてしまった。

京吾はゆっくりと左を向く。目の前には、出血している右腕をだらりと垂らしながら、シートベルトを外そうともがいてる累の姿があった。

そうだ。こんなことを思い出してる場合じゃねえ。

ようやく京吾は、謎の老人と女の攻撃を受けて車が横転させられてしまったことを思い出す。

車は完全に使い物にならなくなってしまったが、シートベルトが体を抑えてくれたおかげで、幸運にも2人は無事だった。京吾の身体もあちこち傷んではいるが、まだ動ける程度の軽傷で済んだようである。

「これ外して!」

 累の言葉にやっと我に帰った京吾は、慌てて自分のベルトを外し、腕を伸ばして累にも手を貸した。

車体は運転席側が下になるように倒れてしまっており、累側のドアは開きそうにない。後方からは火が出ているようで、じわじわと熱に満たされる車内では、酸素も薄くなりつつある。助手席のドアを開けようとする京吾だが、累が呼び止めた。

 「待って!そこから出ちゃダメだ!」

 「何言ってんだ!こんなオーブンみたいな車の中で…」

 「そんなとこから顔を出したら格好のマトだ!ハチの巣にされるかもしれない」

 そう言われると、京吾は伸ばしていた腕を引っ込める。

確かに連中は、発煙筒に見せかけたランチャーのような筒から爆弾か何かを発射し、明確な殺意を持って2人を乗せた車を攻撃していた。恐らくは累を探していた一族の追手であり、車を倒しても尚、煙に炙り出された京吾らを撃ち抜こうと待ち構えている可能性は十分にあった。

 しかしながら灼熱と化しつつある車内に留まるわけにもいかない。他の出口はないかと京吾は身体をひねる。すると、助手席の下部に緊急脱出用の赤いハンマーが備え付けられているのを発見した。

京吾は何とか手を伸ばして小さいハンマーを掴み、フロントガラスの前に持っていく。

 「お前の兄貴に悪いな。こんないい車なのによ!」

 そう言いながら京吾はハンマーをガラスに叩きつけ始めた。三発目でひび割れていた窓を粉砕でき、留まっていた熱い空気が流れ出ていく。脚を引きずる累に京吾が肩を貸しながら、2人は何とか車外に這い出ることができた。

 車は炎に包まれる寸前であり、火の手が前方まで回る前に脱出できたのは運が良かった。胸を撫で下ろす京吾だったが、何故か累は京吾の手からハンマーを取ると、火が昇る車体に近づいて後部のサイドガラスを砕き始めた。

 「オイ!何をやってんだ!」

 京吾はとっとと離れろと指示するが、累は聞きもせず、砕けた窓に手を突っ込むと何かを漁り始める。

 「アイツらは僕らを殺す気だ。赤羽が積んできた武器が要る」

 「そんなことをしてる場合じゃねえだろ!」

 「してる場合さ!殺し合いが始まるんだぞ!」

 累はそう怒鳴ると、煙が充満した車内から医療用のキットと細長い革製のケースを引きずり出した。

京吾もやむを得ず、キットから包帯やガーゼを取り出して累の応急処置を手伝う。車の影に身を隠すようにしながら、悪化してしまった累の脚の傷に新しい包帯を巻いた。

 「アイツらは...何を親切に待ってやがるんだ」

 京吾が反対側を気にしながらつぶやく。

サイドミラーをひねって見ると、老人と女は二台の車の近くから動いていないようだった。老人は例のランチャーを構えたままで、何かを仕掛けてくる素振りも見せずに、横転した車の方を見続けている。

 「様子を伺ってるんだろうさ。トドメを刺しに来ないなら、ここで遠慮なく準備させてもらおう。返り討ちにしてやる準備を、ね」

 「その間に車が吹っ飛んだらどうすんだ!?」

 「そのときはまあ、諦めるっきゃないよ。どの道ただ飛び出すだけじゃ殺されるんだから」

 車から出した革のケースには、赤羽が予備として持ってきたらしい長身の散弾銃と、小型のナイフが仕込まれていた。連射式ではないがスムーズに銃弾を装填できるスライド式の銃であり、累は笑みを浮かべて弾を込め始める。累に顎で指され、京吾も地面に放り出されていた猟銃を拾った。

 舗装の悪いアスファルトの道路は松の木々に囲まれており、上手く身を隠せば逃げることもできるのではないかと、京吾は戦闘を躊躇う。しかし累は、走って逃げられるような相手ではないと、先の襲撃が起こった一瞬の間に理解していた。

丁度累が銃弾を込め終えたとき、車体の向こう側から、女の声が投げかけられた。

「ル―二―!私の声が聞こえるかしら?」

 姿は視認できないが、声の主は2人を襲ったあの女に違いなかった。ル―二―という呼び名に反応するように、累は表情を硬直させる。

「連中も一族の奴らか?」

「そうだよ。それも…特に厄介な奴らが来たみたいだ」

そう答える累の目には、赤羽の襲撃に遭ったときと同じような、緊張と恐怖の色が現れている。銃を持つ手もわずかに震えていた。

「爺さんの方は明夫。昔から世話をしてくれやがったクソジジイ。老いぼれだけど、機械みたいに正確な射撃をする奴だ。女の方は玲亜って名で、ル―二―なんて呼び名を使う女は彼女しかない。クソ、…正直、1番イヤな相手だ」

2人は屈んで身を出さないようにしながら、反対側で待ち構える九院寺玲亜たちの動向を伺う。動き出すのを待っているのは相手方も同じようで、累の名を呼びはしたものの、それ以上の何かを仕掛ける様子はなかった。

「連中は勘で、僕が生きてることに気づいている。それなりの警戒を張って追撃を準備してるに違いない。だけどアイツらは、アンタの存在を警戒してないはず。そこが隙だ」

覚悟を決めて京吾の方を見る累だが、肝心の京吾は相変わらずの小鹿状態で、あらぬ方を見てはオドオドと怯えていた。累はため息をつきつつも彼の肩を掴んで揺さぶる。

「しっかりしてよ!アイツらをやるなら、僕1人じゃ無理だ」

「や、やるって、『殺る』ってことかよ?」

「他に何があるんだよ!」

累はそう言って作戦を話そうとするが、京吾は未だに心構えができていなかった。

チンピラ崩れがそう簡単に暗殺者のような冷酷さと覚悟を持てるわけがなく、自然な状況だとも言える。また京吾は、これ以上誰かの死ぬ姿などを見るのはウンザリだし、累にも誰も殺して欲しくないとさえ思っていた。

「オイ聞けよ!またお前は……な、何だ、これ?」

京吾が反論しようとしたその直後、車の背後から小さな金属の筒が何本か投げ込まれ、カランカランと軽い音を立てながら地面を転がった。リレーのバトンのような形をした小型の筒は玲亜たちが放ったものに違いなかったが、爆発物ではないようだった。

「これは…まずい!口を塞いで!」

投げ込まれた物体の正体を悟った累に警告され、京吾も慌てて袖で口を覆う。

数秒としない内に一本の筒の側面から穴が開いたかと思うと、そこから白い煙が吐き出され始めたた。続々と全ての筒が起動すれば、車の周辺は、あっという間に白煙に包み込まれていく。

「催涙ガスか!?」

「いや、毒だよ」

煙を吸わないようゆっくり立ち上がりながら、累は玲亜たちが本気であることを改めて思い知る。

投げ込まれた筒は彼にとって見覚えのある装置で、車の中に投げ込めば10秒足らずで毒ガスを充満させることができる小型のガス弾だった。命を奪える程ではないが、吸い込んでしまえば神経が麻痺し、最悪意識を奪われてしまう。

本来はたった一人殺すために何本も用意するものではなく、そもそもこんな外でばら撒くような武器でもない。一族はもはや手段を選ぶ気などないのだと、累は改めて理解した。

「僕が何とかする。アンタは反対に回って車を奪うんだ」

そう耳打ちすると京吾に「何!?」と返されたが、累は片足を引きずりながら、煙に包まれた車体の裏から姿を表して2人の方に歩く。

累は縁あって、九院寺玲亜の性格を理解していた。

僕をとっとと殺したいならいくらでも方法はある。すぐに殺しにこないのは、彼女が復讐を果たしたがっているからだ。つまらない殺しじゃなく、残虐なやり方で、僕にたっぷりと苦痛を味あわせてやらないと気が済まない。彼女はそういう性格だ。

累は覚悟を決めると、1度息を吸い込んでから、大声で彼女に呼びかけた。

「…玲亜さん!僕だ、累だ!久しぶりだってのに、随分と乱暴な挨拶じゃないですか!」

2人の視線が累に向けられる。玲亜は拳銃を手にしており、その背後では明夫が、数本のガス弾が入ったケースを持っていた。明夫が銃を構えていないことは累にとって幸運だった。脚を撃ち抜いてあっという間に自由を奪うことは、彼であれば容易であるに違いなかったからだ。

「少しでいい。話し合いませんか?何もこんなとこで殺し合うなんて...」

累は説得を求めるかのように銃口を下ろす。その様子を見れば、玲亜も口を開いた。

「そうね、ル―二―。随分と久しぶりだもの」

その言葉を聞いた累が1歩近づこうとすると、玲亜は彼の足元に向けて発砲した。累はスッと足を止める。地面に弾痕を残されると、それ以上進むことはできなくなった。

「少しのお喋りなら付き合ってあげてもいいわ。貴方に聞きたいこともあるし」

変わらず感情の起伏を見せることのない言葉遣いを保つ玲亜だが、その瞳は寡黙な怒りに燃えていた。累にそこで止まれと再度銃口で指示しては、静かに彼の瞳を見つめている。累に銃を持ち直す隙も感じさせないほどの気迫だった。

「一つだけ聞かせて。彼は死んだの?」

沈黙を切り裂くように玲亜が問いかける。累は「何の話?」というように首を傾げるが、玲亜に再び銃弾を放たれれば、すぐに身体をフリーズさせた。弾丸は当たりこそしなかったが、累の耳元の近くを通過して車に命中する。

「くだらない真似は避けた方がいいわ。彼は…赤羽は死んだのね?」

玲亜は、躊躇うつもりはないと告げるように銃を向け続ける。鋭い視線はほんの一瞬として外されることはなく、流石の累も圧倒されてしまう。

玲亜の目は累に、思い出したくもない赤羽の瞳を想起させる。暴力と虐待にまみれた教育を受けて恐怖に震えていた記憶すら蘇った。それほどに、赤羽と玲亜はよく似ていた人間だったのである。

玲亜は一族の生まれではない。赤羽と婚約し、その後に九院寺の名を受け継いだ人物だった。

彼女の父親は船医を表の顔としていた麻薬カルテルの売人であり、国中を転々としながら密売によって膨大な金を稼いでいた。玲亜もその恩恵を受けて育ち、医学を学びながらいくつもの別荘を転々としつつ、何一つ不自由のない人生を送っていた。

全てが変わったのは、家族でアメリカ・ミシシッピ南部の邸宅に泊まっていたある夏のことだった。物音に気づいた玲亜が両親の部屋を覗くと、そこでは椅子に拘束された父親が、ナイフで喉を掻っ切られていた。

彼女の父親は組織の金を横領し、賭博や女遊びに使い込んでいた。制裁としての殺害を依頼されたのは、殺し屋として動き始めたばかりの九院寺赤羽。玲亜は偶然、父親が殺される光景を目撃してしまったのだ。

すぐに息絶えることも許されず、首から溢れる血を抑えようともがきながら青い肌に変色していく父の姿を見て、彼女は言葉を失った。

『目撃者は消す』の鉄則に則り玲亜にも刃物を向ける赤羽だったが、彼女が発した言葉は、彼の想像をはるかに超えるほど奇妙なものだった。

「待って。どうせなら最後まで観させて」

そう言うと彼女は、予想外の言葉に困惑する赤羽には目もくれてい。ゆっくりと、そして例えようのない苦痛の中で命の灯火が消えかける父の死に様を見て、それを観察することに夢中になっていた。

彼女の本性には、ねじ曲がった異常性があった。父が殺された姿を見て彼女の心に沸いたのは恐怖でも混乱でもなく、血まみれで息絶える最期の瞬間を『観たい』という、残虐性を孕んだ興味だったのである。

この1件で、赤羽は彼女に惹かれた。さらにこれをきっかけに、彼女は一族の協力者として引き抜かれることにもなった。当時医者として働き始めていた彼女は一族にとっても都合のいい存在であり、特に彼女の無慈悲な本性は、赤羽のそれと非常に似ていた。次第に彼との関係を持つようになった玲亜は、今では九院寺の姓を受け、時折彼女自らの手でその残虐な欲求を満たしている。

累はそんな彼女に心からの恐れを抱いていた。

すました顔をしてるけど、切り取った耳をパンに挟んで食わせるような狂った女だ。凶暴さと邪悪さは、一族の誰をも凌いでる。そんな奴に復讐の怒りをぶつけられたらどれ程の苦痛が間違えているか、想像だってしたくない。

累は恐怖を払うように身震いしながら、玲亜に強気な視線をぶつけ返す。

 「…僕はただ、遥を自由にしたいだけなんです。それが叶うならどんな罰だって受けていい。余計な抵抗だってしない」

 「そうかしら?本当にそう思ってるなら、脚を撃ちなさい」

 玲亜は淡々とした口調のまま告げる。累は「え?」としか返すことができなかった。

 「自分の脚を撃てと言ったのよ。『抵抗はしない』だなんて口約束だけじゃ、何の信用にもならないわ。私が撃ってもいいけど、うっかり殺しちゃったら厄介だし」

 そう話す玲亜に圧倒されながらも、累は銃を持つ。

こちちから仕掛けたとしても、この距離ならば累を撃ち殺すことくらいは、彼女にとって簡単だ。何とか先に彼女を撃てても、次の弾を構える間に、背後から見ている明夫の反撃を喰らうかもしれない。隙を伺う累だったが、喉元にナイフを突きつけられている状態から依然脱することができないまま、玲亜の圧に飲み込まれそうになっていた。

 2人ともが口を閉ざす無言の時間が経ち、風が木の葉を揺らす音が辺りを流れた。その間2人の視線が互いを外すこともなかった。

これ以上は待てないと告げる代わりに、玲亜は銃口の向きを累の脚にずらす。累は意を決したように息を吞むと、同じように自分の銃を彼自身の右足に向けた。

 「わかったよ。これで『信用』になるのなら...」

 そう言いながら累は引き金に指をかける。躊躇いが指の震えに現れてはいたが、表情は観念したかのような力のない色をしていた。

少し視線を上げて玲亜の反応を伺う。予想に反して玲亜は、疑いの目を向けることも、寡黙に観察することもしていなかった。むしろ累を見下ろしながら、何故かマリア像のような慈愛を孕んだ微笑みを浮かべている。

感情を読ませることのない彼女の様子は、累をあまりにも不安にさせた。

 「いい根性してるじゃない、ル―二―。私も赤羽も、貴方のそういうとこを気に入ってるのよ」

 玲亜は小さく拍手を送りながら褒め言葉をかけ、累の方にゆっくりと一歩踏み出す。一度も見たことのないどこか優しげな玲亜の様子に、累は更に困惑した。明夫は黙って2人を見つめている。

 「あの人に似てるだけあって流石の策士ね。この期に及んで、そんな演技で私を出し抜こうとするなんて」

 変わらない声色ではあったが、最後の一言を聞けば、累はゾッと戦慄した。

 「まるで鼠の皮を被った大蛇ね。気が変わった。この場でボロ布みたいにズタズタにしてあげるわ!」

 突然血相を変えたかと思うと、玲亜は怒りを吐き出すように荒々しい言葉を口にし、再び銃口を累の身体に向ける。彼女が狙いを定めるのとほぼ同時に、「やばい!」と認識した累も素早く銃を向け、彼女より早く引き金を引いた。

 銃口の先にいたのは玲亜ではなく、数発のガス弾を手に持つ明夫の方だった。弾丸は吸い込まれるようにガス弾に命中する。撃たれたガス弾は、明夫の手から離れて宙を舞った。

外したか!と思いながら、玲亜は後ろを振り返る。だが次の瞬間、銃弾を受けたガス弾が着火し、花火のような破裂音を轟かせながら爆発した。

累が考えた以上に多くのガス弾にも火が回り、煙を撒き散らしながら、連鎖的に爆発が巻き起こる。3人は吹き飛ばされ、辺りは硝煙に包まれた。

「……何とか、なった?」

 何発もの爆発がやっと終われば、累はよろめきながら立ち上がる。そしてジャケットの中に忍ばせたナイフを手に取った。毒ガスが撒き散らされた中で銃を撃てば、一面に火が周り自分自身まで巻き添えを喰らうかもしれず、最悪自爆になりかねない。そのリスクを警戒すれば銃は使えなかった。

ナイフを構えて、トドメを刺すならこれでと覚悟する。玲亜側が生きていたにしても、銃を撃つような真似は仕掛けてこないに違いない。煙を一気に吸い込むことがないよう呼吸を落ち着かせると、彼女たちがどこから来ても反撃ができるように、煙の中で神経を研ぎ澄ました。

 そんな彼の周辺を回るように、砂利を踏みながら、1人の足音が動き始めた。

累は動き回る気配を目で追う。そして2時の方向で足音が制止したかと思えば、煙を散らしながら、累に向けて突進しようとする玲亜が姿を現した。手には刃渡りの長いダガーナイフが握られている。

こめかみを掠めそうな程近くまで刃先が迫ったが、咄嗟に身を屈めた累には刺さらなかった。

玲亜は続けて間髪入れず、手の中でナイフを半周だけ回すと、次の突きを振り下ろす。累は右手で彼女の左腕を抑えたが、玲亜はしなやかな体に似合わない強い力をかけて、そのまま刃物を突き立てようとした。

累は右脚を振り上げて、彼女の体制を崩そうと、脚に蹴りを入れようとする。それに気付いた玲亜は力を緩めると、俊敏な動きで後ろに退いた。

累と目が合えば、彼女は刃先で累の脚を指す。そんな怪我でいつまでもつかしら?とでも嘲笑うような表情も浮かべている。傷の痛みが厄介な足枷となっているのは図星であり、累は再びナイフを持ち直すが反撃に出ることはなく、じっと次の手を待つしかなかった。

クルクルと鋭いナイフを回しながら、玲亜は間合いを取り、少し離れた位置から累をを睨みつける。毒ガスが撒かれてしまったこともあって2人の間に言葉が交わされることはない。代わりに視線のみが、どんな言葉よりも明確な敵意を晒し出しながらぶつかり合っていた。

再び玲亜が仕掛ける。重心を下げ、累の腹部を狙うように刃を突き出して襲いかかった。

身構える累だったが、不意に動きを変えて蛇のように素早くスライディングした玲亜に足をかけられると、足首を反対にひねられ転ばされてしまった。左手を地面について体を支えるが、すぐさま追撃のナイフが振り下ろされる。

朝日を受けて不気味に光る刃が喉元に迫った。だが辛うじて、寸前で玲亜の動きは止まった。累は右腕を彼女の肩まで伸ばし、手首から腕にS字状に巻き付けるようにして、ナイフを握る玲亜を抑えていた。

そのまま累は上半身を反らして、逆に玲亜を引き寄せるように腕を引く。その勢いにまかせて、左手に持ったナイフで刺しにかかった。

何年もの教育を受け、累の殺陣における頭の回転はかなり速くなっていた。しかしながら玲亜のセンスも劣ることはなく、腕を塞がれた状態で刃物を刺されそうになったが、素早く頭突きを喰らわせて累をはじき飛ばした。

重たい衝撃を受けて体制が崩れてしまえば、累の迎撃はただ空気を切り裂くだけに終わってしまった。

息をつく間もなく、累の胸元に玲亜の鋭い回し蹴りが飛ぶ。今度こそは避け切ることができず、累は地面に叩きつけられたように転倒した。

慌てて後ろに跳ね除け、玲亜のナイフをギリギリのところで避ける。息が上がったためか煙を吸ってしまったようで、立ち上がると少しの間意識がぐらつき、視界も色を失ってぼやけた。

累の目には呼吸を整え直す玲亜が写る。この戦闘を楽しんでいるのか、それとも致命傷を与えた末にどうやって彼を痛ぶるべきか想像しているからなのか、彼女の口角は不敵につり上がっていた。

累は次第に、自分が追い詰められつつあることを理解し始めていた。

一方の京吾は、突如起こった爆発に累の身を案じながらも、彼に言われた通りに車を奪おうと動いていた。

あちこちから立ち上る煙を避けながら、道路に放置されていた2台の車に近づく。幸運なことに1台はエンジンがかけられたままで、運転席にも誰もおらず、奪うことは容易そうだった。

「こりゃついてるぜ。早いとこ…」

そうつぶやいて車に近づく京吾だったが、背後から気配を感じると足を止め、素早く後ろを向く。今にも倒れそうな足取りで姿を表したのは、先にランチャーを放った老人、明夫だった。

爆発を受けたためか両腕は一面に傷を負っており、痛々しい色に染まっている。一瞬固まる京吾だが、油断するな、こんなジジイでもイカれた殺し屋には変わりねえんだと自分に言い聞かせて銃を持った。

「お、おいジジイ!そこで止まれ!!」

銃を向けられる明夫には、怯む様子も足を止める様子もなかった。何も言わず、京吾に真っすぐな目力を浴びせている。状況を見れば有利なのは銃を持つ側であるはずだったが、傷だらけの老人の瞳が放つ殺気に、思わず京吾の方が怯えた。

落ち着け、落ち着け!とにかく車を奪っちまえばこっちのもんだ!京吾は自分を奮い立たせる。

「聞こえねぇのか!死にたくなけりゃ大人しく…」

京吾が精一杯の脅しを言いかける。だが明夫はそれを聞き終わるより早く崩れ落ちそうになり、ガクッと膝を着いてしまった。苦しそうな呼吸を漏らして立ち上がることもできない様子になってしまえば、先程の雰囲気とは大きく異なる明夫の痛ましい姿に、京吾は戸惑った。

「い、いいかよ…そこで大人しくしてろ、そうすれば…」

死にかける老人の姿を見て愚かにも躊躇いを覚えてしまった京吾が銃を下ろすと、明夫の様子は一変した。

地面に座り込んだままコートの内側に手を突っ込み、隠し持っていた22口径のリボルバーを出す。銃口が向けられる先は、当然ながら京吾である。

「な、何だと!?」

京吾は咄嗟に車のドアを開けて身を屈める。その直後明夫が発砲したが、重厚なドアが盾となって京吾を守った。一族の所有する車というだけあって防弾ガラスだったのか、大きな銃痕が刻まれたものの、銃弾が貫通することもなかった。

明夫が追撃のため立ち上がろうとすると、京吾は慌てて車内に滑り込み運転席に着く。2発、3発と前方から銃が撃ち込まれたが外装は破られなかった。とはいえ車内に篭もってやり過ごせるとは思えず、京吾は若干のパニックになりながらもハンドルを握る。

1度バックし、依然として変わらぬ様子で銃を構え続ける明夫から距離を置く。そしてアクセルに踏み変えると、明夫の真横ギリギリを目掛けて車を急発進させた。

「クソジジイが!これでも食らってやがれ!」

車による突進にも動じず、明夫はサッと身を避ける。京吾はその隙を突くように、勢いづいたまま運転席のドアを押し開けた。

鈍い音とともに、明夫の体がドアに叩きつけられる。そのまま明夫は数メートル吹き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。

少し反撃してやるだけのつもりが、想像以上に強い勢いで、明夫をドアに打ちのめしてしまった。京吾は慌てて車を停めて、バックミラー越しに後ろを見る。

驚くべきことに、あれ程の一撃を受けても明夫は意識を失っていなかった。上半身を起こして数メートル先に落ちた銃を拾おうとさえしていた。しかしながら腕の損傷もあり動くことも難しいようで、しばらくすれば、諦めたかのように地面に伏せた。

老体でありながら恐ろしい程頑丈な体を持つ明夫に身の毛がよだつのを感じながらも、ひとまず彼を殺すことなく無力化できたことに、京吾は安堵する。

どうする?救急車くらい呼んでおいてやるか?と考えた京吾だったが、視界に累と玲亜の姿が写ると動きを止め、その瞬間に目を見開いた。

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