最果て:色彩の魔術師


 死後の世界であるからなのか、最果てと呼ばれるこの世界に時間の概念はないらしい。

 どれだけ森の奥へ進んでも鬱蒼とした雰囲気はなく、木々の隙間から差し込む黄金色の光によって周囲は明るく、何処か神秘的に思える。

 黄昏時を思わせる空に月の輪郭は見えず、光を含んだ葉は元がイチョウのように黄色いからなのか、キラキラと輝いて見えるのが美しい。

 黄昏の森。

 そう称すのが相応しいであろう森の最奥まで歩いて来た僕は、ひっそりと佇む無人と思しき洋館の古びた門の前に辿り着いた。

 まるで手招いているように半開きになっている門を潜って、正面に見える扉をノックしてみるが、予想通りと云うか何の反応も返ってこない。

 他に行く宛てもない僕は、無人なら遠慮する必要もないだろうと扉を開けて館内へ足を踏み入れた。

 少なくとも十年は放置されていたであろうことが外観から伺える洋館の中は存外に小綺麗で、埃っぽくもカビ臭くもない。

 それどころか仄かに紅茶のような、甘い香りが漂っている気がするし、床や階段も朽ちておらず足下はしっかりしているようだ。

 まるで昨日まで誰かが此処に住んでいたような────だが、最果てとは謂わば、己の深層に眠る心象風景を反映させた深層世界なのだとヴィンテルは言っていた。

 だから此処には初めから誰もいない、主を持たぬ洋館なのだ。


 館内を歩いて回り、二階に上がって直ぐ右手の部屋の前へ来た僕はあることに気付いた。

「香りが強くなっている……?」

 一階で感じた紅茶の香りが、此処に来て強くなった気がする。

 生前、ヴィンテルの真似をしてよく紅茶を飲んでいたことが反映されているのだろうか、なんて考えてつい口許が緩んだ。

 扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、随分と懐かしい――“唯一無二”と題した一枚の絵。

 部屋の中央には白いキャンバスと木製の丸い椅子、その側には棚があり数種の絵具とパレット、絵筆が置かれている。

 近付いてよく見てみるとパレットの端には生前、僕がつけた小さな傷がついていた。

 絵具も全て僕が好んでよく使っていた色だ。

「どうして僕の物が此処に」

 絵を描くのが好きだったから、だろうか。


 生前、絵が趣味だった僕は“色彩の魔術師”なんて大袈裟な呼ばれ方を世間ではされていたらしい。

 空想を描いて、見た人を惹きつけて離さない能力。

 奇病とは別に生まれつき保有していたものだ。

 それのせいか、名も顔も性別も、年齢も国籍も、何もかも不明な幻の天才画家――そう評されていると聞いた時は、申し訳ないんだけど腹を抱えて笑ってしまった。

 だって、僕はただ自分が欲しいと思った空想を、自分の為だけに描いていただけなんだもの。

「本当に懐かしいな」

 “半身”と僕が向かい合い、透明な壁越しに掌を重ね合わせている絵が額縁に飾られているそれを見上げては、ぽつりと零す。

 半身の存在を知ったのは三歳の頃、初めて未来を視たときだった。

 髪の長さ以外は全て同じに見える半身は毎日のように空想し、楽しそうにその空想を育ての親に話している、何とも微笑ましい未来。

 幼いが故に、気味悪がられたらどうしようだとかは全く考えず視たままを母さんに話すと、意外にも母さんは半身――ブランシュと云う、僕のクローンの話をしてくれたのを今でも何となくだけど覚えている。

 だけど当時の僕には難しい話で、ブランシュは自分の妹だと解釈することで、僕の中で一度整理がついた。

 二度目の未来視では、母さんが事故で帰らぬ人となり、ノーチェの所長であるヴィンテルに引き取られることになっていた。

 母さんは朗らかに笑う、素敵な人だった。

 そんな母さんが好きだったから、視た通りになった時は悲しくて沢山泣いたけれど、表情筋が殆ど死んでいるヴィンテルが実は愛情深く、優しいヒトだと子供ながらに知っていたから、ノーチェでの生活には直ぐに慣れたし、友人も何人か出来た。

 それからも僕の意思とは関係なく未来を視ることがあったけれど、どれもこれもブランシュのことばかり、あとはノーチェに収容される人たちのことを少しと、自分の未来は片手で数えるほどしか視ていなかった。

 それならそれで別に構わない、寧ろ彼方のことを未来という不確定なモノであれ知ることが出来るのは何だか嬉しいんだけど、時が経つにつれて僕は妹だと未だ思い込んでいたブランシュに逢ってみたい欲求に駆られていった。

『母さん。ブランシュにあいたい』

『クローンですか』

『クローンってなぁに?』

『鏡を覗くと、自分が映りますね』

『うん』

『映ったその自分が、現実にいると云うことです』

『つまり、僕は二人いるの?』

『そうなりますね。なので、ブランシュは妹ではありません。だけど、貴方にとっては妹以上に特別な存在なのでは』

『うん、とくべつ。そっか、ブランシュはクローン。あのね、もう少し大きくなったら、ブランシュ、ここに来るんだよ』

『貴方が視たなら、そうなるのでしょう。ブランシュが来たら、何がしたい?』

 ヴィンテルは僕に、基本的な読み書きや計算、教養など、生きる上で識っていた方がいいものから読書、ピアノの弾き方、物作りといった趣味に繋がるものの楽しさも沢山教えてくれた。

 どれも好きだったけれど、中でも絵を描くことが一番好きで、自身の能力が最も発揮されるモノが絵であることにヴィンテルが気付いて以来、毎日のように僕は絵を描いて過ごしていた。

 そんな僕の絵を見た研究員たちは口々に「プロ顔負け」と褒めてくれたのが嬉しかった。

 それもあってか、ブランシュに逢ったら先ずは彼女の絵を描いて、それを彼女に贈りたい、もしブランシュも絵を描くなら一緒に描きたいと、このときの僕は思っていた。

 結局ブランシュが来る前に一度全ての記憶を失って最期を迎えたけれど。

 最後に視たブランシュと、彼女の中にいたノワールと云う人格もまた、穏やかに眠っていた。

 それを見届けることが出来たのだから、後悔は何もない。



          ◆◆



 久し振りに描きたくなった僕は椅子に座ってキャンパスと向かい合った。

 何も描かれていない其処に、薄紅色の花弁を纏う女性が浮かび上がったかと思えば、次の瞬間には真っ白なキャンバスに戻り、首を傾げる。

 死んでも尚、この病は治らないのか。

 生前とは違う視え方だが、恐らくあの女性の未来なのだろう。

 絵筆を取り、忘れないうちに僕は先程の女性を描き始めた。


 あれから、どれだけの時間が経過したのだろう。

 完成しては次を視て、それを描いていく。

 此処では空腹も眠気も感じず、疲れず、描くことに集中しても誰にも咎められない。

 だから僕はずっと描いていた。

 春の章と題した『春の君』『黎明の蛇』。

 夏の章と題した『悪友』『人魚』『向日葵』『宵の明星』。

『唯一無二』は秋の章と題し、其処に一枚、ブランシュと彼女の中にいた方のノワールを描いた『乖離』を加えた。

 冬の章と題した絵は四枚。

『夜明け《アルバ》』『モーネ』『魔法ヘクセレイ』、そして――『ヴィンテル、或いは明けの明星』

 冬に始まり冬に終わる、美しいヒト。

 描き終えたいま、ヴィンテルが何を思ってノーチェを創ったのか、何となくだけど解る気がする。

「季節は巡り、次の冬が来る頃。貴女の物語はきっと、終わりを迎える」

 結末を知った僕は、それが彼女にとって最も素晴らしい終末であることを祈りながら、静かに絵筆を置いた。


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