□□号室:乖離、或いは溶け合う病


「────夢。そう、これは、深い深い、底の見えない蒼黒い海の中にいる、夢。でなければ水嫌いである私がこんなところを彷徨っているはずがない、と。こぽこぽ、口から銀の泡を吐きながら思う。それにしても。ご主人と入るお風呂は苦手だが、ここはなんだか居心地が良い」

 ノーチェ二階、収容区画。

 その端にある子ども専用の第一図書室で、週に一度、昼食後にこうして読み聞かせをしている。

 これが思いの外人気で、子どもたちの評判を聞きつけた研究員たちやヴィンテル所長も、時々子どもたちの後ろで聞いていることがあった。

 今日は僕の担当研究員が微笑ましげに聞いている。

「ねこさん、お水のなか泳いでる!」

「海を泳ぐ猫なんて初めて見たよ」

 子どもたちの視線は、僕の眼前に置かれた長方形の水槽内に向けられている。

 水槽内は蒼黒い水で満たされており、その中を物語に登場したミニチュアサイズの猫が口から銀の泡を吐きながらのんびり泳いでいた。

 頭の中で想像したものを投影する魔法。

 これが、奇病を発症する以前から保有している僕の能力であり、世間で文字の魔術師と評されているらしい由縁でもある。

 まぁ魔法と魔術は本来別物だけど、一々訂正を入れるほどでもないと思う僕は読み手である彼等の好きなように解釈してもらうことにしている。

「うわ、何か出てきた!」

「なにあれ、あざらし?」

 物語が進むにつれて、猫は水槽の底を目掛けて泳いでいく。

 そんな猫を見上げる、白く滑らかな質感の肌をした、一見すると人魚のようなシルエットを持つ生物が水槽内に顕れると、研究員たちも驚愕の眼差しでソレに釘付けになった。

 彼等を一瞥し、僕は物語の続きを紡ぐ。

「私の白い体をそっと抱き締めて、ソレは歌うように囁いた。おかえり、ワタシの片割れ。小首を傾げてみせるも、本能的にソレが何なのかを私は知っている。そう、遠い昔に空腹のあまり砂浜で食べてしまった、人魚の────」


 想像の世界にある、不思議で誰もがあっと驚くような魔法、或いは魔術が現実にあればいいのに。

 どうして現実にはそんなモノがないのだろうと、物語を愛する者、空想に耽る者なら、一度は思ったことがあるのではないだろうか。

 事実は小説より奇なり、とはよく言ったもので、結論から言ってしまえば多くのヒトには視えていないだけ、本当は現実にも存在するモノなのだ。

「なんて、偉そうに僕が語った所でねぇ」

 どうやら声に出していたらしい。

 僕の診察をしていたヴィンテル所長は不思議そうに首を傾ける。

「生まれつき、ああいう能力を保有している貴女だからこそ説得力はあると思いますが」

 ヴィンテル所長は長年ノーチェに籠っているようで、僕が外界で文字の魔術師と呼ばれていることを知らないようだった。

 だから初めて僕の能力を見たときは、普段から余り感情を表に出さない彼女も流石に面食らったような顔を一瞬だけしていたのを、昨日のことのように覚えている。

「所で、本当にもう読み聞かせはしないんですか」

「ええ。……正直、僕は今自分なのか、それともノワールなのか解らなくなってきているので。あと数日もすればきっと、魔法は使えなくなるでしょう。そうなる前に止めておかないと、子どもたちをがっかりさせてしまいますから」

 僕の奇病は、少しずつ自分自身を認識出来なくなり、ある時から脳裏に過った何者か――ノワールだと思い込んでいく、と云うもの。

 覚えのないノワールの記憶が僕の意識を、記憶を食い潰し、僕と云う自我は消えていく。

 昨日よりも、僕は自分がブランシュではなく本当はノワールなのだと云う意識の方が強い。

(でも、不思議と恐ろしくはないんですよ、ノワール。だって僕は君をずっと探していた気がするから)

 もしかすると、ノワールはこの世界に存在していた誰かなのかもしれないと、一時期は考えていた。

 外界にいた頃、臓器移植した男性が手術前と比べ大きく食の好みが変わったとか、ある女性は自身の知らない情景が脳裏に過ることが多くなっただとか、そんな話を聞いたことがある。

 だから実は幼い頃に僕も臓器移植を受けていて、その臓器がノワールのものだったのではと云う思考に行き着いたのだった。

 然し、隅々まで検査し尽くしたヴィンテル所長から臓器移植どころか手術を受けた形跡が全くないと教えてくれて以降は、ならば実は死別した姉妹兄弟なのではと、何となく思うようになった。

 物語を創る者に有りがちな妄想癖だとも思うだけに、死別した姉妹兄弟説は誰にも話していない。

(嗚呼、そうだ。どうせなら彼女に渡しておきましょうか)

 ベッド横に設置されているサイドテーブルの引き出しから、昼間に読んだ物語の原稿を引っ張り出して彼女に差し出した。

「今日、読み聞かせに使った物語の原稿。最後の作品、最後の魔法です。僕が死んだあと、もし僕が紡いできた物語のファンだと言う患者が現れたときはそのヒトに渡してあげてください」

「以前から気になっていましたが、ブランシュは作家なのですか」

「うーん、作家と云うほどのものでは。ただ、物語を書くのが好きなだけですよ」

 ヴィンテル所長は成る程、と納得したように頷いて原稿を受け取った。

「ブランシュ。新しい薬を処方しておきますから、夕食後に飲んでください」

 掌の上に置かれた小さな星型のソレを眺める。

(これが噂に聞く、“終末切符”か)

 良く言えば末期の者が苦しまないよう、眠るように逝くことが出来る薬。

 悪く言うなら所長の独断で行われる安楽死処分。

 この国では安楽死は法で認められていない。

 だから此処が普通の病院なら大問題になっていただろうと、ぼんやりと思う。

 けれども、これを処方されると云うことは恐らく僕ももう長くはないのだろう。

「解りました。嗚呼、今夜はハンバーグらしいですね。僕、ハンバーグ好きなんですよ」

「……。そうでしたね」

 今の不自然な間は一体何なのだろう。

 ヴィンテル所長は相変わらずの無表情で、何を考えているのか僕には解らないけれど、ある種の懐かしさを感じているような視線を向けた後に僕の部屋を出て行った。

 彼女の背を見送ると、終末切符を棚の上に置いておく。

 今日飲んでおくのが最善だと判断したのだろうが、僕は自我を喰われる苦しみに堪えてでもノワールに逢いたい。

「……秋の黄昏も美しい。君もそう思うだろう?ブランシュ」

 窓から射し込む金色の光で部屋が満たされる、秋の黄昏時。

 ベッドを下りて窓越しに外を覗けば、中庭の木々が紅く色付いているのが見えた。

 その美しさに暫し目を奪われてから、はたと気付く。

 ノワールに話しかけたつもりだったのに、ノワールだと思い込んだ僕自身ブランシュに話しかけていた?

「僕は、」

 窓に映る顔が、優しく微笑みかけてくる。

 これはノワールのものか、僕のものか。

 陽が沈んでいくにつれて空が藍に変わり、軈て夜のとばりが下りても僕は僕と見つめ合っていた。

 そんな僕を見て、何処か緊張したような声音でいつから部屋に居たのか、担当研究員が声を掛けて来た。

「ブランシュ。夕食の時間よ」

 振り返ると、担当研究員は部屋の中央にあるテーブルにハンバーグとサラダ、スープ、パンを並べているところだった。

「所長が、今日は豆腐じゃなくて挽き肉を使った普通のハンバーグでいいって厨房に伝えていたけど、大丈夫?」

「うん?」

「ほら、君は肉より魚とか野菜を好むでしょう? 此処に来る前から肉は苦手だから食べていなかったって言っていたじゃない」

「…………あ、」

 僕は慌てて引き出しにしまってある日記帳を引っ張り出してページを捲る。

 一日の出来事とその日の献立をメモ程度に書いているソレには、昨日まで肉がメインになる料理は書かれておらず、ハンバーグのように豆腐や他の食材で代用出来るモノは全て他に変更されていた。

 当然主治医としてそのことを知っていたであろうヴィンテル所長があの時、直ぐに反応を返さなかったのはこういうことだったのかと理解すると同時に、僕が思っている以上にノワールは直ぐ傍まで来ているのかもしれないことに気付いてしまった。

「どうしたの?」

「……“ケットシー”さん。僕は、無意識に自分がノワールだと思い込んで過ごしている時間が長くなってきています。明日はもうブランシュと云う人間は何処にも居ないかもしれない」

 でも、と僕はベッドの端に腰をかけて続けた。

「僕が居なくなっても、生きている限りはノワールにも優しくしてあげてくださいね」

 担当研究員――ケットシーさんは僕の手を取ると緩く握って「勿論よ」と微笑んでくれた。

 その言葉に安堵した僕は、昨日まで苦手だったハンバーグを頬張り、ケットシーさんに見守られる中最後の食事を楽しんだ。



          ◇◇



 食事を終えて一時間ほどが経過した頃、診察の時間でもないのにヴィンテルは僕の部屋を訪ねて来た。

「どうしました? 消灯の見回りにしては早いけど」

「見回りではありませんからね。――単刀直入に言いますが、私は貴方たちのオリジナルを知っている」

 オリジナルを知っている。

 どういう意味なのか直ぐには理解出来なかったものの、一つだけある可能性が過り、ヴィンテルを見遣った。

「逢ったことが?」

「ええ。貴方たちが何者なのか、聞きますか?」

 頷くと、ヴィンテルはベッドの横に椅子を持ってきて腰掛け、口を開いた。

「二十二年前。ある国の研究チームはクローン技術の研究に意欲的でした。当時も今もクローン人間を造ることは様々な観点から禁忌とされていますが、其処の研究者たちは身内から一人、心身ともに健康である女性を選び、その女性は翌年妊娠、出産。先に産まれた赤ん坊……ノワールは見た目こそ健康体でしたが、後の検査で膣と子宮が欠損しているロキタンスキー症候群であることが発覚。そして後に生まれた赤ん坊、ブランシュはノワールのクローン、性別は女の子でした」

 僕が理解しやすいように噛み砕いて話してくれているのか、普段よりゆったりとした口調で語るヴィンテルは浅く息吐いた。

「研究者たちは当初、二人を一緒に育てました。物心がつく前に先にノワールは出産した女性が、クローンであるブランシュは研究者の一人が引き取ることになり、そうして二人はそれぞれ別の場所で順調に育っていきます。然し、ノワールが五歳になる頃、ノワールの母親は事故死。この先、誰が様々なリスクを背負って引き取り、経過観察を行うかという話になった時、当然ですが直ぐには決まりませんでした。その時全ての経緯を知っていた私がノワールを引き取り、此処で育てる事になったのです」

「それじゃあオリジナルは、僕が来るより先に此処へ?」

「そういうことになりますね。余談ですが、実質私はノワールの育ての親ということになります」

 そうして今は僕の主治医をしている。

 面白い巡り合わせだが、そのオリジナルが今どこで何をしているのか気になった。

 少なくとも収容棟や中庭、第一、第二図書室、温室植物室では見掛けたことがないし、他の研究員や収容されている彼等と話していてオリジナルらしき人物の話は全く聞いたことがない。

「オリジナルはまだ此処に?」

「いえ、ノワールはブランシュが此処へ来る一年ほど前に奇病を発症し、回復することなく息を引き取りました」

「……?」

 一瞬、その言い回しには違和感を覚える。

 だけど具体的にどう引っ掛かるのかまでは解らず、疑問に思ったことをヴィンテルに投げかけた。

「オリジナルの奇病はどんなものだったんですか?」

「簡潔に言うのであれば、未来視をする度に記憶を失っていく、というものでした。とは云え視えていたのは自分とブランシュの未来だったようです。最後には自身の名すらも思い出せなかったけれど、何もやり残したことはないとでもいうような顔で最果てへ旅立ちました」

「そう、ですか」

 未来視。

 オリジナルは、僕の結末まで視たのだろうか。

 もう此処には居ないオリジナルを想いながら、僕は“終末切符”を摘み上げた。

「矢張、今夜になりましたか」

 ヴィンテルは今夜僕がこうすると解っていたらしい。

 星型のソレを躊躇することなく一気に飲み下すと、ベッドに寝転んだ。

「驚かないんですね」

「何が?」

「自分がクローン人間だってことに、です」

「嗚呼、だって……」

 僕は、何となくそんな気がしていたから。

「寧ろ腑に落ちました、色々とね」

「そうですか。まぁ、話したのがブランシュではなく貴方の方でしたから」

「……なんだ。僕だと気付いていたの」

 彼女と話し始めてから感じていた違和感の正体はこれだったらしい。

 根拠はないけれど、自我を喰われてしまったブランシュのフリをするのが最善である気がして、僕がノワールであることは言わずにいたのに。

 悪戯がバレてがっかりしたような、けれども直ぐに気付くほど僕たちをよく見ているらしいことには嬉しいような、何とも形容し難い感覚に陥る。

「ねぇ、ヴィンテル。オリジナルは君を、なんて呼んでたの?」

 ヴィンテルは記憶を手繰るようにガラス色の瞳を伏せ、数秒すると口許を僅かに緩めた。

「一番多かったのは、母さん、でしたね」

 ヴィンテルの話やブランシュの記憶を見るに、ブランシュには育ての親がいたらしいけれど、クローンのノワールには親というものと過ごした記憶がない。

 うつらうつらとしながら、囁くように「母さん」と呟いてみた。

 この世界には、良い親がいれば悪い親も一定数いるのだとブランシュの記憶にある。

 だから、一概にどうとは言えない。

 ただ、僕にはとても優しくて綺麗な言葉に思えて、もう一度「母さん」とヴィンテルに視線を向けた。

 傍らに座っていたヴィンテルは何も答えず、ただ眠りを促すように僕の頭を撫でる。

 その感覚や掌から伝わる熱が心地良くて、欠伸を洩らすと促されるままに目蓋を下ろし、

「おやすみ」

 とだけ最後に告げた。

「おやすみ。良い終末を」

 その声は遠く、けれども明瞭に響いて、満足した僕は其処で意識を手離した。



          ◇◇



 “ヴィンテル”の手記より。


『ノワールとブランシュの経過観察は終了した』

『ブランシュの自我を喰い尽くしたノワールは、オリジナルの記憶を持っている様子はなかった。オリジナルが悪魔のようにブランシュに取り憑いた形跡は見られないし、流石に遠く離れた地にいたノワールの存在を知らないにも関わらず記憶共有をされることはない。だが、隔離して育てても食の好みが同じであることは解った。恐らく他にもクローンであるが故に共通点はあっただろう。それを調べ尽くせなかったことは残念だが、私は彼女たちの人権を優先した。それが、所長として正しいことなのか、私には解らない』


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