□□号室:藍玉の夢寐、水没の病


 優しい魔法を紡ぐ、文字の魔術師。

 私が初めて綺麗だと思った物語の作者は、そう呼ばれていた。

 不思議で、温かくて、ちょっと切なくて、それでもキラキラと輝くそのヒトの物語が大好きで、ノーチェで生活するようになってからも私は毎日眠る前に文字の魔術師の物語を読み返していた。

 だからいま、直筆の原稿を持ったヘクセレイが部屋を訪ねて来たこの状況に、私は軽く混乱している。

「え、……え? 何処で手に入れたの、それ」

「何処で。……?」

「魔術師に逢ったことがあるの?」

「……?」

 ヘクセレイは不思議そうに首を傾げるばかりで、知りたい情報が何一つ得られないことに肩を落としながら、差し出された原稿を手に取った。

「レイ、どうしてこれを私に?」

 すると、これには「彼女の魔法を、見てみたかったから」と若干要領を得ないものの、回答が返って来たことに少し驚いた。

 魔法を見てみたい、詰まりこの原稿を読んだ私の反応が見てみたいということだろうか。

 兎にも角にも未だ読んだことがないかもしれない原稿だ、いや、よく知った物語であったとしても直筆で読める機会なんて先ずない。

 これは大切に読もう。

 その後、紅茶でも飲みながらヘクセレイに感想を話そうか。

 私の診察を終えた彼女は気を利かせてか、

「嗚呼、それ以上進行する前にその薬は飲んでおいてくださいね」

 昨日の昼に処方されていたのにうっかり飲み忘れていた星型の薬を一瞥すると、それ以上は何も言わずにさっさと部屋を出て行ってしまった。

 一人になった部屋で、私は原稿が濡れてしまわないように側の棚へ置いておくと、太陽の光を受けてきらりと小さく輝いている水色の鱗、ソレを纏ったヒレを揺らして浅い水槽に寝転んだ。

 人魚還り。

 それが私の奇病。

 有名な人魚の物語では、王子様に恋をした人魚が声を失う代わりに人間の足を手に入れたけれど、この奇病は真逆、元々人間だった私の足にあるとき水色の鱗模様が顕れ、徐々に足先から腰まで鱗で覆われた。

 軈て二本の足はぴったりとくっついて動かなくなり、今では人魚のようなヒレになってしまった。

 ヘクセレイと出逢った当時は未だ鱗に覆われていても普通に歩けていたけれど、此処に来てから病状は悪化し、一ヵ月ほど前から陸を歩くことは出来なくなっている。

 だから仰向けに寝転んでも窒息しない程度に薄く水を張った浅い水槽の中にいるか、短時間、大体三十分程度であれは水面に顔を出さなくても問題はないけれど、それ以上になると徐々に酸欠になってしまう為、研究員同伴で巨大水槽をよく遊泳している。

「うーん…暑い」

 水温調節器を取り付けているとはいえ、矢張真夏の水は生温い。

 いや、人魚還りしているから余計にそう感じるだけで、普通の人間にはひんやりと冷たいのかもしれない。

「とは言っても、私いま人間とは言い難いしな……」

 このままではゆでタコならぬゆで人魚になってしまう。

 巨大水槽まで連れて行って貰おうと、担当研究員かヘクセレイに繋がるコールボタンを押して、何方かが来るのを大人しく待った。


 童話にまつわる奇病とソレを患っている人を研究するチームがあるらしい。

 ノーチェに来た翌日、私の担当になった研究員――“海の魔女”と呼んでいるその人が教えてくれた。

「ねぇ、魔女さんはいつから此処にいるの?」

 横抱き、俗に云うお姫様抱っこをされて巨大水槽まで運んで貰った私は、魚も人もいない其処に浸かって淵に頬杖を突いた。

 水槽前の椅子に腰を下ろした海の魔女は、そんな私を見上げた後、「あー確か……」と指を折って数える。

「十年ほど前からだな」

「結構長いね。若く見えるけど、今何歳なの?」

「さぁな、忘れた。俺に年齢なんて有っても意味がないからな」

「ふうん?」

 まぁ年齢というのはどれだけ生きたかを表す数字でしかないし、彼が本当に忘れているのか、それとも教えたくないだけなのかは解らないけれど別にそれならそれで構わない。

 ちゃぷん、と小さな音を鳴らして程良く冷たい水槽の底までゆっくり潜っていくと、厚いガラスの向こうで何やら端末を弄り始めた海の魔女をぼんやりと眺めた。

 きっと仕事をしているんだ。

 彼は面倒臭がりだけど真面目で、あと面倒見がいい。

 だからコールボタンを押さなくてもよく私の部屋まで様子を見に来て構ってくれるし、私が水面に上がるのを忘れて水没してしまわないよう、ああして仕事をしながらもチラチラと様子を見ていてくれる。

 あ、いま目が合った。

 紅玉、そういう表現が似合う彼の紅い瞳は、水中からだと夕焼けが揺れているように見える。

「魔女さんの目は綺麗だね」

 一瞬、不思議そうに瞬くも「そうだろ?」と唇が動いた後に何だか得意気な笑みが見えた。

 よく見るその笑い方も、星みたいに瞬くように光る金色の髪も綺麗で、何だか人間離れした雰囲気を纏っているから時々本当に魔女なのではないか?と思うことがある。

 そうでなくても黄昏に瞬く星、確か宵の――。

「……何だっけ?」

「何がだ?」

「ええっと、なんでもない」

「何かあったら言えよ」

 水中の音声は彼の左耳に取り付けられた機械に流れるようになっている。

 一方、水槽の内側は水中用の特殊なスピーカーが設置されていて、外にいる人の声がクリアな状態で聞こえる。

 だから互いの声が聞こえて会話が出来るのは魔法や超能力のお陰ではなく、科学の力なのである。

 それでも、水中でもこうして意思疎通が取れるのは不思議な感覚で、実は彼が海の魔女だから可能なのではと内心思っていることは秘密だ。



           ◇◇



「タイトルのない御伽噺」

 或いは、御伽噺の成り損ない。

 遊泳の後、部屋で夕食を終えた私は一行目にそう記された原稿を見詰め、続きに視線を向けた。



『夢。そう、これは、深い深い、底の見えない蒼黒い海の中にいる、夢。

 でなければ水嫌いである私がこんなところを彷徨っているはずがない、と。

 こぽこぽ、口から銀の泡を吐きながら思う。

 それにしても。

 ご主人と入るお風呂は苦手だが、ここはなんだか居心地が良い。

 ――嗚呼、そうだ。

 次、いつ深海の夢を見るか分からないし、少しこの辺りを散歩でもしようか。

 ゆらり、私は短い四肢を動かして底の方へ泳いでいった。 

 そうして、どれくらいの時が経っただろうか。

 泳ぎ疲れた私は、気儘に進む透明な龍に乗っかり一休みする。

「……?」

 バブル音、というのだろうか。

 不規則に浮かんでくる泡たちの声。

 それが一瞬何かに当たって途絶えたような気がして、私はじっと底に目を凝らした。

 私の視線に気付いたソレは、最初逃げるように下へ下へと泳いでいったが、何を思ったのか直ぐに私の傍まで浮かんでくる。

 私の白い体をそっと抱き締めて、ソレは歌うように囁いた。

「おかえり、ワタシの片割れ」

 小首を傾げてみせるも、本能的にソレが何なのかを私は知っている。

 そう、遠い昔に空腹のあまり砂浜で食べてしまった、人魚の────』



 水嫌い、ご主人、短い四肢。

 ぱっと浮かんだのは真っ白な猫。

 これは猫と人魚の物語なのだろうか?

 今回は此処までにしておこうと思ったのに、指が続きを急かすように原稿を捲る。

 嗚呼、今夜中に読み終わってしまうかもしれないなぁ。



『光の届かない深海で。

 ワタシは気が遠くなるほど永い時を彷徨っている。

 この腕は、魚人のような尾ひれは、一体何のためにあるのだろうか。

 そんな自問自答は青い泡となって弾けるだけで無意味だと、いつの頃からか思うようになっていた。

 あるとき、仄かに光を放つ不思議な魚と出くわし、その魚の腹にはワタシとよく似た腕を持つ個体がいた。

 ────嗚呼。

 彼等を見た瞬間、解ってしまった。

 ワタシは、そう、彼等(にんげん)の成り損ないなのだ。

 だからワタシはもっと深く、遠い昔に見た、宇宙にも似た暗闇の底へ沈んでいった。

 あの個体が、いつの日かワタシを暴きに来ないように。

 ………。

 そう、思っていたのに。

 微睡みながら此方へ向かって堕ちて逝くアナタを見た瞬間。

 ワタシは、ワタシが誰なのかを思い出し、アナタが誰なのかを理解して手を伸ばした。

 おかえり、ワタシの片割れ。

「────、」

 腕の中で、アナタはにゃあ、と笑った気がした』



 酷く、頭が痛む。

 水中での活動限界時間まで潜っていたせいだろうか。

 けれども、近頃は部屋にいるよりもあの水槽の中を気儘に泳ぎ、クラゲのように揺蕩う方が調子がいいのだ。

 そういえば、ヘクセレイに飲むよう言われていた薬をまだ飲んでいなかった。

「痛み止め……」

 そうだ、アレは鎮痛剤の役割も果たすと説明されたはずだ。

 これ以上頭痛が酷くならないように、自身の鱗と同じ水色の小さな星を摘まんで飲み込んだ。

 舌に触れた一瞬、優しい甘さを感じて少し和みつつ、最後の一枚に視線を向ける。


『むかしむかし。

 妙薬を飲み下し人間の娘になった人魚の姫は、愛する王子様と結ばれることはなく海に身を投げて泡になりました。

 泡の半分は水面を漂い、遠い異国の砂浜に辿り着くと、小さなカニを狙っていた白猫に飲み込まれてしまいました。

 泡とはいえ元は人魚。

 九つの泡を飲み込んだ白猫は九つの命を宿し、後に世界中の猫たちから慕われる王様になりました。

 もう半分の泡は海の暗闇に溶け、光も音も届かないところまで来ると、ぶくぶくと弾けて、青白い光を放つ、人魚によく似た何かになりました。


「水が大の苦手であった猫の王様はある日、深海の夢を見る」

「そこで、泡の半分である何かと出会います。人間はソレをニンゲン、と呼びました」

「ニンゲンは猫の王様を見て笑いました」

「嗚呼、おかえり。ワタシの片割れ、と」

「猫の王様も初めこそ首を傾げていましたが、最後にはこう答えます。ただいま、私の片割れ、と」

「さて、ここで問題です」

「猫の王様は深海の夢から醒めたのでしょうか」

「本当にそれは、夢だったのでしょうか」


 ────おやすみ。

 そんな声を最後に聞いて、私とワタシは目を閉じた』


 私が読んだどの物語よりも不可思議で、白昼夢を見ているような読み心地に思わず感嘆の溜め息が漏れる。

 暫く放心したように余韻に浸っていたが、軈てほんの少しの息苦しさに意識は移り浅い水槽に横たわった。

「少し寝た方がいいかな」

 明日、調子が良ければもう一度読み返そう。

 幸い頭痛は治まってきているからゆっくり眠れそうだ。

 寝るにはまだ少し早い時間だけど、私は部屋の照明を消して目蓋を下ろした。



           ◇◇



 泡が弾ける音が聞える。

 そっと目を開くと、未だ夜は明けていないのか周囲は暗く、部屋の外からは物音がしない。

 ただ、耳元では水中で聞き慣れているバブル音が響いて、少し頭が痛んだ。

「…………」

 水。

 そう、こんな浅い水槽の中じゃなくて、海のようにもっと深い所に行きたい。

 そうすればこの音は気にならなくなるだろうし、何より水の中はいつだって心地良くて落ち着くのだ。

 本当は海を泳ぎたい気持ちもあるけれど、地下にある巨大水槽へ行くことすら難しいのだから海はまた今度、海の魔女にでも連れて行って貰おう。

(あ。前に、ヘクセレイに渡された端末に此処のマップ情報が入っていたような)

 腕を伸ばして棚の上に置いていた端末を取ると、早速施設内のマップを表示して、部屋の近くに水場はないか探してみる。

「……温室植物室?」

 二十四時間開放されているようで、マップには一つ上の階に場所が表示されている。

 距離としては巨大水槽より近いし、これならヘクセレイか海の魔女を呼ばなくても床を這って行けるだろう。

「夜中に起こすのは申し訳ないしね」

 研究職である彼等に朝も夜もないかもしれないが、午前四時過ぎにコールを鳴らすのは何だか忍びない。

 私はベッド代わりと云える浅い水槽から半ば落ちるようにして出てくると、足の代わりに腕を使ってゆっくり植物室を目指した。


 解りきっていたことだが、歩けば五分程度の距離も這って行くと時間が掛かってしまう。

 植物室に辿り着いた頃には三十分近く経っていた。

 水中では余り疲れないのに対し、陸でこんなに動いたのは随分と久し振りだからか、マラソンをした後のように身体が重くて息苦しい。

 肩で息をしながら植物室の中央までヒレを引き摺り、大理石の彫刻が施された大きな噴水前まで来ると、淵に手を掛けて勢いよく身体を持ち上げる。

 そのまま水の中に飛び込むと、思っていたよりも深くて少し驚いた。

「……ふう、」

 一度水面に浮かんで柔らかな白い光を見上げながら、熱を持った肌が徐々に冷やされていく感覚を心地良く思い目を閉じる。

 依然としてバブル音は耳元で響き続けているけれど、直ぐ側で流れ落ちている水の音に紛れて余り気にならなくなったし、夢の中にいるような心地がして悪い気分じゃない。

「……眠たくなってきた」

 緩やかな眠気に揺られながら、ぼんやりと就寝前に読んだ物語の情景を目蓋の裏に思い浮かべた。

 猫の王様とニンゲンの、深い海の底での邂逅。

 一匹と一体はあの後、泡に還ってしまったのだろうか。

 軽く背を丸めて水中に身体を沈めると、流れる水音が遠ざかっていった。

 底へ落ちていく身体はまるで、猫の王様のようだと思った。

 いや、深海を彷徨っていたニンゲンの方かもしれないし、もしそうなら私の腕の中にも何かが落ちて来るのだろうか。

(でも、元を辿れば人魚の物語だから……嗚呼、別に恋なんてしていないけど、どうせ長く生きられないなら、このまま私も泡になってしまえばいいのに)

 背中が底についても尚、浮上しないまま揺蕩っている内にもう此処にいようかなと云う思いが過る。

 地上にいると調子が悪い時間が増えていくのに、水中にいるときは嘘のように調子が良くなるのだ。

 それに、人魚還りしているなら水中での活動限界時間は最後に計測したときよりも伸びているかもしれない。

 それを確かめてみたい好奇心も相まって、私は睡魔に身を委ねることにした。

 

 あれから何十分、いや、何時間が経過しただろう。

 全く苦しさは感じないし、もし何かあればいつものように浮上すればいい。

「────!」

 だというのに、一瞬眠りから覚めて薄く目を開いてみると、誰かが必死に私へ向けて手を伸ばしていた。

 だから私は微笑んで告げる。

 私はもう人魚だから、大丈夫だよって。



          ◇◇



 “ヘクセレイ”の手記より。


『“海の魔女”が引き上げた頃には、彼女は病に蝕まれ手遅れになっていた。あの手の病を患った者はどれだけ対策をしても入水自殺を図る、それは過去のデータから既に解っていたことだった。故に今回は見るも無残な水死体を発見しなくても良いように、処方する時期を早め、また施設内の水温、水質は常に良い状態を保っていた』

『文字の魔術師と謳われる彼女の魔法が良い終末を齎したかは確認のしようがない。けれども、海の魔女は最後に微笑んでいたと証言していることから、恐らく────』

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