最果て:黎明に蛇は笑むのか


 この時代の医学では治療不可能とされる未知の奇病を患い、ノーチェに辿り着いた者は死期が近付くと特別な薬を処方される。

 どういう原理なのかボクには解らないけれど、その薬を飲んだ後に息を引き取った者は自身の終末の地、“最果て”へ送られると聞いている。

 最果てとは、言い換えれば自身の深層に眠る心象風景が小さな世界として具現化したものなのだろう。

 そしてボクの最果ては、小高い丘の上。

 空が白み始めた、世界が目を覚ます前の世界だった。


 ノーチェに辿り着く前。

 自身が救われるために誰かの救世主になろうとする救世主妄想と呼ばれるメサイアコンプレックス、それから幻覚、幻聴、幻臭を度々感じ、極めつけには神が視えると口にしたことで統合失調症と診断されるも、ノーチェの所長でありボクの主治医であるモーネはその診断は間違いであるとボクをノーチェへ迎え入れてくれた。

 そう、間違いだった。

 この世には霊や異形が視えてしまう人間がいる。

 それと同じで、ボクには偶々神が視えていた。

 そして、ボクが奇病に侵されていると診断したモーネにも、恐らくは同じモノが視えていたのだろう。

 ボクに向け微笑みかけてくるモノ、関心を持たないモノには反応しなかったが、唯一睨んでくるモノが顕れたときだけは私の視界を遮るようにモーネは立っていたのを、今正にソレがゆっくりと此方へ近付いて来るのを眺めながら思い出した。

 歩を進めるごとに揺れる長い金糸は、夜明け前の蒼いこの空間であっても太陽のように煌めいている。

 此処は時が止まっているかのように静かで、生き物の気配はボクとソレの他にない。

 きっと時が進めば朝焼けが地平線を灼き、鳥は囀り、人々も目を覚まして活動を始め、オーケストラのように少しずつ音が重なっていくだろう。

 生前はそれが酷く不快で、何だか恐ろしくて、夜明けを嫌悪していた。

 だけど、以前はボクを睨んでいたソレの金の瞳が今は優しく感じられるからなのか、また朝が来てしまうと云う焦燥感のようなものは全く感じない。

 それどころか、誰もいないと思っていたこの空間に見知ったモノが在る安堵感を得ていることに、ボク自身少し驚いている。

 ソレは、躊躇うような素振を見せた後に口を開いた。

「────、藤」

 藤、とはボクの生前の名前だ。

 何故知っているのだろうと首を傾げるも、ノーチェで度々顕れていたことを思えば別に知っていても不思議ではないのかもしれない。

 そのヒトは続けた。

「御前が、俺のことを憶えていなくても。御前に着いて行く」

「……? ノーチェの外で、逢ったことが?」

 申し訳ないが全く解らない。

 奇病を発症する直前の記憶が曖昧で、もしかしたらその曖昧な部分にそのヒトは居るのかもしれないが、思い出せない以上は確認のしようがない。

「……忘れているなら思い出さなくていい」

 そのヒトは無表情ではあるものの、声音は柔らかく、だからこそ疑問が浮かぶ。

「どうして、いつもボクを睨んでたの?」

「…………」

 口下手なのか、答える気がないのか。

 どちらにしても、ボクにはそのヒトが悪いモノでないように思えた。



          ◆◆



 丘を下りて宛てもなく青々とした若葉の絨毯を歩いていると、遠くで学校のチャイム音が聞こえた気がした。

 隣を歩くそのヒトは行ってみるか?と云うように視線を向けてきたが、正直学校にいい思い出はない気がする。

 気がするだけで、実際の所はどうだったのか思い出せない。

「いい。でも、あの電車には乗ってみたい」

 ボクが指差した先には古そうな線路が右から左へ伸びていて、駅らしきものは見当たらないもののポツンと一両の電車が停まっていた。

 ノーチェへ向かう時にモーネと乗った電車と同じ外装だ。

 乗車口は手を伸ばしてギリギリ届くかどうかの高さで、よじ登るしかないだろうかと思案するボクを暫く眺めていたそのヒトは、徐にボクを小脇に抱えたかと思うと、ふわりと浮かんだ。

 そうだった。

 人型ではあるが、生前のボクに視えていたのだからこのヒトもまた神の類。

 浮いたり飛んだりはお手の物だろう。

 ボク達の他に乗客はおらず、車掌らしいヒトの姿も確認出来ない。

 座席前に下ろされると、運転席はどうなっているのか気になってガラス越しに覗き込んでみた。

 辛うじて人の形を保ったような薄い影が座っている。

「アレが運転するのかな」

「多分そうだろう」

 そのヒトは興味を無くしたように視線を車窓へ向け、それに倣ってボクも同じ方向を見遣った。

 始めは草原の上を走っていた電車だったが、パッと景色はビルの森に切り替わり、かと思えば次は長い長いトンネルの中を走っている。

 終末、最果てだなんて言うからてっきりもっと現実離れした場所なのかと思っていたけれど、案外普通なんだなとぼんやり思う。

 ずっと黒い外を見ているのも退屈なので、ボクは傍にいるそのヒトに視線は向けずに訊いてみた。

「貴方の名前。なんて言うの?」

「…………」

 ボクを見下ろすように一瞥したそのヒトは、然し何も答えずに黙したままだった。

 教えたくない、と云うことなのだろう。

 呼ぶときに困りそうだけど、教えたくないのなら無理に訊く必要もない。

「じゃあ、貴方が何の神なのかは、訊いてもいい?」

「……。ただの蛇だ」

 蛇神、と云うことだろうか。

 確かに金の瞳は蛇のように見えるけれど、それとは違う神聖な何かなのではないかと云う思いが根拠も無く過った。

 けれども当人が自身をただの蛇と称するのであれば、別にそれでいい。

 ただこうして会話に応じてくれることが、ボクには嬉しかった。


 漸くトンネルを抜けたかと思えば、夜明け前の空を溶かしたような昏い海の中、或いは宇宙を思わせる景色に変わり、その数十秒後には古民家の一室に立っていた。

 電車を降りた記憶はない。

 それに、此処は一体────。

「おい」

 唐突に、そのヒト──蛇はボクに話し掛けてきた。

 その声に驚いて僅かに肩を跳ねさせた後、そっと蛇を見上げると物珍し気に随分と古めかしい鏡台や用途不明な置物らしい物をまじまじと見詰めていた。

「見てみろ。面白そうな物があるぞ」

 電車に乗る前より幾分か和らいだ表情やその言葉に既視感を覚え、首を傾げる。

『マスター。ほら、これ。何に使うんだろうな』

 マスター。

 何だか懐かしくて、脳裏で反芻する。

 マスター、マスター。

 何故そう呼ばれていたのかは解らないけれど、どうやらボクは蛇に昔そう呼ばれていたようだ。

 そしてこんな風に、時折一緒に時間を過ごした気がする。

「嫌ならまた答えなくていいんだけど。どうしてボクを睨んでいたの?」

 そのヒトはボクを横目に見ると、意外にも今度はぽつりと呟いた。

「あの女が気に入らなかっただけで、御前を睨んでいたつもりはない」

「あの女? モーネのこと?」

「嗚呼。彼奴は最初から御前を実験体にしようとしていたから、見張っていた」

 実験と云うと、ノーチェの研究員でも何でもないボクは詳しく知らないが、恐らく最果ての共有化とやらのことだろう。

 そういえばモーネはボクが特別な薬を飲む前にこう言っていた。

『ヒトは、死んでから次の生を得るまでの間、独りで歩まなくてはなりません。だけど、その独りである時間がヒトを強くする訳ではないし、だったら短縮出来た方がいいとモーネは思うのです』

『孤独が道を断つかもしれない。道を断ち、次を望まないことがそのヒトの意思でない限り、モーネは短縮に成り得る誰かを最果てへ送り届けたい。その星屑は、その誰かと出逢えるようにという願いがこもっています』

『フジ。発症以前のことは無理に思い出す必要はありませんが、きっと大事なモノはいつまでもフジの中に在ります。最果てで、ソレを知るかもしれませんね』

 その大切なモノが、蛇なのだろうか。

 そう思うと、尚の事思い出せないのが申し訳なく思うと同時に、ほんの少しだけ胸が締め付けられた。



          ◆◆



 古民家を出ると、あの電車が音もなく停まっていた。

 また蛇に抱えられて乗車し、座席に腰を下ろすとゆっくり流れ始めた景色をぼんやりと眺める。

 深層世界と云う事は、此処で目にするものは全て自身の過去に関わりのあるモノなのだろうか。

 例えば、今横切った森の洋館。

 彼処に行けば思い出せない誰かが紅茶の香りを纏いながら出迎えてくれる予感がする。

 依然として陽が昇らないことも、もしかするとボクが夜明けを嫌悪するからなのかもしれない。

「どうしてボクは、忘れてしまったんだろう」

 それは、殆ど無意識に近い呟きだった。

 蛇は暫く黙した後に答える。

「生きるため、だったんじゃないか」

 蛇が何を思っているのかも、彼が何を知っていてボクとどう関わりがあったのかは解らないけれど。

 その声は、何かを肯定するような力強い響きを含んでいた。


「間モナク、終点。桜ノ樹ノ下前、デス。足下ニオ気ヲ付ケクダサイ」

 あれから会話はなく、ただ静かに揺られながら夢のように二転、三転していく景色を眺めることにも飽きてうたた寝をしていたボクは、蛇に軽く肩を揺すられて顔を上げた。

 其処は、桜の花弁が降り積もる地。

 恐らくボクの深層の、果て。

 先に降りた蛇は両腕を伸ばしてボクを見上げている。

 言葉がなくとも彼の言いたいことを理解したボクは身を投げ出し、腕の中に飛び込んだ。

「────良イ終末ヲ、オ過ゴシ下サイ」

 背後で、そんなアナウンスが聞こえた。

 蛇から身を離して振り返ると、先程まで一人と一柱を乗せて走っていた電車の運転席から穏やかな瞳をした、影だったモノと目が合う。

 ボクはソレが誰なのか、知っている。

「ハル。君だったのか」

 春の陽光のように、穏やかで暖かなキミ。

 春陽と書いてハル。

 ボクと兄弟のように育った、生前飼っていた真っ白な猫。

 電車は桜の花弁に変わった箇所から綻んでいき、ハルは別れの挨拶をするように窓に肉球を押し付けて紫色の瞳を細めた。

 そんなハルもまた泡沫の夢のように消えてしまい、視界を覆わんとする花弁が納まる直前、ボクの脳裏をある記憶が掠めた。


『嗚呼、僕が間違えなければ……!』

 嗚咽を洩らし涙する僕の手の中には、一枚の大きな、淡い桜色の鱗。

『ごめんなさい。ごめんなさい』

 きっと貴方は、僕を恨んだでしょう、憎んだでしょう。

 絶望したでしょう。

 僕は貴方を救いたかった、なのに間違えて────。


「殺してしまったんだ、僕は」

 眩暈と、吐き気。

 突然蘇った記憶の渦に揉みくちゃにされて、上手く息が出来ない。

 全身の力が抜けて倒れそうになったとき、蛇が支えるように僕を腕の中に収めた。

 ゆったりと背を摩られながら、懺悔するように僕は言葉を吐く。

「ごめんなさい。忘れてしまってごめんださい。僕は、忘れてはいけなかった。大事なことだったのに。大事なヒトだったのに、僕は罪に堪えきれなかった」

 生前の、記憶を失う前。

 只の人間である僕を信仰する可笑しな狐の神と、僕を主人と呼びながらも対等で在ってくれる龍の神がいた。

 ある時、龍は何者かに襲われて生死の淵を彷徨い、狐は僕に

「このまま苦しませ続けるより、さっさと楽にしてやった方が此の為にも良いかと。どうぞわたくしめにお任せください」

 そう囁き、僕はその瞬間、余りにも辛くて目を逸らしてしまった。

 だから、狐の思惑に気付けなかった。

 後日、龍とは旧知であった妖は語る。

「御前さんの話を聞く限りだと、救う手立ては有ったはずだ。そしてそれに狐も気付いていた。だが、御前さんが此方のことを余り知らないことを好都合とばかりに、狐は何も教えず龍を消してしまったのだろう」

「狐に騙されたんだね、可哀想に」と僕を哀れんだ妖は、僕を責めず、ただ慰めるように頭を撫でてくれたけれど、その日から僕は無知だったとは云え自分が龍を殺したのだと責め続けながら生きていた。

 そうして精神を擦り減らし、限界が来てしまったのだろう。

 自ら命を絶つ前に、あるとき己の罪も龍に関することも、忘れてしまった。

 堰を切ったように様々な感情が溢れて来る、そんな様子を暫し静観していた蛇は呆れたような声音で囁く。

「別に御前のせいじゃないし、俺は誰も恨んでいない。だからもう、御前は苦しまなくていいんだ」

 本当だろうか。

 問おうにも、喉がつっかえて上手く言葉が発せず、ただ彼を見上げた。

「正直なんで死んだはずの俺が未だに存在しているのか、御前とあの女にだけ視えていたのかは解らないが、──約束、したからな。俺だけは、御前を否定しない。独りにしない。世界の果てだろうと着いて行くし、ずっと御前だけの味方で居るって。だからこうして今、御前の前に居るんだ」

 恥ずかしげもなくそんなことを言う彼は、紛れもなく僕が良く知る彼で。

 思わず笑ってしまうと、「そう、笑え。御前はその方がいい」と彼は柔らかく笑んだ。

「マスター。御前に貰った名前、気に入ってるんだ。思い出したなら呼んでくれ」

「……エニシ」

 人とヒトを繋ぐモノ、この不可思議な縁そのもの。

 彼に出逢って間もない頃、僕はそう云う意味合いでエニシと名付けた。

「ん。藤、此方に」

 満足気に頷いたエニシは僕を抱き上げてふわりと浮かんだかと思うと、側に立つ大きな桜の木の枝に立って東の地平線へ視線を向けた。

 僕の中で止まっていた時間が動き始めたからなのか、幕開けのように陽が昇っていき、徐々に世界は明るくなっていく。

「夜が明ける……」

 長い長い、一つの夜が明ける。

 僕とエニシは鮮やかな朝焼けに双眸を細め、雲雀の囀りに耳を傾けながら最果ての地で新しい朝を迎えた。


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