第9話 迷い人と自己不明の人

 私とタビは、バリスタさんに付いて観測局を出た。大通りを少し進み、やや狭い路地に入る。ウナギの寝床のような店が並ぶ中、ひときわ小さい古民家があった。

「ここだよ。」

「えっ?普通のおうちみたい。」

「元々別の人が住んでいたのだが、もう引っ越すからと譲ってもらったんだ。建物の外観はあまりいじっていないから、確かに事務所と気づかれにくいがね。」

 バリスタさんがドアを開けると、ほんのりコーヒーの匂いが漂った。促されるままに中に入ると、

「わっ!外と全然違う!」

 外が純和風だったのに対し、中は完全に洋風だった。入り口のすぐ右手と正面には天井に着くほど高い本棚があり、その少し手前に書類が山積みになった机が置かれている。おそらくバリスタさんの仕事場だろう。左手にはソファとテーブル、そして安楽椅子が鎮座している。ここまでは、私が小説とかでイメージした通りの探偵の部屋って感じ。違うのは、その安楽椅子の奥にカウンターキッチンがあり、コーヒーミルや産地別に整頓された豆の入った戸棚がある事だ。ここだけカフェみたい。

「どうぞ、そこにかけて。」

 バリスタさんに勧められ、私とタビはソファに腰かける。ふわふわだー、とタビが早速上で伸びをして寝そべった。バリスタさんはキッチンに向かうと、まずお菓子を取り出して私達の前に置いた。続いてお湯を沸かし、コーヒー豆を挽き始める。

「そう言えば、迷子探しの時もちらと聞いたね。友達と喧嘩をしたと。」

「うん。喧嘩というか、相手を怒らせちゃったと言うか……。」

 胸がずんと重たくなる。このあと目覚めたら学校に行くのだと思うと気が重い。ギョクに閉じ込められるのは嫌だけど、ほのかと顔を合わせるのが憂鬱になっている自分がいる。悪いのは自分なのに。ぼんやりそう考えてたら、またクロワタが出てきた。

「怒らせるって?友達のご飯食べちゃったとか?」

「タビじゃあるまいし。」

「タビだってしないもん!」

「まあまあ落ち着いて。どうぞ。」

 バリスタさんがカップを二つ取り出し、私にはコーヒーを、タビにはかつおぶし湯を入れてくれた。一口飲むと、のどのあたりに引っかかっていたモヤモヤが少し小さくなった気がする。私はぽつぽつと、今日あった事を話した。

「んー?希美はほのかの絵がいまいちだったの?なら、そー言えば?」

「いや、タビさん。それはいけないですよ。」

 バリスタさんは優しいが、しかし強い声で否定した。

「もしそれで、ほのかさんが二度と絵を描かなくなったら、本人だけじゃなく希美も辛い思いをします。」

「でもさ、思った事言わなかったからほのか怒ったんでしょ?」

「良かれと思ってやったことが、裏目に出る事もあるのですよ。」

 バリスタさんがぽつりと言った。良かれと思って、か。

「でも、私の場合は、ほのかに嫌われたくないって理由だし。こうなったのも、自業自得っていうか……。」

「わたしも希美の立場なら同じことをしたと思う。友達と心が離れることほど、怖いものはないのだから。」

 そこでバリスタさんがコーヒーを一口のみ、深く息をついた。

「ただ、それでも希美。明日、ほのかさんに会えるなら、とことんまで言葉を交わした方が良い。言い合いになるかもしれないし、また辛い思いもするかもしれないが。希美にとっては、大切な親友なのだろう?」

「……うん。」

「だったら、納得するまで話した方が良い。今なら取り返しがつくからね。」

 取り返し、つくかな……。正直、ほのかに絶交されるのではないかとすら思っているのに。

「でも、まだ目の前からいなくなったわけじゃないだろう?」

「それは、そうだけど……。いなくなるって事自体、あまりないし。」

「そうとも限らないよ。わたしが経験者だからね。」

「え。」

「正確には、皆の前からわたしが消えた、が正しいかな。わたしは、自分の事をほとんど覚えていないのだよ。」

 私は息を呑んだ。

「気が付いたら記憶喪失だった。第四地区で自分を知る人が居ないか探し回ったが、駄目だった。そこを局長さんに拾われてね。それ以前の事で分かるのは、自分が探偵だったという事ぐらいだ。だから、観測局からも仕事をもらって、あちこち出向くことで、色々な人に会うようにしているのだよ。」

「……自分の記憶の手掛かりを探すため?」

「そうだね。あわよくば、家族や友人にも会いたいものだ。」

 記憶がない以上、家族や友人がいたかどうかすら分からない。例え近くにいたとしても、バリスタさんには一切分からないし、お互いがいくら望んでも、バリスタさんが思い出せない限り、他人のままだ。

「確かに、わたしはレアケースだろう。だがね、何をきっかけに人は会えなくなるか分からないものだ。だから、機会は逃してはいけないよ。」

 バリスタさんは優しい口調で言った。しかし、その目には強く訴えるものがあった。私は、コーヒーを一口含んだ。じんわり温かさがおなかから広がる。まだ、ほのかに会うと考えると体が重くなるけど、今なら一歩足を出せそうな気がする。

「……明日、ほのかと話してみる。」

「それが良いと思うよ。」バリスタさんが笑った。

「相手も希美と話したいと思っているのではないかな。この状態は、居心地が悪いからね。」

「……うん。」

 すっかりくつろいで丸くなっていたタビを、バリスタさんが起こした。私は残ったコーヒーを飲み干す。

「バリスタさん、ありがとう。ごちそうさまです。」

「力になれたなら何よりだ。」

「明日、また来てもいい?」

「かまわないよ。コーヒーを淹れて待っているよ。」

 私は頷いて、タビと一緒に探偵事務所を後にした。

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