第2話 行方不明と職業不明の出会い
「これは、夢だあああああ!」
大きな口を開け、お腹に力を入れて私は叫んだ。またしても変な夢を見ている。今回はジャングルの中にある、ひときわ大きな木のてっぺんにしがみついている。高所恐怖症だというのに!
「わーたーしーはー!朝倉―!希美―!岐阜県の高校―二年生―!ジャングルに、いるわけ、ないんですーー!」
体中にまとわりつく熱気と湿気に、頭がぼうっとしそうになる。しかも、また例のごとく白い糸が体にからみついてぐるぐる巻きにされそうになる。ただでさえ汗でべとべとしているのにますます気持ち悪くて、私は左手で木にしがみつきながら、右手で体の糸をひきちぎる。だが、当然そんな事をすれば、自分のはるか下の風景が目に入ってしまう。 うっそうと生えるシダ植物、つるんとした幹、遠い地面。恐怖で足の感覚がすうーっと消え、頭もふわーっと真っ白になり体が後ろにのけぞった。そして、汗で踏ん張りが効かなくなっていた手足がずるんと滑り―
「だああーーっ!!!!」
あとは、勿論落ちるばかり!
「――――――!」
気持ち悪さと恐怖で声も出ず、気を失いそうになった時、私の目の前が一面褐色になった。は?と思う間もなく体がぶにぶに、ひんやりしたものに包まれ、ぼにょん、と跳ね返り、仰向けに横たわった。
「ふううう。間一髪だったねえ。」
メガネをかけた青年―いや、女性だろうか。ほっとした声で私にそう呼びかけながら引っ張り、立たせてくれた。「ちょっと不安定で申し訳ない。なにぶんゼリーなものでね。」
ゼリー?そう言われて足元を見れば、褐色で半透明のぷるぷるしたものがそこにあった。おそるおそる鼻を近づけると、コーヒーの匂い!
「え?なんでコーヒーゼリーの上に立ってるの?」
「私が出したんだ。」
「出した?!」
「希美が落ちて来るのが見えたのでまずいと思ってね。ただ焦ってしまって、とっさに描けたのがゼリーだったのだよ。」
そう言って、手に持っていたティースプーンを宙でくるくると回した。スプーンの先に褐色の渦が現れ、同時に香ばしい匂いがして来た。コーヒーの匂いだ。
「そしてこれをこう。」
スプーンの先に出てきたコーヒーを自在に動かし、宙に絵を描き始めた。私は呆気にとられたまま、その人をまじまじと見つめた。長い黒髪を後ろで結い、頭の上には小さなシルクハットがちょこんと乗っている。銀フレームの大きな丸メガネの奥には黒いぱっちりした眼。年は同じか少し上くらいだろうか。服装はインバネスコートの下に黒エプロン、ショートブーツという、明らかにジャングルには向いていない格好。
「あの、えーっと…。」
「あ、バリスタさん、と呼んで欲しい。」
その人は筆(というか、スプーン)を止めずに言った。「みんなからはそう呼ばれるんだ。」
「バリスタさん助けて頂いてありがとうございます。」
「いいえ。希美が無事なら何より。」
「あの、私の事、知ってるんですか?初めて会ったと思うんですけど。」
「ん、そういえばそうだね。」
バリスタさんがこちらを見て笑った。
「どこかで君のシロイトを見たのかもしれない。」
「シロイト?」
「君に絡みついてるそれだよ。」
バリスタさんが指さしたのは、私が夢を見るたびに絡まって来た白い糸。また足に絡まっているのを、バリスタさんは引きちぎってくれた。
「ひとまず降りようか。描き終わったからね。」
降りるってどこに、と思ったら、ゼリーからエスカレーターが下に伸びている。色こそコーヒー色だけど、ちゃんと動いている。
「魔法使い、なんですか?」
変な質問だ、と思いつつ聞かずにはいられなかった。バリスタさんはからかう事もなく、にっこり笑って答えてくれた。
「私の職業は探偵だ。魔法はたしなみ程度だよ。コーヒーで描いたものを具現化するくらいだ。絵が描けない事には使えないし。」
魔法をたしなむ探偵というのも、なかなかいないと思う。あと、探偵なのに「バリスタさん」なんだ。
「んー、多分、私の趣味のせいだね。コーヒーにやたらこだわるから、探偵よりそちらのイメージが強いのだろう。」
エスカレーターで降りた先には、年季の入った旅行鞄があった。バリスタさんが開けると、中にはティーポットとカップが三脚。コーヒーミルとコーヒー豆の入ったビン、さらに、ビスケットの缶も入っていた。バリスタさんはスプーンでテーブルとイスを描き、私に席を勧めた。
「出先でもおいしいものが飲みたいから、こうして持ち歩いているのだよ。」
コーヒーミルで豆を挽きながらバリスタさんが言った。なるほど、これはバリスタと呼ばれて然り、って感じ。ゆっくり時間をかけて、目の前に置かれたカップにバリスタさんがコーヒーを注いだ。湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上る。
「熱いから気を付けてくれ。」
勧められるまま、私は口を付けた。ちょっと火傷してしまったが、それでも
「おいしいです!」
「それは何より。」
バリスタさんが笑顔になる。あれ、自分の分は淹れないのかなと思ったら、かぶっていたシルクハットを取ってその中にコーヒーを注いでた。あれ、ティーカップだったんだ。
「飲みながら聞いて欲しい。さっきの、シロイトの事だ。」
バリスタさんが口を開いた。
「あれは、この世界を作っている物質、原子みたいなものだと思ってくれればいい。木や生き物もシロイトから出来ているし、この空気中に漂っているものもある。ただ、希美みたいに、カクから来た迷子がいると、まとわりついてくる事がある。」
「カク?」
「希美が普段暮らしている世界の事だ。現実、と言った方が分かりやすいかね?でも、希美が夢と呼んでいるここも、れっきとした一つの現実、ギョクというひとつの世界なのだよ。」
きっと、今の私は「何を言っているんだこの人?」という顔をしているに違いない。だって、自分が夢を見てて、そこに出てきた人が「これはもうひとつの現実だよ。」って言ったら、誰だってびっくりするでしょ?
「なかなか信じられないとは思う。」
バリスタさんが苦笑した。
「けれど、今だってコーヒーで火傷したところは痛むだろう。怖い思いをして、朝起きたら汗をかいた経験はないかい?」
「ありますけど……。でも、それは夢の中の私じゃなくて、外にいる私の体が汗をかいているだけで―」
あれ。でも、同じ理屈なら、実際にはコーヒーを飲んでいないはずの私の体が火傷したって事になる。いや、それは無理だ。そもそも、夢って痛みを感じないんじゃなかったっけ。今こうやって考えてる私も、やっぱり夢の中の私で、本当の私は寝てて……まずい、考えるほど分かんなくなってきた。
「難しく考えなくていい。一番手っ取り早い方法は、これ。」
バリスタさんは、ビスケットを一枚、紙に包んで私のパジャマのポケットに入れた。
「起きた時にそれが入っていれば現実だったという事だ。ベッドで目が覚めたら、確かめてみてくれ。」
コーヒーのおかわりは?とバリスタさんが聞いたとき、ジャングルの奥でお腹に響くような、低くて大きな声がした。楽器なら、チューバみたいな音。
「……もう少し休みたかったけど、すまない。希美、コーヒータイムはおしまいにしよう。森を出なくては。」
「森を、出る?」
「大丈夫。安全な場所まで連れて行くよ。」
バリスタさんはティーセットをしまった。そして、エスカレーターとゼリーを軽くスプーンの背で叩く。すると、二つとも元の液体のコーヒーに戻った。
「そして、これをこう。」
バリスタさんが、今度はコーヒーでバギーを描いた。
「乗って。急ごう。」
私が乗り込むと、バリスタさんはバギーを発進させた。木々の間からは色とりどりの鳥や虫、そして恐竜の群れが見える。声の主はこれか!
「……ますます現実味がなくなったかね?」
バリスタさんの問いに、私は素直に頷いた。
「でも、ここにいる命は、みんなカクに生きる命が生み出したものだよ。ギョクを作っているのは、カクの住人が作り出したシロイトだからね。」
「この糸を?ですか?」
「蜘蛛みたく今まさに出してるわけじゃない。あと、別にくだけた口調でかまわないよ。」
バリスタさんが笑った。
「シロイトは、心が動いた時に生まれる物質。例えば、希美が綺麗な風景を見て感動した時、この世界にシロイトが生み出される。そして、空中に漂ううちに他の人のシロイトとくっついて、木になったり動物になったりするんだ。」
「私が感動したら、糸が一本出来て、世界中の人が集まったら糸が沢山出来て、それを集めて編んだセーターがこの世界?」
「素敵な例えだね!その通りだ。」
まかりなりにも文芸部なので、自分の言葉が褒められると、ちょっと嬉しくなる。
「ただ、カクの人間はシロイトを引き寄せやすい。カクの人間がギョクに長く居すぎるとどんどんシロイトが絡みついて、ついにはその人間を覆ってしまう。」
「うわっ、怖。」
「これが、ハヲリという状態。こうなると、誰かにシロイトを取ってもらわない限り、夢から覚める事が出来なくなってしまう。」
「怖っ!?」
私、夢を見るたびにシロイトが絡みついてたけど、あれを放っておいたら大変な事になってたってこと?
「希美は敏感だから助かったけれど、大抵の人はすぐシロイトまみれになって、ギョクで迷子になってしまう。私は探偵として、そうなる前に迷い込んだカクの人間を探すのが仕事なんだ。」
「へー。」
「さあ、そろそろ森を抜けるよ。」
視界が開け、辺りがのどかな田園風景に変わる。ついさっきまで熱帯のジャングルだったのに、今は少し昔の日本の風景という感じ。バリスタさんはバギーを運転しながらスプーンを動かす。すると、バギーがちょっとレトロな乗用車に変わった。スバル360だったかな。
「バギーでは、ちょっと小回りが利かなくてね。町は細い道も多いから、この車の方が良い。」
バリスタさんが言った。
「前方に町が見えるかな?あそこにある、橋渡し猫の観測局に向かおう。」
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