地獄が幕を開けた。

 誠が砂浜で拾った果実は、たいてい既に内部が虫に食われているか、そうでなくても強烈なえた臭いを放つものばかりであった。背に腹は代えられぬと悪臭に耐えて実を食らうと、一、二時間ののちに腹を下して下痢に苦しみ、食べた以上の水分を失った。

 島の浜辺を歩いていると、ときおり汚れた片方だけの軍靴や下着、未使用の実包が転がっているのを目にした。銃弾の口径から見て帝国海軍のものに違いなかったが、この島に来た日本兵が落としたものか、単なる漂着物かは分からなかった。たまに密林へ向かって大声で叫んでみたが、応える声はなかった。

 ほつれた糸と木片とで簡単な釣り竿を作ってみたが、かかる魚はいなかった。水中に顔を付けてみても泳ぐ魚は見当たらず、どこまでも砂と珊瑚が単調に続く海底はさながら砂漠のように見えるのだった。

 何より、島には水が無かった。よほど小さい島と見え、川どころか湧き水のひとつも見当たらず、かまどの中であぶられるような熱気が容赦なく誠の体力を奪った。

 初日に水筒の水を飲み干すと、雑草の葉を噛んで喉の渇きを誤魔化すより外なかった。遭難して五日目に小規模な豪雨スコールが来ていなければ誠の生命の灯はとうに消えていたであろう。

 しかし、水筒だけでなく鉄帽を器がわりに使ってまで溜めた雨水もあっという間に底を尽き、再び水を探す日々が始まった。

 こうなっては致し方ないと、誠は初日に見つけた獣道を目指したが、どうしたわけか獣道を探し当てることはできなかった。繁茂の激しい灼熱の気候であるから、道の痕はたちまち雑草に埋もれてしまったのか――深い絶望が誠の精神を支配する。

 そうこうしながら島の周囲を廻っているうち、いよいよ体力も尽き――七日目、誠は椰子の根元のわずかな日陰にどっかりと座り込んだ。

 もはや一歩も動く気力が湧かず、手元の僅かなサクサク――サゴ椰子の根元から採れる澱粉でんぷんを水に溶いて干したもの。雨の降った日に作っておいたのだ――を食べるほかには何一つできなかった。しかし白い粘土のようなサクサクは乾いており、口にするとますます強烈な喉の渇きを覚えるのだった。

 ああ、どうやら俺の死に場所はここになるようだ。

 あれ程恐れた敵の銃弾だったが、今となっては敵に撃たれて死んだ方がましであった。敵に一発の弾を撃つことさえなく、名さえ知らぬ孤島にて死ぬとは親兄弟にも顔向けできぬ。俺の人生は、いったい何だったのか。

 つめたくくらい諦念の心が、脳の奥底から湧き出して思考を満たしていく。

 ごろりと横になって手足を放り投げると、腰に何かが当たった。

 かすかに残った体力を総動員して腰元をまさぐると、衣嚢ポケットに何かが入っている感触がある。

 すわ食料かと淡い期待を抱いて取り出してみると、黒革の手帳であった。

 はあ――思わず落胆の息が漏れる。そういえば、日記をしるそうと持参していたのであった。今まで日記どころでなく、すっかり存在を失念していたのだ。

 潮に濡れて貼り付いたページをばらばらとめくると、拙い字で日々の食事といくさへの覚悟が簡潔にしたためられている。日記はちょうど一週間前、



 八月二十日 朝、白米、柴漬

 

 夜、魚ノ罐詰かんづめ 敵ノ鹵獲品ろかくひんナリト聞ク 腹満チズ

 

 今晩、ガ島ヘノ駐留決ス 断乎だんこトシテ日本精神ヲ発揮セン



 この記述を最後に終わっていた。

 わずか一週間前の記憶が、今や遥か昔のものに思える。缶詰の少なさに不満を覚えていた当時の自分が、今となっては無性に腹立たしい。

 手帳の背表紙には、糸で結わえ付けた細鉛筆が残っていた。一瞬、手帳に家族への遺言を残そうかという考えが脳裏をよぎる。

 いや、やめておこう――誠は溜め息をついた。今日まで救助の来なかった孤島だ、どうせ自分の亡骸が発見されるとは思えないし、それに万が一見つかったとて誇れるような死に様ではないのだ。

 そう――この手帳を見る者は、もはや自分のほかにいないのだ。


 そう思うと、急に心が軽くなった。

 そしてそのとき初めて、誠は自身にはたらいていた深層心理に気付いた。誠はこの日記を、帝国陸軍の軍人として、一日本人としてかくあらん――という無意識の圧力によって記していたのだ。紙面に踊る勇ましい戦意発揚の言葉は、本心と言うよりはこうありたいという誠の希求、あるいはこうあるべきという時代の空気の投影にすぎなかったのだ。

 誠は初めて、はだかの自分自身と向き合った。

 そうだ。俺はもともと無神経で、楽しければそれでよい、というやりたい放題の悪ガキにすぎなかったのだ。親に放り込まれた軍隊でしごかれる内、いい年して日本男児の自覚を持たぬは恥ずべきと思い込んでいたが――どうせ死ぬんだ、もう俺には関係ない。

 こんな日記も、もっと自由に書けばいいんだ。

 元より嘘まみれの日記、何ならもっと突飛な嘘だって書いたっていいはずだ。

 そう考えた途端、ふっと着想が湧いてきた。いつの間にか、誠の手はするすると手帳に殴り書きをしるす。



 八月二十一日 朝、珍奇なる果実を大量に食す 誠に甘美


 夜、魚を焼いて食う 未だ見ざる魚なれどうまし



 おお、これはすごい。芳醇な果実や香ばしい焼き魚が目の前に浮かぶようだ。

 誠はひととき、空腹を忘れうっとりと空想に遊んだ。

 たまらず、さらに鉛筆を走らせる。不思議な色の木の実、奇怪な鳥の肉――めくるめく紙の上に現れた景色は、理想の南の島そのものであった。

 誠は現実の苦境を忘れ、ひとり空想の世界の悦楽を愉しんだ。

 山と積まれた青果、口の中でとろけるような一枚肉ステエキ――鉛筆はほとんど勝手に動き、ついには今日の日付にまで到達する。

 誠の手は、ひとりでに有り得ない今を記しだしていた。



 八月二十七日 島にて、京子と出会う



 ぴたり、と手が止まる。

 京子。なぜ、その名が出るのだ。

 刹那、誠の目の前に雪景色が広がった。島のものではない――故郷の町並みである。

 学校からの帰り道――鞄を肩にかけて歩く誠の隣で、京子は真っ白な手に息を吐きかけて笑った。振り返れば、一面の真っ白な通りに、大小ふたつの足跡が連なる。

 入隊する前日のことである。


 ――ああ、そうか。

 誠はようやく気付いた。

 あの日、どうしてあんな事を言ってしまったのか。

 誠はその罪悪感をいつの間にかすり替え、戦地に身を投じる覚悟であったのだ、と都合よく考えようとしていた。軟派な女子にあえて突き放すようなことを言い、進む世界が違うことを示したのだと。

 細雪ささめゆきのぱらつく曇り空の下、彼女の、今にも泣きそうに潤んだ瞳。俺はその顔から目を背けるように、ひとり家へと帰った。

 そのときから、俺は嘘つきだったのだ。

 本当は、ただ自分の本心に正直になれなかっただけなのに。

 俺は、あの幼馴染のことが――。


 南太平洋の青い空に、男の慟哭が響き渡った。

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