君が無邪気に笑うから②

 授業終わり。

 先生にこってり搾られて机に突っ伏す小日向の脇腹を突いてみる。

 彼女は面白いくらいに体を跳ねさせた。


「ひゃっ! 莉果? 変なところ触んないで……って、国光さん?」

「うん。さっきはごめんね。私のせいで先生に」

「あ、ううん。全然大丈夫。それより国光さん、頭痛いのはどう?」

「バッチリ治った。小日向のおかげだよ。ありがとう」

「よかった! どういたしまして!」


 彼女はそう言って、にっこり笑った。

 やっぱり小日向は、飛び級なのかもしれない。だって、私と同い年とは思えないくらい綺麗で、無邪気な笑みを浮かべるから。


 一瞬私は、言葉を失ってしまった。

 人の頭痛が治ったことを、こんなに無邪気に喜べる人間なんているんだろうか。疑問に思うけれど、その笑顔は間違いなく本物で。


「……? 国光さん? どうかした?」

「い、いや。なんでもない。水と薬代、払うよ。いくら?」

「え? いらないよ。元々薬は皆にあげる用だし、水は私が勝手に国光さんのために……」


 言いかけて、彼女はハッとしたような表情を浮かべた。


「私のために?」

「な、なんでもないです」

「なんでもないってことないでしょ。何? なんで私のために買ったの?」

「う、うぅ……」


 私が頭痛になったのは、授業中だ。

 小日向が水を買ったのはその前のはずだから、私のために水を買ったというのは意味がよくわからない。


 というか、私のために水を用意してくれたなら、なおさらお金を払わないといけないのではないか。


「……から」

「え?」

「国光さんが、調子悪そうだったから。薬あげても水なかったら飲めないだろうって思って、水も買ったの」

「……私、調子悪そうだった?」

「うん。いつもはもっとキラキラしてるのに、なんか、しょんぼりした感じだったから」


 気づかなかった。私が自分で気付けないような頭痛の前兆を、彼女は見抜いていたというのか。

 しかし、それは。


「よく気づいたね?」

「た、たまたまだよ。ほんとに」

「……本当は?」

「本当にたまたまだってば!」


 その反応で、偶然私の変化がわかったんじゃないとすぐにわかる。

 もしかして、私のことをじっと見つめていた?


 いや、しかし。なんで私のことなんて見ていたんだって話になる。何か用事でもあったのだろうか。


「とにかく! 治ってよかった! じゃあね国光さん!」


 小日向はそれだけ言って立ち上がったかと思えば、急に走り出した。

 彼女の姿が見えなくなった直後、バタバタという音が聞こえてくる。


「わーっ! ごめんなさいごめんなさい!」

「……ぷっ。焦りすぎでしょ」


 小日向が誰かとぶつかったらしい。

 私は扉の方まで歩いて、彼女が必死に頭を下げている様を眺めた。


「あはは、ほんと、変な子」


 くすりと笑った時、私はふと気がついた。


「あれ? 私……」


 今、自然に笑っていなかったか。

 小日向があまりにもわかりやすかったから?

 私、そんなことで笑えるんだ。


 そう思った時、心が少し軽くなっていることに気がついた。同時に、小日向に対する興味が湧いてくる。

 彼女は一体、どんな人なんだろう。もっと知りたい。そう、思った。





「小日向!」


 その日の放課後、私は帰ろうとする小日向の背中に声をかけた。

 振り返った彼女は視線を右往左往させて、妙に挙動不審な様子を見せていた。思わず首を傾げると、彼女は頭を下げてくる。


「ご、ごめんなさい!」

「え」


 いきなり振られた?

 いや、そういう話ではなかろう。

 だが、全く謝られるような覚えはない。


「さっきはすごい馴れ馴れしくしちゃって。国光さんに私なんかが気安く話しちゃってごめんなさいっていうか本当に……!」


 私と話すくらいで、こんなにしどろもどろになるのは小日向くらいだ。そんなに怖いやつだと思われているんだろうか。


 威圧感とか、別に出してないと思うけど。

 中学の頃はクラス全員と仲良くできたくらいだから、むしろ接しやすい雰囲気なのではないかと自分では思っているが。


「ぷっ……あはは! ほんと、面白すぎるでしょ」

「へ?」

「ねえ、小日向。私に馴れ馴れしくしたこと、そんなに申し訳ないって思ってんの?」

「は、はい」

「じゃあさ。私の言うこと聞いてよ。お詫びってことで」

「わ、わかりました」


 めちゃくちゃだ。

 こんなことを言い出す私も、わかったなんて簡単に言ってしまう小日向も。


 小日向のことを変な子だなんて思ったけれど、多分私の方がよっぽど今、変になっているのだと思う。

 それでも私の口は、もう止まりそうになかった。


「小日向。私の友達になってよ」

「はい! ……うぇ?」

「決定ね。じゃ、早速二人でどこか遊びにいこっか」

「えええぇ!? ちょっと、国光さん!?」

「さんは禁止。国光って呼ばないと駄目だよ」

「く、国光さ……国光?」

「なあに小日向」

「いや、なあにじゃなくて! いきなり友達って言われても!」

「いいじゃん、細かいことは。160円よりも深い友情、育もうよ」

「160円……? なんの話?」


 どうしようもなく、小日向に興味がある。私が話しかけてもしどろもどろなくせに、自分でもわからなかった不調にすぐ気づいて、声をかけてくれた小日向に。


 彼女と一緒にいれば、私も純粋な楽しいという感情を思い出せるんじゃないか。


 そう思いながら、私は小日向の小さな手を引いた。

 驚いた表情の彼女は、それでも私の手を握り返して、走り出した私に必死についてきてくれた。


 それだけのことがなんだか胸が痛くなるくらい嬉しくて、心に溜まっていた澱のようなものが消えてなくなるような気がした。





 それから私は少しずつ小日向と仲を深めていった。

 最初は警戒心丸出しの小型犬みたいだった彼女も、仲良くなるにつれ懐いたペットみたいになっていった。


 私は小日向ともっと仲良くなるために、莉果や雪凪から彼女の情報を聞き出し、彼女の喜ぶようなことをして、時に彼女をからかった。


 莉果は小日向をからかうのが楽しいと言っていたが、本当にその通りかもしれないと思った。


 何度からかっても、彼女はその度に新鮮に怒り、悲しみ、きゃんきゃん吠えた。そんな彼女を見ているだけで笑顔になれたし、もっともっと、深く彼女のことを知りたくなった。


 小日向と接している時だけは、私も小学生の頃のような純粋な気持ちでいることができた。


 それは、きっと。

 小日向があまりにも子供で、何も考えていなくて、でも、誰よりめざとく優しいからだと思う。


 彼女の瞳に映るだけで、汚れた私が綺麗に見える。


 彼女が無邪気に笑うだけで、幸せな気分になる。

 この気持ちをなんと呼べばいいのか。

 私はきっと、わかっていた。


「お願い、国光。お礼ならいくらでもするから、私のことを救って!」


 友達になってから一年ほど経ったある日、小日向はファストフード店に私を連れてきて、頭を下げてきた。


 その理由は相変わらず馬鹿っぽくて、本当に小日向は見栄っ張りで子供でどうしようもないな、と思った。


 でも。

 私はそんな小日向のことが、何より気に入っていた。彼女と一緒にいる私は、きっと周りを見下すことも、楽しいという感情に迷うこともない、ただの国光瑠璃なのだ。

 そこにはなんの衒いもない。


「友達と簡単に話を合わせる方法、ないことはないよ」

「ほんと!?」

「ほんとほんと。すっごい簡単だし、今すぐできる方法だよ。小日向さえうんって言ってくれればね。……していい?」

「うん! いいよいいよ! なんでもして!」

「じゃ、目瞑って」

「うん」

「それで、ちょっと顎上げて」

「んー」


 馬鹿な子だ。

 私がどんな気持ちでいるかなんて、知らないくせに。


 私がどれだけ悩んできて、どれだけ息苦しい思いで生きてきたか。何も知らない無垢な唇が、私を呼んでいた。


 ねえ、小日向。

 私は小日向が思っているほどいい人でもないし、まともでもないし、きっと最悪な友達だよ。

 それなのに、こんなに受け入れちゃっていいの?


 疑問を投げかけるには私はまだ弱くて、さりげなくかけられる言葉の中から、私に対する良い感情だけを拾い集めることしかできない。


 私の名前を呼んで。

 そのさりげない優しさの中に、私はここにいてもいいんだって思いを混ぜて。

 そうしてくれれば私はきっと、小日向にそれ以上のものを返せるから。


「いただきます」


 何も知らない彼女の唇に、私という存在を刻み込む。

 だけじゃ、足りなくて。


 もっと奥に、誰も触れられない場所に私を滑り込ませたくて、彼女と舌を絡ませた。逃げられないように、小日向が知らない醜い私が見えないように、彼女の目を塞いで。


 そうして奪った彼女の唇は、罪と幸せの味がした。

 もっと知りたい。

 もっと知ってほしい。

 小日向は小日向なんだってところを見せて。


 私の醜いところを、誰にも見せられない歪んだ考えを、どうしようもない過去を。見てほしい、知ってほしい、許してほしい。


 小日向の前でしか本当の自分を見せられない弱い私を、肯定してほしい。

 こんな感情、私は今まで知らなかった。興味もなかった。


 でも。

 小日向が無邪気に笑うから。

 その穢れを知らない小さな唇が、私を洗い流すような綺麗な音を紡ぐから。


 だから私は、もう戻れない。小日向を知る前の私には。だが、それでいいと思った。もっと小日向のことを知れるなら。私も知らない私を、小日向すら知らない小日向の深い部分を、互いに見せ合うことが、いつかできるなら。

 きっとそれは、今までの人生で一番、幸せなことだから。

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