君が無邪気に笑うから①

 人生なんて、楽しければそれでいいと思ってきた。

 楽しむために友達と遊び、楽しむために趣味の勉強をして。楽しいことだけしていれば幸せだと思っていたのが変わったのは中学生の頃。


 単純だった人生が複雑になり始めたのもあの頃だった。

 きっかけはなんだっただろう。クラスに馴染めない子をグループに入れてあげて、クラスにあった様々な問題を解決して。


「ありがとう、国光さん。私、国光さんのおかげで一年間楽しかった」


 一年から二年に上がる時、そんな言葉を誰かからかけてもらって、私の心に差した影が濃くなったのを覚えている。


 嬉しかったのは、嘘じゃない。

 確かに、お礼を言われて嬉しかった。でも、それ以上に、私が頑張ったんだから当然だろうという気持ちが強かった。


 そこで私は、気づいてしまったのだ。

 周りに笑顔を振りまいて、クラスの中心でクラスメイトたちを操ることに、喜びを抱いている自分がいることに。


 簡単に解決できる問題で四苦八苦しているクラスメイトが、馬鹿みたいだった。


 少し雰囲気を作ってあげるだけで他の子と仲良くできるのに、努力しようとしない子を、内心で見下していた。


 そして、自分で作り上げた明るいクラスという箱庭の中で、ただ楽しさのみを享受しようとする自分が何より、醜く思えた。


 楽しく生きるために他者を操ることも、一緒にいると楽しいと感じるくせに、友達を下に見てしまうことも。

 全部が嫌で、息が苦しくなったのを、よく覚えている。





「瑠璃ってさぁ、彼氏作んないの?」


 高校に入ってからも、私は相変わらず私だった。

 クラスの中心に位置し、楽しい雰囲気を作って、毎日をそれなりに楽しむ。そんな生活を続けて、約一ヶ月が経った時。

 不意に友達がそう言った。


「彼氏ねー、私にはよくわかんないかな。そんなにいいもの?」

「いや、そりゃあ……ねえ? 高校生の本分は恋愛みたいなもんだから」

「ふーん」

「ふーんて……マジで興味ないんだ」


 恋愛なんて、面倒なだけだと思う。そもそも私には人を好きになるというのがどういうことなのかもわからない。


 それに。

 適当に付き合ったら別れた時が面倒だし、私が作ったクラスの雰囲気が壊れても困る。


 何より下手な男子と付き合うと、その男子を狙っていた子と険悪になったりするのが厄介だ。


 告白されただけでも、折を見てフォローを入れなければならないというのに。


「まあね。でも、映画とかは見るよ? 恋愛のやつ」

「あ、そうなん? じゃあ、今度あれ見に行かない? 最近話題のやつ!」

「いいよ。暇な時あったら——」

「雪凪!」


 話している途中で、甲高い声が聞こえてくる。

 何事かとそっちを見ると、飛び級かと思うくらい小さい子がぷりぷり怒っていた。


「私のこと騙したでしょ! まずいじゃんこれ!」


 彼女はペットボトルをブンブン振りながら言った。

 よく見ればそこには、スイカオレと書いてある。


「バレた? この前飲んでクソまずかったから、心望にも共感してもらおうと思って」

「共感のために160円も無駄にしたんですけど!?」

「いいじゃん、絆が深まったんだし」

「160円で深まる絆って一体……」


 雪凪に、心望。

 あまり印象にない子たちだ。確か苗字は、月山と小日向だったはずだ。何度か話したことはあるものの、月山はいまいち掴みどころがなかった。


 小日向は……よくわからない。

 後ろの席にいるから話しかけてみても、しどろもどろな返事をするばかりであまり会話にならないし。

 でもああいうところを見るに、意外に明るい子なのかもしれない。


「心望ちゃんは見てて飽きないねー」


 友達が言う。


「あの子のこと、詳しいの?」

「や、詳しいってわけじゃないけど。いっつもああやって友達とコントやってるから。なんか面白いなーって感じ? 時々話すしね」

「ふーん……」

「瑠璃も話してみたら?」

「話しかけても会話にならないし」

「何それ」


 もしかして私、嫌われているんだろうか。特に何もした覚えはないが、いつの間にか好かれていることがあるのと同じで、いつの間にか嫌われることもあるのかもしれない。


 だが、どうでもいいことだ。

 私は毎日を楽しむことを目標にしているのだ。クラス全体の雰囲気を楽しいものにはしているものの、前みたいにクラスを一つにしようとは考えていない。


 あの時のように、またお礼を言われてしまったら。

 醜い自分の心と、嫌でも向き合わなければならなくなるから。





「……はぁ」


 勉強をしていると、どうにもため息が出る。

 元々私は、知らないことが知れるから学ぶのが好きだった。知れば知るほどわからないことが出てきて、でも、自分の世界が広がっていくような。


 そんな感覚が心地良かったのだ。

 しかし、中学生の頃から、勉強を楽しいと思えなくなった。


 周りを見下そうとする私の心が、私を机に向かわせているだけではないか?


 楽しいという感情も全て嘘で、本当は、ただ優越感に浸りたいだけなのではないか?


 心のどこかがそう囁いてくる。

 うるさいな、と思う。

 思うけれど、否定はできない。


「楽しいって、なんなんだろう」


 最後に心から笑ったのって、いつだっけ。

 もう思い出せない。


 友達と遊んでいる時も、楽しいと感じているはずなのに。楽しい生活を送れればそれでいいと思っていたはずなのに。


 どうしてこんなに、息苦しいんだろう。

 溺れるように勉強をしてみるけれど、答えなんて出るはずもなかった。





 私の息苦しさなどお構いなしに、時は過ぎていく。

 春が過ぎ、夏になって。


 それでも、私が中学生の頃から抱えてきたものがなくなることはなく、ずっと肩が重いまま毎日を過ごしていた。


 そんなある日。

 私は授業中に、強烈な頭痛を感じた。


 しばしば頭を締め付けられるような頭痛に見舞われることがあるのだが、いつもは薬をすぐに飲んで治しているのだ。


 しかしこの日は偶然薬を切らしていて、授業が終わるまでずっと頭痛に耐えなければならなかった。


「えー、この文章におけるKの行動は……」


 先生の言葉が耳の中で迷子になって、消えていく。

 孫悟空にでもなった気分だ。もしかすると私も、身勝手極まりない毎日を送っていることを神か何かに咎められているのかもしれない。


 そう思い、ふっと息を吐いた。

 私は一体、何を考えているのだろう。くだらない。


「国光さん」


 先生が板書をし始めた時、小日向に肩を叩かれる。

 振り返ると、その手に何種類かの薬が握られているのが見えた。


「どれ飲む? 一応全部、頭痛に効く薬だけど」


 唐突な提案に、私は目を丸くした。

 いきなりなんなんだ、この子は。


「早く早く。先生に見つかったら怒られちゃうかも」

「じゃ、じゃあこれで」


 私はいつも飲んでいる種類の頭痛薬を指差した。

 彼女はそれを私の掌に乗せると、バッグをごそごそし始めた。


「はい、お水。さっき買ったからまだ冷たいかもだけど、大丈夫?」

「大丈、夫」

「あ、口は付けてないから安心して。……もし効かなかったら言ってね。保健室、連れてくから」

「……ありがとう」


 不思議な子だ、と思う。

 いつも私が話しかけても逃げてしまうのに、こういう時は饒舌だ。


 私は水を受け取って、薬を飲み込んだ。喉を通って体の中心に流れていく水は、私の澱んだ心を洗い流してくれるような気がした。


「うん、どういたしまして——」

「小日向」

「……ひゅっ」


 いつの間にか板書を終えていた先生が、小日向の前に立っていた。


「授業中にお喋りとは、いい度胸じゃないか。ちょっと前に来てもらおうか」

「えええぇ。ちょっ、待ってください。これには海よりも深く空よりも高い事情がー……」

「……お前はもっと国語の勉強をちゃんとした方がいいな」

「うえぇ」


 小日向が教壇まで連れ去られていく。

 なんというか、しまらない感じの子である。


 私は薬をくれたことに感謝しながら、先生にあれこれ話を振られてあたふたする小日向を見つめた。


 単純というか、馬鹿っぽいというか。

 でも、嫌いじゃないかもしれない。

 少しだけ、そう思った。

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