第31話
「誰かを笑顔にする職業に就きたいって思うようになったから、その一環っていうのかな。そのために必要なことが今目指してる大学でしか学べそうにないから」
言葉が耳の上を滑って消えていく。
遠くの大学に行くってことは、多分、高校を卒業したらこの家からいなくなるってことで。
そうなったらもう気軽には会えなくなる。
もしかしたら年に一度くらいしか会えなくなるかもしれないし、自然と縁が切れてしまうかもしれない。
でも、そんなの。
あまりにもいきなりすぎる。
「だから、私に……」
瑠璃は何かを言いかけて、やめた。
「ううん。……でも、ちょっと不安もあって。本当に大学に入れるのかってのもそうだけど、大学入ってからやっていけるのか、とか、大学卒業した後のこととか、色々不安もあって」
私の手に触れながら、彼女はじっと目を見つめてくる。
「……だから。いつもみたいに、私の背中を押してくれないかな。私なら、できるって。心望の言葉なら、きっと信じられるから」
そんなこと、言われても。
私は今まで、彼女の背中を押したことなんてないと思う。ただ思った通り、思うままに声をかけていただけで。
それが彼女の中でどれだけの力になっているのかもわからない。
瑠璃は、ありのままの私でいてほしいと言ってくれた。だから最近は、見栄を極力抜きにして彼女と関わっていた。
でも、今は。
今は素直になっちゃいけない。ありのまま彼女に言葉をかけちゃいけない。見栄を張らないと。彼女の望む私でいないと。
そうでないと、多分私は「行かないで」と言ってしまう。
彼女が信じるまっすぐな私じゃいられなくなる。
応援なんてしたくない。夢なんて持たなくても、私の傍にずっといてくれれば良いなんて、そんな勝手なことを思ってしまう。
見栄を張るのはいつものことだ。
いつだって意地っ張りで見栄っ張りで子供なのが今までの私で、それが普通だった。
それなのに今は、見栄を張るのがとても難しい。
自然にできていたことが、できなくなる。
「瑠璃、なら」
私は芽生えかけていた色んな感情を喉の奥底に追いやって、笑った。
「瑠璃なら、大丈夫だよ。きっとできると思う。真剣になった時の瑠璃はすごくかっこよくて、笑うと可愛くて。きっと人を笑顔にするのにも、向いてると思うから。だから、大丈夫。瑠璃ならどんな夢だって、きっと叶うよ」
言い切った。
半分本当で、半分嘘の応援を。
いつも通りの笑顔で、彼女が望む感情を込めて言い切った言葉は、ちゃんと届いたらしい。
瑠璃は安堵したように笑った。
「ありがとう。やっぱり心望に言われると、できるって気がしてくるね」
「そ、そうでしょ! 私は大人だからね! 言葉にも大人の魅力が溢れちゃってるから!」
「……あはは、何それ。すごい子供っぽいよ」
「何おう!」
いつも通りの私たちに戻る。
今の私たちは大事な友達同士だ。だから普段と変わらずじゃれ合うことができるし、触れ合うこともできる。
だけど後一年もしたら離れ離れになって、こうやって気軽には触れられなくなるのだ。
そう思うと、胸が締め付けられるみたいに痛くなった。
それでも、彼女とこうしている間だけは、前と変わらない笑顔でいようと思った。
精彩を欠く、とでも言えば良いのだろうか。
最近の私の毎日は、そんな感じだった。
別段何かが変わったわけではない。瑠璃とは時々デートするし、莉果と雪凪とも相変わらず仲良くやっている。
でも瑠璃が県外の大学に行くと知ったあの日から、私はどこかぼんやりと日常を過ごしていた。
「最近さぁ、彼氏とはどう?」
昼休み、いつも通り昼ご飯を食べていると、莉果が聞いてくる。
こういう質問をされるのは久しぶりかもしれない。
私は教室を見渡した。瑠璃は友達と昼を食べに行っていて、教室にはいない。その姿を見つけたところで話しかけに行くこともできないといえば、そうなんだけど。
最近、また瑠璃と何を話せば良いのかわからなくなっている。
そこまで仲良くなかった時も、どういう話題なら盛り上がるんだろうとか、色々考えていたけれど。
まさか逆戻りするとは思っていなかった。
「いつも通りだよ。時々デートして、キスとかもして」
「ふーん。キスより先は?」
「えっと……」
あの日、そういう雰囲気にはなっていたと思う。だけど私は彼女と最後まで進むのを恐れて、途中でやめてしまった。
ノーカンじゃないその先に行っていれば、何かが変わったのだろうか。
私は今もずっと、そんなことを思っている。
「そういうのは、ちょっとね。まだ私たちには早い、みたいな?」
「ふーん」
「そう言う莉果はどうなの? もしかして、彼氏ともうしちゃってたり?」
「よく聞いてくれた! 実は先週ね——」
私はいつも通り、莉果の話を聞いた。
相変わらず彼氏とはうまくやっているみたいで、先週最後までしたらしい。その時のことを生々しくならない程度に語ってくれるけれど、前みたいにきゅんとはこなかった。
羨ましい、とは思う。
会おうと思ったらいつでも会えて、触れ合うことだって繋がることだってできる関係というのは、本当に。
偽でもなんでもない、心が繋がっているからこそなれる恋人という関係を、私は何より羨ましく思っている。
……本物の恋人か。
偽の恋人との一番の違いは、やっぱり心だよな、と思う。
私と瑠璃は結局ただの友達で、本物の恋人とは遠いところにいるのだろう。もし私たちが本物ならば、あの時最後までいってしまってもおかしくなかった。
「なんの話?」
飲み物を買ってきた雪凪が教室に戻ってくる。
ジャンケンで負けた彼女は、私たち三人分の飲み物を買ってくることになっていた。雪凪が私たちの方に近づいてきた時、抱えていた三本のペットボトルのうち一本が床に落ちる。
それは私が頼んだコーヒーで、落ちる瞬間瑠璃がおすすめしてくれたことを思い出す。
コーヒーにこだわりのある彼女が合格点だと言っていたそのコーヒーは、やっぱり苦味より酸味の方が勝っているものだった。
どすん、と音がする。
私は、ハッとした。
「あ、やべ。ごめん、拾って」
「……うん」
私は椅子から降りて、机の下を探った。ペットボトルは幸いすぐに見つかったから、拾い上げて机の上に置く。
私はハンカチで少しペットボトルを拭いてから、キャップを開けようとした。
「あれ、心望。爪……」
「え? あ……」
右手の爪を見ると、瑠璃に塗ってもらったマニキュアが少し剥がれてしまっていた。
塗ってもらってから結構時間が経っているし、それも仕方のないことなのだろう。
最初は自分の爪じゃないみたい、なんて思っていたけれど、この色にも慣れて、特に何かを思うということもなくなっていた。
塗ってもらったことも、忘れかけていたくらいだ。
別に剥がれたらまた塗り直せばいいんだし、そこまで気にすることじゃない。
「……ちょっと、お手洗い行ってくる」
私は立ち上がって、トイレに向かった。
なんてことはない。
本当に、そう思っている。なのにどうしてかとても悲しくて、涙が出そうで、鼻がつんとした。
今の私はおかしい。
マニキュアがちょっと剥がれたくらいで泣きそうになるなんて、普通じゃない。
でも。
同じマニキュアを買って、もし私が自分で塗ったとしても、同じようにはならない。そして、きっと塗る度に瑠璃のことを思い出すのだ。
初めて彼女に爪を塗ってもらった時の感触。温もり。その笑顔すら、鮮明に思い出して、それできっと、寂しくなる。
私はすっかり可愛くなくなった爪を見ないようにして、いつのまにか流れていた涙を指先で拭った。
トイレの鏡に映る自分の顔も、やっぱり可愛くなかった。
「キラキラじゃないなぁ。……せっかくキラキラのやつ、塗ってもらったのに」
笑顔でいるのがこんなに難しいのは、初めてだった。
悲しさとか寂しさで涙を流すのなんて、無縁だと思っていたのに。
私は両手を胸元にぎゅっと引き寄せた。
瑠璃と会って話をしたい。くだらない話でいい。明日になったら記憶から消えてしまうような、そんなくだらない話をしたい。
新連載の漫画の話とか、今日学校であったちょっとした出来事の話とか。
それだけできれば、他には何も。
「……嘘だ。そんなの、全部」
私は止まらない涙をハンカチで拭こうとして、教室にそれを置いてきてしまったことに気がついた。
相変わらず、抜けている。
思わず笑いそうになったとき、誰かが私の目元に触れた。
「心望、大丈夫?」
「……瑠璃」
心配そうな顔をした瑠璃が、私の涙を拭いてくる。
話したいことはたくさんあったのに、胸が詰まって何も出てこない。
私は何も言えないまま、彼女を見上げた。
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