第29話

 酷い目にあった。

 私はただ瑠璃に触られるのと他の人に触られるのでどんな違いがあるのか知りたかっただけなのだ。


 それがどうしてあんなことになるのか。

 これから莉果たちに何かを頼むときは色々と考える必要があるな。

 とまあ、それは別にいいんだけど。


「あの、瑠璃? そろそろ機嫌直してほしいかなーって」


 放課後になってもまだ、瑠璃の機嫌が悪い。

 確かに教室で騒ぎすぎたとは思うけれど、図書館と違って、昼休みの教室には静かにしなきゃ駄目というルールはない。


 だから許してほしいんだけど、いつになく不機嫌そうな様子である。

 考えてみれば瑠璃がここまで負の感情を見せるのは初めてかもしれない。意外に拗ね方は子供というか、私とそう変わらないんじゃないかと思ったり。


「心望ってさ。もしかして、誰にでも簡単に体とか触らせちゃうタイプ?」

「違うけど……」

「じゃあ、どうして触ってなんて言ったの? それ、頼むなら私でいいよね」


 瑠璃との違いを知りたいのに、瑠璃に触ってなんて言ったらめちゃくちゃだ。

 だけどそれを彼女に明かすことはできない。


 別の友達に触られた時とは違う感覚があったなんて言ったら、変な空気になっちゃいそうだし。


 そもそもなんで瑠璃に触られると変な心地になるのかもわかっていないのだ。

 そりゃあ、偽でも恋人なんだから、変な気分なるのも仕方ないのかもしれないけれど。


 いやいや、でも。

 触られて変な気分になるって、まるで私が本当に、瑠璃の言うようなむっつりさんであるかのようではないか。


 違う。別にそんなんじゃない。

 きっと変な感じになったというのも、気のせいだ。瑠璃に触られたって、なんてことはない。多分。


「瑠璃には頼めなかったから」

「……っ。なんで」

「それは、その……色々と」

「何、色々って」

「い、色々は色々! それに、この前も瑠璃に触られたのにまた触らせたら、なんか、あれじゃん!」

「……私、悲しいな。偽でも恋人同士なのに、私じゃなくて他の人に触らせたの。普通、そういうのしないよね。心望は私の恋人でしょ?」


 不穏な声。

 思わず後ずさると、壁にぶつかった。


 駅のホームの壁は硬くて、冷たい感じがする。

 ブレザーが厚いから、温度まではわからないけれど。


「そっちから頼めないなら、私からお願いしようかな。……心望のこと、触らせて?」


 彼女の腕が、私の頭の横に置かれる。

 息がかかるほど近くに彼女の顔が近づいてきて、その瞳の綺麗さに目を奪われる。


 前にもこうやって、壁ドンされたことがあったっけ。あのときはちょっとドキドキしたけれど、今も別の意味でドキドキしている。


 瑠璃は本気だ。

 本気で、私に触らせてと言っている。


 顔が、耳まで熱くなるのを感じる。胸の鼓動がうるさくなるのを止めることもできないまま、私は目をぎゅっと瞑った。


「こ、ここじゃ駄目。人目につかないところなら、い、いいよ……?」


 自分の言葉が信じられなかった。

 何を恥ずかしがっているんだ、私は。顔も赤くするな。こんな調子じゃ、勘違いされてしまうかもしれない。


 友達同士ならノーカンなのに、瑠璃のことを意識してしまっていると。

 違う。


 これは反射的な反応っていうか別にきゅんとしているとか触られたらどうなっちゃうんだろうなんて思ってるとかそういうあれじゃなくて。


 ああもう、わからない。

 なんなんだこの状況。知らない、わからない、知りたくない。

 瑠璃は仲が良くて大切な友達!


 ただそれだけ。それだけなのに。

 私は恥ずかしさが限界点まで達して、薄く目を開けた。

 瑠璃はにやついていた。


 ……。

 ……おや?


「言質とった。じゃ、私の家に行こっか。今日も親いるけど、まあ声出さなきゃ大丈夫だよね。心望が我慢してくれればそれでいいし」

「あのー」

「あ、電車来たよ。乗ろっか」

「……瑠璃。もしかして、ほんとは怒ってなかった?」

「ふふ、どうだろうね?」


 瑠璃は驚くほどいつも通りになっている。

 さっきまでの彼女は、本気で不機嫌だった。少なくとも私にはそう見えた。


 自慢じゃないけれど、私は他者の顔色の変化には敏感だ。だから演技をしている時はわかる、はずなのだが。


 そういえば、彼女の演技力は私の観察力を上回っているのではなかったか。

 忘れていた。瑠璃の前では、私の観察力はあまり当てにならないのだった。


 さっきまで不機嫌そうにしていたのは、私に触るための布石。罠だったのか。そうなると私に対する可愛いって言葉も疑わしくなってくるな。

 もう何も信じられない。

 瑠璃なんて、嫌いだ。





 もう何度も彼女の部屋には来ているから、今更緊張することもない。

 そう思っていたけれど、今から体に触られると思うと、ちょっと緊張するし恥ずかしい。


 莉果たちに触られても、恥ずかしくなんてなかったのに。瑠璃の何が特別なんだろう。


 ……いや。

 やめよう。こういうのは深く考えるとドツボにハマるって相場が決まっているのだ。最近色々瑠璃とは変なことをしているから、そのせいで感情がバグっているだけだろう。


「心望」

「はいっ!?」

「何緊張してるの。別に、ヤるわけでもないんだから」

「はっ、や、え?」

「……しょうがない。これで緊張、ほぐしてもらおうかな」


 そう言って、彼女は机の引き出しから何かを取り出す。

 見れば、それは小瓶のようだった。


「……マニキュア?」

「ネイルポリッシュ。こういうの好きでしょ」


 彼女は指で摘んだ瓶をゆらゆらと揺らす。

 その中には、桜色の液体が入っていた。しかも、ただの液体じゃなくてラメが入っているみたいで、光を受けてキラキラと光っている。


 色も可愛い感じで、キラキラしている。

 それは間違いなく私好みのもので、見ているだけでもワクワクしてくるような感じがある。


「わ……綺麗だね」

「でしょ。せっかくだし、塗ってあげるよ」

「え」

「塗られたくない? 周りから馬鹿にされるのが嫌なら、私に無理やり塗られたって言えばいいよ」

「ううん、そうじゃなくて。まだ新品みたいだから、初めてが私でいいのかなって。瑠璃は塗らないの?」


 瑠璃は引き出しから複数の道具を取り出して、テーブルの上に置いた。

 私は少し気後れしていたが、瑠璃はやる気満々のようだった。


「私はまあ、後ででいいかな。これ、心望のために買ったやつだし」

「そう、なんだ」

「ん。だから大人しく塗られてくれると嬉しいかな」

「う、うん。じゃあ、お願い……」


 瑠璃が私のためにこの綺麗なマニキュアを選んでくれたと思うと、胸が満たされるような感じがする。


 嬉しい、と思う。

 だけど心にあるのは嬉しいって感情だけじゃなくて。私はその正体を探る時間もないまま、彼女に手を取られた。


 そのまま彼女は私の爪を手入れし始める。

 自分でやるときのために解説をしてほしかったけれど、真剣に私の爪に向き合う彼女の顔を黙って見ていたかったから、話しかけるのはやめておいた。


 やっぱり真剣な顔は、いいと思う。

 何かに真剣で向き合う人の顔は綺麗で、それを見ていると嬉しくなる。

 それは、私に真剣さが足りていないからなのかもしれないけれど。


 私も頑張って生きてはいるのだが、本気で何かに取り組むということがあまりないのだ。趣味もそこそこ、生活もそこそこ。


 だから人の真剣な顔に惹かれるのかもしれない。

 眩しくて、綺麗で、いつまでも見ていられる。


 そう思うけれど、どんなキラキラも永続しないのが当たり前で。私の爪にマニキュアを塗り終えた瑠璃は、いつも通りの笑顔に戻った。

 笑顔もやっぱり、好きだけど。


「はい、一旦はこれで終わりね。何分かしたらトップコートも塗るから。しばらくそのままにしといて」

「わかった。瑠璃、爪塗るの慣れてるね。ありがとう」

「どういたしまして。それじゃ、触るね」

「うん。……うん?」

「何驚いてるの? 元々そういう話だったでしょ」

「それはそうだけど! でも、いきなりじゃん!」

「いきなりは駄目だから、爪塗って時間を置いてあげたんでしょ。ほら、動かないで。剥がれちゃうよ」

「うっ」


 まさか、それが狙いか。

 手を上手く使えないようにして、好き勝手触るのが瑠璃の目的だったのかもしれない。


 でも、どんな狙いがあるにしても彼女が私のためにマニキュアを買って、塗ってくれたのも確かで。


 別に触られるのも、嫌じゃないし。

 相変わらず瑠璃はあの手この手で私を丸めこんで色々してきている気がするけれど、それでもいいかと思う。


 乗せられてもいい。騙されても、罠にはめられても。きっと相手が瑠璃なら、私は大丈夫だと思ってしまうんだと思う。


 変態だけど。いつも唐突だけど。色々心臓に悪いけど。

 でも、うん。


 嫌いじゃない。瑠璃のことは、決して嫌いじゃないから。

 だから私は、両腕を広げて彼女を受け入れた。

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