第8話

 まさか学校のトイレでキスしてくるなんてないよな、と思って余裕でいたら、予想が裏切られた。


 彼女はそのまま私の唇を啄んで、強く体を抱きしめてくる。

 強い緊張が体に走るけれど、髪をさらりと手で梳かれると、自然と体から力が抜けた。


 あっと思った時には彼女の舌が私の舌に絡む。

 そういえば、さっき国光はブラックコーヒーを飲んでいたな、と思い出した。彼女の舌が、思ったより苦かったからだ。


 どうせキスするなら、甘いものを食べてからにしてほしかった。

 いやいや、そういう問題じゃなくて。


「っ! んむっ!」

「なーに、小日向」


 彼女はおかしいことなんて何もないみたいな顔で私に語りかける。


 むしろおかしいことだらけですけど。

 いくら恋人でも、学校でキスはしない。そもそもうちの学校は校則でそういうのは禁止されているのだ。


 前に膝の上に女子を乗っけてる男子が注意されてるのも見たし。


 あれを注意するのって、なんか変態的っていうか、考えすぎっていうか、どうなんだろう。


 昔変なことをした生徒でもいたのかな。

 ……じゃなくて。


「こんなところで何してんの!」

「何って言われても。触診? 血の味しなかったから、大丈夫そうだね。むしろ甘くて美味しかった」

「そりゃ、さっきまで飴食べてたから……って、そうじゃなくて! 見るだけでよかったでしょ! 触る必要もないし、き、キス、とかも……」

「今更キスって言うくらいで恥ずかしがるとか、ある?」


 そんなこと言われても困る。

 よくよく考えたらとんでもない気がする。友達と恋人ごっこするまでは百歩譲っていいとしても、こんなにちゅっちゅちゅっちゅするのってどうなんだろう。


 いや、別に嫌ではない。

 キスくらいで騒ぐほど子供じゃないし、友達同士ならノーカンだし。何より、彼女の舌の感じは決して嫌じゃない。

 でも。


「……知らない。ていうか、学校でしちゃ駄目だから!」

「学校の外ならいいの?」

「それは……! まあ、うん。一応、偽でも恋人なわけだし、別に……」

「あはは、そっかそっか。じゃあ、また後でしよっか」


 国光は一体何を考えているんだろう。私の舌がよほど気に入ったのか。確かに私は可愛いから仕方がないのかもしれないけれど。


 でも、なんかなぁ。

 単に私で遊ぼうとしているようにしか見えないんだよなぁ。


 偽の恋人になるっていうのも、私をからかうためだったり……。


 考えすぎかな。そもそも私、普通の友達だった頃から国光には散々からかわれてきたし。からかいたいだけなら別に偽の恋人になる必要もないはず。


 今の関係が嫌ってわけでもない。

 とにかく私は無駄な見栄のために、恋人同士がするようなことをしていかないといけないのだ。


 これ以上友達に馬鹿にされるのは耐えられない。

 大人の女性だって一目置かれるような存在になりたいのだ、私は。


「じゃ、教室戻ろっか。することも終わったし」

「……いいけど」


 でも、その前に。


「国光」

「うん?」

「心配してくれてありがと。優しいね、国光は」


 私がお礼を言うと、国光は変な顔をした。


「……やっぱ、そういうとこだよねぇ」

「……?」


 呆れられてる?

 いや、素直にお礼を言っただけですけど。


 人の顔色を見れば、相手が本気で自分を心配しているかどうかなんてすぐにわかる。国光は私のことを基本馬鹿にしているけれど、前もさっきも本気で心配しているのが見てとれた。


 だからいきなりのキスはともかく、お礼は言っておくべきだと思った。


 どうあれ本気で私のことを思ってくれるのは嬉しい。それに、ちょっとしたことで心配するのは彼女が優しいからだと思う。

 私はそういうところ、嫌いじゃない。


 でも、お礼を言ったのに呆れられるのはちょっと困るっていうか、うーんって感じ。


 駄目だったかな。

 まあ、いいか。当たって砕けることだって、人生あるものだし。


「……よし。じゃ、もっと優しいとこ、見せたげよっかな」

「え。ちょ、待っ、国光!」


 国光はいきなり私のことを持ち上げ始めた。

 本当に唐突だったから、逃げる暇もなかった。あれよあれよという間にお姫様抱っこされて、そのままトイレから連れ出される。


 教室まではすぐ着くけれど、このままだと困る。

 私は彼女の腕の中で暴れ出した。


「こら、暴れない暴れない」

「なんで私が悪いみたいな雰囲気出してるの!? ちょ、もおお! いきなりすぎ! なんなの、ほんと!」

「小日向が悪い」

「なんで!?」


 ギャーギャー騒いでみても全然下ろしてくれる気配がないから、私は観念することにした。


 今の私は冷凍マグロだ。どうぞ好きなようにお運びください。たとえ今後解体されることがあったとしても、抵抗なんてしませんとも。


 国光の行動にいちいち驚いていたら身が持たないと私は学んだ。


 確かに学ぶということは大事かもしれない。人は机上ではなく他者との関わりの中できっと色んなことを学んで、人生の教訓を得ていくんだろう。


 今日得た教訓は、一つ。

 どうしようもない時は、流れに身を任せるべし。

 それだけである。


「おーっす。戻ったよー」

「お帰り、瑠璃……って、心望ちゃんじゃん。どうしたの?」

「運びたくなったから、運んできた」

「ふーん。めっちゃ固まってんじゃん。ウケる」


 ウケないです。全くもって。

 ていうか私、あんまり関わりない人に心望ちゃんって呼ばれてるんだ。

 もしや、クラスメイト皆に舐められているのか私は。


「心望ちゃん、座って座って。お菓子あげる」


 完全に幼児扱いされている。私は頬が引き攣るのを感じながらも、結局無理と言うことはできず、国光の友達から接待を受けた。


 やっぱりクラスの中心人物にはそれだけの力があると思う。あっちから色々話しかけてくれるおかげで会話が途切れることもなかったし、なんとなく楽しむことができた。


 彼女たちのキラキラオーラに完全にやられてしまった私はお菓子の味なんてほとんどわからなかったが。


 私は昼休みで力を使い果たして、午後の授業には一切集中できなかった。





「小日向、帰ろ」

「あー、うん。帰ろっか……」


 放課後。私は国光に声をかけられて、一緒に歩き始める。偽の恋人にはなったけれど、私たちの距離感はほとんど変わっていない。


 日常的にキスはするようになったけれど、二人で遊びに行く機会が今まではほとんどなかった。


 相変わらず莉果とか他のメンバーも合わせて遊びに行くことはあるんだけど、それだけだ。


 お家デート一回だけじゃ、莉果たちとの話が全然広がらない。莉果たちの中での私の彼氏像が変なことになる前に、新しいエピソードを用意せねばなるまい。

 私は意を決して、国光の手を掴んだ。


「……小日向?」

「国光。デートしよう、今すぐに」

「どうしたの、急に」

「恋人なのに一回しかデートしてないのはおかしいでしょ。もっと色んなエピソードがないと、疑われちゃいそうだし」

「相変わらずの見栄っ張りだ」


 国光はそう言って、くすりと笑う。


「でも、いいよ。私もそろそろ普通のデートしたいと思ってたし」

「じゃ、決定ね!」

「どこ行くかとか、決めるの?」

「決めてない! 明日は明日の風が吹くってことで!」

「それ、意味全然違うでしょ」


 呆れたように言ってから、国光は私の手を引いた。

 私から引っ張っていこうと思ったのに、結局気づけば彼女に手を引かれてしまうのはなんでだろうと思う。


 ここらで私の方がお姉さんだってところを見せた方がいいのかもしれない。


 正念場だ。ここでいいところを見せれば、舐められなくなるかもだし。

 ……無理かなぁ。

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