レイラの受難 前編



 人間と食人鬼の戦争が終わる時、締結された条約は多くあるが、その中でも皆が覚えておかなくてはならないものがある。


『人鬼不戦・不接触条約』


 この条約は終戦時に結ばれた条約のうち唯一、一切の変更がなく今世まで伝えられ、現人間国と鬼国どちらの憲法にも遵守する旨が明記されている。

 内容は実に難解であり、このような場で軽く言えるようなものではない故、この条約の根本となる第一条のみを一部省略、簡略化して記す。


『第一条 食人鬼は人間と接触してはならない、人間も同じく食人鬼と接触してはならない。

これに反した場合は人間、食人鬼に関わらず即刻の死刑に処す。』


 このたった何十文字の言葉は、今も世界の中心として依然として残り続けている。


――――――――


 イマルが目を覚ました時、窓から入る光は白く床を照らし、昨晩後ろにあった温もりはもう残り香も残さずに消えてしまっていた。


「んぅ..」


 イマルは大きく伸びをしてふかふかのベッドに別れを告げる。

 イマルが床に立つと、何も履いていない足に少しの石と、カーペットの毛がもぞもぞと動き回る。

 イマルが人間屋では感じたことのない感覚に全身が総毛立つ。

 昨日はあっという間にレイラに連れられてしまったため、直立でこの部屋の床に留まってみると、昨日のイマルでは感じられなかった感覚に目の前が輝くようだ。

 イマルはこのまま好奇心のままにカーペットのもぞもぞで遊びたい衝動に駆られるが、ハッと昨日のことを思い出す。

 衣装室で机をひっくり返したこと、片付けをしてもらったこと..

だがイマルはふと気づく


(途中からおサボりしてる..!)


 レイラに抱えられたところからの記憶が無いことに気づいてしまったイマルは顔を覆う。

 イマル自身が作った惨事の片付けまでしてもらっているのに、イマルは眠るなどというあり得ない行為は、イマルの中のルールでは圧倒的にタブーである。


「レイラお姉様のところ行かなくちゃ..」


 罰を受け無くては..と死にそうな顔でイマルがよたよたと重い扉を開ける。

と、目の前にレイラが立っていた。

 心の用意が出来ないままに急にレイラが目の前に出てきたことに、イマルは動きづらい表情筋をあわあわと動かして慌てる。

 せめて謝罪だけでもと、イマルが吃りながら頭を下げようとする。


「れ、レイラお姉さ..」

「あ〜!イマル昨日はごめんなさいね?私人間と接したことなんてないから..いやまぁ人間と接したことがある方がだめなんだけどね。まぁそれはそれとしても!無理させちゃったでしょう?」


 イマルの言葉を遮りながら、レイラはいつも通りの話口調でイマルに話しかけてくる。


(これは..すごく怒っているのでは?)


 レイラの姿はイマルの人間屋で培われた思考の中には無い立ち振る舞いで、その違和感にイマルは逆に何かをしてしまったのかと昨日の立ち振る舞いを隅から隅まで記憶を捻り回す。

 詰まり詰まりイマルは、これ以上レイラを怒らせないようになるたけ丁寧にレイラにお伺いを立てる。


「あの、あの..イマルは何かしてしまいましたか?」

「え!違うわよー!イマルちゃんは真面目に働いてくれただけ。それなのに私が無理させちゃったのよ?」


覚えてない?と首を傾げてイマルの目をのぞいてくるレイラの瞳には、怒りの影など欠片も無い。


(怒って..ない?)


 むしろイマルにレイラは謝罪の意を述べている。

 生まれてこのかた受けたことのない謝罪という行為に、イマルは困惑しながら細い両手を勢いよく前に振る。


「えっと、レイラお姉様は何も悪いことしてないです!イマルの体が悪いです!」


 なおもレイラの謝罪を受け入れる様子のないイマルにレイラは眉を下げ、振られているイマルの両手を優しく男らしい骨ばった手で包む。


「良いことイマル?イマルは精一杯慣れない場所で働いてるの。何も悪くないわ」


 優しく諭されたことなどないイマルは、レイラの真綿のような言葉に寧ろ肌を裏からくすぐられるような気持ち悪ささえ感じてきた。

 だがそんなイマルの感覚はわからないレイラはそのまま膝をつくと言葉を続ける。


「人間屋で何を言われたかわからないけれど、私は何にも思わないわ..だから、我慢せず思ったことは言ってちょうだい?」


 レイラが言葉を言い切ると、イマルがふいに下を向いてしまう。

 イマルの控えめな自己表現に、何か悪いことを思い出したのかとレイラはつい包んでいるイマルの手に力を込める。


「イマル?無理しなくて良いのよ?」


 その言葉に、レイラに包まれている両手をギュッと力を込めて腹を括る。


「レイラお姉様、無理しなくて良いの?」

「えぇ!」


 イマルの言葉に心配そうだったレイラの顔が向日葵のように明るく広がる。

 ついにイマルに自分の気持ちが伝わったのだと確信したレイラは、何十年ぶりかにガッツポーズをしたくなりそうなほど幸福が体に満ち溢れる。


「じゃあ、レイラお姉様」

「どうしたの?」


レイラが前のめりに返事をすると、イマルがゆっくりと声帯を揺らし言葉を紡ぐ。


「レイラお姉様..気持ち悪い」


今度はレイラが倒れた。

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