きみは完璧で究極なクレタの女


 雫は秒で思った。喉を刃物で刺された! うわー、たぶんこれは死んだ!

 うなじから首に灼熱の痛みが走って、じゅくじゅくした鈍い熱さを感じたときにはもう意識が混濁に沈む。血の味が心に沁みる。目の前が暗くなり、思考が暗黒へ落ちていく。

 モアが助けに来てくれなかったのがショックだった。必死に何度も名前を呼んだのに……


 何度も名前を呼ばれた雫がうっすらと目を開けた。

 白衣を着たモアが、いかにもこれから重大な事実を告げるように神妙な顔で見下ろしている。雫は自分がベッドの上に寝ている状態だとわかった。モアの左斜め横には見たこともない女性看護士が控えている。

 青と虹の視線が合うと、後者が覗きこむ姿勢で話しかけた。

「いいですか、おちついてきいてください。きみがねむっているあいだに――」

「いや、そういうのいいから」

 またなにかのネットミームだと判断した雫が手をぱたぱた振ってネタをさえぎる。

 モアがまったりしたドヤ顔で指パッチンすると、白衣がいつものSF的な服装にもどった。謎の女性看護士も霞のように消えた。

 上半身を起こした雫は部屋を見渡し、鏡を確認した。自分の部屋だ。水色のパジャマだ。もちろん首に刺殺の傷なんてなく、血痕など皆無である。

「よかった! 夢だー! きいてよモア、あたしめちゃくちゃ怖い夢を見たんだよ? 頭おかしい殺人鬼に襲われて殺される、それはもうひっどい悪夢!」

「ところがどっこい……夢じゃありません……! 現実です!」

 ポンと手を打ったモアが表現したのはギャンブルアポカリプスなフェイスポーズだった。

「わたしがたすけにきたときには、しずくはR-18Gなありさまになってた」

「ええー? またまたー。怖い冗談やめてよ。だってここあたしの家だし、パジャマだし。それでもあたしが死んだっていうの?」

「半分だけ正解。死んだけど死んでない」

「意味わかんない。まさか死んだあたしを生き返らせたとでもいうわけ?」

「今回はちがうやりかたにしてみた。殺人鬼を因果の輪から消した。最初からこの世に存在しないことにした。過去現在未来にわたっていなくなった。そうすると、どうなるかわかる?」

 雫は首をひねって考えた。馬鹿だと思われたくない。

「えっと……つまり……あたしが殺人鬼に襲われた出来事そのものがなくなった……?」

 モアが親指をグッとすると、雫の脳内に「YES! YES! YES!」という白抜き文字が投射された。

 夢じゃなくて現実だったけど結果的に夢になったというわけだ。露ならノヴァーリス「断章」の[237]を連想するかもしれない。

 雫は頭を整理して心を落ち着かせ、買い置きの緑茶と紫芋きんつばと三笠どら焼きをテーブルに用意した。モアが自然な動作でどら焼きに手を伸ばしたので、ぺちんとはたいた。

「なにさも当然のように食べようとしてるのっ。あたし、モアにききたいことがあるから、まずそこに正座して」

 モアがまったり正座すると、雫は彼女とおなじ目線で正座して、一分ともたずに足を崩した。――足が痛い!(正座が苦手なのは姉と意見を分かち合える数少ない共通項だ)

 顔を上げた雫は口に含んだ緑茶を盛大に噴いた。モアがアンダーウェア(光沢のある青いレオタード)姿で両手を後ろ手に縛られ、三角形の木をならべた台(算盤板)の上で正座して、太ももの上に大きな漬物石を乗せた状態で苦悶と恍惚の表情を浮かべていたのだ。さらに、その斜め後ろでは、ひょっとこの面をつけた刀鍛冶の男が芸術点の高い集中力で一心不乱に刀を研いでいた。

「そっ、そういうこと、しなくていいから!」

 モアがもとの服装にもどって普通に正座すると、雫はどっと息を吐いた。このまま意味不明なネタを見せられてはかなわない。早く本題を伝えなくては。

「ねえ、モアはなんですぐに助けに来てくれなかったの? あたし殺人鬼に襲われて、ものすごく怖くて、必死に何度も何度もモアの名前を呼んだんだよ?」

「ごめん、しずく。すぐに対処しないと全宇宙が崩壊する事象を治療してた。しずくのためにリソース割くのはむりだった。そして、しずくはわたしにとって唯一無二の特別だから、それゆえに、ほかのだれかにまかせることも、せいにやったブローチみたいな安全装置を組みこむこともできない。わかってほしい。ほんとうにごめん」

 もしもモアをよく知る高次文明の存在たちがこの様子を見たら――いかなる精神構造でいかなる精神レベルに到達していようとも――驚嘆してしまうだろう。大いなる第四賢者が誰かに謝るなど、ましてや地球人の容姿で正座して頭を下げて謝罪するなど、たとえ新たにビッグバンが起きてもありえないことなのだから。

 もちろんそんな事実など雫には関係ない。

「モアからすればあたしが死んでも生き返らせたり死んだことを無かったことにしたりできるからいいんだろうけど、モアは恐怖を感じることがないから、あたしの気持ちがわからないんだよ」 

「わたしはどら焼きがこわい」

「あのね……あたしの和菓子好きをなめないで。落語は興味ないけど「饅頭怖い」は知ってるよ?」

「うん。わたしはしずくがいちばんこわい」

 さらっと強調され、雫は頬を桜色に染めた。こんなことで胸がドキドキして喜んでしまうなんて単純にもほどがある。でも嬉しくてたまらない。きっとモアはそれがわかってる。そう思うとくやしい。

「ふんだ。モアは平気で嘘つくから、信用できないよ」

 桜色に染まった頬を、桜餅をほおばるようにふくらませてそっぽを向いた。多感な中学一年生の少女にできる精一杯の抵抗だ。

「わたしはまだしずくに五回しかうそついてない」

「出会って二ヵ月で五回って普通に多いと思うよ!?」

 ドキドキが一瞬でツッコミに変わる。

「てゆーか五回ってなに! あたしモアに嘘つかれたの三つしかおぼえないんだけど!?」

「あ、気にしないで。まだあわてるような時間じゃない」

「かえせっ! なりかけの甘い空気をかえせっ!」

 癇癪を起こしながらも、雫はそこまで悪い気分ではなかった。なにしろモアの「あ」がよろしい。あたしに対して気まずい心情がある証拠だ。

 ここはひとつ学校の授業で習ったアンガーマネジメントを実践しよう。

 六、五、四、三、二、一……ゼロ呼吸!

「よし! それじゃあ、モア、もうあたしに嘘つかないって約束して」

「わかった。しずくにうそはつかないと、完璧で究極なクレタの女に誓う。完璧で究極なクレタの女を信じろ」

 クレタの女がなにかはまったくわからなかったが、モアが口にするからには超越的なものなのだろう。

「ああー、これでやっとモアと愉快に和菓子を堪能できるよ!」

「ひとつアドバイスしておこう。知らない言葉に遭遇したら、自分で調べるか、くわしいひとにきくかしたほうがいい」

 三笠どら焼きを満悦でぱくつきながら、モアがそんなことを述べた。

 ほうじ茶を淹れに部屋を出た雫はスマホで姉に連絡を取った。

 雫のスマホはモアの改造により相手が宇宙のどこにいても通信可能なうえリアルタイム通話できる。露がしばらくまえにモアの存在を知ったことで、雫は彼女のことを姉に隠す必要がなくなった。遠慮なく遠い星にいる姉に電話をかけられるのだ。

「お姉ちゃん、完璧で究極なクレタの女と、嘘について知ってる?」

「はて、完璧で究極というのはよくわかりませんが、クレタと嘘なら自己言及あるいは嘘つきのパラドックスですね。雫も哲学や倫理学に興味が湧きましたか」

「全然だけど、それについて教えてよ」

「クレタ人が言いました、クレタ人は嘘つきだと。おかしなところはどこでしょう」

「えーと、クレタ人が嘘つきだと言うのが本当なら、言ったクレタ人の言葉は嘘になる……けど、それが嘘ならやっぱり言ったクレタ人は嘘つきになるから……んんん?」

「つまり、言った当人が嘘をついているかついていないか、判断することはできないということです。ただ、この論理だと実際にはパラドックスにはなっていなくて――」

 雫は後半の解説を聞かずに無言で通話を切った。

 どすどすと床を鳴らして自分の部屋の前にもどると、ドアを力いっぱいぶち開けた。

「アンゴォォォォォーーーーーッ!!」

「おお、しずくの怒りが有頂天。まるで大原部長のような剣幕」

 かんかんになる雫を肴に紫芋きんつばをもぐもぐするモアの表情は――これまた高次存在が見たら驚嘆するであろう――極上の愛おしさに満ちていた。


 稀人星では露がしょんぼりと「私は妹のことがほんとうにわかりません……」とつぶやいて恋人を困らせていたのだが、それはまた別の話である。

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星露アラカルト 皇帝栄ちゃん @emperorsakae

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