牧神の選択
京都の嵐山で、星は牧神の笛の音に魅入られそうになった。
まさか日本の古都でパンとサテュロスの誘惑に遭遇するとは思わなかった。
露が三重思考とデューフォール・ユニバースで対処しなかったら大自然に回帰していたかもしれない。
かくして露は牧神の群れを掌握した。この世に現存する数少ない牧神たちである。山羊の角を生やし、同様の臀部と蹄をもつ彼らは、今しがた自分たちの命運を握った赤眼の少女とその恋人を長閑に眺めていた。
問題は、彼らの処遇について星と露の意見が分かれたことである。
「いいですか星くん。牧神を現代社会に溶け込ませるべきです。服を着せて身だしなみをちゃんとすれば、ちょっとしたコスプレ風味の人間として通用するでしょう。そうすれば人間社会の中で今後も生きていくことができますし、同族同士で子孫を残すことも可能です」
「牧神という存在の幻想性を壊すのはよくない。大自然の側に属する太古の意義を否定して文明に屈服させるなんて、そんなの生かして殺すに等しい行為だと思う。牧神はそれくらい自由なんだよ。考えてもみて、ギリシア神話の神々が創作で言及されるときはあくまで「ギリシア神話の存在」として語られるのに、牧神だけはギリシア神話の枠を超えて独立した位置を占めている。私は牧神たちを自然に還すべきだと思う。たとえそれで人々から忘れられて伝説の彼方に消えても、いつか顧みて必要とされる時代が訪れたら復活する」
「無から復活なんてしませんよ。この世に存在する種族である以上、絶滅したら二度とよみがえりません。無から生えてくるのは宇宙創成のインフレーションだけで充分です」
「露は幻想世界の存在が不滅だという認識はできないの? 偉大なるパンは死せりと宣告されて墓碑まで作られても生き残ってきたじゃない」
「掌握してわかりましたけど、牧神は人間とおなじ星の子です。地球の物質も、もとをただせば太古の昔に恒星で合成され、恒星の爆発などによって宇宙に飛散した元素からできています。私たちの体も星のかけらであり、星の子であり、すなわち地球の種族です。そして牧神の正体は――」
「言わないで。私からファンタジーのロマンを奪うな。自然回帰したい人間が一定数いれば牧神たちと共存できるはず」
「人間は自然には還れません。人間は知恵を得て自然のあらゆるものを利用する力を手に入れました。もう後戻りはできないんです。牧神がいまひとたび躍起になって人々を誘うのは、絶滅の危機に陥って必死だからです。種の保存本能です」
「文明の驕りの結果じゃない。科学で世界を必要以上に開発して、幻想の領域でひっそり生きていたものたちを、自然と神秘が炉端で語り継がれるものたちを、人の心に去来する夜の畏怖を、世界から追い立ててしまった。ニーチェの言うとおり現代人こそが神の殺害者だよ」
「星くんはただ自分のお気に入りの希少生物を、絶滅してもかまわないからお気に入りのまま愛でたいだけです。牧神はこうあるべき存在だと勝手に決めつけて」
「それは否定しない。好きなものを変えたくないのは至極当然の感情でしょ。私が露とふたりで容姿も性格も現在のままなにも変わらないことを望むのと同様に。露だってそうだよね」
「論点をすり替えないでください。私と星くんは特別です。おなじじゃありません。そもそもなんでそんなに牧神をフォローしようとするんですか。いつもの星くんらしくありません」
「露こそ私のことを勝手に決めつけないで。私が牧神をいまのまま存続させたいのは、そのほうが私と露にとっても利益があるからだよ」
「ほお? ぜひお聞かせ願いたいですね」
「牧神を自然に還すなら話してあげる」
「私たちに害ある存在ではない種の絶滅に協力する気はありません」
永遠の一八歳と一九歳の目線に火花が散った。
そのとき、パンとサテュロスたちが二人に近づいて「まあまあ。痴話喧嘩はおよしなさい」となだめた。そして周囲で輪になって陽気な歌と踊りをはじめた。言い争いをやめさせるには充分なほど楽しい牧羊神の宴であった。
ほっこりした顔で星が言った。
「ねえ、自然に還るか現代社会に溶け込むかは、牧神たちに選ばせてやってくれないかな」
露が目を丸くした。
「それでいいんですか? 星くんがそれでいいのなら、そうしますけど」
きょとんと二つ返事する恋人の反応にやや困惑する星だったが、きっと「是非に及ばず」の心境なのだろうと解釈して、牧神の選択にゆだねるよう承知させた。
星と露が行きつけの喫茶店〈
喫茶店の制服を着用した一匹のサテュロスがトレイ片手に注文を届けにきた。美容院で整えられた髪と顎髭と体毛は、牧神の余韻を残しながらも現代にマッチしたオシャレ感覚に溢れ、若い女性客のファンが多いそうだ。
カウンターの奥へ戻っていくサテュロスをぼんやりながめ、星は溜息をついた。
「牧神は全員が自然に還ることを望んでいると思ったのに、まさか半数近くが現代社会を選ぶとはなあ」
「こういう結果になるとわかっていました。全体意識の種族でもないかぎり、知性体であるならば個々の意見は違うのですから。現代社会に溶け込みたいと願う牧神がそこそこ以上に存在するのは当然です」
新メニューの牧神タイガース黒蜜ジュースをすすり、露は星を見つめた。
「それで星くん、自然のままの牧神から得られる私たちの利益というのはなんだったのです?」
「ああ、それね。パンもサテュロスも人間の女性を誘惑して性の興奮と快楽を与えるのが上手らしいから、恩を売っておけば、そのテクニックを教えてもらって私が露を悦ばせることができるなと思って。まあ半数いるならなんとかなるか」
さらっと星が答えた。
露は頬を赤く染めて「お、お手柔らかにお願いひまひゅ……」と舌をかんだ。
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