メビウスの帯を解いて


 部屋をノックしても返事がなかった。階下へ移動した露はリビングで永遠の恋人を見つけた。彼女はソファでホログラフ書籍を読みながら、険しい目つきで眉をぴくぴくさせている。

「あの、星くん」

 呼びかけに対して、星は顔も向けずに言った。

「私いまかなりイライラしてるから近寄らないほうがいいよ」

 淡々としたつっけんどんな返答だが、そんな態度に動じる露ではない。無言でとてとて近寄ると、躊躇なく真横に腰をおろした。

 星がぴくりと片眉をつりあげてとなりを見る。顔色ひとつ変えず露が見返す。

 溜息を吐いて、星は露の頭をげんこつでぐりぐりやった。手入れが雑なクリーム色の髪がさらにくしゃくしゃになる。それでも露の髪は鼻腔をくすぐるいい匂いがした。

「痛いです、星くん」

「だろうね」

「痛いです、星くん」

「近寄らないほうがいいって警告したよね」

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星くん。

 ぐりぐりぐり。

 痛いです、星く

「うるさい!」

 きつく怒鳴られ、露は目をぱちくりさせて口をつぐんだ。

 静寂という名の間を経て、星は無意識にまた露の頭をぐりぐりやった。

「痛いです、星くん」

 星が剣呑けんのんな目つきで露をにらんだ。

「あのさ。いい加減にしないと、引っぱたくよ?」

「どうぞ遠慮なく引っぱたいてください。思いっきり。それで星くんの気がすむのなら」

「……」

 全力ビンタの甲高い音が空気を裂いた。

「痛いです! 星くんッ!」

 じんじんする頬に片手を添え、露は熱い涙目で抗議した。きらめく紅玉の双眸は一点の曇りもなく綺麗だ。

 本気度の高い、とがめるようなまなざしに射抜かれ、さすがの星もジト汗を流す。

「いや、思いっきり引っぱたけって言ったじゃん」

「言いましたけどっ! はぁ……本当に、恋愛ってむずかしいです」

 唇をとがらせ、瞳をうるうるさせる。そんな恋人の反応に胸の奥がぞくぞくしないわけがない。

「ねえ露。もしよければだけど、右の頬をぶたれたら――」

「嫌です!」

 断固とした拒否に星は思わず苦笑した。

 その反応を見た露が、ほっと小さくほほえんだ。

「いらいら、おさまりましたか?」

 星は目をしばたたかせた。ソファに背中をあずけ、人差し指でこめかみをこする。

「そうみたい。えーと……あー、うん、ありがとう」

 照れくさそうに身を寄せて顔を近づけると、露の頬にやさしく口づけして舌を這わせた。謝罪がわりの愛撫である。露が恥ずかしさで頬を赤く染めた。二重ふたえの赤みだ。

「そういや露、なにか用があったんじゃないの?」

「はい。今日はバレンタインデーなので、バレンタインチョコです」

 ここぞとばかりにふところからプレゼントを取り出す。ハートマークでシンプルにラッピングされた四角い小箱を開封すると、∞を立体化したチョコレートがビターカカオの芳香を漂わせた。

「これは、メビウスリングの形をしたチョコ? 露の手作り?」

「メビウスの帯です。手作りに挑戦したら失敗したので菓子職人さんにオーダーメイドで作ってもらいました」

「露は料理も失敗続きだけどお菓子作りも駄目だったんだね」

「失敗したチョコも残してありますけど、食べますか?」

「いらないから自分で処分して。それよりなんでメビウスリングなの」

「私と星くんの永遠がずっと続くように、そんな願いをこめて。さあ、どうぞめしあがれ」

 口もとに差し出されるメビウスのチョコを見つめ、星は小首をひねった。

「これ、食べちゃっていいの? 私たちの永遠をイメージしたやつでしょ? 食べたらなくなっちゃうんじゃ」

「それでいいんですよ。メビウスの帯があまりにも有名なので勘違いされがちですが、メビウスはドイツの数学者の名前で、その言葉自体に意味はありません。メビウスの帯の形状は無限インフィニティであって永遠エターナルとは異なります。無限とは――たとえばウロボロス、たとえば永劫回帰、たとえば〈運命〉と〈偶然〉の〈ゲーム〉であり、すなわち円環ループを意味します。それに対して永遠は直線です。無限を直線にしたものが永遠なのです。だから、メビウスのチョコを食べることは無限の円環を解いて永遠に変えることになるんです」

 露の説明はいつも無駄にあれだが、要するに、言わんとすることは先刻のビンタに至るやりとりみたいなものだ――星はにやりと笑った。

「その理屈で私に食べさせようとするなら、大事な点をひとつ見落としてるよ。わからせてあげる」

 チョコをつまんで口に含むと、そのままキスをして舌をいれた。ふたりの舌がメビウスリングのように絡み合い、チョコレートを互いの口腔と唾液で溶かしていく。二重の甘みだ。

 数分後に唇は離れ、星がウインクしてみせた。

「私と露の永遠なんだから、ふたりで一緒にメビウスを溶かして円環を解かないとね」

「はぅ……お見事です、星くん」

 露は心地よい火照り顔でビターな甘い息を吐いた。

 

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