閃き

 部屋の中に糞尿の臭いが充満しています。ハエの感覚では焙煎されたコーヒー豆を嗅いでいるようですが、人間は耐えられないでしょう。

 御馳走ごちそうの匂いを嗅ぎつけたハエたちは増える一方で、黒い影が縦横無尽に飛び回り常時羽音が響いています。


 大ちゃんは一昨日から動かなくなりました。


 フォトフレームを抱きかかえたまま眠るようにして息を引き取った大ちゃん。死の原因は紛れもなくわたしなので、昨日は大ちゃんの体を這って一日中泣き続けました。

 脳裏をよぎるのは人間時代の記憶。家の内装や将来設計を語り合った日々が走馬灯のように蘇ってきます。

「もうすぐ会いに行くからね」

 ハエの寿命は短いのであとどれくらい生きられるか……体には一切の不調がなくこの状態からポックリと逝ってしまうのは信じられません。

 真夏が大ちゃんの体を腐らせます。腐敗が進むにつれて体の変色とガスによる膨張が始まりました。

 凛々しかった顔や引き締まった体の面影はありません。それでもわたしは大ちゃんのことを醜いとは思いませんでした。

「大ちゃん……」

 頬に着地してヌルヌルとした皮膚の上を駆け回り唇に触れました。

 人だった頃を思い出すかのようにキスをします。

「大ちゃん……」

 優しく触れ、そして時にはついばむように口の先を押し当てます。

 当然ながらわたしのキスで大ちゃんが息を吹き返す奇跡は起こりませんでした。それでもキスを続けます。

「大ちゃん……」

 抑えきれなくなった感情が暴走して、気付けばわたしは口から出した消化液で唇を溶かしていました。

「美味しい」

 大ちゃんの唇は腐っているとは思えないほどに甘美で、柔らかくて吸いやすい最高の御馳走でした。

 禁断の果実を一度口にしてしまうと欲求は膨れ上がり、鼻はどうだろう? 耳は? 脹脛ふくらはぎは? と大ちゃんの全身をむさぼり続けます。

 わたしの中で大ちゃんの存在を感じられることは非常に喜ばしく、虚無状態の体に活力がみなぎってきました。

 活発的な動きに感化されたのか、複数の雄のハエが交尾を求めて寄ってきます。

 でもわたしには大ちゃんという婚約者がいるのでそれを強く拒絶しました。

 しかし次第に感情が変化してきたのです。

 

 わたしの体内で大ちゃんは生きている──つまりこの状態で交尾をすれば念願だった大ちゃんとの子供を産める。


 天啓てんけいを得たような清々しい気持ちでした。

 わたしは一匹の雄を迎え入れ、大ちゃんの膨らんだお腹の上で交尾しました。名も知らぬ雄との間に恋愛感情は一切ありません。交尾の最中も大ちゃんの芳醇な匂いを嗅ぎ続けます。

 交尾を終えた雄はすぐに飛び立ち、無数のハエの中に紛れて一瞬で見分けがつかなくなりました。

 きっとハエの世界ではこれが普通なのでしょう。こっちとしては大ちゃんの赤ちゃんを産みたいだけなので、下手に寄り添われることがなくて安心しました。

 わたしは見知らぬ雄の臭いを消すように、大ちゃんの体に擦り寄り死肉を貪るのでした。

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