第2章

 イライラと回廊を歩くノービリス准将を他の兵士たちは珍しく見ていた。

 昨夜は李桜が心配で寝ていない。もともと不眠体質なので眠れてないのはいい。悠真を苛つかせているのは何故か予知がズレていたことだ。路上生活者が立ち退きを拒否するのは視えた。だが、李桜を傷付けるまではなかったはずだ。だから行かせたのに。

 「ノービリス准将、聞きましたよー?」

 飛び跳ねるように悠真の前に現れたのはヴィントだった。悠真の次に空気を読まないのがヴィントである。不機嫌を隠せない上官の前でもニヤニヤ顔なのは噂話のネタに自信があるからだ。真実はさておき、だ。

 「聞いたって何を?」

 通行の邪魔だと悠真は左に避けて歩き出した。その後ろをヴィントがニマニマと追いかける。青色のくせっ毛もふわふわと愉快だと揺れている。

 「ヴィント、頼んだやつ終わったの?」

 「そんなことよりですよ~、昨日の晩餐会。」

 ニヤけるヴィントに悠真は足を止めた。

 「仕事サボったら怒るよ。」

 漸く普段と違う悠真に気付いたらしいヴィントだが、態度を改めることはなかった。

 「ノービリス准将がナタリー王女を置いて逃亡したって軍内で持ち切りッス!」

 「はぁ?」

 力のズレの機嫌の悪さに身に覚えのない逃亡疑惑。軍部で持ち上がっていることから噂を流したのはギルマン中将あたりだろうか。捏造話は権力者の特権遊戯のようだ。

 「アホらし。それで?俺を処刑しようって?」

 「相変わらず極端すねー。真偽を確かめたいとアドルフ公がお呼びッス。」

 「そう。報告ありがと。あ、ちゃんと仕事してよ。」

 「もちろんですよ、今日は大佐が休みなんでやる気にみち溢れてるッス!」

 耳のラピスラズリのピアスがヴィントの機嫌を語るようにキラリと光った。

 「けど、東門に石積んで穴掘って意味あるんすか?チビ共は泥遊びしてるみたいで楽しんでるけど。」

 「うん、あそこに水脈があるんだ。」

 「マジすか?!じゃ、夏は水遊びっすね!アイナと黒竜も手伝ってくれてるからよゆーっす!」

 アイナと黒竜はヴィント以上に仕事ができるらしい。確か、李桜が孤児達に世話を任せていたなぁと悠真は思い出した。最近の李桜は保護施設の事を気にかけ過ぎている気がする。悠真や李桜、ヴィントといった親のいない若い士官が育った場所で思い出の詰まった場所ではあるから情があるのも仕方がないが李桜に取っては辛い事が多かったはずなのに。

 「事故には気をつけてよ。保護施設の子に怪我させたら大佐に怒られるから。」

 「うげぇ?!気をつけるっす、現場戻ります!」

 悠真に敬礼しヴィントは笑顔で戻って行った。ヴィントを見送り悠真は北西に建てられた司令塔を虚ろな目で見つめた。

 「・・・お片付けしなくちゃ。」



 目が覚めた李桜は吸い込んだ空気でここが私室で無いことに気づいた。勿論、悠真の部屋でも無い。

体を起こし周りを見る。薄暗い部屋。石作の隙間から陽光がさす。

 「・・・城?」

 軽い頭痛に李桜は頭を抑える。目が慣れるまで李桜はベッドに座っていた。周りを見渡すとサイドテーブルにガラスの水差しと数種のパンが入った籠が置かれている。椅子には乱雑に投げかけられたであろう、白の礼服。

 昨夜のことを思い出した。路上生活者達を国から逃がそうと考え、実行して、彼らの居場所を奪ったこと。その後、祈りを捧げる為に古城に来たこと、悠真が視えた未来のこと。

 「そうだ、悠真!」

 「なぁにー?呼んだー?」

 ビクリと体が震えたのは無意識に出た言葉に返答があったからだ。ドア付近にいた悠真に李桜の深碧の瞳が見開く。

 「良かった、今度は当たったー。」

 そう言って悠真は無邪気に笑った。

 「まだ寝てていーよ?今日はキルシュ大佐はお休みだからー。」

 お水飲む?パン食べる?喜々として聞く悠真に李桜は「水を」と言った。サイドテーブルに持ってきたランプを置くと悠真はグラスに水を注いだ。

 「ありがとう。」

 「いーえ。」

 礼を述べる李桜に悠真は得意げに笑う。そのまま悠真は籠から大好物のクロワッサンを手に取り頬張った。暫くその様子を眺め李桜はゆっくりと口を開いた。

 「ねぇ悠真。昨夜のこと・・・。」

 グラスを両手に包み、うつむき加減で話す李桜に悠真はクロワッサンを食べ終えバターのついた指を舐めて答える。

 「今、準備してるから。後で李桜も手伝ってね。」

 「それは勿論!」

 勢いで声量が大きくなる。石積み空間に切羽詰まった李桜の声が反響した。

 「じゃー、休んで元気になってよ。」

 無邪気に悠真が笑う。子供のような笑顔で続けた。

 「夕方迎えにくるから待っててね。」

 安心するよう、悠真は他愛のない笑顔を李桜に向けた。それは悠真の善意をだったはずだが、李桜には異質な笑みに見えた。漠然とした恐怖。「逃げるな」と言われたのかと深読みしてしまった。黙り込む李桜に悠真はハッとなる。

 「李桜ここいや?父様達の部屋に行く?」

 黙り込んだ李桜がこの部屋の居心地に不満を持ったのかと勘違いした悠真は慌てた。その際に腰に差している軍刀が見えた。視線を悠真に戻し李桜は穏やかに微笑んだ。

 「確かに居心地は良くないですけど、悠真が安全を考えて選んだ場所ですから。ここで待ってますよ。

 「うん!」

 何度も頷く悠真に李桜は目を細める。悠真は無邪気だ。ただ、純粋に李桜に喜んでもらいたいだけだ。母親のような存在の李桜に。

 「悠真も寝てないでしょう?少し寝たらどうですか?」

 李桜が自身の太腿を叩く。笑顔で促され悠真はパッと瞳を輝かせた後、すぐに顔を曇らせた。首を振って何かを我慢している。

 「後片付けが残ってるから、今はいい。」

 「そうですか。」

 「あ、でも俺、昨日も頑張ったし、今日も頑張ってるから。」

 一生懸命に話す悠真に李桜はくすっと笑った。一旦断ったが、どうしてもご褒美が欲しい。そんな催促をする子供のように見える。

 「帰ったら悠真の好きな物作りましょうね、何が食べたいですか?」

 「ソイバーグ!」

 「時間かかりますよ。」

 朝からまともに食べていない悠真が李桜にねだったのは好物の大豆のハンバーグだった。

 「待てるー。」

 「では午後もお仕事頑張ってくださいね。」

 「うん、頑張るー。」

 機嫌を良くして部屋を出ていく悠真を見送った後、李桜は目を瞑った。

 執務が多い悠真は普段は軍支給の短銃を携帯している。体術にも優れており数人相手でも負けることはない。准将の地位は実力も伴っているわけで名だけではないのだ。その悠真が軍刀を下げて「後片付け」と言った。回りくどい言い方をしない悠真の言葉は直に受け取ればいい。

 「・・・また、殺したんですね。」

 

 アーベントゾンネ戦で悠真が人を殺せる事を知った。

 最終試験も兼ねた国外での実戦。手柄を立てたいと焦った当時の指揮官が無謀にも新兵の7割を投入した。指揮官が早々に討たれた事でゲリラ戦となり隊の機能は失われた。訓練生は後方支援のはずが、一丁の銃を持たされ戦地に迎えと怒鳴られる。統制が取らず、我先にと保身に走る上官達に見捨てられてしまった。

 

 あの日李桜は夜の森の中、怪我をした同期を引きずっていた。その感触は今も鮮明に覚えている。

 同期の名はジャン。ジャンは腹部に銃弾を受けていたが、まだ息があった。

 (助かるかもしれない、いや助けたい。)

 確信の無い使命感にかられ、李桜は足を動かしていた。あんなにも簡単に人間は死ぬ。腕を飛ばされ、足を飛ばされ。頭が弾ける。体が裂かれ、臓器が露わになる。

 (もうイヤだ。ここは地獄だ。・・・早く隠れないと死んじゃう。)

 泣きながら歯を食いしばり細い腕に力を込めた。見捨てていけたらどんなに楽かとも何度も思ったが、家族の死を、村人の死にずっと苦しんでいる李桜はこれ以上『死』を見続ける事が出来なかった。

 

 「李桜!」

 茂みから現れた悠真の姿に李桜は深緑の瞳を見開き、座り込んだ。名を呼ばれるまで、周囲に気が回ってなかったのだ。

 「・・・ゆう、ま?」

 へたり込んだ李桜に掛けよると悠真は直ぐに李桜の手を握り立ち上がらせる。泥のついた、ぐしゃぐしゃな顔からは表情が抜け落ちているように悠真には見えた。

 「良かった、間に合った!」

 李桜の無事に悠真はホッとした。そして元来た茂みに体を向ける。

 「行こう!一人来てるっ!」

 「ぁ・・。」

 腕を引っ張られ李桜の体が傾く。

 「・・・おい、て、くな。」

 ジャンの腹部からは血が滲み続けている。左足も変に曲がっている。それでも彼は声を絞りだしていた。 小さなうめき声に李桜はゆっくりと視線を落とし振り返る。苦痛に歪み縋る目と合う。

 「・・・助けなきゃ。」

 立ち止まった李桜に悠真は焦った。

 「無理だよ!もう助からない。わかるだろっ!?」

 強い口調の悠真に李桜はもう一度、「助けなきゃ。」と呟いた。眉を寄せ、悠真は顔を歪めた。

 「・・・つれて、って。」

 手を伸ばした同期の名前を悠真は覚えていないが顔は知っている。これまで嫌がらせをしていた奴だ。悠真は李桜の両肩を抑えゆっくりと座らせた。そして倒れている同期の後ろ襟を掴み持ち上げる。


 ーパンッ!


 血肉が飛び散る。李桜の白い頬に脂の混じった血が着く。

 李桜の眼前には紫紺の瞳の無表情な悠真。

 ーパンッ、パンッ

 乾いた音が連続する。静かな森に響く。その度にくぐもった声が聞こえた。3回目の銃撃が途絶えた瞬間。悠真は持っていたモノを投げ捨て、森に向けて銃を向けていた。

 ーパンッ。

 ドサリと何かが奥で倒れる音がした。

 悠真は立ち上がると周りを見渡す。

 「大丈夫みたい。」

 降り注ぐ月光の下で真っ黒な悠真の姿を李桜は瞬きせずに見ていた。

 「李桜、いこっ!」

 いつもように無邪気に微笑み手を伸ばす。

 「・・・ぃや。」

 李桜は恐ろしくて首を振ってしまった。恐怖で拒絶してしまった。まるで、悪魔に、死神に見えた。生臭い鉄の臭いを放って、笑顔を向けている。

 人が死んだ。いや、盾にして殺した。

 その後の事を李桜は覚えていない。気づくと、洞穴の中に悠真と居た。焚いた火を見つめる悠真の横顔はどこか寂しげだった気がする。

 「・・・。」

 それから悠真は李桜に見えないところで隠れて殺すようになってしまった。

 悠真が李桜を守る為に仕方なく行ってしまったことは知っている。それでも当時は怖かった。許せなかった。また、人の死を背負わされたことが。

 「・・・ごめんなさい。」

 まだ本人には言えない。全てが終わってから伝えなければと思う。今はまだ、誰もいない場所で声に出すしか李桜には出来なかった。


 悠真は暗い階段を上がっていた。ランプは李桜の居る部屋に置いてきたので悠真は明かりをもっていない。昼間でも薄暗いこの階段が昔は怖かった事をふと思い出す。

 暗闇の中、どこまでも伸びる先が見えない階段。歩く度に反響する自身の足音が『何かの存在』を増幅させている感覚に足が竦んで、座り込む事も何でもあった。目を瞑って、両手で耳を塞いでいた幼い自身。

 いつまでここに居るのか、なんでここにきたのか。薄く目を開けた先に広がる闇の向こうで『何か』に呼ばれている気がしていた。得体の知れないモノに引き吊り込まれてしまうんじゃないかと思っていた。

 大声で助けを呼びたかったが、震えて声が出なった。誰を呼べばいいのかもわからない。これまで一緒に過ごしていた両親はもう居ない。誰も助けてくれない。

 座り込んだ足元から巨大な鱗に覆われた蛇が蜷局を巻いている。赤い舌を動かし近づいてくる。やがて、視界も喉も締め付けられるような感覚に襲われる。

 死ぬんだと思った。そんな時は意識が途絶える前に光が指すのだ、淡い温かな光が。

 柔らかな温もりに抱かれ、現実に引き戻されてきた。

 


ーぎぃぃ。


 石扉を軽く押すとゆっくりと扉が開いた。室内は陽光で明るかった。大きめの窓から入る日差しに目が慣れるのに数秒かかる。

 陽光を反射している化粧台は主がいない年月を表すよう、埃被っていた。その埃が日差しの中をはらはらと舞っていた。

 幼い頃はここでよく遊んでもらった事を思い出す。

 「あーあ、やっぱ李桜にバレちゃったかなぁ。」

 石扉が閉まると悠真は壁に背を預けた。

 李桜の目線が腰に差した軍刀に向いていたのは気付いていた。アーベントゾンネ戦後から、李桜の前では人を殺さないようにしていたのに。もう、あんな顔で見られたくない。

 (きっと、怖かったんだ。俺が化け物に見えたんだ。)


 ジャンを盾にした後は、李桜を気絶させて川に向かった。李桜が正気を失っていたのは気付いていたのに、眼の前で止めを刺したのは『原因』がジャンにあったからだ。あの頃は李桜を失うのが何よりも怖かった。

 (俺がここが怖かったように、李桜も俺が怖かったんだ。悪いことしちゃた。でも、もう怖がらせない、絶対。)

 「母様、今度は絶対死なせいよ。」

 思い出の中の母は化粧台に腰掛け両手を伸ばし微笑んでいる。

 

 


ーリントエーデル国軍施設 ケルト第二隊執務室


 「今日から大佐復帰すねー。」

 ボヤくヴィントの隣で資料を持ったフェンが「そうですね。」と頷いた。

 「一週間くらい休暇とってもいいと思うんすけどー。」

 「俺は困りますね、業務が停滞しますから。」

 「真面目だねー?今日風俗行く?」

 「行きません!」

 鋭い剣幕で睨まれヴィントはフェンは青春損してるなと思った。  

 「大佐は巡回、准将は会議。少佐も真面目に仕事して下さい。」

 フェンがくどくどと言うが、ヴィントは聞いていない。左から右に聞き流している。

 「じゃ、チビ達と泥遊びしてくるわー。」

 ズボンのポケットに手を突っ込みドアに向かう。そんなヴィントをフェンは呆れながらも見送る事にした。ヴィントが出ていこうとすると、ノックと共にドアが開いた。

 「おい、フェン!」

 ドアから一直線に駆け足で近づいてきたのは幹部養成所でフェンの同期だった咲太郎ーさくたろうーだった。フェンより四十センチ高い咲太郎は自然と中腰の姿勢になる。その気遣いがフェンは心苦しいので自然と目線を合わせようとつま先立ちになった。ちなみにヴィントはうまい具合にドアの死角に入り咲太郎に気づかれていない。

 「一昨日キルシュ大佐と夜間巡回に行った奴ら全員懲罰房に連れて来いってZ1隊から話が来てるんだ。弱者を切り捨てる行為とかなんとか。アドルフ公に報告する前にキルシュ大佐に一言伝えた方が良いと思って。」

 焦っている咲太郎にフェンも困惑する。

 「大佐は今巡回に出てるから直ぐには戻られないよ・・・。」

 「っていうか意味わかんなくないっすか?俺らZ隊とはなぁーんも関係ないじゃん?しかも付いてった奴らが懲罰?まずは指揮官に文句言うべきだと思うんだけどねぇ?」

 背後からの声に咲太郎は巨体をビクつかせた。

 「ヴィント少佐!?何故ここに?!」

 「いや、最初からいたんだけど。それで他はなんて?」

 ポリポリと癖っ毛の頭を掻くヴィントに咲太郎は続けた。

 「国軍広報はZ1隊長のギルマン中将が行っているから国民には手を出すなと。」

 「は?だから他の部隊に口だしする?貴族だか中堅軍人だか知らないすっけどマジムカつく。てっか、広報って何?あの誰も聞いてないくっそつまらない話?つーか、俺らの仕事が国内警備じゃなかったけ?Z隊は王に捧げる贄を用意するーってか?」

 嫌悪感をむき出し感情的にヴィントが矢継ぎ早に話しだした。不敬罪に問われそうな言葉のチョイスも怒りからだ。

 ヴィントの気持ちはわかないでもないが他部隊の上官、しかも貴族の事を口にする勇気はフェンにはなかった。

 「大佐に直接言えない卑怯者なんだからほっとけばいーっすよ。大佐が出向けば黙るしょっ。命欲しさに。」

 ケッと苛立ちを隠さないヴィントに二人は黙るしかなかった。

 「終わったよーぉお?」

 開いたドアから声を掛けたのはノービリス准将だった。シャツのボタンを開け、着崩した格好。手にしているのは会議の資料のようだ。

 「お疲れ様です、ノービリス准将。」

 さっとフェンと咲太郎が敬礼する。

 「准将ー。Z隊がいちゃもんつけてるみたいっすよー。」

 フェンは会議資料を准将から受けると資料を確認した。機密事項の書類でさえ、落書きや涎がついていたりと扱いが雑なのだ。案の定、書類に皺が寄っている事に気付いたフェンは皺を伸ばす。

 「うん。会議前に俺も言われたよ。だから片付けた。あとヴィントー?あんまり悪口言うとキルシュ大佐に怒られちゃうよー?」

 「うげっ?!ノービリス准将。キルシュ大佐には絶対黙っててくださいよ?ってか准将が処理したならこの件はおわりっすね。お疲れーっす。」

 「うん。もう終わり。ほら早く皆仕事に戻ってー。」

 ノービリス准将が掌を叩く。その合図で全員が各自の持ち場に戻って行った。ヴィントと咲太郎を見送り悠真も事務室を出た。かちゃんと腰に吊るした軍刀の鎖が鳴った。


 

ーリントエーデル国 城下町


 『下層民を兵力で追い出そうとした残忍な大佐』

 そんな陰口を叩かれてもキルシュ大佐は巡回をやめなかった。

 新兵だけに任せてしまえば、彼らの心労も減るだろうと嘲笑う輩もいた。李桜とて部下たちの報告を信じて無いわけではないがどうしても自身の目で市民の現状を見ておきたいのだ。

 無表情に歩き、眼鏡の奥から世界を睨みつけ進む。人々は皆左右に避けて道を開けていた。

 路地裏に住む者たちは軍服を見ると直ぐに隠れた。壁や窓の隙間から向けられる憎悪をキルシュ大佐は全身で受け止めていた。新兵たちは無言でキルシュ大佐の後ろを歩く。軍靴が石畳を蹴る音が嫌に鼓膜に響いた。

 大通りを抜け、路地を右に左にと何度か曲がった先で新兵の一人が異臭に鼻を押さえた。

 「・・・臭い。」

 湿った空気に混じる腐臭。薄暗がりの先の原因に李桜は気づいた。何度も嗅いだ事のあるのだ。臭いの先に足を向けると

 『その先に行っちゃダメ。』

 悠真に手を掴まれ引き止められる。

 「・・・キルシュ大佐?」

 急にたち止まった李桜に背後の部下が声をかけた。呼ばれ李桜は我に返る。悠真の声が聞こえた気がしたのだ。

 「・・・戻りましょう。」

 そう、告げ踵を返したキルシュ大佐の後を新兵二人が付いていく。


 傍にいなくとも悠真の存在を感じてしまうほど繋がってしまった。彼の言葉を信じるしかない。信じて、彼の願いが叶えば自由になれるかもしれない。

 そのくせ思わせぶりな態度を取り彼を困らせている。ぐちゃぐちゃだ、矛盾だらけだ。どっちつかずで被害者ぶりな加害者。庇護欲を掻き立てながら悠真の事を誘導している。

 自分は弱い。弱く醜い人間なのだから。好きになってもらうために振る舞うしか無い。そう、打算的な考えに変わったのはいつだったか。

 死ぬ勇気もないくせ、そういえば彼が護ってくれると言うことを聞いてくれると知っている。ああ、最低なお姫様だ。

 「本当に不浄の者かもしれませんね。」

 キルシュ大佐が浮かべた自嘲は神夜の末裔の巫女姫に向けられていた。


 大通りに出れば相変わらず龍の旗を振り、信者たちが声を上げていた。

 「龍に愛されし、護られし民よ。我らの王を敬え讃えよ。」

 その声が遠くに聞こえる。この国の龍の存在を知り、龍を信じているのは李桜だけだ。そしてきっと龍に愛され、護れているのも。

 「・・・今回は神官様いらしゃったな。」

 「・・・ああ、俺初めてみたよ。すごい十字架だったな。」

 新兵の少年たちがコソコソと小声で話しているのはキルシュ大佐の機嫌を損ねないためだろう。

 「あっちで龍のお言葉が聞けるって!」

 「今日は神官殿も来てるって父さんが言っていたっ!」

 身なりの良い格好の子供たちが大通りに向かい、すれ違う。子供たちは希望に輝いた目をしていた。明るい未来を信じている目だった。

 出会った頃の悠真もそんな瞳をしていた。・・・いや、現在も悠真は純粋な子供のままだ。

 悠真は二面性があるわけではない。世界に無関心だから求めないだけだ。見返りを求めないから助けもしない。そんな悠真が大切にしていたのは母親だ。母親を奪ったこの国の人間は悠真にとって価値のないものだ。そして今母親への気持ちは李桜一人に向けられている。

 しかしそれは李桜一人では抱えきれない。

 だから李桜は沢山の人と関わり救おうと、分け合おうと無意識に動いているのかもしれなかった。そうしなければ、全身を龍に巻き付かれることに慣れてしまい身を委ね堕ちていきそうな自分が恐いと感じるからだ。神の一部になったのだと勘違いし、この国の権力者のように詭弁を弄し他者を惑わせるような狂人になってしまうのではないか不安だった。

 李桜達が去った日の夕方。路地裏で身元不明の太った男の死体が見つかった。

 顔はズタズタにナイフで切り刻まれており、野犬を誘うように臓物は飛び出ていた。太っていることから裕福な出の者と検討がついていたが装飾品、衣服を身につけていなかったことから身分を証明するこは出来ず捜査は打ち切りになった。



ーリントエーデル国 北東の塔 執務室



 今日の雲は面白い形をしている。

 風に流される雲を眺めるのも悠真は好きだ。特に執務の息抜きに眺める景色は。

 管理している北東の塔から北の遊馬山ーゆうまざんーを眺める。同じ名前なので親近感を覚えていた。もっとよく見ようと立ち上がり窓を開けると清々しい空気が室内に入り込む。

 「んまぁーい。」

 深く吸い込むと鼻から、気道を通り抜け肺に入るのを感じる。新鮮な空気が血流に乗って全身に運ばれていくようだ。もう一度吸い込み、思いっきり吐き出す。

 (もうすぐ李桜がこっちにくる。今日は良い物が届いた♪李桜すっごく喜ぶ♪)

 李桜の驚き喜ぶ姿に悠真の気分は上がっていた。

ふと、眼下の広がる森から視線を感じる。

 目を細め見つめた先、木々の葉の隙間から見え隠れしている赤い目。一瞬だが、紫紺と赤い目はお互いを確実に捉えていた。

 風が吹き、葉が揺れた。もう赤い目は覗いていない。

 「ふぅ~ん。」

 怒りを体現したような目をしていた。どうやらこの国は人間以外にも嫌われているようだ。

 人間相手ならば手を打つが人間以外に手を出すのは良くない。他の領域に土足で上がる行為を悠真は好まなかった。人間が地球上で優れている。その考えが嫌いだからだ。命ある全ては老いて死ぬ。その摂理に逆らえば、反動の大きさで死なずとも理性を失うか、永久に苦しむ方が大きいと知っている。

 相手が人間でなければ近いモノに仲介役を頼むしかない。それでも敵意を向けるなら殺せばいい。

 結論は単純なものだ。行動を起こす理由などシンプルなのが一番だ。

 ーカツン

 聞き慣れた軍靴に悠真は表情を輝かせた。扉の前にいくと丁度ノックが3回なった。次にドアノブが回る。

 「おかえり!」

 「きゃっ!?」

 室内の前で待機していた悠真に抱き締められ李桜は驚いて高い声を出してしまった。

 「ちょっと、誰かに見られたら、」

 ズレた眼鏡を直しながら咎める李桜に悠真は「ごめん」と謝っていたが本心では無かった。表情は嬉しさでニコニコしている。まるで飼い主の帰りを待ちわびていた忠犬のようだ。

 そんな悠真に李桜は不思議とホッと安心する。

 「李お、あ、大佐どうしたの?」

 「なんでもありませんよ。」

 微笑んで離れた李桜に悠真は名残惜しそうに眉を寄せたままだ。

 「私が留守中に何か変わりありませんでした?」

 「んーん、あ。」

 「どうしました?」

 李桜は執務机から未処理の書類を纏めた。

 「ちょっと黒竜のとこ行ってくる~。」

 唐突に悠真が言った。書類を纏めていた李桜が顔をあげる。   

 「保護施設に?」

 「うん。なんか黒竜に会いたくなっちゃた~。行ってきまーす。」

 普段通りの間延びした声音で執務室を出ていこうとした悠真を李桜は呼びとめた。

 「施設に行くならこれも。」

 1つの籠を悠真に差し出す。中には色とりどりの飴が入っている。

 「あの子達によろしくね。」

 「うん。」

 お使いよろしく頷いた悠真に李桜は手を振って見送った。



ーリントエーデル国郊外・孤児救済保護施設

 


 「猿ですか?」

 「ええ。菜園を荒らしたり、洗濯物を汚したりと。私達を威嚇したりするんです。奇声を発したり、歯を剥いたりすると怯える子もいて困ってるんです。」

 「なるほど。」

 寮母ーチャンミオーからの近況報告を受け、フェンは内容をメモした。野生動物の被害。確かに見渡せば保護施設の周りは木々が囲っている。

 「フェーン。」

 「ノービリス准将?」

 間延びした呑気な聞き覚えのある声にシャツにノーネクタイの姿。急な上官の来訪にフェンは目を見開いた。チャンミオも慌てて頭を下げる。

 「どうしたんですか?ヴィント少佐でしたら武器庫の点検してますよ。」

 「んーん、黒竜みにきたー。」

 「ああ、黒馬なら厩舎にいます。」

 「じゅんしょーだー!」

 ノービリス准将の姿を見つけた子供たちが駆け寄ってくる。勢い余って悠真の足にぶつかる子もいた。あっという間に悠真は数人の子供に囲まれる形になる。

 「マシュマロちょうだい!」

 手に持った籠を目ざとく見つけた子供たちに悠真はかがんで籠の中身を見せた。

 「今日は飴だよー。」

 「わぁーい。」

 喜び、飛び跳ねる子供たち。フェンはその様子をポカンと見ていた。軍人、しかも将位クラスの者が子供の為に飴を用意しているなんて。

 だが、この上官なら自然に行えると思った。軍人に向いてないとフェンは常々思っている。

 「あー、順番だよ。整列整列。全員の分はちゃんとあるからー。」

 准将の声に子供たちが整列する。外の騒ぎを聞き室内にいた子供達も駆け出してきた。

 「はい、どーぞ。」

 「ありがとー。」

 屈んで籠を向けると中の飴を目を輝かせながら見る子供。色とりどりの飴にどれにしょうか悩む子もいた。

 「ありがとーございます。」

 おさげの女の子が飴のお礼にと悠真の頰にキスをした。キョトンと漆黒を目を丸める。

 「今のちゅう?。」

 「いつもお菓子くれるから。そのお礼。」

 「そっかー、ありがとー。」

 納得した悠真におさげ髪の女の子も笑顔になる。

 「じゃー、わたしも。」

 「ぼくもー。」

 「うちもちゅーするー。」

 飴をもらった子供たちがお礼にと悠真の頰にキスをした。もらっていた子も列に並び直しお礼をするようだ。

 「お礼ならみんなが元気で居てくれることだよ。大佐が一番そう思ってるからね。大佐にもお礼してね。」

 「はぁーい!」

 元気よく返事する子供たちに悠真は「元気ー。」と笑う。

 飴を配り終えると悠真は残った飴をチャンミオに手渡す。

 「いつもお世話ありがとう。」

 「滅相もないです。私はできる事をしているだけ。キルシュ大佐にも宜しくお伝え下さい。」

 チャンミオは籠を受け取ると頭を下げた。

 「ん、わかった。じゃあ黒竜のとこ行ってくるねー。」

 悠真はフェンに声をかけた。

 「こくりゅう?こっちだよー。」

 男の子が悠真の手を取り厩舎に向かう。

 「ノービリス准将じゃありまへんか。」

 保護施設の管理人ーキムシオーが麻袋を抱えやってきた。

 白髪が目立ち始めた中年男性である。

 「それ、出したほうがいいんじゃない?」

 抱えた麻袋を指差す准将にキムシオは慌てる。

 「あきまへんて!ようやく捕まえたんですから!」

 「なになにー?」

 子供たちが駆け寄る。抱えた麻袋の中身が気になるようだ。

 「何が入ってるんですか?」

 フェンも興味を持ってか近づいてくる。

 「菜園荒らしてた犯人や。危ないか近づいたらあかんで。」

 麻袋から出てきたのは口にハンカチを詰められ、手足を縛られた子猿だった。小さな子から悲鳴が上げ、チャンミオに飛びついた。

 「こいつが野菜ダメにしたの?」

 コテンと首を傾げ悠真は不思議そうに聞いた。

 「せやなー。菜園におったし。」

 子猿は呼吸が上手く出来ていないのか唸っている。涙目で助けを求めているように見える。

 「この子猿、どうするんですか?」

 「そら殺しますよ。暫くは木に死体括りつけときます。見せしめに。」

 あっさりとした返答は何気ない日常の会話のようだだったが内容は恐ろしいものだった。ギョッとフェンの吊り目が開く。 

 「みせしめ、ですか・・・?」

 「あいつらにここは危険て知らしめんと。子供らが怪我してからでは遅いでしょう。」

 当然の措置だと言うキムシオの感覚がフェンには理解できない。

 「それはやめた方がいいよ。」

 そう口を挟んだのは悠真だった。フェンとキムシオがノービリス准将を見る。悠真は二人の視線を気に留めず、子猿を抱き上げ手足の縄を解いた。

 「痛かった?ごめんね。」

 そう言って口に詰められたハンカチを取ると小猿は金切り声に近い、叫びを上げた。施設の外中に響いたそれに鳥たちが一斉に空に飛び立つ。

 「親呼んだの?すごいねー。」

 相変わらず、ケタケタ笑いながら悠真は子猿に話しかける。暫くすると二匹の猿が木々の間から姿を見せた。右肩に一五センチ程の細長い古傷がある赤目の大猿と小柄な猿だ。小柄な猿は小さく鳴いた。その声に子猿が答える。どうやら子猿の母猿のようだ。大猿は険しい顔つきで悠真達を睨んでいた。

 「ボスやないですか!」

 キムシオが慌てて武器を探す。その行為を悠真は制した。

 「待って。それじゃあなんの解決にもならないよ。あいつらだって被害者だから。」

 そう言うと悠真は猿に近づいて行く。フェンと子供たちは静かにその様子を見守っていた。

 「はい。怪我してないよ。」

 母猿の前に子猿を連れて行くと母猿は手を伸ばした。悠真の手から離れ子猿は母猿の体にしっかりとしがみつく。二匹は直ぐに木に昇り森に帰っていった。残ったボス猿はじっと悠真を見ている。

 「お前がボスでしょ。もう、ここで悪さしないでくれる?」

 ボス猿に悠真は話しかけた。ボス猿は反応を見せない。

 「野菜なら上手に取れるだろ。めちゃくちゃにしちゃうから喧嘩になっちゃうんだよ。」

 ボス猿が唸り牙を向けた。人間の言葉を理解しているような、憎しみが込められている行動にフェンはたじろぐ。それはその場にいたチャンミオやキムシオも同じだった。ただ、ノービリス准将だけが冷静に立っている。

 「小猿は賢かったよ。お前も賢いだろ。こんな事繰り返してたらどっちかが居なくなるまでやりあうしかない。」

 歯ぐきを見せ低く唸る。体を屈め飛びかかる体制をとっている。

 「ここに居る子達には俺から話すよ。野菜分けてあげてって。とにかく、怪我させることはお互いやめよう。」

 低く唸り、ボス猿は牙を見せ続ける。

 数分、紫紺の瞳を見続けていた赤い目は納得したようにやがて唸るのをやめた。

 「子供たちに怪我させないでね。」

 念を押すように悠真が告げる。ボス猿は威嚇をやめ森に帰っていった。

 「他の猿にも伝えてよー。」

 そう言い、悠真は手を振った。

 「ノービリス准将、逃して良かったんですか?」

 フェンが隣に立ち聞く。悠真はうんと頷く。

 「だって、俺達が悪いからねー。皆もいこっー。」

 それだけを言って悠真は保護施設に足を向けた。聞かなければ詳しくは語らない、それが「ノービリス准将」という男だとフェンは思う。

 玄関前で子供達と話しをしている姿が見えた。多分、猿たちと仲良くするように言っているんだろう。子供たちからの質問に腕を組んで悩む姿も見える。

 「相変わらず、わけわからん人ですわ。」

 ボリボリと頭部を掻きやって来たキムシオは呆れているようだった。

 「准将やから従いますけど、納得できまへんて。」

 その言葉に過剰に反応を見せたのは意外にもチャンミオだった。

 「何言ってのよ、子猿を殺して木に括るなんてあんたがおかしいんだよ、子供達の教育に悪いよ!」

 「何言うてんねん!前はそれで猿ぎょーさん捕まえておったやないか!だいたいやなぁ、ここのはみんな立派な軍人になるんや。猿の死体ごときでギャーギャー抜かしてたら人殺せるか!」

 「まだ十もいってない子供の前で殺す殺す言うんじゃないよ!口が悪い!」

 「あの、喧嘩しないでください。」

 仲裁に入ろうにも身長が150センチのフェンは二人を見上げる形になってしまっている。

 「やめなよ。」

 子供たちに話し終えたのか准将が出てきた。少し、呆れた表情をしている。

 「言葉使い、直した方がいいと俺も思うよ。子供の教育特に心理面に悪いこと大佐が嫌いだから。」

 『大佐』という単語にキムシオが反応した。チャンミオは悠真に頭を下げる。

 「猿には手出さないで様子見て。悪さするようなら俺に直接教えてね。」

 そう言い残し、悠真は厩舎に向かった。

 その後をフェンは追いかけた。

 乱れたYシャツ姿は将位の軍人には見えない。短銃を携帯していないのは子供たちに会いに来たからだろう。フェンは厩舎に向かう道のりで先程から気になっていることを口にした。

 「ノービリス准将、1つ気になった事があるんですが。」

 「なぁに?」

 振り返り返った上官にフェンは続けた。警戒心の無い態度は何でも聞いていいように思える。

 「猿たちが被害者ってどういうことですか?」

 見上げるフェンに悠真はキョトンと漆黒の瞳を丸める。

 「あれ?フェンの時なかったっけ?」

 「何がです?」

 「猿殺す訓練。」

 「え、」

 何気ない会話の中に混ざる狂気。耳を疑う言葉をこの上司は何気ない会話に入れる。その感覚が軍人としての普通だというように。

 「俺たちの時はあったんだよ、実技に。」

 外を歩いているのに、息苦しい。深い海底から酸素を求め浮上しているようにフェンは感じた。濃密な空気が体中に満ちて、膨張している錯覚。なぜこんな風に感じるのか。

 「フェン?フェーン?」

 視界にぬっと出てきたものにフェンが飛び退く

 「うわっ!」

 腰を抜かしたフェンに悠真は中腰で振っていた右手を止めた。

 「立ったまま寝ちゃダメだよー?布団で寝ないとね。」

 場にそぐわない台詞が追い打ちのように体中の力が抜けた。ついには尻もちをついてしまった。


 

 厩舎には黒馬と白馬、二頭の軍馬がいた。安全対策の為にと鉄柵が取り付けられている。

 「黒竜!」

 愛馬の黒馬に悠真が近づくと黒竜は小さく鳴いて悠真の頰を舐めた。

 「あはは、くすぐったいー。」

 悠真を歓迎しているのは黒竜だけではなかった。隣の柵にいた白馬も悠真の背中に鼻を擦り寄せている。

 「アイナもやめてよー。」

 黒馬と白馬に挟まれ、じゃれている姿にあの狂気の姿はない。気のせいだろうとフェンは思うことにした。

 「ありがとうー、黒竜。お前のおかげでボスに会えたよ。」

 黒竜が鼻を鳴らしすり寄る。

 「やっぱ怒ってたね。仕方ないけど。教官だけじゃダメみたい。だからね、お前たちからも言ってね、『子供達に手を出さないで』って。」

 アイナが悠真の頰を舐めた。納得しているようだ。

 「アイナは主人に似て優しいね。猿達も怒ってるから。お互いに干渉しない方がいいかも。」

 難しいねー。と馬に話しかけ上司は笑っていた。フェンはその様子を眺めていた。

 「あ、でもね黒竜。」

 付け足すように続ける。

 「猿達が施設の子に怪我させたら、殺していいから。お前なら殺せるよ。」

 フェンの背中に冷たいものが走った。そう先程感じた恐怖だ。

 「李桜が知ったら悲しむよ。だから、俺達で解決しなきゃ。協力してね、黒竜。アイナも。」

 二頭の額に自身の額を付け悠真は笑っていた。穏やかに笑う姿は動物たちにとって安心感を与えるものだろう。

 「一緒に守ろうね、李桜の守りたいもの。」

 ヒンと二頭が鼻を鳴らす。納得したように何度も悠真の頰を舐めた。

 「やめてってば、くすぐったいぃー。」

 黒馬の信頼表現に悠真はやめてーと笑う。その時、フェンと目があった。その途端、悠真はしまったと思った。フェンの存在を失念していた。

 「フェン!今の話、誰にも言わないで!お願い!」

 両手を合わせ頭を下げた上官にフェンはあと頷いた。上官は安堵の息を漏らす。愛馬に話していた内容は不適切な部分もあったが、特に問題視するようなものではなかった。箝口令を敷くことでもないが、キムシオがいったように何を考えているかわからない人であるのだから仕方ないとフェンは思った。

 「約束だからねー。」

 無邪気に笑い、念を押す。それに「はい」以外の言葉をフェンは返せなかった。



 風呂上がりの李桜は窓際に椅子を置き月を眺めるのが日課だ。ネグリジェを纏い、厚めのバスタオルで長髪を拭き乾かしながら月明かりに照らされる姿は息を飲むほど美しい。もう1つの椅子の背凭れに顎を乗せ悠真は李桜を見ていた。

 昔は風邪を引くかも知れないと心配したが『女性の方が病気に強いんですよ』という言葉に、そうなんだと納得した。詳しい理由は聞かなかったが、これまで李桜が風邪を引いたことは一度もなかったので納得したのだ。

 「オイル取ってくれません?」

 タオルで包むように髪を乾かしていた李桜が呆けている悠真に声をかける。悠真は頷いてテーブルに置かれている小瓶を手に取った。 

 「ありがとう。」

 微笑んで李桜は悠真から小瓶を受け取る。細く白い指で小瓶の蓋を開ける。ふわっと桜の香りが鼻を掠めた。李桜は掌にオイルを馴染めせると髪全体に滑らせるように撫でた。

 男装している李桜ができる唯一の『女性』としての楽しみの1つがヘアケアだった。

 「ジャスミンティー淹れる?」

 「ええ。」

 立ち上がったついでと悠真はお茶の提案をした。李桜が承諾したので悠真は簡易キッチンに向かった。

 一口コンロに薬缶を置き湯を沸かす。その間に戸棚からカップと茶葉を用意する。戸棚にはいくつかの茶葉が几帳面に並んでいる。1つ1つを手に取りラベルを確認しながら悠真はジャスミンの茶葉を探した。


 悠真がジャスミンティーを用意して戻ると李桜は窓を開けて月を見ていた。オイルで艶めく長髪が夜風に揺れる。桜の香りが漂う。 

 (ずっと見ていたい。)

 李桜は女性だ。この姿が本当の李桜だ。

 夜でなければ、俺だけが見れる本当の李桜。

 誰にも見せたくない、俺だけの大切な人。

 「悠真?」

 李桜に呼ばれ悠真は我に変えった。

 「今の李桜、お姫様みたいでとっても綺麗。」

 そう言ってカップを渡すと李桜は目線を合わせずにカップを受け取った。耳まで紅く染めっている。

 「ボーッっと突っ立って見るのやめて下さい。」

 語気を強めて言っているが照れているのがバレバレだった。勿論、恥ずかしがる李桜も悠真は好きだ。

 「本当の事なのにー。」

 間延びして答え、ジャスミンティーを飲む。香りも良いし、口に含んだ温度も適温だ。

 「李桜、美味しい?」

 「とても。」

 カップから口を離し李桜が頷く。悠真は嬉しくなって一気にジャスミンティーを流し込んだ。


 悠真が昇進して買った一番高い物はキングサイズのベッドだった。ベッドマットも藍玉国から取り寄せた一級品だ。それも、面倒くさがりの悠真本人がわざわざ休暇を取って下見しにいくほどだった。

 物欲がなく、身なりも気にしない。一日中外の景色を眺めて過ごすことなんてザラにあったりする悠真が唯一欲しがったモノ。購入時には李桜に確認もしていたお気に入りだ。ついでだとタオルケットもこだわったが蹴飛ばすので意味はなかった。

 そのお気に入りベッドの定位置は決まっている。窓の下は李桜の定位置なので必然的に李桜が先に布団に入る形になる。悠真が窓側に寝るのは強風や大雨の時くらいだ。

 今夜も月が煌々と白い光を放っている。その柔らかな光を薄いカーテンで遮る。

 「悠真寝ますよ~。」

 「うん。」

 いそいそとベッドに入る悠真は上機嫌だ。ジャスミンティーを褒められたことがよほど嬉しかったらしい。これから寝るのにあまりよろしくないテンションだ。

 少しでも落ち着くように李桜は悠真の頭をなでた。気持ちよさに悠真は目を閉じた。

 出逢った時から不眠症の悠真を寝かしつける為に隣で寝ていたのが大人になった現在も続いている。

 「カップも洗ったよ。」

 撫でられる体温に悠真はくすぐったそうに笑う。つられて李桜も微笑んだ。

 「ありがとう。悠真」

 慈愛に満ちた微笑に悠真は保護施設の女の子を思い出した。

 「ねー李桜。」

 「なんです?」

 互いに横になると決まって李桜が頭1つ分高い。上目に李桜を見上げる悠真が李桜には更に幼く見えていた。だから油断していた。

 「俺、お礼はちゅーがいい。」

 言うが早いか。李桜が唇に、互いの唇が触れたのだと気付いた時には悠真は離れていた。

 「今日教えてもらったんだー。楽しいね。」

 キスをして満足した悠真は普段通り李桜の柔らかな弾力の胸に顔を埋める。

 「おやすみー。」

 深く息を吸い込んだ悠真はものの数秒で寝落ちた。

 「な、なにして。」

 今夜は李桜の方が眠れないと思った。急にこういう事を躊躇なく仕掛けてくるから質が悪いと思う。とりあえずは中途半端な知識だけは持ってくるなと内心で叫んだ。心臓がバクバクと動いている。胸にすり寄っている悠真には聞こえているんじゃないかと視線を落とすと悠真はスウスウと規則正しく寝息を立てている。それが無性に腹正しくて李桜は思いっきり悠真を抱き締めた。

 ぐぇっとカエルのように悠真が鳴いた。

 

 

 数日先の未来が瞼の裏に広がる。

 風も吹かない静寂の中。警備兵が夜闇に倒れた。数人の男たちがその脇を通り抜ける。

 集落では松明が燃えていた。その一角、レンガ作りの建物の中に居る、数人の泣き崩れる女性たち。それを淫靡に見下ろす男たち。ランプの明かりに照らされる龍の腕章。

 入り口に一人の男が慌てて入ってくる。まくしたてている、男たちが慌てて外に出る。首が跳ねられた。体が裂かれた。血飛沫が飛ぶ。女性たちが身を寄せ合っている。暗闇からランプが灯す明かりの中に誰かが歩いてくる。靴が視えた、足が視えた、胸もとが、腕が、視える。

 顔が視える距離まであと、少し。

 白い靄が視界を遮る、暗転。


 「ダメだ~。」

 書類を投げ散らかし、執務机に突っ伏す。床にばら撒かれた書類を拾い纏めキルシュ大佐はため息をついた。

 「機密文書は丁寧に扱いなさい。」

 「だって、霞んでるんだもん。」

 「霞?」

 聞き返した李桜に悠真は頷く。

 「何が霞んでるんですか?」

 「先。」

 一言で答えた悠真に李桜は首を傾げた。

 「予知できないってことですか?」

 「んーん。視えるけど、霞んで終わるって感じ。視えにくい?初めてだからよくわかんない。」

 なんでだろー?首を傾げては悠真は不思議がっている。『未来予知』は悠真自身だけが実感、体験していることだ。その感覚を説明できる者はいない。一般の感覚なら、「見えていた物が見えずらくなる」のは不安なことだろう。憤りを感じることだろう。そんな様子が悠真からは伺えない事から、あまり深刻な事ではないと李桜は感じた。

 ただ、これまでは未来が視えるからこそ上手く行えていた。未来が視える分、悠真は不安や焦りの感情に慣れていない。不安より恐怖が勝っている。悠真の中の恐怖は『喪失』だ。何より奪われる事に対して敏感なのだ。過剰な攻撃も全てそこに繋がっている。悠真が安心するようにと李桜は悠真を抱き締めた。

 「大丈夫ですよ、大丈夫だから。」

 頭を撫でる李桜を見上げる。掌のぬくもりが伝わる。李桜の鼓動が聞こえる。その瞬間、悠真は幸せだと思う。

 「うん。全部上手くいってるよ。これまでで個々で反乱を起こしていた人たちも新しい指揮官を迎えて1つにまとまったし。これ以上はK2隊を強化する必要もない。」

 笑いながら答える悠真に李桜も微笑む。

 「ねー李桜。」

 「なんです?」

 正直、李桜は悠真とこうして過ごす時間を好んでいる。

 「さらし巻くとナタリー嬢みたいにおっぱいぺったんこだね。」

 にこーと普段のように笑う悠真に李桜の顔が赤くなる。

 「貴方王女に何したんですか!」

 怒鳴った李桜に悠真はきょととしたが本気で李桜が怒っていると察すると首を振って否定した。

 「俺何もしてないよ!あっちがおっぱいくっつけてきたんだよ!」

 必死に訴える悠真は嘘をついていない。教官や同期に無理やり連れて行かれた娼館でさえ、半泣きで逃げ帰ったくらいだ。

 戦場で感じる殺される恐怖と辱めを受ける恐怖は質が違う。当時は力も上手く使いこなせてなかった。近づき体に触れてくる女性は凶器を持っていない。それでも薄笑いを浮かべ触られると何をされるのかと身構える。周りの人間に危害を加えられているわけでもない。殺されそうになっているわけでもないが、どうも居心地が悪い。

 直感的に恐いと感じた。圧倒的な力の差があるわけではない。いくら十五といえど軍事訓練を受けたのだ、負けるわけがないと思う。それでも、あの時の女達は怖かった。母親とも李桜とも違う別の人種だと感じた。艶めかしい、悩ましい女が苦手になった。戻ってきたあとも暫く布団を頭から被っていた。現在も肉食女性は苦手だ。その事があってから必要以上に李桜に甘えるようになったわけだが。

 「それに、おっぱいなら李桜のがいい!おっきいし、やわら、」

 「馬鹿なこと言わないで!」

 「痛い!」

 頭部に走った激痛に悠真は頭を抑える。

 やっぱ、ズレてるー。涙目でブツブツ言う悠真は本当にデリカシーが無い。大体、あそこまで真剣に「おっぱいがいい」なんて言う男はどうかしている。いつまでも引かない頰の熱も煩わしい。

 顔を赤らめ、視線を合わせない李桜に俺悪いことしてないのにと思いながらも悠真は李桜の怒りが鎮まるのを待つことにした。

 「た、大変ですっ!」

 けたたましくドアが叩かれる。

 何事かと李桜がドアノブを回すと息を切らせたフェンが立っていた。

 「フェン、どうしました?」

 「大変なんです、今、伝達が回ってきて、」

 「とにかく落ち着きなさい。」

 執務室にフェンを促すと悠真が水をグラスに入れ持ってきた。それを受け取った李桜は違和感を感じた。

 「ほら、飲みなさい。」

 「ありがとうございます。」

 勢い良く喉に水を流し込むフェンに悠真は「いい飲みっぷりー」と笑った。

 「それでどうしました?」

 口元を袖で拭い、フェンはもう一度「大変なんです!」と言った。

 「Z2隊の宇航(ウーハン)少将が亡くなれたと、それからアドルフ公と連絡がつかないんです!」

 「宇航少将が?」

 眼鏡の奥の瞳が見開かれる。

 「それで、ケルト隊の幹部はノービリス准将しかいなくて、」

 ザフト第2隊の宇航は実質ザフト隊の全指揮を取っていた男だ。

 (軍内でも上位の実力者の彼が死んだ?)

 訝しむ李桜に気づかず、フェンは悠真を急かす。

 「准将、急いで宮殿に。」

 「うん、行ってくる。」

 ジャケットを羽織り悠真は慌てる様子なく、普段通りに執務室を出ていった。悠真が出ていくとフェンは幾分か落ち着きを取り戻していた。

 「すごいですね、あんなに落ち着いているなんて。」

 「・・・そう、ですね。」

 窮屈だと言っているネクタイも締めて、ジャケットも用意していた。それなりに準備していたということは最初から悠真は知っていたのだ。

 (きっと、アドルフ公も既に・・・。)

 複雑な思いで李桜は悠真が出ていったドアを見つめた


ー宮殿内会議室


 急遽開かれた軍議は混沌としていた。

 はじめに告げられたのは宇航の死亡状況だった。

 今朝、北西塔の付近で成人男性の死体が発見された。死体は四肢を食いちぎられ内臓は食い荒らされており、周囲にはカラスが群がり悪臭が漂っていた。近くに龍の刻印が施された懐中時計が落ちていたことから、身元は宇航である可能性が高いと判断されたようだった。詳細を聞いたギルマン中将は青い顔で口元を抑えていた。

 「このような時にアドルフ公不在、コナー大将とも連絡がつかないとは。」

 苦々しく吐き捨てたのは議長であるフリッツ大臣だった。この緊急事態に軍幹部が揃わないといかがなものかと嘆いている。

 「ケルト隊からはノービリス准将一人とはな!」

 議長の苛立ちは最年少のノービリス准将に向けられた。本来、このテーブルには七人の軍幹部が揃うべきだが、議長を含め四人しかいない。

 「あの、南方部隊から物資と応援要請が届いています。いかがいたしますか。」

 オドオドとした態度で話すギルマン中将をジョルダン公が睨見つける。

 「指揮官が居ないのなら誰か変わりが必要だろう。統制が取れない集団など、役に立つものか。教養がない分、どのような愚行を行なうか予測もつかん!」

 首を振り、嘆くフリッツ大臣にジョルダン公が奥歯を噛み締めている。ギルマンは無能だとレッテルを張られたのが気に入らないのか、テーブル下で拳をフルフルと震わせた。

 「ジョルダン公、変わりの者は貴隊にいないのかね?」

 「宇航の代わりとなる優秀な指揮官となりますと、そう簡単には・・・。」

 口ごもるジョルダン公にフリッツ大臣が態とらしいため息を吐いた。

 「ならば。」

 フリッツ大臣の視線がノービリス准将に向いた。

 「現在。私の隊は宮殿周辺の警備と城下町の治安維持の任についています。それにケルト隊が国内軍、ザフト隊が国外軍と言い出したのはジョルダン公だったかと。」

 毅然と言い切るノービリス准将にジョルダン公の額に青筋が浮く。

 「ノービリス准将、口を慎め。」

 ジョルダン公が生意気だと呟いた。顔色を1つも変えないノービリス准将をふてぶてしく、自身の息子よりも若く敬意のない態度が腹ただしい。自身の隊に居たなら直ぐに処刑対象だ。他部隊だからこそ直接手が出せない。

 (忌々しい。こんな若造が一軍を動かす権利があるなど、間違っている。)

 「フリッツ議長、提案があるのですが。」

 「なんだ、ジョルダン公。」

 「アドルフ公が戻るまで、ケルト隊第一部隊の指揮権を私に預けてくれませんか。」

 ジョルダンの提案にフリッツは顎髭を擦り「ふむ」と頷く。

 「ケルト隊第一部隊指揮官であるコナー大将は少数を率いた遠征にでて数ヶ月は戻っていない。国内に残る兵も暇を持て余していることでしょう。」

 饒舌に語り、ジョルダン公は目を細めた。

 「南方地域への応援部隊にはケルト隊第一部隊が向いています。第二部隊は子守りをしているようですので。」

 嘲笑するジョルダン公にノービリス准将は何も言わなかった。ただ、無表情に見返す。

 「確かに南方地域で反乱を止めねば国境まで敵が攻め込んでくるだろう。それで良いな、ノービリス准将。」

 わざと承諾を求めてきた議長にノービリス准将は静かに頷いた。

 「もちろん。第一部隊はこれまでもコナー大将の下で動いていた者ばかりですので。増援には適していると思います。」

 実際には新兵を働かせて賭博に興じていた者ばかりだ。剣や銃を持って気が大きくなっているバカばかりだと悠真は思っている。

 「ただし、」

 言葉を切り悠真は全員の顔を紫紺の瞳に映す。

 「私の第二部隊、養成訓練中の者はこれまで通り全て私の指揮下に置きます。」

 ざわりと部屋の空気が異質に変わる。有無を言わさない気配。無意識にフリッツ達は息を飲んだ。鼓動が脈打つ。

 言葉で屈服させることすら手間だと、存在だけで悠真はフリッツ大臣とジョルダン公の了解を求めた。

 「よかろう。」

 「ありがとうございます。」

 ノービリス准将が礼を述べる。三人は胸を撫で下ろした。さっきのまでの息苦しい感覚は何だったのか、理由はわからない。

 「ではケルト隊第一部隊の移動を勧めてくれ。南方の件はジョルダン公に任せて良いのだな?」

 咳払いしフリッツ大臣が確認する。ジョルダンは大きく頷いた。

 「お任せを。南方への支援はこのギルマンが行います。」

 「え?!」

 急に名を呼ばれたギルマン中将は飛び上がった。何故、自分が指名されたのか、何故自身が戦地に赴かないといけないんだと表情に現れていたが、ジョルダン公が睨むと「おまかせ下さい」と小さな声で承諾した。

 「して、ノービリス准将は国の為に何をしてくれるのかね?」

 肥えているせいか、肉に隠れた細い目を更に細めジョルダン公がニタつく。悠真はそれににこりと好青年の笑みを向けた。

 「引き続き藍玉国との同盟強化、北街道の野犬討伐と宮殿警護を行います。一等兵でもできますから。」




 フェンが保護施設への定期訪問を終えたのは定時十五分前だった。K2隊のは静まり返っており、人の気配は無い。北東の塔の執務室へ向かう途中馴染みの顔を見かける。

 「ヴィント少佐、どうしたんすか。」

 「・・・黄昏ッてるす。」

 「は?」

 常にハイテンションでくせっ毛を揺らしているのに珍しいとフェンは正直に思った。ヴィントは外に向かって溜息吐き続けている。

 「准将ならまだ宮殿すよ。」

 「いえ、俺はキルシュ大佐に。」 

 報告書を抱え直すフェンの姿をヴィントは眺め、また溜息を吐いた。

 「大佐怖がらないのフェンだけっすよ、まじで。」

 「大佐は怖くないですよ。筋通ってますし、「子供に優しい人に悪い人はいない」って死んだばあちゃんがいってました。」

 ムッとして思わず声が大きくなった。ヴィントは気にした様子もなく、夕陽を見ていた。

 「ああ、力入れてっすからね、保護。」

 「どうして大佐は保護施設に拘るんですか。」

 常々から思っていた事を口にする。本人に直接尋ねるのは勇気と根拠がいるので情報集めの為にフェンはヴィントに聞いた。ヴィントなら聞いて無いことでもホイホイと話してくれる。

 「保護施設出身っすからねー。」

 「大佐が?」

 「准将と俺も。」

 「そうだったんですか。」

 フェンは五年前にこの国に移り住んだ。仕事を求めて軍に入ったのだ。

 軍人の詳しい経歴など幹部しかわからない。まして幹部候補生の試験を得て入隊したフェンは養成校卒業者との間に壁を感じて馴染めずにいた。プライベートでの付き合いのある者も数えるほどだ。敬愛する上官、特に大佐の話が聞けるのは大変貴重な事だと思った。

 「まぁ、あの二人の時代は軍人の世話が主だったみたいっすね。二人が大分変えたっすよ、前は施設には女子は居なったし。貴族様経営の娼館か、希少価値あるのはどっかに売られてたっすよ。」

 窓枠に背もたれぼんやりとした表情で話を続けるヴィントは落ち込んでいるのだろう。しかし、話しながらも足を交差させたり、腕を組んだり、ため息を吐いたりと落ち着きはなかった。

 「あの、希少価値って、なんですか?」

 「なんだっけ?星とか月とか、太陽とかの民族の女のこと。結構高額で売れるんだってー。」

 頭の後で手を組み話続けるヴィントにフェンは固まる。それはまるで奴隷売買じゃないか。この国は神に愛された龍の国だと聞いていた。二千年の歴史があり、誰もが幸福になれる国だと。この国の兵士になることは誇り高いものだと思っていた。それなのに、

 「女の人を攫って売ってったってことですよね、酷い。」

 唇を噛んで怒りを滲ませるフェンをヴィントは虚ろげに見やる。

 「酷い、か。」

 ヴィントは呟いたあと、フェンに背を向けた。

 「ま、確かに。泣いて嫌がってた女子供脅して縛って上官に引き渡してたから、酷い事かなー。」

 独り言のように呟いたあと、ヴィントはフェンに振り返る。

 「祖国のためなら顔も知らない連中に手を掛けたりすんのって簡単にできるもんっすよ。」

 逆光でヴィントの表情はフェンには視えなかった。ただ、右耳につけているラピラズリのピアスが陽を浴びてキラリと光った。



 軍議終了後、悠真はケルト隊隊長クラスの軍人を緊急収集した。内容は今後の隊の編成変更についてだ。全員が揃ったとの報告後、ノービリス准将は壇上に上がる。右後にキルシュ大佐が控えた。

 「皆も知っての通り、Z2隊の宇航少将が野犬に襲われ死亡した。ジョルダン公よりK1隊はアドルフ公が戻られるまでギルマン中将の指揮下に入ることになった。K2隊は北街道での野犬駆除を行う。北街道は援助国である藍玉国との唯一の交通経路だ。よって直ちに危険生物の掃討作戦を開始する。」

 隊員たちがざわめく。近くの者同士顔を見合せては眉を寄せていた。

 「静粛に。まだ終わってません。」

李桜が声をだす。静まったのを計らい悠真が続けた。

 「北街道の野犬掃討全指揮はヴィント少佐に。フェン曹長は補佐を。」

 「え?!」

 「はい!」

 名を呼ばれたヴィントが驚きの声をあげる。

フェンは光栄だと目を輝かせた。

 「作戦に適した人材の推薦があれば書類の提出を。以上。」

 簡潔に述べ悠真が話を打ち切った。質疑などくだらないことに時間を裂きたくなかったからだ。

 「ちょっとおかしいと思わないんですか。」

 前列から抗議の声が聞こえた。

 第一部隊の小隊長努めている男が噛み付く態度。李桜は悠真に視線を送る。悠真は肩を竦めた。

 「俺達はアドルフ公の配下だ。何故ジョルダン公の下にしかも口だけのギルマンの下につかないといけない?指揮官が戻るまで待機するの筋だろう!」

 語尾を強めた小隊長に他の者が賛同の声を上げた。拳を振り上げる者もいる。やれやれと悠真は首を振った。K1隊は全員が悠真と一回り以上の歳が離れていた。年下の悠真の指示に従う訳がないのだ。妬んでいるものさえいる。

 「これは軍の決定です。上の指示に背くならば処罰の対象になります。」

 壇上よりキルシュ大佐が冷たく言い放つ。小隊長はぐっと唇を噛んだ。

 「うるせーんだよ、偉そうにいってんじゃねぇ!体でのし上がった男女が!」

 ざわっと空気が震えた。変化を肌で感じ取ったあとのキルシュ大佐の行動は早かった。軽々と身を舞わせ発言した小隊長の前に立ち軍刀を喉仏に向ける。

 「!」

 皮膚から感じる冷たい感触に小隊長は顎を上げて一滴の汗を垂らした。眼鏡のレンズが反射して、冷たく見下ろす視線にガチガチと歯を鳴らしている。

 「そんな事実はありません。貶めるならもう少し捻った噂流して下さい。ああ、どこかで見た顔だと思ったら以前城下町でお会いしましたか。まだ在籍してたんですね。」

 傷をつけた箇所をなぞるよう首筋に当てた刃先を動かす。青ざめていく男に李桜は嘆息する。カタカタと足が震えている。

 「この者を懲罰房に連行しなさい。」

 近くの兵士に声を掛けるが誰一人として動かない。仕方なく李桜は門番をしていたK2隊の新人兵を呼んだ。二人の兵士が小隊長の左右から近づき、腕をつかもうと触れる。

 「くそがぁ、調子乗るんじゃねえ!」

 少年兵を振りほどき小隊長が李桜にナイフを振り上げる。


ーパンッ


 振り下ろすより先にナイフが地面に落ちた。

その柄、刃先に滴る赤い血。

 李桜の眼前で呻きながら小隊長が地面に座り込んだ。

 ハッと李桜は壇上を振り返った。壇上には硝煙を燻らせた向こうに悠真が立っていた。無表情に紫紺の瞳で見下ろしている。

 「大佐に何向けてんだよお前。」

 銃口を降ろさずに悠真は続ける。

 「懲罰房じゃなくて軍医のとこに連れてって。もう、右手は使えないけど。」

 その言葉が合図のように新兵が動き出した。二人では抱えられないようで近くの兵士が肩を貸し、医務室に連れて行く。

 「じゃ、解散。」

 そう言ってノービリス准将は銃を閉まった。他の者も皆動き出した。李桜はただ呆然と血のついたナイフに視線を落としていた。そして、点々と続く赤い斑点を深碧の瞳で追う。

 悠真の銃の腕前なら軍刀だけを狙うこともできる。それなのに悠真はわざと手首を狙ったのだ、利き手を潰すために。

 「キルシュ大佐大丈夫ですか?」

 フェンが不安げに李桜に駆け寄る。ええ、と李桜は頷いた。




 執務室の窓から月明かりが入る。イカれた小隊長の蛮行から四時間程が経過していた。

 「K1隊からZ隊への移動終了しました。小隊長不在ですが、あちらで再編成行うとのことでしたので問題ありません。それと、」

 一息おき、キルシュ大佐が続ける。

 「野心がある新兵は皆ジョルダン公の部隊にZ隊に志願すると異動希望がありました。K2隊の残員は80名です。」

 理想掲げ、国の為と訴える兵士は野心家だろう。訓練兵時代に教官に余計なことでも吹き込まれたのかと思うと気の毒だ。

 月明かりに照らされた李桜の横顔はどこかやるせなかった。

 「ふ~ん。」

 興味なさげに返答した悠真の隣に李桜が立つ。

 「外に兵力持ってっても意味ないけど、ま、それが現王のやり方だし。」

 前王は無用な争いを避けるために、敵が大きくならないよう、和解行動を基本にしていた。最小の兵力で最大の自衛を行うことを目的に。すぐに負傷兵の手当ができるよう、医療衛生に力をいれていたのだ。現在は高度な医療技術は貴族が独占している。優秀な医者は国外に出てしまった。国に残ったのは金に目がくらんだヤブ医者と祈祷師くらいだ。

 「ま、自分で選択したなら死んでも文句ないよね。」

 李桜は何も言わなかった。戦地に赴けば命を落とすことがあるのは軍人ならば理解しているのだ。それでも漠然と『自分は死なない』と誰もが思っている。神の御使いである龍に護られているのだから安全だと。無事に帰って来るのだと。だから褒美を用意しろと言っているのだ。疑いようのない、輝かしい未来があるのだと。そう信じている者に「行けば必ず死にますよ」などどうして言えようか。

 「まずは北街道の安全が先だね。」

 にこりと無邪気に笑う悠真に李桜は「そうですね」と力なく返した。

 李桜がこれまでの人生で学んできた、形成している自身のアイデンティティが崩れていく。平等などこの世界には存在しない。世界は相反して成り立っているのだ。

 月が雲から顔を出した。室内に青い光が灯る。

 「月もこんなに輝いている。神夜様の加護がありますように。」

 微笑む李桜に悠真が笑った。

 「月のお姫様が居るから心配ないよ!」

 純粋無垢な悠真の笑顔に李桜も微笑む。その笑みに悠真は李桜を抱きしめた。抱き締める腕に力を込め李桜の甘い匂いを深く吸い込む。夜の気配が満ちる中で窓から月が覗いていた。

 

 淡い月光が悠真の昔の記憶を呼び覚ます。白く、煌めいている柔らかな光が導く。

悠真は母と一緒に砂遊びをしたことがある。南の珍しい砂だと母が言っていた。白く、キラキラとした砂だった。綺麗で触り心地が良かったから悠真はとても気に入った。ずっと触っていたいし、ずっとキラキラをみていたかった。父にも見せたくて小さな両手に山盛りに掬った。しかし、砂はサラサラと悠真の手をすり抜け落ちて行く。何度掬っても山盛りにならないのだ。

父にも沢山のキラキラの砂を見せたい。そう母に言うと母は「欲張りね」と笑った。掬える分だけでいいでしょうという母に悠真は絶対に沢山見せたいと譲らなかった。

「悠真の手では沢山は無理だから、一番見せたいのだけを掬って持っていきましょう。」

そう言って母は貝殻のある場所を指さした。

砂に混ざる大きな貝殻を小さな両手で掬う。手の中にある貝殻に悠真の漆黒が輝く。山盛りの砂より、貝殻と一緒の方が砂も輝いているように見えたのだ。とても嬉しかった。父にも見せた。父も喜んでくれた。その時に知ったのだ、沢山のものを自身の手では持てないのだと。大切なものは1つだけでいいのだと。

 「俺の大切なのは李桜だけだよ。」

 返事はなかったが悠真は満足だった。

 李桜が飾っていたプリムローズは既に悠真の机には無かった。

 

 

 リントエーデル国南方は見晴らしの良いリーヴ草原が広がっている。

夜の中を一匹の鷹が悠々に飛んでいる。いくつかある小高い丘に隠れるよう3つの天幕が張られていた。

 その1つに明かりが灯っている。その中で2つの人影が揺れた。

「リントエーデル国に進行するには東西南北の門のどちらかをこじ開ける必要がある。」

天幕のランプの明かりの下で地図を広げるのは三白眼の青年だった。髪を刈り上げ、着流しを着ている。

「我々が攻めているのは南門ですよね?」

白い服を着た少年が現在地を白い指で差し確認した。着流しの青年が答える。

「ああ。南門は草原が広がってるおかげで数を見せつけるにはよいからな。」

「北門はチェルノが見張ってくれています。西門は直ぐ側に川が流れてますから少人数なら突破できます。」

 「いや、この川の流れは急だ。それに深さもあるからな。危険だ。残るは東門だが。提供者からの情報だと東門は現在使用されていないようだ。門も雨風で廃れているようだな。整備もされてなく、周辺は草木が生い茂ってるらしい。それなら、潜入には向いてるだろう。」


 ーぱちっ


 見慣れた木目の天井を暫く眺める。会話まで聞こえるなんて久しぶりだと悠真は思う。ただ、この夢が正しいのか悠真は確信が持てなかった。反乱軍のリーダーは東洋の人間。それは自信がある。ただ、もう一人は誰だろう。思考に靄がかかる、まるで雲が月を隠すように。

 カーテンが揺れ、朝光が顔に当たる。もう、起きないと行けない。そう、頭でわかっているのに体が懈い。この感覚も久しぶりだった。

 「李桜?」

 隣で寝ている李桜の姿がない。シーツを触る。ひんやりとしていることから李桜が起き出してから大分時間が経っているとわかる。

 寝室からすぐのリビングには朝食が用意されていた。ツナサンドと野菜ジュースだった。

 洗顔してから食べようかな、今食べようかな。暫くツナサンドを眺め、無意識の欠伸に口が開き掛けた瞬間、背後に気配を感じた。

 短銃を手にすると悠真はドアを音もなく開け、勢いよく廊下に出た。ドア前に居た人影が急な体当たりに激しく壁にぶつかる。

 「ぐっ!」

 自身と壁に挟まれた人物に悠真は漆黒を丸めた。見覚えがある、青いくせっ毛。

 「ヴイント?何してんの?」

 喉を抑えていた右腕を下ろすとヴィントはムセ込みながら悠真に視線を向ける。

 「げほ、大佐に、准将、起こして来いって

。」

 「そっか、ごめん。」

 普段と変わらない口調で「平気?」と悠真が続ける。ヴィントは「うっす」と答えた。ヴィントの呼吸が整ったところで悠真は室内に戻るため背を向けた。

 「准将!話があるっす!」

 思わず手を伸ばしてヴィントは悠真の右手を掴んでいた。

 「なに?」

 「ぁ。」

 ヴィントの手から力が抜ける。振り向いた男は自身が知っている男ではない。無表情に見下ろす紫紺の瞳。

 「急ぎ?俺まだ準備もしてないし、ご飯も今からなんだけど。」

 抑揚なく淡々と告げる悠真にヴィントは言葉を続けることが出来なかった。

 悠真は一瞥すると私室に戻った。残されたヴィントは肩で息をしていた。心臓がバクバクと脈打っている。鼓動がうるさい。血液が沸騰しているように体が熱い。

 戦場でも感じた事がない、直感で『逃げろ』と本能が警鐘を鳴らしている。けれど、逃げたくなかった。ヴィントは唇を噛んだ。薄い皮膚が切れて血が滲み出た。

 「ノービリス准将、野犬討伐任務での指揮官、辞退します!」

 ドアに向かって大声を張り上げる。古い建物だ。壁は薄い。きっと聞こえているはずだ。

 緊張で汗が顎を伝い流れる。

 足音とともにドアノブが回る。ヴィントは直立不動のまま前を見据えた。

「ふぁんふぇ?」

 ツナサンドをくわえドアを開けた悠真にヴィントは固まったままだ。

 「ふあぁんふぇふぇふぁいふえ。」

 「ツナ、落ちてるっす。」

 「ふう?!」

 両手でツナサンドを口に押し込みもごもごと咀嚼を繰り返す。飲み込むと悠真は「なんでー?」とヴィントに聞いた。

 「なんでって。」

 先程の感じは何だったのか、ただ本当にお腹が空いてイライラしていただけなのか。拍子抜けしたヴィントを悠真は不思議そうに見る。

 「俺には無理っすよ、指揮官なんて。指示ある方が動きやすいっす。それに今は国に残りたいっす。だから、宮殿警護に。」

 「ダメだよ。」

 ヴィントが言い終わる前に悠真は言葉を被せた。即座に却下されたことが腹ただしく感情に任せて大声がでた。

 「だから、何で俺なんすっか?!俺なんかよりマシな奴沢山いるじゃないっすか?!」

 上官に歯向かうなんて懲罰房行き確定だ。頭でわかっているのにどうにも止まらない。激情が突き進む。

 「俺がヴィントになら任せられるって思ったからだよ。」

 首を傾げ答える悠真にヴィントは藤色の猫目を見開く。何がおかしいのかと純粋に本気で思っている目をしている上官を見上げる。

 「ヴィントは人望あるし。強いし頭もいいし。観察眼も判断力もある。チビ達の面倒見もいい。」

 悠真の評価にヴィントは更に驚いた。こうも自身を高評価していてくれたとは思ってなかった。

 「俺、初めて准将がまともに喋ってるの聞いた気がするっすよ。」

 はにかんだヴィントに悠真はきょとんとした。

 「お国の為にやってみるっす。」

 「うん、お願い。」

 承諾したヴィントに悠真も笑顔で答えた。

 「なんか、スッキリしたっす。キルシュ大佐とフェンも討伐準備してますから俺もしてくるっす。人選もあるし。」

 敬礼し、踵を返すヴィントのラピスラズリのピアスが蛍光灯に反射する。

 「じゃ、あとでねー。」

 手を振る悠真にヴィントも手を振った。このやり取りが悠真は好きだ。上司と部下なのだから境界線を引けと李桜に注意されるがそれでも気が楽だし、今のままの関係性で良いと感じる。『今は』だ。

 「なぁーんか変な感じがする。」

 確証のない、予感みたいなものだ。最近は予知もズレているし気のせいだろう。それよりも朝食の途中だし、出勤支度もしなければ李桜にどやされる。悠真は私室に戻るとバタバタと準備を始めた。

 


 軍施設の事務室でフェンは昨日決まった作戦準備のため資料を集めていた。古びたソファには敬愛している上官が地図を眺めていた。長髪の黒髪。顔を隠す銀縁眼鏡と長めの前髪。資料を眺める時、必ず左耳に髪をかけていた。線の細い中性美人。だがその性格は残虐で彼の参加した作戦では死亡者の数が圧倒的多い。上層部でさえ煙たがる存在。訓練生の頃よりその残忍さがあったと聞く。『ナイフで同期を刺した』『村人全員を殺した』等、常人ではないと言われている。

 それは嘘だとフェンは感じていた。とても人を殺しているように見えない。けれどフェンは自分に他人を見る目がないと知っていた。

 のんびり屋でキャイキャイとはしゃぐあの二人の上官でさえ、何人も殺してきたと言っていた。その証の階級だと。ならば、目の前にいる上官も『大佐』という階級上それなりに殺して来たのかも知れない。自身の『曹長』など、幹部養成を修了すれば誰でも受けれる階級なのだ。

 「フェン?」

 「はい?!」

 名を呼ばれビクつく。つい先日も上官の前で呆けたばかりだ。

 「珍しいですね。考え事ですか?」

 咎める事をせず、気遣う言葉をかける上官。気にかけてくれている。それに高圧的に無理に聞き出そうとはせず、言い出すまで待っている。その気持に答えようとフェンは口を開いた。ただ、自身の顔を見られたくなくて書棚に体を向ける。資料探しを再開させながら口を開いた。

 「実は野犬討伐の任に選ばれた時、正直ホッとしたんですよね。」

 作戦準備の為、地図を広げていた李桜にフェンはそう漏らした。

 「あの、情けない話ですが。自分、戦うのが恐かったんです。」

 書棚から数冊の本を取りながらフェンが続ける。李桜はそんなフェンの背中を黙って見ていた

 「ノービリス准将やヴィント少佐のような体格じゃないし、キルシュ大佐みたいにナイフ術に優れてるわけでもない。チビで移民だからよく馬鹿にされてたんです。」

 六冊程の書籍を両手で抱えているがその重さに耐えきれずフェンは少しよろめいた。

 「けど、ばあちゃんに『フェンは小さくて可愛いし知恵がある』って言ってて。それで、ばあちゃんに恩返しがしたくて待遇のいい軍に入隊しようと思ったんです。体力には自信なかったから最初から幹部になろうって決めて。何とか、基礎訓練を修了して幹部養成も修了したんですけど、ばあちゃん、その前に死んじゃって。」

 ドサリと地図の横にフェンが纏めた本を置いた。李桜は眼鏡の奥からフェンを見る。

 「ばあちゃんが死んだ時、軍を辞めようと思ったんです。戦地に行くの怖かったし。行ったら絶対自分は死ぬってわかってましたから。けどそんな事考える暇もないくらい、上官二人が仕事しなくて。」

 李桜はクスリと笑った。確かにあの二人を見ているとこちらがしっかりしなくては思ってしまう。

 「でもあの二人は事務仕事をしなくても、立派な軍人です。俺は国の為に子供を攫って売ったり、猿を殺すこともできない。」

 俯き自嘲するフェンの頰を李桜は軽く叩いた。

 左頬を抑えフェンが目を丸くする。情けない事を口走ったと気づく。

 「軍人のすべき事は武器を手に戦う事だけではありませんよ。」

 眼鏡の奥の深碧が揺れている。

 「自軍を守る頭がなければ機能しません。敵国との交渉術や損害を最小限に抑える作戦も必要です。力任せに挑んでは敵の思うツボ。時には逃げることも必要です。引き際を見極める確かな決断力、部下を纏め安全を確保する統率力。どれもこれも必要なことです。」

 フェンの瞳が揺れた。目の前の上官の言葉を理解しょうと必死に頭を回転させる。

 「補佐ってね、地味に見えてとても大変なんですよ。部隊全体を見ながら上官に意見しないといけないですし部下をまとめないといけない。板挟みで擦り切れるんじゃないかって考えるけど、必要なんです。」

 「必要ですか。」

 「ええ、あの二人似てるでしょ?ほっとくと喧嘩に巻きまれてますから。その後始末したり、未然に塞いだり。誰かがやらなくちゃいけない。」

 上官の言葉が想像できてしまい、フェンは吹き出した。気負っていたものも出ていったのか肩の力が抜け軽く感じる。

 「あれでもね、本人達は周りに迷惑を掛けてないつもりなんです。だから何度注意しても聞かない。でも彼らのような考え方も時に必要なんです。確かにヴィントは実戦向きです。でも敵対心が強い。交渉には向いていない。それにあの言葉使いですし。」

 肩を落とし話しを続ける上官にフェンは頷きながら新しい指揮官の話を聞いていた。

 「ヴィントだけでは敵を壊滅させるまで戦うでしょう。怪我人も増える。でもフェン。貴方が交渉すればその被害は抑えられるかもしれない。

 野犬討伐が主ですが、藍玉国からの物流支援での仲介にも入ります。頑張って下さい。」

 「はい。」

 フェンは何度も大きく頷いた。先ほどと違い、自信を取り戻したかのような猫目に李桜も力強く頷き返した。

 「あれぇ?ヴィントまだ来てないのぉ~?」

ノックもなく執務室の扉が開く。顔を出したのは寝癖をつけた悠真だった。

「ヴィントの事いえないですね。」

呆れる李桜に悠真はキョトンとする。ノックする真似をする李桜に悠真は合点がいったような顔になった。


 その後はスムーズに引継ぎ業務が行われヴィントとフェンは北街道の安全確保に向かった。おちゃらけた仕草を見せないヴィントが李桜は少し気にはなっていたが声をかけることはしなかった。直属の上官が二名もおらずの任務に不安がないわけではないだろう。それでも悠真が笑顔で送り出しているのを隣で見て、この子達の安全は確保されたと感じたので李桜も安心した。



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