第42話 熊

 先頭を歩くのはメディル。そこから二、三歩遅れてローナ、ルク、ラーニャの三人が歩き、そこから離れて私とエリズがついて行く。


 前の四人に聞こえない小声で、エリズに尋ねる。



「……で、さっきのはなんだったの?」


「わたしの接近に森がざわついていたようでしたので、わたしはただヴィーシャさんに付いてきただけなのだと示したんです」


「森がざわついてた……? それは、鹿神様に関わること?」


「はい。どうやら、この森全体が鹿神様の縄張りのようでして、森の中の出来事は全て把握しているようです。それで、わたしの接近に警戒していました」


「精霊様が近づくと、警戒するの?」


「精霊というより、大きな力を持つ存在に警戒していたようです。自分と同等以上の力を持つ存在が、鹿神様には少し怖かったのでしょう」


「……私には全然わからなかった」


「わたしだから気づいたことです。存在のあり方が似ているので、何となくわかるんです」



 普段は、エリズが精霊様であることさえ忘れがち。しかし、人と異なる面はあるようだ。



「それで、なんでキスする必要があったの? 私の付き添いと示すためってどういうこと?」


「そのままの意味ですよ。鹿神様やこの森に何かするために来たのではなく、夫婦としてヴィーシャさんの隣にいるだけだと示したんです。鹿神様も納得してくれたようで、妙なざわつきはなくなりました」


「私たちは夫婦じゃ……まぁ、それはいい。ちなみに、エリズは鹿神様と会話ができていたってこと?」


「うーん、会話ではないですね。なんとなーく心を通わせていたという感じです。たぶん、人には理解できない感覚でしょう」


「……そう。だいたい状況はわかった。ちなみに、エリズが呼びかけたら鹿神様は姿を現す?」


「それはないですね。わたしとは縁のない存在です。敵か否かの判断はしたものの、それ以外でわたしに関心はありません」


「そう。なら、あとはメディル次第か」


「ですね。……ただ、わたしが思い切りこの森を破壊しようとすれば、鹿神様がわたしを排除するために姿を現すかもしれません。やってみます?」


「やめて。そういうのは望んでない」


「ですよね。では……このまま二人きりで森をさまよっちゃいます? 案外、そうした方が鹿神様に会えるかもしれませんよ?」


「今日はメディルについていくよ。今日会えなかったら、エリズと二人で探し回ることもあるかもね」


「うーん、早く鹿神様に会ってみたいような、ヴィーシャさんと一緒に森の散歩を楽しみたいような……複雑です」



 とりあえず、キスの意味は理解した。たぶん、必要なことだっただろうとも思う。


 それはそうとして……この森に、やはり蒼幻そうげんの鹿がいるのか。


 今更ながら緊張してきた。昔から密かに憧れていた存在に、会えるかもしれない。


 会えたからって、何が起きるわけでもない。鹿神様は、人間に対して何か特別な施しをしてくれるわけじゃない。それでも、一目見ることができたらいいと思う。


 鹿神様に思いを馳せつつ、前の四人に追いつく。


 それから、歩き続けることしばし。


 森の途中で、大きな熊に遭遇した。



「うぇっ!? 熊!?」



 思わず声を上げてしまった。


 焦げ茶色の毛に覆われた巨体。四足歩行をしているのでわかりづらいが、体高も私の二倍くらいありそう。戦闘能力の低い私からすると、十分に脅威だ。


 しかし、熊よりもよほど危険な魔物と日夜戦っているローナ、ルク、ラーニャは至って冷静。武器を構えて、そこでメディルにとめられる。



「ダメ! 戦おうとしないで! こっちから何もしなければ、向こうからも何もしてこない!」



 森に入る前から聞かされていたこと。しかし、実際に野生の熊に遭遇すると、警戒せずにはいられない。


 ただ一人、メディルだけはトコトコと熊の前に歩いていき、和やかに挨拶。



「こんにちは。今日も鹿神様に会いに来たの。少しだけ森にお邪魔させてもらうね。後ろの五人は、ただ鹿神様に会いに来ただけで、森を脅かすことはないよ。だから安心して」



 人間の言葉がわかるわけではないだろうに、熊はじっとメディルを見つめている。


 敵意はなさそう……。でも、これで熊がメディルに襲いかかったら、メディルの命が危ない。


 本当に大丈夫なのだろうか? いつもこれで乗り切っているからメディルは今も元気に生きているとはわかっていても、ハラハラしてしまう。


 見つめ合うメディルと熊。


 そして、熊はすんすんとメディルの匂いを嗅いだ後、今度はメディルの後ろにいる私たちの方へと歩いてきた。


 ローナ、ルク、ラーニャ……と順に見て、次に私とエリズの前へ。


 じっとしていると、熊は私の前ですんすんと鼻を鳴らす。熊が目の前にいるのは、正直怖い……。


 でも、同時に、ちょっとした願望も芽生える。



「……ねぇ、メディル。この子、触っても大丈夫かな?」


「うん。ただ、急に動いてびっくりさせるとかはしないようにね」


「……うん。わかった」



 ゆっくりと動いて、右手の手袋を取る。それから熊の鼻先に手を持って行く。熊は私に関心を持ち、指先をまたすんすんと嗅いだ。


 熊がかぱりと口を開く。噛みつかれる!? とびっくりしたけれど、熊は私の指先をぺろりと舐めただけだった。分厚い舌に撫でられ、背中が一瞬ゾワゾワした。


 何度か私の指を舐めてから、熊は口を閉じる。もう私には興味をなくしたようだけれど、その頭にゆっくりと手を置く。体毛は思っていたよりもゴワゴワしていて、野生の獣であることを強く意識させられた。


 ただ、私に触れられても熊は嫌がるそぶりは見せず、なんか用か? とばかりに見つめてくる。



「……初めまして。私はヴィーシャ。あなたはとても強そうね」



 私の言葉が通じるわけもなく、熊は私に背を向けて去っていった。



「……野生の熊なんて初めて触った」



 堂々たる姿はかっこよくもあり、あのつぶらな瞳は可愛くもある。


 通常の熊は単なる危険な生き物だけれど、あの熊は側に置いておきたくなる魅力があった。


 ……この森に住めばあの熊といつでも戯れられるのかと思うと、それも悪くないかもしれない、と頭の片隅で考えてしまった。



「……手を洗っておきましょうね」



 遠ざかっていく熊を眺めていたら、エリズが水魔法で私の右手を洗った。熊の唾液が流れ落ちてさっぱりする。



「ありがと。……って、エリズ、なんか機嫌悪い?」


「……ヴィーシャさんが熊さんに惹かれいるようだったので、嫉妬しました」


「いやいや、相手は熊だから。嫉妬とかする相手じゃないって」


「わかってますけどー。でも、ヴィーシャさんが私以外に笑顔を向けると、胸がざわついちゃうんですー」


「……動物相手にまでそんな風にならなくていいでしょうが」


「ヴィーシャさんがわたしと正式に結婚してくれて、愛してるよって毎日言ってくれるなら、多少のことには動じなくなるかもしれませんね」


「はいはい……。それじゃ、もうしばらくそうやってことあるごとに嫉妬してなさい」


「……しばらく、ということは、後々わたしと結婚する意志は固いということですね?」


「いちいち確認しなくていい! 黙ってて!」



 強引に話を切る。エリズから視線を逸らし、メディルたちの方を向いたら……四人とも、見るだけで幸せになれる珍獣でも見たかのような顔をしていた。


 いたたまれない気分になり、ごほんと咳払い。



「そ、それにしても、この森の動物って本当に襲ってこないんだね。不思議ー」



 四人のニヨニヨ顔がうっとうしい。特にラーニャ、何で表情がろくに見えないのに、ニヨニヨしているってわかるんだろうね?


 私からすると嫌な沈黙を破ったのは、メディル。



「だから言ったでしょ? 森に害をなそうとしない限り、森の動物たちに危険はないって」


「うん。あれがたまたまってわけじゃないんだよね?」


「違うよ。ここの動物は皆あんな感じ。だから安心して」


「……わかった」


「それじゃ、このまま進むね。まだまだ先は長いから、頑張って付いてきて!」



 はーい、と五人が返事。


 六人の進行を再会。しかし、メディルが振り返り、にこりと笑いながら言う。



「念のため言っておくと、森の中で恋人同士がイチャつくことは特に問題ないから、安心してね?」


 心底どうでもいい話だった。


 どうでもいいから、私を見つめてニヤニヤするのはやめなさい、メディル。

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