第40話 目の前

 眠る前、エリズは私に後ろから抱きついていたはず。それなのに、朝起きたらエリズが私の前から抱きついていた。


 解せぬ。


 私が寝ている間に何をしたのか、していないのか……。たぶん、変なことはしていないと思う……。エリズが多少強引なのはわかっているけれど、相手の意志を無視して何かをすることはない。



「……エリズ。朝だよ。そろそろ起きて」



 外から小鳥のさえずりが聞こえる。起きて準備を済ませる頃には、メディルも迎えにやってくるだろう。


 起きろー、と声をかけつつ、エリズの後頭部をぺしぺし叩く。


 エリズがもぞもぞと動き出して。



「……わたし、おはようのキスに憧れているのです」


「……あ、そ。憧れてるのはわかったから、早く起きるよ」


「またそんな素っ気ない態度! わたしの心を弄んで楽しむ悪女ですか!」


「そうだよー、悪女だよー、だからさっさと起きてー」


「面倒臭い感を全面に押し出さないでください! 流石に泣きますよ!?」


「はいはい。……もう、エリズっは面倒臭い子だなぁ……」



 エリズを泣かせたいわけではなく、かといって調子に乗らせたくもないので……折衷案として、その額に軽く唇を押し当ててやる。



「……唇にしてくれないんですか?」


「しない」



「むぅ」


「ほら、さっさと離れて。今日はのんびりしてる時間はないの」


「……キスしてくれたらすぐに起きます」


「うるさい。さっさと起きなさい」



 エリズを強引に引きはがす。本気で抵抗されたら私が力負けするのだけれど、エリズは大人しく離れていった。この辺の引き際は心得ている。



「言うこと聞けて偉いねー」



 よしよしと頭を撫でてやる。エリズはふみゅぅと頬を緩ませた。


 そういう幸せそうな表情は……嫌いでは、ないよ。


 朝のささやかな戯れを終わらせて、急ぎ出発の準備を済ませる。


 私とエリズが部屋を出たら、隣の部屋の前にラーニャが立っているのを発見した。



「おはよう、ラーニャ。一人?」


「おはようございます。ローナさんとルクさんは少し遅れます」


「え? また寝坊? ……ラーニャがいたのに?」


「寝坊ではありません。二人ともちゃんと早く起きて……二人きりの時間が欲しそうだったので、中に置いてきました」


「……あ、そう。じゃあ、私たちは先に出ようか」



 早朝ながら、既に宿の店主は起きていて、朝食の準備をしてくれていた。


 それを食べる前に、まずは宿を出て表を確認。



「おはよう、ヴィーシャ! 今日は天気がいいから、きっと鹿神様にも会えるよ!」



 メディルが後頭部で一本にまとめた金髪をピコピコ揺らしながら、明るく挨拶してくれた。朝から元気が良くていいね。


 服装としては、動きやすく、森の中を歩くのに適した長袖などを着ている。背中にはリュックも背負っているので、一日歩くくらいは問題なさそうだ。



「おはよう、メディル。私たちは今から朝食だけど、メディルはもう食べた? もしまだなら一緒にどう? お金はこっちが出すよ」


「ご飯はもう食べてきたよ。大丈夫」


「そう? ……まぁ、外で待たせるのもなんだし、中に入ってよ」



 メディルを中に案内して、宿の一階にある食堂へ。六人掛けのテーブル席に、私、エリズ、ラーニャ、メディルの四人が座る。間もなく五人分の朝食が来たが、メディルの前にはない。当然といえば当然だけれど、少し心苦しいかも。



「あとの二人は?」



 メディルの問いに、ラーニャが答える。



「お取り込み中ですよ。意味深な奴で」


「お取り込み中……?」


「おや、これで伝わりませんか? さてはメディルさん、ウブですね?」


「ウブ? え? 何が?」


「……ふむ。師匠、どうしましょう? メディルにもわかるように説明しても良いものでしょうか?」


「私に訊かれても……。えっと、メディル、あの二人が恋人同士だってのは気づいてた?」


「え? そうなの? あの二人、女同士だよね?」


「うん。そうだよ。ビオナクの町では、同性同士の恋愛は珍しい?」


「うん……。珍しい……」


「もしかして、禁止されてる?」


「ううん。禁止はされてない。でも、同性同士で付き合っているって大々的に公表してる人は見たことないかな……」


「そっか。ここはそういう町なんだね」



 町の雰囲気は良い。ずっと暮らしていくのもいいと思えるくらい。でも、同性同士の恋愛があまり好まれない土地柄なら、私たちには住みにくいかな。



「残念ですが、わたしとヴィーシャさんにとっては住み心地の良くない町かもしれませんね」



 エリズも似たようなことを考えていたようで、ふぅ、と溜息。



「……え? もしかして、ヴィーシャとエリズも恋人同士なの?」


「そうですよ? わたしとヴィーシャさん、ずっと手を繋いでますけど、そういう風に見えませんでした?」


「……仲の良い二人だなとは思ってた。女同士での恋人関係って、全然イメージがなかったから……。あ、もしかして、ローナとルクがお取り込み中って……っ」



 メディルが何かに気づいたらしい。白かった頬がさっと赤く染まる。その様子を、ラーニャが茶化す。



「おや、ちゃんと知識くらいはあるようですね? ウブではあっても無垢ではないようです。お年頃って奴ですね」


「もう! 変なこと言わないで!」



 ラーニャは表情がわからないけれど、たぶんニヤニヤしている。悪戯癖はなかなか治らないかな……。



「……とりあえず、ご飯先に食べよ。二人もすぐに来るでしょ」



 朝食を食べ始めると、メディルが少しばかり物欲しそうな顔をする。朝食を摂ってきたといっても、物足りなかったのかもしれない。



「メディル。これ、食べなよ。ローナたちの分は追加で作ってもらうから」



 余っているパンとスープをメディルの前に移動させる。メディルは一瞬目を輝かせたが、すぐに首を横に振る。



「い、いらないから! メディル、お腹空いてないもん!」


「お腹は空いてなくても、今日は森の中を歩き回ることになるでしょ? 食べられるなら食べておいていいんじゃない?」


「……でも」


「鹿神様の関係で何かをもらうのは嫌? 至極平凡なお礼としてでも?」


「……嫌っていうか、そういうの、ダメだと思うから。メディルにとって、鹿神様は純粋な友達だから」


「……そう。まぁ、気持ちはわからないでもないし、無理強いはしないよ」



 メディルの頑なな態度は、鹿神様に好かれる要因になっているのだろうか?


 鹿神様に会えたら、何かわかるかな?


 私たちが朝食を食べ終わる頃に、ローナとルクがやってきた。二人とも普段より顔が上気している……かもしれない。見なかったことにしよう。



「おやおや、朝から随分とお楽しみのようですね」



 ラーニャが無遠慮に指摘して、ローナとルクがワタワタする。色々と言い訳めいたことを口にするが、聞いている方が恥ずかしくなってくるものだった。



「二人とも、もういいって。……ラーニャも余計なこと言わないでいいの」


「そこをあえてやるのがあたしです!」


「……何を堂々と宣言してるんだか。ほら、二人は早くご飯食べちゃって。そしたら、出発するよ」


「……うん」


「そうですね。早く食べちゃいます」


「ゆっくりどうぞ。そこまで急いじゃいないんだからさ」



 いつも通りののんびりしたムード。神獣様に会うためにやってきたことは確かでも、こういう和やかな時間を過ごしているだけでも、旅に出て良かったと思える。


 会えるかどうかもわからない神獣様より、目の前にいる人たちとの時間が大切。そう思えること自体、きっと幸せなことなのだろう。

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