第33話 狼さん

 私の初恋の相手は……そもそも人間ではない。


 あれはとても美しい狼だった。雪色の毛に青玉せいぎょくの瞳、そして、大人の何倍もある大きな体。木漏れ日が降りしきる中、淡い光をまとっていて、神々しささえ感じた。


 出会ったのは、私の故郷の近くにある平凡な森。そこには特に変わった生き物など生息しておらず、その狼が本来の森の住人ではないことは予想できた。


 後にわかったことだが、やはり別の場所から流れて来て、たまたま私と遭遇したということだった。


 狼と出会ったとき、私は一人で召喚魔法の訓練をしていた。一人きりのときにそんな不思議な狼に出会ったものだから、心底驚いた。


 ただ、その瞳を見た瞬間、狼が危険な存在ではないことがすぐにわかった。その瞳には優しい光が宿り、理知的でもあった。



『怖がらなくていい。私が君に害をなすことはない』



 その言葉が狼から発せられていることに、すぐには気づかなかった。人語を話す人以外の存在がいることは知っていたけれど、実際に目にするのは初めてだった。



『あなたは何者なの?』



 尋ねると、狼は人間みたいな仕草で首を傾げた。



『かつてはただの狼だった。だが、今は狼とは言えない存在になっているらしい』


『どうして、ただの狼ではなくなったの? 誰かの魔法で?』


『わからない。私がただの狼だったときのことを、もう覚えていない』


『そう……。でも、こうして人の言葉を話しているのだから、きっと人が関わっているんだろうね』


『そうかもしれない。そんな気もする』


『あなたの名前は? 私はヴィーシャ』


『名前はない。あったような気もするが、覚えていない』


『そう……。それなら、あなたが名前を思い出すまでは、狼さんって呼ぶことにするよ』



 私が名前を付けるということも考えた。しかし、そうしてしまったら、狼さんが完全に自分の名前を忘れ去ってしまうような気がした。いつか、狼さんが己の名前を思い出せるようにと、私は名付けをしなかった。


 狼さんと出会ったその日は、一日中おしゃべりをして過ごした。狼さんは自分のことや昔のことを覚えていないようだけれど、ここ十年くらいのことはしっかりと覚えていた。


 狼さんは一所に留まることはせず、日々色々な場所を旅していたらしい。


 そして、旅の途中で見聞きしたものを、私にたくさん話してくれた。自分の住む町のこと以外をほとんど知らなかった私には、その話が新鮮で面白かった。


 私が話せる内容は少なくて、自分の町や身近な人のことを話した。おそらくなんの変哲もない話なのに、狼さんはそれを興味深そうに聞いていた。


 人里に行くことはほとんどないので、平凡な日常も狼さんにとっては新鮮だったのかもしれない。


 狼さんとの交流は、それから一ヶ月ほど続いた。


 狼さんのことは、町の誰にも言わなかった。私だけの秘密にしておきたい気持ちもあったし、誰にも話さない方が良いという直感もあった。


 狼さんが何か特殊な存在であることはわかっていて、狼さんが森にいると知れば、良からぬ考えを持つ人も集まってしまうかもしれないと心配になった。


 狼さんとは、本当にたくさんおしゃべりをした。今となっては思い出せないようなくだらない話をして、一緒にたくさん笑い合った。


 召喚魔法の訓練にも付き合ってもらった。訓練はいつも一人でしていたから、隣にいてくれる存在がいたことが嬉しかった。


 狼さんは、相談にも乗ってくれた。例えば、当時の私は召喚士として特別に優れた才能がないことを悔しく思っていて、周りの子たちがドンドン成長していくのを見るのが嫌だった。


 そのことを、狼さんにだけ打ち明けた。他の誰にも言わなかったことだ。


 狼さんは言った。



『己のふがいなさに気落ちすることもあるだろう。しかし、君が幸せになれるかどうかは、優れた才能を持っているかどうかとはあまり関係がないと思う。

 人の営みについて私は疎いが、もし、他人よりも優れていることが幸せだというのなら、世界で最も優れた人でなければ幸せになれないということになる。

 君の父や母は、世界で最も優れた人間だろうか? おそらく、そうではないのだろう。しかし、君の父や母は、決して不幸でもないだろう。君を産み育てている今、きっと幸せでいるのだろう。

 光を宿す君の姿を見ていれば、君を育てている者が、不幸を嘆いているわけではないことくらい、わかる。

 優れた存在であるというのも、一つの幸せの形ではあろう。しかし、それは命の求める全てではない。

 私は、君と共に過ごすのが楽しくて、幸せを感じる。そこに、優れているとか、そうではないとかは関係ない。

 君は、どうだろうか? 君は、私と共にいて、私と同じ気持ちにならないだろうか?

 もし君が、私と同じ気持ちでいるのなら、君は、己のふがいなさを嘆き続ける必要はない。

 君には君の求めるものがあり、それを手に入れるのに、君が誰かと比べて優秀である必要はない』



 全部正確に覚えているわけではないけれど、概ねこんなことを、狼さんは言った。


 狼さんの言葉は、私を縛っていた何かを壊してくれた。


 あのとき以来、私は世界の見方が大きく変わったと思う。


 私は私が本当に望むものを手に入れればいいのだと、思えるようになった。


 狼さんとずっと一緒にいられればいいのに、と思っていたものの、残念ながらお別れのときが来た。


 狼さんさんが、もう森を去ると言い出した。当時はその理由がわからなかったけれど、思い返せば、それは私のためだったのだろう。


 私が狼さんに懐きすぎて、人の中で生きることに支障を来しかねない状況だった。それを狼さんは心配していたのだ。



『ヴィーシャ。君のことは忘れない。君のことだけは、この先何年経とうと忘れない。またいずれ、私たちの運命が交差する日にまみえよう』



 狼さんは鼻先で私の頬を撫でて、どこかへと去っていった。



「……それ以来、狼さんとは会ってない。きっとどこかで生きてはいると思う。ただ、どこにいるかはわからない。

 狼さんと会っているときは気づかなかったけど、私は狼さんのことが好きだった。狼さんと会えなくなってから、私はずっと心に大きな穴が空いたような気分だった。苦しくて、不意に泣いてしまうこともあった。

 ……まぁ、そんな恋心みたいなものも、月日が流れるうちに忘れた。

 でも、狼さんが私にとって大切な存在だってことは変わらない。もし、死ぬまで狼さんに会えなかったとしても、私も狼さんのことは一生忘れない」

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