気にしない方法

増田朋美

気にしない方法

少し寒さも和らいで、どこかで春がくるかなと思われる日であった。まだまだ寒いけれど、春はもうそこまで来ているということだろう。そうなると、また人の流れも活気づいて来るということだと思われる。

その日、杉ちゃんと蘭は、その日は特に刺青のしごともなかったため、遠方にあるデパートでも行くことにして、出かけようとしていると、いきなり蘭の家の玄関のインターフォンが音を立ててなった。

「あれ?今日はお客さんは来ないはずだったんだけどなあ。」

と、蘭が言うと、

「誰か忘れ物でも取りに来たんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うので、蘭はとりあえず玄関先に行って、

「はい、どちら様でしょうか?」

と、聞いてみた。

「あの、すみませんが、伊能蘭先生、いや、彫たつ先生は、いらっしゃいますか?以前、腕の刺青でお世話になりました、増村と申します。随分昔だけど、覚えていらっしゃいませんか?」

小さな声だけど、女性の声である。

「はい、彫たつは僕ですが、なにかありましたでしょうか?」

蘭がもう一度聞くと、

「あの、できれば奥様もご一緒にお願いしてもよろしいでしょうか。誰にも相談できないんですけど、一人で抱え込んでいては、何も解決できないと思いまして。家族に相談できる人もいないし。カウンセラーの先生はお金がかかりすぎるし。それなら、彫師の先生が、なにかあったらすぐうちへ来いとおっしゃっていたのを思い出しまして。」

と、女性は申し訳無さそうに言った。

「申し訳ありませんが、アリスは只今外出しております。あと、一時間くらいしたら、帰ってくると思います。」

蘭がそう言うと、

「そうですか。では、待たせて頂いてもよろしいでしょうか。どうしても、先生と奥様に、相談したいことがありますので。」

と、玄関先でそういう女性に、杉ちゃんがやってきて、

「もうそんなに重大な話だったら、もう誰にでも話しちまえ。はじめから頼むよ。それで、終わりまでちゃんと聞かせてもらう。」

とでかい声で言った。蘭は、

「とにかく寒いですのでお上がりください。」

と言った。するとガチャンとドアを開ける音がして、一人の女性がはいってきた。30代なかばくらいの、結婚しているか、子供がいてもおかしくない年齢の女性だった。

「こんにちは。あの、3年前に、腕にこれを入れていただきました、増村美香です。」

そう言って女性は、ジャージの腕をめくった。確かに、腕にハイビスカスの花模様があって、それは蘭がほったものだということはすぐに分かった。

「とにかく、こちらへお入りください。アリスも、一時間くらいしたら帰ってくると思いますので。」

とりあえず蘭は、美香さんを部屋へ招き入れて、テーブルに座らせて、お茶を出した。

「それで、相談ってなんだよ?」

杉ちゃんが言った。美香さんがあの、この人はというと、

「僕は蘭の親友で影山杉三。杉ちゃんって呼んでね。職業は和裁屋だよ。よろしくね。」

と、杉ちゃんは、でかい声で言った。その言い方が、ヤクザの親分みたいな言い方だったので、美香さんはちょっと、困った顔をした。

「大丈夫です。彼は、言い方はきついけれど、悪い人ではありませんので、気にしないでください。」

と蘭が言うと、彼女は、そうですかといった。

「じゃあ、お前さんの話して見たいことを、ちゃんと話をしてみてくれや。成文化するってことは大事なことだよ。それは、悩みをまとめる事でもあるからね。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、

「そうですね。私は、3歳の女の子がいる母親なんですが。」

と話を切り出した。

「こんな話は、奥様でないとわからないと思うので、ちょっと話出せないのですが。」

「まあ、女の体のことかな。でも一応さ、成文化して、口に出して言ってみるというのも大事だぜ。それなら、練習のつもりで話してみてくれよ。」

と、杉ちゃんがまたいうので、彼女は、そうですねともじもじした感じでそう言い始めた。

「今年から、娘を保育園に預けようとしていて、保育園の体験入学に参加したんです。」

「はあ、それでどうしたの?保育士の先生とでもトラブルか?」

と、杉ちゃんが言った。

「そういうことじゃないんです。」

そういう彼女に、

「じゃあ何だよ。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「ごめんなさい私。」

美香さんは涙を流している。

「そういうことじゃありません。杉ちゃんは、ただ、知りたがりで、あなたの話を聞いてみたいだけなんです。決して悪いようにはしませんから、安心して話してください。」

蘭が美香さんにそう言うと、

「男の方にはわかってもらえないと思うのですが。」

美香さんは、小さな声で言う。

「そういうことなら、宦官でも連れてきたほうが良いのかな?そういうことであれば、男にも女にもわからないと思うんだよね。まずはじめに、あお前さんの悩んでいることを話してくれれば、それで良いじゃないか。」

と、杉ちゃんが言ったため、彼女は申し訳無さそうにこう話しだした。

「実は、子供の一日体験保育のあとに、他のお母さんたちと話をしたんですが、そのときに、一人のお母様が、娘さんを産んだとき、すごい難産で大変だったという話をしたんです。それに、他のお母さんたちも同情して。私は、妊娠中毒症がひどかったので、帝王切開で娘を産んだから、他のお母さんたちから、ずるいと言われてしまったんです。」

「はあ、なるほど。それの何がずるいんだろうね。お母さんになれて娘さんができたことは、すごいことだと思うんだけど?」

杉ちゃんはそう言うが、蘭は、

「まあ確かに、男である僕達には理解できないんでしょうが、それにしても、帝王切開で娘さんを出産したことは今はずるいことなんですか。そんなふうになっているなんて、びっくりしました。」

と正直に感想を言った。

「まだあるんです。ずるいと言われただけではありません。他のお母さんたちも、みんな私の事を、横着しているとか、お母さんにしっかりなれてないのではないかとか、そういうことを言うものですから、私はその時、泣き出してしまいました。あの保育園で他のお母さんと話し合えることはできないかもしれない。自信がなくなってしまったんです。保育園で、他のお母さんとやっていけるかどうか、不安になってしまって。他に気持ちをわかってくれる人がいないので、誰かに相談することもできず、彫師の先生ならわかってくれるかもしれないと思って、今日やって来ました。」

美香さんは涙をこぼして泣き出してしまった。

「いわゆるママカーストとかそういうものですね。まあ確かに放置しておけば、お母さん同士でトラブルに発展することも無いわけじゃないですよね。」

蘭は、美香さんに言った。

「まあ、お前さんを始めとして、女というのは細かいことを気にしすぎてるんだよ。男だったらどうでもいいだろそんなことっていうことをすごく気にする。だから、いじめがおきてしまうんじゃないのかな。だから、もう娘さんの出産のことで、誰かになにか言われたんだったら、娘の顔を見ることができて良かったと言えばそれで良いの。」

杉ちゃんが、そう言うと、美香さんは、はいすみませんといった。涙をボロボロとこぼして、とても辛そうである。

「もしかしたら、精神系の薬とか、そういうのを服用されていますか?」

蘭がそうきくと、

「はい。それを言われてから、急に何もする気がしなくなって、精神科で薬をもらっているんです。」

と、美香さんは答えた。

「もう、それなら答えは唯一つだよ。気にしないで他のお母さんと普通に接すればそれで良いの。そんなの男だろうが女だろうが関係ない、誰でも言えるけど、気にしすぎ。それで、終わりにすればそれで良い。もし、他のお母さんからなにか嫌味を言われても、気にしなくて良いんだぞ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「だったら、そうしないようにするにはどうすれば良いんですか。私は、あの日に、ああして言われてしまってから、もう夜も眠れないのですよ。どうしたら、気にしないでいられるのか教えて下さい。私どう考えてもわからないんです。」

美香さんは、まだ泣いている。

「本当に、気にしなくて良いことを今の女性は、気にしちゃうんだね。気にしないでいるにはどうしたらと言われても困るな。気にしないのが一番としか言いようがないや。」

杉ちゃんがそう言うと、蘭が、

「美香さん、一つ提案があるんですが。」

と言った。

「もしよければ、新しい居場所を見つけてみませんか?そこなら、きっとあなたのことをずるいということは、しないと思いますよ。それくらい人が良くて優しい人達ばかりです。みんな、それぞれつらい思いをしていて、悲しい気持ちを抱えている人ばかりです。そういう人たちと一緒に過ごしてみて、気分を変えてみませんか?」

「ああ、製鉄所に通わせるのね。確かに、悲しい過去を背負っている人もたくさん来てるよね。全く同じ思いを持っているわけでは無いけど、それでも、誰かと話をすることはできるな。」

蘭の話に杉ちゃんもすぐいった。

「製鉄所?」

美香さんがそうきくと、

「ええ。製鉄所という名前ですが、鉄を作るところではありません。居場所がなかったり、心が病んでしまったりする人たちが、仕事や勉強をするための部屋を貸すところです。まあ、公民館みたいなところですかね。もちろん、一緒におしゃべりするだけでも構わないです。どうですか。新しい出会いのためにも、いってみましょうよ。」

蘭はにこやかにそういうことを言った。

「利用者さんたちのプライベートが露呈されると嫌なので、所番地や電話番号は公開していませんが、実際に行くことはできますからね。」

「そうそう。優しい人もいっぱいいるので、楽しんで利用してね。今からいってみない?どうせ僕らも暇人だからさ。バスに乗ってちょっと、旅行してみないか?」

と、杉ちゃんが言ったので、美香さんは、言ってみますと言った。それならばと蘭が、車いす用のタクシーを頼んで、三人はそれに乗り込み、タクシーで、大渕の製鉄所に向かった。製鉄所は、富士山エコトピアと呼ばれている、ゴミの焼却所の近くにある。建物の外観は、豪華な日本旅館のような建物で、たしかに製鉄所という名称はふさわしくない気がする。

杉ちゃんたちは、タクシーの運転手に手伝ってもらってタクシーを降り、製鉄所のインターフォンのない引き戸を開けた。製鉄所の玄関は、上がり框がなかった。そのまま車椅子でもすぐに入れるようになっている。

「おーい、新しい利用者を連れてきたぞ。名前は確か、増村美香さんという。」

と、杉ちゃんは言った。蘭から連絡を受けていた、製鉄所の雑用係として住み込んでいる水穂さんが出てきて、

「新しい利用者さんですか。今日は理事長さんは、大事な会議があって、夕方まで戻らないそうですから、とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いてください。」

と、美香さんを製鉄所へ招き入れた。蘭と杉ちゃんも建物の中に入れてもらった。とりあえず、全員食堂に行って、水穂さんにお茶とお菓子を出してもらった。

「今日は、新しい女性が来たそうですね。どんな人なんだろう?」

と、製鉄所の利用者の女性が二人、食堂にやってきた。

「私達は、ひと月前から、こちらを利用しているんです。図書館でも勉強はできるんですけど、ここにいたほうが、色々教えあえるし、よほど居心地が良いですよ。」

一人目の利用者がそういった。美香さんが、どちらか学校に行ってらっしゃるんですか?と聞くと、

「はい。私達二人は、通信制の高校に通っています。」

と、二人目の利用者が言った。一人目の利用者はまだ若い女性だったが、二人目の利用者は、中年のおばさんだった。まるで親子のような感じの二人である。そういうところからも、二人は間違いなくわけありであった。ふたりとも、ブレザーを身に着けているが、どこかの学校指定のものではなかった。

「そうですか。とても楽しそうですね。なんだか羨ましい。自分のことができて。」

と、美香さんがそう言うと、二人目の利用者が、

「あら、お子さんがいらっしゃるんですか?」

と、美香さんに言った。美香さんは三歳の娘が一人と答えると、

「そうなんですか。かわいい盛りですね。もうそろそろいやいや期になってきて、大変になってくるかな?」

と、二人目の利用者が言った。

「でも、良いじゃないですか。私なんて、お母さんになろうと思っても、できないですから。それはホント羨ましい。だからあたしは、子供を持てない分、勉強で頑張ろうと思っています。」

と、はじめの利用者が言った。そうなのかと思わせる響きがあった。つまり、この利用者は、そういうことなのだろう。女性の体の一部を切除したとか、そういうことなのかもしれない。

「そうなんだ、お母さんになれなくても、なれない人もいるんですね。」

美香さんは小さく呟いた。

「そうよ。だから私、結婚も諦めたの。一時はそれができなくて、すごく荒れた時期があったんだけど、でも、それではいけないと思って立ち直って、なんだかまた勉強したくなって、また始めたわけ。私は、それはできなくなったけど、でも、なにか別の手段で、私のことを後世に残していけるような、そんなことをしたいかな。」

はじめの利用者はそういうことを言っている。

「そうなんだ。そういう方もいらっしゃるんだ、、、。」

美香さんは、小さな声で呟いた。

「だろ。だから、お前さんのことをずるい女だというやつは、大したこと無いんだよ。気にしないと言うことはそう思うことでもあるんだ。だから、誰が幸せになれるかなんて、誰にもわからないさ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。美香さんは、なにか心に思ってくれたようだ。確かに、人にはできる人もいればできない人もいる。何が幸せで、何が不幸なんて、誰が決めることでもない。

「そうよね。あたし、もっと強くならなきゃだめだよね。」

美香さんは、決断したように言った。

「強くなろうなんて思わなくていいです。それより、人には、どうしても変えられないこともあるから、大事なのはそれをどうやって受け流して、できるだけ物事が起こらないようにすることじゃないですかね。どうしても受け流さないといられない事実はいっぱいありますよ。誰にも変えられない、変わりたくても変われないことだってたくさん経験すると思いますけど、大事なのはそれに対して、怒りとか、嘆きを持つのではなくて、もう良いやとそこで終われることでは無いでしょうか。それをするのは、誰でもなく、自分ですよね。それは、他の人には変えられない。」

水穂さんが、にこやかに笑って美香さんに言った。もしかして、一番大事なのは、もう良いやで許してあげること。これが一番大事なことなのかもしれなかった。それができる人は、ある意味限られている。

「だから、お前さんが、ずるい女とか言われてもさ、言うやつなんて、どうせ変えることもできないから、まあお前さんが、もういわしておけくらいにしておくのが一番いいんだ。どんなことだって、変えられることは限られているからね。変えられないことのほうが、人生には多いよ。それは、もうどうしようもないことだと思って諦めて生きていかなくちゃ。まあ、後できれいな花が咲くことも多分無いだろけどさ。でも、人間って、そういうもんだからな。その中の所々に、楽しいことがあって、それにしゃぶるように生きているもんじゃないのかな。」

「杉ちゃん良いこと言うね。たまに杉ちゃんって、良いこと言うときがある。」

杉ちゃんの言うことに、水穂さんが応じた。皆にこやかに笑っていた。どうしてそうにこやかに笑っていられるのだろう。なぜ、そう面白いことのように話せるのだろう。こんなに辛いのに。美香さんはそう思うのであるが、

「まあ、人生なんてそんなもんだよ。生きてるって、ただ耐えていくだけさ。それだけのことなんだ。何にも大きなことはおきない。ただ小さなことを、一個一個こなしていくだけのことだぜ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうですね。私も鬱になって、たしかに楽しいことは何もありませんものね。保育園に行けば他のお母さんからずるい人だと言われるし、ほんと人生って、こうやっていじめられるだけなのかなと思う。それ意外何も無いのですかね。」

美香さんがそうきくと、

「はいありません。」

と杉ちゃんは即答した。

「でも、そこで命を投げ出しちゃいけないのも人間の勤めでもある。」

「きっと、いつか楽になれるときが来るわ。あたしもそうだったんだから。」

と、二番目の利用者が言った。

「そうよ。今は黙って待つときなのよ。辛いことあるんだったら、私達、何でも相談に乗るから、ここに来て。と言っても私じゃ、頼りないか。育児の経験なんてもうできないかもしれないもんね。」

と、はじめの利用者が言った。ふたりとも美香さんを心配そうに見ているのである。

「まるで昔の私を見ているようだわ。私もそういうときあったから。」

はじめの利用者がそういうことを言った。

「だったら、どうやって、お二方は、その辛い時期を乗り越えたんですか?」

美香さんがそうきくと、

「そうだな。私も、そのときは、色んなことを試したわ。写経させてもらったり、ちょっとした勉強会に参加させてもらったりもした。でも、私を救ってくれたのは、勉強することだったのよ。だから私は、それを生きがいにしてもいいと思った。それを見つけたら人生すごく楽になった。だから私は、子供が産めない分、勉強することに意義を持ってる。」

はじめの利用者が優しくそう答える。二番目の利用者も、

「私は、なにかしていないと、この世に存在する意味が無いって考えてたんだけど、日常生活ができるってことがすごいって事知ってやっと楽になれた。だから、今はそれができることに感謝して、勉強させてもらってるの。平凡な日常ができることに感謝して、自分の知識を持てたら良いなってね。」

とにこやかに笑っていった。

「決して辛い時間は無駄じゃないわ。きっとなにかが変わればまたなにか得られるかもしれないのよ。苦しいけどそのつもりで、頑張ってよ。」

はじめの利用者が言った。美香さんは、はいと小さな声で嗚咽した。それを見た水穂さんが、美香さんに一枚手ぬぐいを渡した。


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気にしない方法 増田朋美 @masubuchi4996

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