第十四幕 母親―インファント―
―日本の著名な小説家である芥川 龍之介曰く。
子どもに対する母親の愛情は、最も利己心のない愛情である。
母親の子どもに対する思いはとても純粋なものである。
…と、この朧 叶夜はこの言葉を聞いた時そう解釈したし多少の違いがあれど多くの人が頷いてくれるだろう。
母親を早くに亡くした俺にはピンと来ない名言ではあるがそれでもきっと生きていたら愛情を注いでくれたと勝手に信じている。
―だが果たしてこの言葉は全ての母親に当てはまると言えるのであろうか?
子どもを虐待する母親もいるだろうが俺が言いたいのはそういう母親ではない。
その母親の愛が純粋で、言い換えるなら愛が深すぎた場合そうとは言えないのではないか。
思いが強ければ強いほど、愛が深ければ深いほどその見返りとして子どもからの愛を求めるものではないか。
意識してるにせよ、してないにせよ求める心があるならばそれは果たして利己心が無いと言えるだろうか。
らしくも無く俺はそんな事を考える。
…いかん。
あまりに絶対絶命すぎて何やら難しい事を考えてしまった。
だが状況は最悪である。
何せ文字通り手も足も出ない状況だ。
今ごろ俺の式神となった栄介が玉藻と八重に助けを呼んでいるだろうが…多分手遅れだろう。
その前にきっと俺は死ぬ。
俺をこんな目に合わせた
意味のある言葉を出せない今の俺が酷く情けなくて涙が出てくる。
―だが諦めてはいけない。
助けが間に合う可能性だって決してゼロではない。
だから俺は唯一許された大声を上げるという行為を再び繰り返すのだ。
例えその姿がどんなに惨めであろうとも、だ。
だから俺は生きる為に大きく息を吸い声を上げる
「おんぎゃぁ~!おんぎゃぁ~!」
「あら僕ちゃん。もうちょっと待っててね~。もう少しでママの準備が出来まちゅからね~。」
(だから誰でもいいから助けてくれぇぇぇぇぇぇ!!)
朧 叶夜は今、沖縄より現れた母性の妖であるチーノウヤによって赤ん坊にされ『精神』の死を迎えようとしていた。
「チーノウヤ?聞いたことないな。その妖。」
時は数時間さかのぼり学校の放課後。
もうすぐゴールデンウィークに入ろうという四月の終盤の出来事。
信二がいつも通り要らない気を回して叶夜と八重を二人きりにする時間。
それが陰陽師と陰陽師補佐としての会話の時間であった。
今は正式に叶夜の式神となり【裏世界】での情報偵察役となった鎌鼬の栄介の報告を受けているところである。
「あ~。兄貴が聞いた事が無くても仕方ねえよ。あいつら沖縄から来たどちらかと言えばマイナー妖だからな。俺も名前だけでそれ以外は知らねぇしな。」
そう叶夜が用意したお茶を飲みながらそう栄介はフォローする。
【裏世界】にいる時以外、つまりは【表世界】にいる間は玉藻が嫌がるので(口にはしないが八重も)札に封印されてる栄介であるがこの報告の時は体を伸ばせるのでどこか栄介も機嫌がいい。
「マイナーでも何でもチーノウヤが確認されたのは問題よ。下手をすればそこの鎌鼬の一件どころじゃ済まなくなる。大事件になるわよ。」
そう真面目な顔をした八重が緩み掛けた空気に釘を刺す。
この場にいる唯一の陰陽師、そしてチーノウヤの厄介な特性を知る者としての言葉であった。
ちなみに栄介が起こした事件の一件は一時話題となったが犯行が止まったため急速に風化していった。
陰陽師にはこういった妖が起こした事件に対する情報操作を得意とする部隊があり今回の一件もその部隊による活動の成果だと八重は以前に叶夜らに報告していた。
未だ捜査してるだろう警察たちや被害を受けた女性たちにとっては耐え難い事であろうが犬に、いや鼬に噛まれたと思って水に流して許して欲しいとその犯人を式神にした叶夜は思う。
「…で?そのチーノウヤ?とやらはそんなに手強いのか?我も聞いたことが無いゆえ強さの程が分からんのじゃが。」
以前の事を未だ根に持つ玉藻は栄介を睨むのにも飽きたのかチーノウヤの強さについて八重に質問する。
元々修行の為に叶夜の陰陽師補佐という役割を受け入れている玉藻にとってそこは重要ポイントであった。
叶夜にとってもそこは気になるところではある。
その玉藻の質問を八重は首を横に振る事によって否定する。
「いいえ強く無いわ。叶夜君が最初に戦ったっていう足長手長の方が数段強いと思う。」
「は?じゃったらそこまで警戒する必要は無かろう?」
「ええ。これがチーノウヤ以外で同じ位の強さを持つ妖だったらわざわざ叶夜君に知らせないで一人で倒しに行ったでしょうね。」
玉藻が現状を許している理由を理解しているため八重は出来るだけ叶夜を連れ陰陽師としての仕事をしているが、確信出来るレベルで相手が弱い場合は八重は一人で行動すると決めている。
八重としては補助をして貰っているものの叶夜に出来るだけ戦ってほしくないと思っているからだ。
残念ながらそのような事が出来るほど弱い妖は現れていないが玉藻としても弱い相手をわざわざ相手にする気はないのでその提案を受け入れた。
叶夜の心情としては複雑なものがあるが八重の優しさから出た条件であるため断れなかった。
「…けどチーノウヤは駄目。あの妖は一人で対峙してはダメなの。」
その様な条件を持ち出した本人である八重が力強く皆にそう力説する。
六つの目が不思議そうに八重を見ているため彼女は陰陽師におけるある有名な話を聞かせる。
「昔ある武闘派で知られる陰陽師がいたわ。その力は本物であらゆる妖を滅してきた。ある日チーノウヤが現れたと知ったその人は仲間を連れず一人で戦いに行ってしまった。…そして何時まで経ってもその人は帰ってこなかったわ。」
「…死んだのか?」
叶夜が恐る恐る聞くが八重は答えず続きを話す。
「何時まで経っても戻らないその人を捜索、そしてチーノウヤを滅する為の部隊が組まれチーノウヤはすぐに滅したわ。けど探していた陰陽師は…もう陰陽師では無くなっていたわ。」
「?どういう意味だ龍宮寺の姉御。」
そう説明を促す栄介を少しだけ嫌な顔で見つめる八重。
変態的な思考をもつ栄介を視界に入れる事も嫌であるがその栄介に姉御と呼ばれる事が一番嫌であった。
だが少なくと今のは真面目な質問のため気を強くもって話を再開する。
「その人はすぐに病院に連れていかれたわ。…けど結局、その人がその病院から出る事は死ぬまで無かったわ。」
「…何かしら厄介な特性を持った妖という事じゃな。」
「ええ、まさに玉藻前の言う通りよ。チーノウヤには他の妖にはあまり見られない特性があるわ。」
そう言うと八重は一旦話を戻す。
「ところで叶夜君。私が言った下手をすれば大事件になると言う意味…分かる?」
「は?…このタイミングで言うという事はその特性と関係あるんだろ?…き、記憶喪失にするとか?」
「…まあ肉体的な特性でないだけ正解に近いと言えるわね。…チーノウヤは乳児を攫うの。」
「乳児を?」
思わぬ被害者層の部類に思わず聞き直す叶夜に深く頷く八重はチーノウヤの特徴を話す。
「チーノウヤは見た乳児を自分の子と思い込み水中に引き込むとされてるけど最近はあらゆる場所に潜んでいるわ。その姿は一見優しい顔をしていてむ、胸が大きい女性だけど乳児を攫えば最後。滅されるまでその乳児を自分の子と思い込み放す事は無いわ。」
「…のう陰陽師。そのチーノウヤが年端も行かぬ子を攫うのは分かったのじゃがそれがさっきの話とどう繋がるのじゃ?」
もっともな質問が玉藻から八重に問いかけられる。
叶夜も栄介も武闘派な陰陽師と乳児との共通点が見つからず困惑する。
「そうね確かにそれだけだと繋げるのは難しいわね。けどもしその伝承からチーノウヤの特質が進化してたら?話は繋げられるでしょ?」
「…のう陰陽師。さっき言よった病院はもしかせんでも心の病院か?」
「正解よ玉藻前。」
「玉藻、どういう意味だ?」
未だ分かっていない様子の叶夜(とついでに栄介)に玉藻は最終的なヒントを出す。
「逆転の発想をするんじゃ叶夜。チーノウヤの攫う相手は必ず乳児でないといけないんじゃ。」
「「…あ!?」」
叶夜と栄介が同時に答えにたどり着き声を上げる。
「叶夜君(とついでに鎌鼬も)分かったみたいね。そうチーノウヤが攫った相手は年齢に問わず必ず乳児になるの。そして時間が経てば経つほど精神も乳児になっていき、最終的には永遠の赤ちゃんとしてチーノウヤに世話される日々を送るの。」
「……怖わ!!」
思わず叫んでしまう叶夜。
妖である玉藻や栄介は影響を受けないかも知れないがただの人間である叶夜にとっては致命的な影響を受けるだろう。
叶夜は自分が囚われた場合の事を想像してしまい全身の震えが止まらなくなる。
肉体的な死も勿論嫌であるが、そんな精神的な死も御免である。
「だからチーノウヤを滅する場合は必ず二人以上が鉄則よ。戦闘力はそれほどじゃないしどうやら乳児に出来るのは一体につき一人らしいしね。」
「だけどよ龍宮寺の姉御。一度乳児になったら戻すのも難しいじゃねえの?」
「…いえ。チーノウヤが消滅した時点で攫われた者は元の年齢に戻るわ。少なくとも肉体わね。」
「さらっと不吉になるような事を言わないでくれるか八重。…じゃあ少なくともすぐに助かれば乳児になっても問題ないって事か。」
「ええ。…けど。」
「「「けど?」」」
「…言いにくいのだけどチーノウヤに乳児にされて心身共に無事だった例は…二件だけよ。」
「…聞きたくなかった。」
それからずっと信二が再び部室に戻って来るまで叶夜は机に突っ伏した状態であった。
「は~。あんまり気が進まないな。」
「そう言うでない叶夜。これも修行じゃと思え。」
「…自分は掛からないからって。こっちはそんな余裕ないって。」
「安心して叶夜君。そうそう目の前で攫われるようなヘマはしないから。」
そう言い合いながら三人は【裏世界】のチーノウヤが見られたという場所に移動していた。
本来なら栄介が鼻を使って探すという予定であったが玉藻が直前になって嫌がったので地道に探している。
なので現在栄介は札の中で活躍出来ない事を不貞腐れている。
「なあ玉藻。いい加減栄介を認めてやったらどうだ?変態性はともかく性格はそんなに悪い奴じゃ…。」
「…そうじゃのう。奴が叶夜の危機を救うような事があれば認めてやらんでもない。」
「俺が危機に会う前提で条件出すの止めてくれない!?」
(まあそんな条件を出すだけ進歩かな。)
最初は存在を徹底的に無視していたのでまだ条件づけで認めると言うだけマシであろうと決めつける。
「静かに!…たぶんそろそろチーノウヤの領域よ。ここからは油断しないでね。どんな方法で襲ってくるか分からないわ。」
そう八重が気を締めて言うので叶夜も気持ちを落ち着かせるために一度立ち止まる。
叶夜の後ろを歩いていた玉藻は入れ替わりに叶夜の前を歩き出す。
最後尾になった叶夜がだいぶ気持ちを落ち着けた時、小さな違和感を見つけてしまう。
「ん?今光った?」
道に設置してあるカーブミラーが光ったように見えたのである。
無論常に闇の帳が落ちているこの【裏世界】でカーブミラーが光る要因はそうない。
『最近はあらゆる場所に潜んでいるわ。』
「!!」
八重に言われた事を思い出し二人を呼ぼうとする叶夜。
だが僅か、ほんの僅かな差でそれは叶わなかった。
カーブミラーから女が飛び出し叶夜の口を塞ぐ。
「!?!?」
そしてそのまま叶夜を抱えたまま女はカーブミラーの中に消えてゆく。
カーブミラーの中は口では表現出来ない不思議な空間である。
それが唯一叶夜が視覚情報で分かった事であった。
と言うより徐々に体が縮んでいく感覚でそれどころでは無かったという方が正しかったが。
戸惑いの中で叶夜は札を取り出し栄介を呼び出す。
「!兄貴!」
すぐさま状況を察し助けようとする栄介だがチーノウヤが叶夜に纏わりついているためこのまま攻撃すれば叶夜を傷を与えてしまう。
どうすべきか考える栄介に幼くなった声での叶夜の指示が届く。
「助けを!!」
「!!ああ!任せろ兄貴!!」
その指示で栄介は何をすべきか理解した。
トップスピードを持って栄介はチーノウヤより先に目的地に着地した。
そこは扉は無く四方を壁で囲われた部屋であったが栄介は構わず回転して壁を突き破る。
(アレは転移の妖術のはずだ!聞いた限りチーノウヤが複雑な妖術を使うとは思えねえ!って事は姉御たちは近くにいる!)
栄介は鼻を最大限使い八重と玉藻を探す。
無論妖術に明るくない叶夜がそこまで考えてた訳がない。
ただ単に栄介に全てを託したのだ。
(この期待に応えなきゃ漢じゃねぇぜ!鎌鼬の栄介!!)
鎌鼬の栄介。
生まれて初めて自分以外のために風になった。
「ふふ~ん♪ふふふ~ん♪」
「…。」
乳児になってから泣き続けた為に喉が痛くなった叶夜は一先ず喉を休ませる。
先ほどからチーノウヤは栄介が逃げるために突破した壁を鼻歌を歌いながら修復している。
それだけ見れば服も現代風なため優しい雰囲気の若奥様といった感じだ。
そして八重の言う通り後ろからでも胸が大きいのが見て取れる。
八重も相当大きいがチーノウヤの大きさはそれを上回っていた。
「ふ~。これで良しと!」
壁の修復が終わりようやくチーノウヤは幼児となった叶夜に近づく。
(来るなら来い!どんな事だろうと助けが来るまで耐えてみせる!)
そう意気込む叶夜であったが。
「僕ちゃん。ごはんの時間でちゅよ~♪ほら♪」
そう言ってチーノウヤは哺乳瓶を取り出す。
…そう哺乳瓶を。
そして哺乳瓶の使い方など一つしかないだろう。
(…無理かも。)
精神が変わる前に心が折れるかも知れないと叶夜は近づくチーノウヤを見ながら思うのであった。
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