第三十二話 窮奇

「さぁて! 白兵戦こいつは喰えるか!?」


 半獣の異形と化した窮奇が低く身を屈める。


 更に旋風が窮奇の背後に収束、二つの奔流となって広報に噴出し、窮奇の疾走に凄まじい加速を与えた。


 それはまるで一対の風の翼。


 瞬き一つの間に間合いを詰められ、鋭い爪の一撃が――


「うおっ!?」


 ――何もないところで弾き返された。


 いや、違う。俺達と窮奇の間に何かが立ちはだかり、攻撃を阻んでいる。


 半透明の盾――人間の全身を覆い隠してなお余りある障壁だ。


「間に合ったな! ったく、焦らせやがって!」


 背後からの声に驚き振り返ると、いつの間にかそこにいたパーラが、腕を突き出して口の端を吊り上げていた。


「我は獅子! 我が天命は守護者なり! あらゆる害悪を退ける盾の獣なり! ってな!」

「ちっ! 厄介な奴が!」


 風の翼を羽撃はばたかせて大きく飛び退く窮奇。


 だが、その着地点には既にもう一人の獣人がいた。


「……っ! シュリンガ!」


 シュリンガは手にした武器を無言で振るい、窮奇の鋭い爪と激しく打ち合った。


 それは半透明の矛。


 パーラの盾と同じく、切っ先から柄に至るまで、さながら硝子や氷のよう。


 明らかに真っ当な物質ではない。


 霊力を矛や盾の形に押し固めれば、あるいはこうなるのだろうか。


「数の上ではこちらが有利だが、よもや卑怯とは言うまいな」

「これっぽっちで有利だって? 足りないなぁ! せめて百倍は持って来い!」


 窮奇の巻き起こす旋風がシュリンガを吹き飛ばす。


 しかしシュリンガは空中で巧みに姿勢を整え、着地と同時に半透明の矛先を地面に突き立てた。


「我は獬豸カイチ。我が天命は守護者なり。あらゆる害悪を打ち払う矛の獣なり」


 矛先を振り抜き地面を削る。


 すると、迸った霊力が不可視の刃を形成し、地表を切り裂きながら窮奇めがけて一直線に襲いかかった。


「そんなもん効くか!」


 窮奇の異形の腕が不可視の斬撃を真正面から迎撃する。


 腕は無傷。斬撃は跡形もなくかき消され、余波だけが地表の砂を巻き上げる。


「……シュリンガ。お前なら分かってるだろ? 今の私はお前らと遊んでた頃の私じゃないんだ。窮奇の力と宝珠の力……お前らが逆立ちしたって追いつけるわけがない」

「どうやらそうらしいな。掠り傷の一つも付けられなかったのは想定以上だ」

「昔馴染のよしみだ。大人しく引き換えしたら見逃してやる。どうせ桃花トウカも来てるんだろう? さっさと国に帰りな。これが最後の忠告だ」


 シュリンガと対峙する窮奇の態度は、俺達に襲いかかったときとは違い、戦うことへの躊躇が感じられた。


 理由は改めて考えるまでもないだろう。


 窮奇と自称するより以前、ただの霊獣のカン珀月ハクゲツだった頃の知己ちきであるが故に、赤の他人とは異なり冷酷になり切れないのだ。


 ……それはつまり、窮奇は完全に変わり果ててしまったわけではなく、幾許いくばくかの理性と良心を保ち続けているということでもある。


「今のお前にも、私達への容赦が残っている。それを確認できただけで十分だ」

「最後の忠告だって言っただろ? 死にたいなら望み通りにしてやるよ!」


 窮奇が風の翼を広げて空高く飛び上がる。


「さっきまでのが本気だと思ったか!? あんなもの遊び以下だ! 肉片一つ残らず消し飛ばして――」


 ――そのときだった。


 死体も同然に横たわっていた玄武の蛇の片割れが、地殻を砕かんばかりの地響きと共に鎌首をもたげ、空中の窮奇めがけて喰らいついた。


 それはもはやという次元ではない。


 窮奇が牙よりも小さく見える大顎が、標的を丸ごと飲み込んでしまったのだ。


 しかし窮奇も簡単に食い殺されるはずがなく、強烈な風圧で内側から大顎をこじ開けていく。


「死に損ないが! そんなに死にたいなら、このまま二つに引き裂いてやろうか!」


 霊獣同士の規格外の攻防を、俺は地上から見守ることしかできない。


 その事実にもどかしさを感じた矢先、雪那が蛇の玄武を指差して声を上げた。


「黎駿! あれは!」


 一匹の子狐が、大蛇の身体を駆け上がっている。


 単なる狐が出せる速度ではない。


 ましてや、捻じれくねった胴体から落ちることなく、垂直や上下逆の足場を駆け抜けることなど。


「……桃花トウカか!?」


 思わず身を乗り出した俺と雪那を、パーラが肩を掴んで制止する。


「悪いな。もうちょい見守ってやってくれ。珀月ハクゲツとの喧嘩はあたしらの方が先約なんだ」

「パーラ……」

「お嬢がただの子供ガキじゃないのは知ってるだろ? 生半可なことじゃ死にやしねぇよ」


 普段のパーラの振る舞いからは想像もできない、優しい声だった。


 そうしている間にも、桃花は玄武の巨体を踏破し、首元から勢いよく跳躍した。


 飛びかかる先は、窮奇を捉えた大蛇の大顎。


 桃花は空中で獣人の姿へと変化して、風圧の壁を狐火の放出で相殺しながら肉薄し――


「馬鹿ぁ!」


 ――窮奇の頬を平手で張り倒した。


 威力も何もあったものではない、ただの純然たる平手打ち。


 地上から見上げる俺と雪那だけでなく、叩かれた窮奇本人も想定外の事態に唖然とするばかり。


「目覚めたんだから仕方ないとか、そんなの知らない! 珀月ハクゲツ珀月ハクゲツでしょ! 窮奇がどうとか関係ないんだから!」


 感情のままに怒りながら、桃花は真っ逆さまに落ちていく。


「絶っ対! 諦めてあげないんだからぁ!」

「……っ! 馬鹿はどっちだ!」


 窮奇が蛇の玄武の顎を逃れ、落ちていく桃花を追って急降下する。


 そして際どいところで桃花を受け止め、突風の逆噴射で辛うじて軟着陸を成功させた。


「お前なぁ……! 飛べない癖に何やってんだ!」

「こうでもしなきゃ、話もしてくれないじゃない! 窮奇になったって何? どうして暴れなきゃいけないの? 教えてよ!」

「言ったところで! そんなの理解できるわけないだろ!」


 桃花を抱えたまま口論を始める窮奇。


 先程までの殺気は一体どこへ消えたというのか。


 俺も雪那も窮奇の変貌ぶりに困惑を抑えることができなかった。


「前にあいつと一線交えたって話、したよな。麓城ロクジョウでやりあったときだ」


 パーラが俺と雪那の肩に手を置いたまま、ぽつりぽつりと呟きを零す。


「あのときもそうだった。あいつはお嬢を傷つけようとしなかったし、あんなふうに向き合うことすら拒んでた。別人みたいに変わっちまったとはいうけど、説得の余地があるのは分かってたんだ。悪いな、黙ってて」


 ――いや、それはもういい。


 説得を前提とした方針をギリギリまで隠していたことも、窮奇が友情を捨てきれていなかったことも、さして重要ではなくなった。


 他の何よりも重要なのは、桃花が必死に問い詰めていることだ。


 窮奇になるとはどういうことなのか。


 どうして窮奇らしく振る舞う必要があったのか。


 故郷も仲間も捨てなければならない理由があったのか。


 今も俺の胸の奥底で騒ぎ続けるの原因も、きっとそこにあるはずなのだ。


「聞いたって、どうしようもないからな」


 窮奇は桃花を地面に下ろし、一歩、二歩と静かに退いた。


「……窮奇だけじゃない。渾沌コントン饕餮トウテツ檮杌トウゴツ……四柱の悪神、四凶は地上に蘇る機を窺い続けている。器に選ばれたら、後は時間の問題なんだ」

「そんな……で、でも! 白虎様や龍神様なら! どうにかできるかも……!」

「確かに、伯父貴だったら何か知ってたかもね。けど、もう手遅れ。私はに会ってしまった。火に油を注がれてしまったんだ。こうやって正気を保てるのも、君がここにいるからで……ぐうっ!」


 突然、窮奇が左肩を押さえて苦しみ出す。


 そこには浅い傷が刻まれ、鮮血が周囲の毛皮に滲んでいた。


 蛇の玄武の顎から逃れる際に、牙の先端にでも触れて抉られてしまったのだろう。


 だが、窮奇の苦悶の原因は傷そのものではなかった。


「渾沌の奴……本当に余計なことを……!」


 傷口から血とは異なるどす黒い液体が溢れ出る。


 ――違う。あれは液体なんかじゃない。


 不定形で非物質的。ここからでも感じ取れるおぞましい気配。


 あれは呪いだ。雪那を苦しめ、俺が二度に渡ってらってきた漆黒の呪詛が、窮奇の――珀月ハクゲツの肉体を内側から蝕んでいた。

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