第三十三話 決着

「下がれ! 寄るな! 近付くな!」


 桃花トウカを突き放し、苦しみながら後ずさる珀月ハクゲツ


 左肩から溢れ出す漆黒の呪いはツタのように半身を蝕み、白い虎の半獣となっていた珀月の肌と毛皮に食い込んでいく。


 まずい。直感が危険を訴える。


 このままだと致命的な結果になるという確信が、俺の心から恐怖と躊躇を削ぎ落とした。


「くそっ……!」


 パーラの手を振り払って走り出す。


黎駿レイシュン!?」

「おいこらっ! 待て!」


 雪那セツナとパーラの制止を逃れ、声を張り上げながら駆け抜ける。


「足止め頼んだ!」


 この一言だけで充分だ。俺が何をしようとしているか、少なくとも雪那には伝わるだろう。


 珀月が風の翼を羽撃はばたかせて飛び立とうとする。


 だがその足は、いつの間にかに覆われ、地面に繋ぎ止められていた。


 雪那だ。振り返らなくても感じられる。


 正気を失いつつある珀月は、離脱ではなく迎撃を選択し、短刀ほどもある鋭い爪で俺を引き裂こうとした。


 しかしシュリンガの不可視の槍がそれを受け止め、もう片方の腕による追撃も、後から追いついたパーラの不可視の盾に阻まれる。


 珀月は、窮奇は俺が勝てる相手じゃない。


 けれど俺がやるべきことは、こいつに勝つことなんかじゃない。


 雪那達が作ってくれた隙を突いて、呪詛が溢れ続ける左肩に喰らいつく。


「ぐっ……!」


 舌を刺すような呪いの苦味が流れ込んでくる。


 まるで針の塊を頬張った気分だ。


 鼻を突く暴力的な臭いも、いい加減に身体が覚えてきてしまった。


(……このっ! なんて量だ! これじゃ一度に食い切れるか……)


 そのときだった。


 無秩序に溢れ出る一方だった漆黒の呪いが、何かに誘導されたかのように俺の中へと流れ込んできた。


「……っ!? がっ! げほっ!」


 あまりの勢いの凄まじさに、珀月から弾かれるように離れて尻餅を突く。


 冷や汗がどっと流れ出すのを感じながら、咄嗟とっさに口元や喉元に手をやって、身体が壊れていないかを確かめる。


 だが予想に反して、顔にも喉にも異変らしい異変はなく、腹の中にも異常は起きていないようだった。


 何だったんだ今のは。


 困惑する俺のすぐ横を、桃花が脇目も振らずに駆け抜ける。


「珀月!」


 桃花は気を失って倒れ込む珀月を支えようとし、体格差に負けて押し潰されそうになったが、すぐにパーラとシュリンガが二人を受け止めた。


 珀月を侵食していた呪いは跡形もなく消え、半獣に変化していた身体も人型に戻り、先程までの暴れぶりが嘘のように脱力している。


 困惑ばかりが積み上がる結末だが、少なくとも窮奇ハクゲツの暴挙を止めることだけはできたようだ。


 安堵の息を吐く暇もなく、今度は凄まじい衝撃と地響きが草原を揺らした。


 鎌首をもたげていた蛇の玄武が、再び大地に倒れ伏したのだ。


 更に、見上げるほどの巨体が陽炎のように揺らいだかと思うと、瞬く間に薄れて消えていった。


 まさか本当に死んでしまったのか。


 慌てて玄武が消えた場所に駆け寄ると、抉れた地面にしゃがみ込んだ明明メイメイが、彼女とよく似た見た目をした血塗ちまみれの若者を抱きかかえていた。


「……すまん、世話を掛けたな……」


 それは明明ではなく俺に向けられた言葉だった。


 声色自体は少年に近く、しかし長い年月を積み重ねた老人の言葉のようにも感じられる。


「聞きたいことが山程ある……そう言いたげな顔だな。無理もない……」

「あなたが冥冥メイメイ、もう一人の玄武か」

「……その名で呼ぶな、面映おもはゆい。このような事態に陥った理由は……ぐっ! げほっ! がはっ!」

「無理するな! 今はいい、まずは手当を!」

「蛇の霊獣は、そう簡単にはくたばらんさ。だが、今は……ありがたく、甘えさせてもらうと、しよう……」


 玄武が瞼を閉じて安らかに息を吐く。


 一瞬「まさか」と思ったが、どうやら眠りに落ちただけのようだ。


 これだけ血を流しておきながら、何事もなかったかのように一眠りできるあたり、さすがは守護獣と呼ばれる霊獣だけのことはある。


 今度こそ安堵する俺を、明明が涙に潤んだ瞳で見上げた。


「ありがとう、本当に……ありがとう……」

「……まだ丸く収まったとは限らないけどな」


 戦いは終わった。窮奇こと珀月の暴走もひとまず止まった。蛇の玄武とも無事に出会うことができた。


 けれど、まだ問題は何も解決していない。


 珀月が窮奇を名乗って暴れまわった原因はまだ明らかになっておらず、根本的な解決ができたのかも分からない。


 蛇の玄武が明明と決別した理由も聞き出せていないし、雪那の宝珠もまだ回収できていない。


 さっきの戦いは降って湧いた災難であって、当初の予定にはなかった追加の障害トラブルを何とか解決しただけに過ぎないのだ。


「とにかく、大変なのはここからだ。解決しなきゃならないことが山積みだからな」

「少なくとも一つは解決したよ」


 雪那に話しかけられ、振り返る。


 軽く掲げられたその手には、割れた宝珠の一欠片が握られていた。


「回収できたのか」

「ああ。もしも体内に取り込まれたりしていたら、取り出すのも一苦労だったんだけどね。懐に潜ませていただけで助かったよ」


 嬉しそうに笑いながら、雪那は破損した宝珠を胸の奥から取り出して、回収した欠片を繋ぎ合わせた。


 かなり球形に近付いてきたものの、まだ欠落がある。


「これまでの二つの欠片と同じ大きさなら、残るは一欠片。霊力もかなり取り戻せてきたと思う。また荒事があったら、今度はちゃんと戦力になれるはずだ」

「九割くらいは復元できたみたいだな。霊力も九割くらいか?」

「そんなに単純な計算じゃないよ。宝珠の一割でも欠落したら、失う霊力は一割どころじゃ済まなくなる。力の安定が損なわれてしまうんだ」


 つまり本来の雪那の力は、今までに垣間見せた強さの比ではないということだ。


 本当に霊獣というものは底が知れない。


 人間からも獣人からも信仰を集めるだけのことはある、というわけだ。


「今は玄武領でやれることをしよう。珀月と玄武、彼らがここに至った経緯を調べれば、最後の欠片の手掛かりを掴むことができるかもしれない」

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