第十八話 異変
日没を迎えたことで航行は一旦停止。
乗客達は停止した船の上で夜を明かすことになった。
一等客室の金持ちの乗客達は、三階中央に設けられた宴会場で――軍艦だった頃は会議場だったのだろう――豪勢な夕食に舌鼓を打っている。
だが、俺と雪那はそういう嗜好に付き合わず、外廊下で夜風に当たって涼んでいた。
「いいのかい? 参加しなくても」
「あんまり興味ないな。ああいうのって気楽に騒いでるように見えて、実際は人脈作りだの何かの根回しだの、七面倒臭いことばっかりやってるんだよ。王族ならそれも仕事のうちと思えたけど、今となっては……だな」
「その辺りは海も陸も変わらないか。お互い気苦労が絶えない家に生まれると大変だね」
不意に吹き抜けた強風が雪那の白い髪を浮かせ、細い色白の指がそれを抑える。
「さてと、ちょっと下の階に行ってくるよ」
「一人だと危な……くはないか。何か用事でも?」
「例の三人組の獣人と話をしてみたくてね。何せ
「だったら俺は邪魔しない方が良さそうだな」
あの三人は人間である俺に対して友好的に振る舞っていたが、目的を打ち明けてもらえるほど信用されているとは限らない。
人間を交えない方が話しやすいこともあるだろう。
適切な距離感を保つ限りは友好的、ただし必要以上には踏み込ませない、というのは人間同士でも珍しくない
下階に繋がる外階段まで雪那を見送って、自分達の部屋の前まで引き返す。
「……さてと、適当に時間でも潰すと……ん?」
不意に鳥が羽ばたく音が聞こえ、一羽の大きな黒い鳥が欄干に舞い降りてきた。
具体的にどんな種類の鳥かは分からない……というよりも、どう見ても本物の鳥ではない。
布と木片を組み合わせて大雑把な鳥の形を真似た、歪な模型だ。
鳥の模型の胴体がひとりでに開く。
ちょうど容器の蓋を開けたような形だ。
収められていたのは、丁寧に丸められた一通の書状。
それを手に取ると、鳥の模型は役目を終えたかのように崩れ落ちてしまった。
「法術士の伝令模型か……」
何かしらの理由で王族が行方不明になってしまった場合、すぐさま救助に迎えるようにするための備えだ。
廃嫡と追放を受けたときに、この儀式の目録からも削除されたと思っていたのだが、向こうの連中は何を思って俺の名前を残していたのだろう。
まぁ、面倒で後回しにされていただけなのかもしれないが。
「……さて、何のつもりなのやら」
欄干にもたれ掛かりながら書状を開く。
召集令状――書状の文頭にはそう記述されていた。
装飾的な定型文を読み飛ばして要約すると、国王に奉仕するため首都に来いというだけの命令書だ。
もちろん王族に対して使われる類のものではない。
国民を呼びつけて働かせるときに送りつけるための書式だ。
ご丁寧にも国王たる父上と王太子たる
条件について交渉する余地はない、疑問に答えるつもりもない、唯々諾々と命令に従え。
王族だから当然なのかもしれないが、上から目線を絵に描いたような要求である。
(何を今更、だな。もう
心の底から呆れ返りながら、書状を破り捨てる。
紙切れ一枚で服従して言うことを聞くだろうなんて、まさか本気で思っているのだろうか。
あれだけ手酷く追い払っておきながら、理由も告げずに呼び戻そうなんて虫が良すぎるだろう。
そもそも悪食が想像以上の力を秘めていたことを、あちらの連中はまだ知らないはず。
意味不明にも程がある。一体何のつもりなのか問い質したい気分だ。
(忘れた方が良さそうだな)
気を取り直して部屋に戻ろうかと思った矢先――ふと、周囲に異変が起きていることに気がついた。
「霧が……いつの間に……」
夜の大河ということもあり、周囲を照らす光源は船室から漏れる光だけ。
それが照らしている範囲が急激に狭くなり、ほんの少し先の水面すらもはっきり見えなくなっている。
もちろん、気温が下がれば霧が出る。それ自体は当然のことかもしれない。
だが数分と経たないうちに、この霧が自然に発生したものではないと理解させられてしまう。
「……おいおい! あれってまさか……!」
船上に甲高い鐘の音が鳴り響く。
濃密な霧を割って現れる巨影。
俺達を乗せた楼船と同規模の巨大な幽霊船が、風や水の流れを無視した動きで旋回し、こちらの船に横付けを試みてくる。
昼間の小舟とは比較にもならない。
船上には兵士の亡霊がひしめき合い、手にした武器を緩慢に掲げ、地の底から響くような声を上げている。
これが幽霊水軍の本隊か。
他の乗客達も異変に気付き、次々に悲鳴を上げながら船内を逃げ惑っている。
だが、こんな状況で逃げ場などあるはずがない。
「みなさん! 落ち着いてください! 部屋の中が安全です!」
船員の必死の訴えも、混乱する乗客達の耳には届かない。
法術士部隊も風ではどうしようもないと判断したのか、より攻撃的な法術で敵船に爆発を叩き込んでいるものの、巨大な船体の動きを鈍らせることすらできていない。
「接舷されるぞ! 迎え討て!」
不自然な軽やかさで楼船に飛び移る幽霊兵士の群れ。
鎧も身体も
どう考えても生きた人間ではあり得ない。
こちらの護衛兵も武器を抜いて迎撃を試みるも、明らかに頭数で劣っている上、根本的な問題が露わになった。
「なんて数だ……! こんなこと今まで一度も……!」
「なっ! 武器が、武器がすり抜ける!」
「怯むな! 奴らの武器も我々をすり抜けて……ぐっ!? な、なんだ、力が抜け……」
剣を交えることすらできないまま、護衛兵がバタバタと倒れていく。
外傷は一切ない。
だが幽霊兵士の武器が身体をすり抜けるたびに、疲れ果てたかのように膝を突き武器を取り落としている。
(生命力を奪われてる? まずい、雪那!)
大急ぎで階段に向かおうとした瞬間、数え切れないほどの幽霊兵士が楼船の三階に飛び移って、一等客室の制圧を開始した。
外廊下にいた俺も当然のごとく標的となり、前後から挟み撃ちを受けてしまう。
(攻撃は通らないくせに食らえない……けど動きは緩慢だ! それなら!)
半透明かつ不定形の霊体。
あれも
(通った!)
どんなものでも食べられるということは、どんなものでも触れられるということ。
獲物を掴む手と指、噛みちぎる歯と顎、飲み込む口と喉。
これらのどこか一箇所でも対象に触れることができなければ、食べるという行為は成立しない。
炎にすら通じる理屈なのだから、たとえ幽霊であろうとも。
(行けるぞ! 待ってろ、
ところが、相手の対応も驚くほどに早かった。
幽霊兵士が廊下にぎっしりと密集し、槍の穂先を一斉にこちらへ向けて、まるで針山のような槍衾を形成する。
その陣形を前後で固められてしまったものだから、前に進むことも後ろに退くことも難しくなってしまった。
(……冗談だろ? この対応力、頭の回る指揮官でもいるのか? こうなったら……)
外廊下の欄干に目を向ける。
ここから飛び降りて二階の欄干に掴まれば、あるいは包囲を抜けられるかもしれない。
だがそれを実行に移すよりも早く、幽霊水軍の方が新たな動きを見せた。
『大人しくしていれば、命までは奪わん。今宵は貴様らを討ちにきたわけではない』
欄干の向こうから現れた新たな幽霊――その姿は簡素な鎧の兵士ではなく、重厚な鎧に身を包んだ武将の姿をしていた。
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