第19話

 慣れた様子の二人に導かれ、初めて野球場というものに足を踏み入れた。私一人だったら、自分の席がどこか探し当てるだけで諦めていたかもしれない。席と席の間の通路を歩く。人がすれ違うたびに気をとられ、座席の番号を確かめるどころじゃなかった。正面から来る人に道を開けたら、座席側から通路に出ようとする小学生を塞いでしまったり。二人はどんな方法を使っているのか、労する気配もなくおよその場所を見つけ突き進んでいった。

 席に着くなり、ミューズは自分が座る代わりにエプロンを敷いた。

「なんか食べよう。飲み物は何にする?」

 結局、お金はゴマ君が出してくれることになった。私は何度も首を振ったけど、ゴマ君いわくそれが社会人としての嗜みとかなんとか。女の子たち二人にお金を出させたなんて知れたら、お母さんに叩き出される。という台詞がダメ押しになって厚意に甘えることにした。

 飲み物以外はその場の美味しそうなものに任せることに決まって、ミューズは意気揚々と売店を目がけていった。せっかく来た以上は楽しもう、という言葉にウソは無いらしい。

「あれで気を遣ってるんだよ、ミューズちゃんは」

 私はゴマ君の顔を見る。

「自分は行かないって言い張っておいて、僕には試合を見に行けばいいのにってしつこかったからね」 

 私に気を遣って行かないのおかしいじゃん。とミューズの口調を真似る。全然似ていない。

「何回も言ってたなあ。罪悪感があったんだろうね」

 私たち三人が身を寄せる席の前、荷物で狭くなった足場を老夫婦がまたいでいく。私は膝を抱えながら、お母さんの『よっこいせ』という掛け声が恋しくなる。

「それにしても、すごかったねあやちゃん」

 急に名前を呼ばれることに弱い。つい、目を開いて大げさな表情になっている気がする。いつか指摘されるんじゃないかと微かに怖れている。

「なんとかしてミューズちゃんを連れて来たかったんだなって。勝手にか弱い女の子、みたいに思っていた自分が恥ずかしいよ」

 私はゴマ君の手を握ってやりたくなる。もちろん、話を止めたいからだ。さすがにミューズにするのとでは訳が違うと分かっているので、実行はしないけど。自分のことを面と向かって評されるのは御免だし、褒められるのはもっと御免だ。大体、あれは全く褒められた行為じゃない。

「あの頑固なミューズちゃんを根負けさせたんだ、大したもんだよ、ほんと」

 話題を変えたくて意味ありげに周りを見た。ゴマ君は気づく様子はなかったけど、幸い言葉を終えたところのようで私の話題は無事終わった。

 周りを見渡すと、席の七割ぐらいが埋まってきたかというところ。ゴマ君いわく、試合が始まってから来る人も多いぐらいで、私たちのように試合開始前のイベントから見てやろうと構えているのは案外少数派なんだそうだ。

 地響きだと思ったそれが、振動ではなく音なのだと気づく。ゴマ君につられて振り向くと、球場中の注目をさらった音の正体を見つけた。私たちの背後、オーロラビジョンから開催宣言のような高らかな音楽が流れ始めた。背後といってもかなり見上げる必要があって、でも体ごと向き直れるほどの広さはなくて。ずっと続けていたら首が痛くなりそうな姿勢になる。画面には試合のダイジェストらしきものが、テンポを上げていく音楽に合わせて目まぐるしく入れ替わっていた。

「出場者の家族として招待してもらってるんだから、てっきりバックネット裏か内野だと思ってたよ」

「そういうもんなの? 外野席って楽しくて好きだけど」

 何やら嘆くゴマ君に答えたのは、ちょうど調達を終えたところのミューズだった。後ろのオーロラビジョンを見上げながら、ゴマ君の隣に座った。私の頬に冷えたオレンジジュースを当てて、手渡してくれる。持田家の人は、熱いものや冷たいものを持つと人の肌に当てたがる性分なのかもしれない。礼を言うゴマ君に合わせて頭を下げる。

 いつの間にかオーロラビジョンの映像はひと段落し、アナウンスの明瞭な声が響いていた。自然と目も耳も、そちらに意識を奪われる。

「本日のスターティングメンバーを紹介します」

 今日出場する選手たちの名前が読み上げられていくらしい。選手たちの顔写真が一人ずつ映し出されていく。そのたびに私たちより十列ほど下段の客席から、ラッパや太鼓で応援歌が演奏される。球場の紹介に対するアンサーソングのようで、客席にも球場スタッフが紛れて指揮をとっているのかと思った。こんなお祭り騒ぎが私の知らないところで毎日のように開催されていたというのは、それなりに衝撃的だ。異国の地の路上で突如始まった、民族舞踊に出くわした感覚に近いかもしれない。

「試合開始前に、本日は二名のスペシャルゲストにお越しいただいております。まずは今年の春の甲子園で、見事全国制覇を果たした江南高校のエースピッチャー田町くんです」

 予想していたよりもずっと、唐突にイベントが始まった。隣の二人の反応を気にする余地もないほど、球場全体の客席が色めき立つ。知っていて待っていたらしい親子連れも、知らずに驚いた顔のおじさんも、表情は多種多様であっても期待という感情は一致していた。私にとってはローカルニュースで話題になっていたな、程度の認識でも、世間ではすっかりおらが町の誇りらしい。

 すごい人気だねー、とゴマ君から出た呑気な声は強がりにも聞こえた。心の中では月人との差に怯えていても、口に出してはいけない。月人ならきっと大丈夫。根拠のない願いは、嫌な予感とも言い換えられた。

 声援を一身に浴び、おらが町のヒーローは小走りで進み出た。スタジアムの真ん中、芝生の真緑の上で白いユニフォーム姿がなおさら目立った。帽子に触れ軽く頭を下げた彼に、球場中から拍手と歓声が飛び交う。すり鉢状の客席から、その一番底にいる彼に向かって何万という視線と期待が降り注ぐ。もうすぐあそこに月人が立つ。先ほどから離れない嫌な予感と相まって、私は軽い眩暈を催していた。

「今回はドリームマッチという企画ですので、田町くんには真剣勝負を見せて頂きたいと思います。それでは、もう一名のスペシャルゲスト、対戦相手となるバッターをご紹介します」

 誰? もしかして現役選手? そんなわけないって、OBでしょきっと。えーOBでもすごいね、楽しみ。

 私たちの背後から若いカップルの話声が聞こえる。かと思えば、四方で声が打ち消し合いながら、隙間を突いて単語が耳に入る。芸能人とか? 市長は勘弁。面白そう。

「危うく、この流れで同性愛者代表の持田選手です、って紹介されるところだったってわけ? あの広報、ふざけんな」

 ミューズが吐き捨てる。最大限深く頷き、同意を示した。世間知らずな私は今になって合点がいったけど、ミューズにはこの光景は想像通りだったのだろう。広報さんの意図はともかく、これでは月人の存在は見世物か、良くて噛ませ犬だ。

「バッターはこの方です。地元アマチュアチーム期待のホープ、ミライスポーツの持田月人選手」

 球場に短い静寂が訪れる。あっという間に疑問へと変わっていった。誰? 知らない。ショボくない? 芸能人呼べよ。

 先ほどの高校生の彼と同じように、月人も颯爽とバッターボックスへ駆ける。所作に違いがあるわけでもないのに、月人の姿を見ても拍手や声援が起きることはなかった。むしろ、時間を追うごとに批判的な声が増す。

 本当に誰だよ。要は一般人じゃん。

 特に、私の斜め後ろあたりからの雑音は聞くに堪えなかった。酒の入った中年男性が、これ見よがしに大声を張っている。

「誰も知らないヤツを出すなー。金返せよー」

 反射的と言っていいだろう、ゴマ君が即座に振り返る。ミューズが今にも立ち上がりそうなゴマ君の方を掴み、なんとか食い止めた。

「せーの」

 中年がいる段の反対側あたりから、何やら呼吸を合わせる声が重なった。大きな吸気を感じた次には

「月人さーん」

 あの三人組の女の子たちだった。声量で負けないよう、最初の一声を合わせたのだろうけど、我慢できなくなったのか以降は三者三様の声援を飛ばしていた。

「がんばれえええ」

「打てええ」

「負けないで!」

 たった三人の不揃いでか細い声援は、量で勝る批判的な声を確実に塗りつぶした。

 なに、意外とファンがいるんだ。若いねえ。スター候補生だったりして。

 眉間に皺を寄せていた人たちが、あやふやな苦笑いに変わっていく。見たか、と自分が何をしたわけでもないのに舌を出してやりたくなった。

「やるじゃん、トラトラトリオ」

 ゴマ君が呟き、我に返ったように声を張る。

「月人、打てえええ」

 つられて、周りの何人かが、拍手を添えてくれた。

「あれはさすがに、真の野球ファンと認めざるを得ないよ」

 肩をすくめた後、気を取り直すように芝生へと目を落とした。中年からのヤジが飛ぶこともなくなっていた。

「なんでこうまでして目立ちたいのかな、あのバカは」

 ミューズが毒づく。組んだ腕が、苛立ちや不安を懸命に押さえつけているように見える。

「目立ちたいっていうのは違うんじゃない? 本当に目立ちたいのが目的なら、とっくにプロを目指してる気がするんだけど」

「お金も貰えないこんな試合に、他になんの意味があるのよ」 

 ゴマ君が遠巻きになだめても、ミューズの声から棘は消えなかった。私たちの視線は自然と月人を追っていて、場内のお客さんは投球練習をする主役を見つめていた。

 ここから見える月人は小さく、つい数日前にタコス屋で向かい合っていた相手という実感が湧かない。バットを振る月人の周りには誰もいなくて、見ているこちらが心細い。目を閉じ、私は最後に会ったときの月人の姿を思い出していた。


「野球をしている目的はなんだって、ゴマ君から聞かれた時ね。正直に言うと、全部話してもいいかなって思ったんだ」

 でも、と続きを口にすることをためらう。もったいつける月人の癖は嫌いだ。それが彼なりの配慮から来るものであっても、同性愛という情緒形成を捻じ曲げそうなややこしい生い立ちが原因であったとしても。何も話さない私に言えた義理はないと分かっていても、嫌いだ。

「話してしまったら、僕は特別じゃなくなってしまう気がして」


 恐る恐る、まな板の上のモルモットみたいな扱いの月人に目を向けた。将来有望な高校生の練習フォームに合わせ、バットを振っている。高校生がヒーローなのだから、彼は悪役。消去法ってすごい。月人を知らない球場の人たちは、満場一致で納得していた。

「僕が授かって生まれたものは、僕が今やらなきゃ消えてしまうから」

 なんの話だっけ、と思ったことを覚えている。話が繋がっているようないないような。はっきり言えよ、と自分を棚に上げた文句を口にも出せずにただ待った。

「僕ができるのは、応援してくれる誰かの特別なヒーローになることだ」

 多分、月人の中でも正確な言葉として扱うのは初めてなんだと思った。二十数年脳みその中にあって、でも正体の分からない念の名前。それを探そうと、パズルみたいなバラバラをどうにかたぐり寄せているのだろう。ヒーロー。その生き方を選んだから、彼は誰にも本当の姿を見せなかった。唯一、私なんかを本音を晒す相手として選んだ。

「誰かが僕を必要としてくれて、応援してくれるなら」

 月人が小さく息を吸い込む。次に言葉を発するまで、私まで息を止めていた。

「生きる意味がないだなんて、言わせない」

 止まっていた秒針が大きな音を立てた気がして、私は球場に目を戻した。ゴマ君のスマホのシャッターが切られた音だった。月人がバットの両端を持ち、大きく伸びをしながら進んでいる。対峙する高校生エースは、自分の練習に集中しているのか二人の視線が合う様子はない。

「お待たせいたしました。田町選手の準備が整ったようです。ここからは二人の真剣勝負を、私も実況しながら見守らせて頂きたいと思います」

「実況付きだって。気合入ってるね」

 ゴマ君はミューズに向けて言ったのだろうけど、ミューズは黙ってストローに口を付けていた。買ってきたばかりのジュースの中で、氷の崩れる音がする。

「さあ初球はどんな球種から入るでしょうか」

 急に始まって、文字通り固唾をのむ私たちと周りの客では大きな温度差があった。さっきまで高校生スターに色めき立っていた背後のカップルが、ねえこれ見て、とささやき合う。その視線がピッチャーでもバッターでもなく、手元の何かなのが気配で分かる。

「おおっと外れましたボールです。力のこもったストレートが高めに抜けました。これは緊張感もあるでしょう」

 誰かが拍手をし、遅れて見逃した人がメガホンを相づちのように叩く。うん、うん、聞いてるよ。聞いてるったら。あの三人組すら見ていなかったらと思うと不安で、振り返れば彼女たちは身を寄せ合って小さくなっていた。気後れしたわけでなく、手を組み合わせ唇を結んで戦況を見守っていた。

「うわ、マジで?」

 後ろのカップルの、男の声がした。私は反射的に眉をひそめている自分に気づく。男の声の質感に、覚えがあった。好奇と悪意を秘めた、誰かを蔑む直前の声。

「あいつホモってことかよ。キモ」

 私とゴマ君とミューズは、三人同じ場面を思い出しただろう。この試合に出ると言った月人に、ミューズが振り絞った言葉。

『一人でも月人の名前を検索したらもう終わりだよ』

 何もこんなに早く訪れなくていいじゃないか。それも、こんなに近くで。お願いだから待って。誰に言えばいいのかも分からない懇願を、頭の中で繰り返す。

「だから言ったんだよ」

 ミューズの声は、喉がちぎれるんじゃないかと思うほど感情を抑え込んでいた。

「二球目、これは際どいところですがボールの判定。持田選手もよく見送りました」

 一球目よりもまとまった拍手が送られる。劣勢になりつつある高校生を盛り立てる意図が感じられた。拍手の間も、ミューズは険しい目を変えなかった。これ以上、余計なことが起こりませんように、という私たちのささやかな願いは簡単に破られる。

「無名のホモと対戦とか、田町くんがかわいそう」

「あとで襲われたりして」

 発生源が分からない声や嘲笑が、スマホ片手に点々と聞こえてくる。混ざる笑い声が全て月人に向けられている気がする。なになに? と、ざわめきに気が付いた人がまたスマホを手に取る。火事が広がり、思い出の品が朽ちていくのを見せつけられる拷問みたいだった。

「ここでストライク! 鋭い一球が内角に決まりました。これはアマチュア界のプリンスでもさすがに手が出ません」

 もう、勝負の行方に関心を向けている人はほとんどいないのではないかと思った。高校生スターへの注目すら凌駕し、月人のレッテルで楽しみ始める声が増していく。

「もう、やめちゃダメかな」

 ミューズの暗い声がする。目だけは月人から離していないものの、本当に月人を映しているのか分からない。虚ろな口が、もう一度繰り返す。

「やめちゃダメ? これ以上ここにいるの、正直辛いよ。私だけ外で待ってるから」

 ゴマ君は何か言おうとして、かけるべき言葉を見つけられない様子のまま頷いた。私は、迷っていた。ここで私ができることを、するべきかどうか。 

「四球目、これも入りましたストライク! 持田選手まだ一球もスイングしていません。ボールを慎重に見極めているようです。ですがカウントはツーボールツーストライク。持田選手、追い込まれました」

 実況の声に力がこもり、勝負が佳境に入っていることを告げる。こんな遠くのスタンドのざわめきなど、夢にも思っていないだろう。

「じゃあ、終わったら連絡して」

 私は立ち上がった。後ろの席の客が、鬱陶しそうに私を見上げている。私は無視して立っていた。ミューズとゴマ君が、何事かと私の動きを窺っている。本当は、まだ迷っている。でももう、後には引けない。月人の思いを伝えられるのは、私しかいない。

「月人は」

 口を開いた瞬間、頭の中がめちゃめちゃにひっくり返されたような気がした。何かを思い出せと、私が私自身に警告している。アラートに振り回され胸が狭く苦しくなる。

 なぜか浮かんだのは、小学生の頃のクラスメイトの顔だった。一人、二人、三人、次々浮かんでくる顔から六年生の頃のクラスだと分かる。

「すごいね、あやちゃん」

「すげーじゃん戸村」

 まるでリレーで一位をとったような扱い。そうだった、だから私は、年齢が近い相手と話すのが怖くなったんだった。

 結菜ちゃんが熱で学校を休んだ日、クラスで飼っていたカメの餌の場所が分からないとちょっとした騒ぎになっていた。前日の餌やり当番だった結菜ちゃんが、決まった餌置きの場所に戻し忘れたらしい。私は、これは伝えないといけないことだと思い、深く考えずに口を開いた。

「靴箱にあるよ」

 前日、一緒に帰るとき。結菜ちゃんは間違えて餌をランドセルに入れたまま帰ろうとしていたことに気づいた。教室に戻るべきなんだろうけど、次の日の朝に戻せば問題ない、ということで自分の靴箱に入れたまま帰ったのだ。

 私が称賛されたのは、発言通り餌が見つかったからではない。人前で話せない病気とされていた私が、初めて喋ったからだ。

「ねえ、今日しゃべったって本当?」

「すごいね、喋れたんだね」

 靴箱にあるよ、と口にして以降、私は再び一言も喋ることができなくなった。注目が怖くて苦しくて、何よりも嫌だった。人間ならできて当たり前のことをして褒められたこと。なんとかもう一度喋らせようと猫なで声を作るクラスメイトの期待に、応える術もないこと。自分でもどうやって開くのか分からなかった鍵が、より強固になるのを感じた。

 実況の声が遠くに聞こえる。ゴマ君とミューズは私を見上げたままだ。今さらになって理解した。私は、あの日から同じ年代の相手と話すことが何よりも怖くなったのだ。私が喋ったとき、二人はどんな反応をするだろうか。足の震えをなんとかしようと、爪先に力をこめる。開いた口から、うまく声が出てくれない。私は目を閉じ、開いた。壊してしまえ、と頭によぎる。何を壊すのかは分からないけど、多分大事なものが壊れてしまう。一度思えば踏ん切りがついた。そうだ、壊せ。今度こそ息を吸って声を張る。

「月人は何かを残したくて必死なんだよ! ミューズが見届けないなんて、絶対ダメだよ!」

 二人はあっけにとられ、大口を開けていた。

 あーあ。やってしまった。次の瞬間、私は何を言われるんだろう。六年生の時の惨めさが、意地悪に口角を吊り上げ押し寄せてくる。もう戻せない。壊れてほしく、なかったな。

 私の耳に届いたのは、言葉ではなくどよめきだった。疑うような、昂るような。おいおい、おいおいおい。耐えきれずに誰かが出した声が響く。その声に意味なんてなくとも、叫ばずにいられない、そういう衝動がいくつも重なる。

 思わず私は一点に目を向けた。誰に指示されなくとも、その場にいる全員が同じものを目で追っていた。冗談か何かのように、空へ突き進んでいく白球。こっちに来る、と誤った予測をしたのは一瞬だった。私たちの頭上をさらに超え、振り返った先の階段にぶつかった。跳ねて無人の客席に当たり、その度に椅子を叩き壊していそうな鈍い音を立てた。

 私とミューズとゴマ君は、お互いに顔を見合わせた。何を発するべきなのか分からず、ただ視線を合わせるのが唯一できることだった。私たちの代わりに、周りが正しく反応する。

 あらゆる音が一斉に唸りを上げた。歓声、拍手、メガホン、太鼓、指笛を鳴らしている人までいる。それだけでは足りないとばかりに、次々と人が立ち上がった。一人立って目立っていたはずの私は、あっという間に周りに飲み込まれた。ゴマ君とミューズも手を叩きながら立ち上がる。なんとか背伸びをし、月人の姿を探した。ベースを一周する月人は、手を上げ歓声に応えている。実況が何やら興奮して声を張っているようだけど、湧き上がる歓声に負けていた。

「見た? 見た?」

 興奮を隠さずミューズが声を上げる。

「見た、といえば見たかなあ。打球はばっちり見たよ」

 苦笑いをする間も、ゴマ君は叩く手を止めない。

「あいつ、やるじゃん」

「だから言っるでしょ。月人くんは天才なんだって。ね、あやちゃん」

 ゴマ君が目配せしてくる。私はついつい癖で頷く。

「戸村は? ちゃんと見れた?」

 私は首を傾げる。正直、打った瞬間は見ていない。「ちょっと、誰も打ったところちゃんと見てないじゃん」

 笑うミューズの目に、涙が浮かんでいた。赤く潤んだ目を腕で拭う。それでも足りないらしく、何度も手を当てた。今度こそ見逃さないよう、歓声を一身に浴びる月人を見つめた。

「戸村」

 目を向けると、ミューズはなおも月人の方へ目を向けたままだった。私も倣って月人を見る。

「ありがとね」

 田町くんと月人が握手を交わし、また歓声が大きくなる。私は、自分の足の感触を確かめた。まだここにいて、何も変わらず時間を過ごすことができている。一度失うことを覚悟した何かが、きちんと残っていた。狐につままれたような感覚。初めて会った時、ゴマ君が力説していた姿が浮かんだ気がした。全てをふっ飛ばしてくれる魔法、か。なるほど。

 月人は間違いなく、特別な存在として賛辞を浴びていた。何万もの視線の先の記憶に、彼が生きてきた証を焼き付けた。

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